霊泡沫 七話


 冬の夜の雨が町にそぼ降っている。


 神社を飛び出してきた自動販売機の精は、二つの袋を手にして、煙雨のなかをとぼとぼ歩く。ふだんなら傘を差すが今はどうでもよかった。

 寒さはもとより感じない。ぐっしょり濡れた髪や服、裾の泥はね、いずれも放っておけば一時間とかからず乾いた清潔な状態に戻る。

 たとえそうでなかったとしても、彼女はもう気にもしない。どうせ彼女が存在できるのは今夜が最後なのだから。


 ――助かるかもなんて期待しちゃったな。


 あの社の神の一柱となることを、そこの主神に拒絶された。どうして駄目だったのかはよくわからない。本殿でかの高位の神と対峙したとき、直接言葉をかけてももらえなかったのだ――神体の鏡に映った自分の姿に、逃れがたい天命を見せられただけだ。どのようにしてかはわからないが、まもなく、まちがいなく、付喪神である彼女の最期の瞬間がやってくる。

 本体はまだあの神社だが、拒まれた自分はもうあそこにいられない。


 ――どんなふうに消滅するのかな。


 あてどもなくさまよい続けるうちに、精神的な疲弊を感じる。悄然とした足取りで、彼女は誰もいなくなった思い出の場所に向かった。




 自動販売機の本体がなくなって、文房具屋の軒下はがらんと虚ろ。

 板壁によりかかって自販機の精は虚空を見つめる。

 彼女はずっとここで店主とともに生きていた。店主に彼女の姿は見えなかったけれど。

 しばらくすると、かれが現れた。意地悪で生意気な小さな男の子。彼女と話せる唯一の人間。

 どんどん育って大きくなっても、生意気さはまるで変わらなかった。

 けれど本当は母親思いの優しい子だった。

 かれの母の病と、その死を自分が引き伸ばしたことを考え、自販機の精はぼんやりと思い当たる。


 ――神社に置かせてもらえなかったのって、もしかしたらああいうことしたからかな。


 かれが当たりを出せなかった日も、癒やしの力がある「当たり景品」を毎日かれの母のために使った。彼女は万人に公平に振舞ったとはとうてい言えない。社の主神はそこを見て彼女を、祀られる神としては不適格と判断したのかもしれない。

 それとも、尽きていたはずのかれの母の天命を無理に引き伸ばしたことが咎められたのだろうか。


「でも、それが理由で消えるなら、しょうがないかなあ……」


 いけないことだとわかっていても、あのときの彼女はああせずにはいられなかった。

 後悔もしていない。かれがあのとき、彼女の腕のなかで泣きながらありがとうといってくれたときにそれはぬぐい去られた。

 頬にかすかな微笑みを刻みかけて、彼女はそれを消した。

 うつむき手元を見る。お菓子と衣装の入ったふたつの袋。最後に彼から受け取ったものだ。手放す気には、なれなかった。


「……勢いで飛び出してきちゃったな」


 かれが望むことを最後にしてあげるつもりだったのに。

 のろのろとチョコレートをひと粒彼女は取り出す。

 円盤型の、十円玉ほどの大きさ。神饌しか口にしない彼女にとっては本来「異物」でしかないそれ。食欲をそそるとはとうてい言えない――けれど、ためらったあとに口に含んだ。

 どうせ、消えるのは間近だ。溶かして固めて彼にあげるはずだったそれの味を、最後に知っておきたかった。

 神饌としてのコーヒーやジュース缶以外で初めて口にする食物は、ひどく甘くて、すこしほろ苦い、胸が詰まる味だった。

 ひと粒食べたことで、なぜか拒否感は和らぐ。

 もうひと粒。もうひと粒と時間をかけて味を確かめながら、彼女は想う。“少年”を。


「……きらいだ、あんな子」


 もっと前に、きれいな気持ちのまま消えさせてくれればよかったのに。あの子が余計なことをしたせいで――想いを彼女に告げてきたせいで。彼女の胸のうちにあるものを自覚させて、膨れ上がらせたせいで。こんな惨めで悲しい気分で消えないとならないのだ。


「いっしょにいたいよ」


 知らずぽろっと未練が口からこぼれた。「消えたくないよう」目からこぼれたしずくを雨に濡れた袖でこする。

 それにしても、なかなか服が乾かない。心なしか、もう神力が弱まっている気がするからそのせいだろうか。

 服……彼女は手にしていたもうひとつの袋に視線を落とした。

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