霊泡沫 終話


 上古の世には、好いた女と結ばせてくれなければ社を焼くと神を脅迫した男もいたらしい。

 本当のところ俺は、自分がそうしないとはいい切れなかった。もしもあいつをこのまま失うようなことになれば、俺は自らの神社に究極の罰当たりをしでかした禰宜として新聞に載るかもしれない。

 母さんが病に倒れたとき、俺はうちの神様に毎朝祈った。けれど高位の神であるはずのうちの主神は助けてはくれなかった。本来の天命を歪めるとわかっていても力になってくれたのは、自動販売機の付喪神だった。

 そして、あいつが消えそうないま、主神はあいつの救済をも拒んだ。


 ――御神体の鏡にひびくらいは入れてやる。


 ぶっそうなことを念じながら俺は彼女を探す。ちょうちん型の懐中電灯をかかげ、コートを着て暗い町を駆けまわる。

 見つからない。

 文房具屋前には二度立ち寄った――あいつが来るならここだと踏んで。しかし影も形も見当たらなかった。

 まだ来ていないのだろうか。どこか全く別のところをさまよっているのだろうか。まさか、とっくに泡のように消えてしまっているのだろうか。

 気がおかしくなりそうな焦慮をけんめいに抑えつけ、俺は路地という路地を照らしてまわる。


 神になどもうすがるものか――と思いながらも、走りながらいつしか祈っていた。世の中の吉善事凶悪事よごとまがことつかさどる、ありとしあらゆるもろもろの神に。あいつを取り戻させてくれと。

 ひざに手を置いて荒い息をつく。呼吸を整える。辺りを見回せばまた文房具屋の近くに来ている。


(もう一度見に行こう)


 曇ってずり落ちかけた眼鏡を外し、レンズが砕けんばかりに握りしめて歩き出したときだった。


「お、何してんのあんた」


 買い物袋を手にして道を歩いていた人影が、手を上げて挨拶してきた。


「あーそうそう、あたしうっかりしてたんだけどさー。昼間の」


 元同級生の声だった。

 俺は一瞥もせず会釈だけして、文房具屋前へと急ぎ足で向かう。

 かまっている暇はない。


「あっちょっと、話あるんだって。今日巫女服返して水着引き取ったつもりだったけど、あれ」


「悪いが後日でたのむ!」


 レンズの曇りを拭きとりつつ、血走った目で元同級生をふりかえり怒鳴る――が、マイペースな元同級生はこちらを見ていなかった。俺の向かう先に視線をそそぎ、何だありゃとばかりに眉を上げている。


「わお、見て見てあそこ。真冬なのに水着の人がいる」


 元同級生は「なんだろあれ。露出魔かなー、やだねえこの平和なご町内に。うーん、でもスタイルいい女の人だしなあ……なんかの撮影かも」とのんきな声でくっちゃべっている。俺は前を向き、眼鏡をかけ直しながら語気荒くいった。


「露出趣味の変態などどうでもいい! 気になるなら通報でもしと……け……」


 沈黙する。

 文房具屋前からすこし離れた街灯のところに人だかりができており、その中心に自販機の精がいた。

 白ビキニの水着姿で。

 いつもの着物のなごりは足元の濡れた白足袋たびと雪駄だけだ。


「見ないでー」


 自販機の精はがたがた震え、泣きそうになっていっしょうけんめい腕で通行人の目から半裸の体を隠そうとしている。赤面しきった彼女は俺に気づき、安堵と憤りと羞恥のないまざった表情を浮かべた。

 ひときわ冷たい木枯らしが辻に吹く。


「…………何やってんだおまえ」


 思わずそういってしまうようなシュールさはさておいても、この状況は奇妙だった。

 なぜ、自販機の精の姿にほかの人間が視線を注いでいる?

 それに……震える彼女はまるで、寒がっているように見える。

 はっと我に返り、細かい事情はあとまわしにして俺は彼女の元に駆けつけた。「わ、わ。あわわ」口もろくにきけなくなっている自販機の精は、震えながらこちらの胸に顔を埋め、俺を盾にして群衆の視線をさえぎろうとする。

 自分のコートを脱いで彼女を包む。がるるると周囲に威嚇を飛ばすと、物珍しげに立ち止まっていた群衆があわてて足早に散った。


「どういうことだ……この格好」


「こっちが訊きたいよ!」自販機の精が泣きべそ気味にわめいた。「きっ、君に文句いわなきゃ収まらないっ、なにこの破廉恥な衣装っ!?」


「……兼業先の会社の新製品サンプルだ」


 昼間、元同級生が引き取っていったはずだが。

 俺がふりかえると、後ろにいた元同級生が「あー。それそれ」と手を打った。


「それをさっきいおうとしたのさ。水着の袋持って帰ったつもりだったんだけどさー、紙袋開けたら返したはずだった巫女服入ってたのよねー。ほらどっちも神社の紙袋に入ってたじゃん? 間違えちゃったみたい」


 ……つまり、俺が「着てほしい」と自販機の精に渡した紙袋の中身はこの肌露出の多い水着だったわけか……

 俺は腕のなかの自販機の精に向き直る。


「で、なんで着てるんだ」


「いつまでたっても着物が乾かないから! いつもならすぐ元通りになるのにっ! だから服換えようとして、袋開けてみたらこんな頭おかしい布きれでっ!」


 憤激もあらわにこちらの胸をぽかぽか叩いてくるのはさておき、彼女の言葉に俺はさらに瞠目した。

 乾かない?

 これまでの例だったら、時間がたてばすぐきれいに元に戻るはずなのに。


「……消えるときは君がくれた服を着ていようと思ったから着たけど、そうしたらさっきから私変に、っちゅん!」


 口早な訴えの合間に可愛らしいくしゃみを自販機の精はひとつした。


「なんだか肌がすーすーして痛いし、体が勝手に震えるし」


「それは……」


 俺は彼女のむき出しの腕をつかんだ。

 冷たい。ただ、にぎっていると、冷えた肌の下には温かい血が流れているのがわかる。

 まるで、人間のようだ。


「おまえ、それは、『寒い』って感覚だ」


「こ……これが? でも、なんで? なんで急に私……」


 自販機の精は混乱した表情となる。


「そうだ、それにさっき私、大勢の人に見られてた……君にしか見えてないはずだったのに」


 元同級生を手招きし、俺は自販機の精を示した。


「こいつが見えるか。この水着の女が」


「何いってんの? 当たり前じゃない、先にあたしがその人の姿見つけてたでしょ」


 肯定されて俺は確信する。

 もう間違いなかった。自販機の精の肩をつかむ。


「おまえ……人間になってるんじゃないのか」


「……やっぱり?」


 彼女自身もうすうす思い当たっていたのだろう。固唾を飲んでそう答えた。

 見交わす瞳で、互いに同じことを考えているのがわかる。


 ――「最期」は?


 またふりむいて俺は「鏡。鏡を持ってないか」と元同級生に問う。


「鏡ぃ? 化粧用コンパクトミラーでよけりゃ携帯してるけど」


「すまん。それをこいつに見せてくれ」


 元同級生が突き出した鏡面を、穴の開くほど自販機の精は見つめた。

 視線を凝らすこと数分――やがて彼女は呆然とつぶやいた。


「見えない」


「見えない?」


「天命が尽きかけてるところが見えなくなった」


 ……考えてみればそれはそうだ。人間となっているんだから天命を識(し)る力もないに決まっている。


「でも」鏡から俺の顔へ視線を移し、彼女はいった。「根拠はないけど、付喪神としての私がおしまいになって、それで終わった気がする」


 それにはどういうわけか俺も確信があった。もう彼女は大丈夫なのだと。


「だがなんで、人間に……」


 俺が疑問を口にすると、自販機の精(正確には元というべきか)は何かを思い出そうとするかのように視線をさまよわせ、「あれかな」とつぶやいた。


「チョコレートを。君から受け取ったチョコを口にしたよ」


 神饌以外のものを口にした――その言葉を聞いて、俺ははたと思い当たった。


「“黄泉比良坂よもつひらさか御饌みけこのみくらひなば幽世かくりよ止定とどめおかれむ”」


「え?」


「別の世界の食べ物を不用意に口にすれば、その世界の住人となって留まらなくてはならなくなる。神でさえも」


 それはこの国の神話に出てくる、もっとも古いルールのひとつだ。


「え……と、人の食物を口にしたから、私は人間になったということ?」


「さあ、自分でいっておいてなんだが、そんな単純なものかどうかは……」


 俺は「元付喪神」となった自販機の精の頬に触れる。


「あるいは、うちの神様がおまえをこうしてくれたのかもな」


 先刻さんざん胸中で呪っておいてなんだが、なんとなくそんな気もしていた。うちの主神が縁結びの神でもあったことを思い出す。

 それとも、知り得ない他の要因によるものか。

 人は死ねば神とる。

 では神が最期を迎えた場合は――人に、化ることもあるのだろうか。

 いや、奇跡の理由はなんでもいい。ほんとうの答えはきっとわからないのだろう。それよりもいまずっと重要なのは、


「とにかく……よかった。消えずにすんでよかった」


 腕を彼女の背に回し、彼女の細身がたわむほどきつく抱きしめた。


「いっそ消えちゃいたかったよさっきは! 人にじろじろ見られるのがあんなに恥ずかしいものだなんて思わなかったっ」


 ほんのり染まって文句をいいながらも、自販機の精は抱きしめ返してくれた。俺は胸の底から吐息をつく。


「二度と会えないかと思ったんだぞ」


「う、うん……」


「もうどこにも行くな」


「……うん……少年」


 詰まった声でしんみりといった自販機の精が、くすん、と鼻をすすってひたいをこすりつけてきた。

 が、


「あっ、待って、まだ人が見てるから」


 彼女は急に慌てた恥じらいの声をあげた。元同級生のことを指しているのだろう。たしかに俺も横手からまじまじと遠慮のない好奇の視線が突き刺さってくるのを感じる。

 しかし、そんな視線の存在はささいなことにすぎない。

 彼女は無事だった。そして人になった。そうとわかったらわかったで、なんというかこう、心中噴き上がるものがある。

 意識せざるを得ない。

 神と人の種族差という最大の障害が消えていることを……!


「ね、あの、ちょっと放して少年、見られてる! すごい見られてるから!」


「結婚してくれるなら放す」


「するからまず放し――え、は、ええええ!??」


「ありがとう」


 抱きしめていた彼女の身を解放すると、「待って! いまのは違うから! しょ、承諾してないそんな簡単にっ」頬を燃やした自販機の精が口をあわあわさせてつかみかかってくる。横からは元同級生の「え、なにこの急展開」というつぶやき。

 急ではない、決して急じゃないさと俺は内心つぶやく。

 十年ごしの、ずっと溜めこんでいたものが、初めての告白時を上回る勢いで溢れ出しているだけだ。とはいえ頭の芯が熱くなっていることに自覚はある。


 ――過熱上等。頭が冷えたら、勇気が出せないもとの俺に戻りかねない。


 昂ったまま突っ走ってやる、と目を据わらせて、彼女の両肩に手を置いた。


「すまん、いきなり結婚は飛ばしすぎたな。ではあらためて、ぜひとも結婚を前提にお付き合いしていただきたく……」


「ばっ、ばばバカじゃないのかい!? 変わってないじゃない! ひ、人前で何いってるの君!? きゃ――!!」


 再度抱きしめると惑乱の叫びが上がった。

 もがいている彼女をしっかり捕まえたまま、俺は元同級生をちらと見た。よくわかんないけどあれだ行け、と元同級生が目で伝えてくる。

 ええと、なんだっけ口説きのアドバイス……そう、確か、『相手が動揺しているうちにいいくるめて既成事実に持ちこめ』だった。


 つまり冷静にさせないで押し切れと。


 ……そして自販機の精はどうやら自分の色恋方面では相当な恥ずかしがり屋だ。特に第三者にそれを見られるのは当たり前だが免疫がないはずだ。まして今夜はじめて人に見られる存在となった彼女は、ただでさえ人の視線に敏感のようである。

 この弱点を利用しない手はない。


「おい、ちょっとそこで立会人になっててくれ」


 元同級生に打診すると、「おう」と打てば響くように快諾された。


「ほんとに何いってるの君!?」


 自販機の精の悲鳴を流し、俺は遠い遠い目をして語りはじめる。


「長年、おまえのそばにいられるだけでいいと思ってきた。けれど今回のことでよくわかったよ。いつか失うかもしれないと思ったら、やっぱり欲しくなるんだ。おまえが人間になってくれたいま、遠慮するつもりはない。俺のものになってくれ」


「やめてえええええ! 遠慮して! 人前だよ!」


「この先も俺のやることは変わらない。おまえが神だろうと自販機だろうと人だろうとバックアップし続ける。なにがあったって俺が守る。できれば一生そばで守らせてほしい。そういうのは置いといても、おまえしか見えないくらい好きなので嫁に来てくれませんか」


「た、助けてくれるのは嬉しいけどっ! 嫁ってだからそういうこと恥ずかしげもなくっ……!」


 ひたすら口説くうち、彼女の顔の紅潮は首筋にまで染みていく。

 なお、元同級生はいつのまにか業務用チョコの袋を発見してポリポリかじりながら、映画でも見るようにじーーーっと見てきている。

 とっくりと見るがいい――現在の俺はすでに思春期の多感な少年ではない。ほどよく羞恥心が摩耗したスレた大人である。第三者の面前で思いのたけをぶちまけるくらい恥ずかしくなど、………………猛烈に恥ずかしいが、


「あの……ほんと待って……せめて後でふたりきりで……」


 俺の数倍は羞恥に身もだえしているやつが腕のなかにいるので、その熱を感じていると耐えられそうである。

 奇しくも昔、ここで俺は同級生に告白され、自販機の精はその一部始終を横から見ていた。告白する者される者見物する者、全員それぞれ役割を代わり、あのシチュエーションがいまここに再現されている。

 自販機の精には気の毒な気もするが、これも因果応報というもの。あと、神社から逃げられて心配させられた恨みもちょっとある。

 茹だってぷるぷる震えだした彼女を決して離さず、切々と十年来の想いを訴えつづける。遠い目で。


「おまえは俺にとってふるさとの象徴だったんだ。子供のころから街角で見守っていてくれて、俺が高校大学に行っていたあいだもずっとこの町で待っていてくれた。帰省すると喜んで出迎えてくれた。俺はあのころ、おまえに会いたいから帰ってきていたんだ」


「お願いやめて少年……恥ずかし死ぬ……」


 俺が垂れ流すポエムのこれ以上の詳細については割愛。ぶっちゃけ自分でも記憶に残したくない。

 長いあいだ溜めに溜めてきた愛の言葉を、これでかき捨てとばかりに俺は吐き出していく。冬の夜の文房具屋前で、水着にコートをはおった彼女に。横からは、ポリッポリッポリッポリッと元同級生が無言でチョコをかじる音が響く。

 最終的に自販機の精は頭のてっぺんから湯気を立ち上らせ、


「わかったから……つがいになるからやめて……」


 蚊の鳴くような声で承諾の言葉を吐き、目を回してがくりとうなだれた。

 業務用チョコを食いきった元同級生が、無表情でびしっと親指を立てた。


「お幸せに」

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