終章 匂雨 ―においあめ―
匂雨
病院での検診から家に帰ってくるなり、自販機の精は冷蔵庫からコーヒー缶を取り出す。彼女はわなわな震える手でそれを開けようとした。
付き添いとしていっしょに帰ってきた俺は、缶をあわててとりあげる。
「カフェイン控えないとだろ、産まれるまでは」
たしなめるようにいったが、自分の顔がいま気持ち悪く笑み崩れていることは自覚している。
彼女の妊娠が発覚して以来、気を抜けばすぐ破顔してしまうのである。親父が買ってきてくれた各種マタニティグッズを袋から取り出しつつ、俺は満面の笑みを咲かせた。
「いやあ行ってみてよかったな病院! 『検査されたらおまえの以前の正体がばれたりしないか』と最初は冷や冷やしてたけど、そんなことにもならなかったし」
先日、彼女が家へ来てからはじめて体調の悪さを訴えたため、青くなって病院に連れて行ったのだ。
そうしたら産婦人科を勧められることになった。
考えてみれば当然なのだ。彼女はもう俺以外の他人にも見えるし、接触も会話もできるようになっている。ものを食べる、夜は寝る。髪も爪も伸びる。完全に人間と同じになっているのだから、子供ができてもおかしいことはない道理だ。
そして今日、正式な検診で、妊娠三ヶ月目が確定した次第である。
「そりゃいつかはそうなったらいいなあと思ってたけどさ。でもまさかうちに来て半年せず孕むなんて! これがほんとの児童販売機なんちゃっ……おっといけない、浮かれすぎて最低なギャグが口をついて出ちまった」
「うわああん馬鹿あぁぁぁ!」
自販機の精が涙目でキレた。
「いてっ」
ぼこん。ふりおろされた和傘がこちらの頭にヒット。
彼女の涙声がきんきん高まる。
「産む機械呼ばわりしたね!? なら君は自販機を孕ませた
「まあ……それは……俺も男なので」
好きな女と一つ屋根の下という状況が誘惑的にすぎた。十年告白をこらえた経験があるので我慢できるだろうと思っていたが、いかんせん認識が甘かったという次第である。
念のためいい添えるとあくまでも合意のうえだ。押しに弱く迫るとおろおろする彼女が面白可愛くてつい悪乗りする・最初はからかい半分だったのがしだいにこっちの理性も薄れる・最終的にふたりとも雰囲気に流されるままことに及ぶ、といったなし崩し展開だったが。いちおう同意は取り付けた、なし崩しに。
「愛してるよ」
正面からぎゅっと抱きしめたらぎゅうううっと両頬をつねられた。
「ごまかそうとするなぁぁ!」
「ははは、怒るおまえも可愛いなあ」
「君なんかだいっっっきらいだ――!」
● ● ● ● ●
注連縄が巻かれた自動販売機の本体は、けっきょくうちの庭に鎮座している。周りで親父の盆栽と並んで花を咲かせているのは、自販機の精が世話している植木鉢やプランターだ。
その変わったインテリアの前で口づけを重ねると、つぶった目元を彼女は含羞に染めた。
雨だれが傘を打つ音を聞きながら俺は思う――雨が強くなる前に仲直りできてよかった。でないと、傘に入れてもらえずずぶ濡れになるか、ひとり屋根の下に退散するかになったところだ。
まあ、雨が降りだしたので彼女が折れてくれた面がなくもない。それまではそばで俺が謝ってもむすっとそっぽを向いていたのだが、雨滴が地を叩きだすとこちらの袖をひっぱって無言で傘に入れてくれたのである。
とにかく、おかげで喧嘩は長引かずにすんだ。
「赤ちゃんのことは私だってすごく嬉しいよ。でも」
唇を離すと、蚊の鳴くような声で彼女はいった。
「……家族が増えるのは、もうしばらく君とゆっくり過ごしてからでもよかったのに。そう思ったら腹立っちゃって。
君と最初に話したときみたいに、傘で思いきり叩いちゃってごめん。痛かった?」
くすくす笑い、彼女は手を伸ばしてこちらの頭を撫でてくる。
その腕をつかんで、俺は彼女をさらに抱き寄せた。
「……もう一回キスしていいか?」
「な、なにまた急に――」
彼女からたちのぼる花橘の香が、ふたり入った和傘のうちにこもる。
〽かなたへ、君といざかえらまし。
《了》
お知らせ:書籍化しました。応援してくださった皆様ありがとうございます。
幼馴染の自動販売機にプロポーズした経緯について。 二宮酒匂 @vidrofox
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