第15話 戦は終わりぬ。

(一)

 安宅船の上、国兼は青空の下、甲板に座って白い波しぶきを眺めている。

後ろに影がさした。後ろを振り返った国兼はニヤリとして、再び波を見つめた。

 隣に座って、家久も波を見つめ、ぽつりと呟いた。

「世話になったの。一緒に都に旅して以来、二度目か。」

問いかけに答えず、国兼は海を見つめ続ける。

「あの時は、お主、惟任日向守に槍を所望されて困り果てておったの。」

しつこい家久に、少し困ったのか、国兼は口を開いた。

「あの槍は、譲るとか譲らぬとかいった類のシロモノでは、ござらぬでな。」

家久は笑って言った。

「不思議の槍、魔を討つ槍か。」


それには答えず、今度は国兼が逆に問うた。

「お人が悪いの。」

ん、と言った顔をした家久に続けて、

「敵の策、いつから、お分かりじゃった。わしの見るところ、日奈久の陣では、既にご存知じゃったんじゃろ。」

家久は答えず、ただ微笑んだ。


「軍師である歳久様はおろか、義弘様、御館義久様にも明かされず、ただ一人で事を運ばれるとは、あまりに人が悪い。」

そう言いながら、国兼はニヤニヤしている。口ぶりと違い、家久がどう答えるかを、楽しんでいるようだ。


「確信が、なかったからの。」

家久は、何かを思い出すように、遠い目をして言った。

「それに、わずか一手読み間違えただけで負ける、危うい戦じゃったからの。龍造寺隆信、木下昌直、敵は手強く、万全の上に万全が必要じゃった。もし負けても、誰も知らなければ、儂一人の失敗ということになるからの。……更には。」

家久は国兼に向かって、悪戯を見つかった子供のように、片目をつぶって見せた。

「敵をだますには、まず味方からというじゃろう。」


(二)

 沖田畷の戦いは終わった。しかし、島津家の戦いは終わったわけではない。九州統一という目標があるからだ。この物語も、もう終わろうとしているが、この後の、この物語の主人公たちの行く末を、もう少し語っておきたい。


 島津家は、九州統一に向けて二方面作戦を採る。その軍を、筑後口と豊後口に分け、筑後口は、島津義弘を大将とする三万の軍で進み、立花宗成、高橋紹雲親子など筑前、筑後、肥前の大友勢力や、筑紫家などの独立勢力と戦った。

 豊後口は、島津家久を大将として、号して二万で、大友家の本拠地豊後に攻め入っているが、家久軍に参加した上井覚兼が記しているように、実際は二万より、はるかに少ない数だったようだ。

 島津家が、九州の過半数を押さえていたとはいえ、筑後口、豊後口ともに、もちろん楽な戦いではなかった。

 大友軍、独立勢力ともに反抗は凄まじく、義弘、家久ともに、かなり苦労したようである。しかも、大軍の統御に慣れていない島津の弱点は、兵站に覿面に表れた。家久が、大友氏の本拠地である豊後国府を占領していながら、まともに防戦できず、引き上げざるを得なかった第一原因が、兵站の不備であることは、記録にも表れている。


 さらに、九州探題大友家が、プライドを捨てて豊臣秀吉に泣きついたことで、島津家は、総勢十万の豊臣勢と戦うことになる。ここで歳久は、非常に複雑な行動をとる。当初は和平を主張し、戦となるや強硬な戦闘継続主義へと変貌するのだ。知謀の主と言われた歳久らしからぬ行動にも思える。

 この辺の理由は、史書でも明確にはならないが、拙いながら、ライフワークとしていろいろ調べた私自身の推理を、次回作で示したいと思う。

 とにかく、義弘は毛利軍など中国勢と筑前で戦い、家久は長曾我部軍、仙石軍など四国勢と豊後で戦った。家久は戸次川の戦いに、得意の釣り野伏りを使い、寡勢で勝利し、敵の豪勇長曾我部信親、十河一存などを討ち取ったが、兵站の不備で、既に引き上げざるをえない状況だった。

 豊臣家の大軍の来襲で、落ち目となった島津家を、赤星家など一部を除いて、各国の国衆はさっさと見限った。竜造寺家しかり、有馬家しかりである。


 島津義久は、薩摩、大隅、日向の三州の兵のみ二万弱で、秀吉軍と決戦することを決意する。決戦の地は、山田有信、島津家久らが籠る日向高城近くの根白坂である。毛利勢の追撃により、筑前からの義弘が、未だ参陣できず、家久もびっしりと囲まれた高城から出られない状況で、義久、歳久兄弟が率いる二万は、豊臣秀長、黒田官兵衛らから成る豊臣軍五万と交戦する。島津軍は奮闘し、野戦においては優勢となるが、豊臣軍は得意の工兵を使い、根白坂をあっという間に要塞化して、野戦を城攻めのようにと変える奇策を使い、島津軍を敗走せしめた。

 次いで、秀吉本軍が薩摩に侵入したことで、島津義久は降伏を決意、順に義弘、家久、最後まで抵抗していた歳久も降伏する。


 ここで、軍略の天才島津家久は突然歴史から姿を消す。豊臣秀長、黒田官兵衛らと面会した直後のことだ。病死説、暗殺説など史書には様々語られているが、私には病死説の方が唐突で不自然に思える。やはり暗殺されたと見るべきだろう。

 暗殺の場合、誰がやったかが問題となる。秀吉説、秀長説、果ては義弘説、義久説まである。暗殺の動機が、謎を解く鍵だと思う。この点においても、次回作で私なりの推理を述べたいと思う。

 秀吉に降伏した島津家は、不公平な太閤検地によって苦しめられる。引き続いて宣言された朝鮮出兵は、仲の良かった島津兄弟の間を引き裂く結果となる。

 既に隠居していたが、隠然たる影響力を持っていた義久は、朝鮮出兵に消極的であった。義久のの意向を受けた国衆たちの集まりは悪く、正直な律義者義弘は、なかなか渡海の人数がそろわず。朝鮮で、日本一の大遅陣という大恥をかく。それでも、少数の兵ながら、義弘や豊久、川上兄弟や押川強兵衛からなる島津勢は活躍し、数十倍の朝鮮・明連合軍を下して、鬼島津の異名をほしいままにする。


 ここで、梅北国兼が豊臣秀吉に対し、突然謀反を起こす。世にいう梅北一揆である。加藤清正が縄張りした難攻不落の肥後佐敷城を、瞬く間に計略で落とし、次いで八代を窺ったと史書に残る。

 三日説と十四日説があるが、とにかく一揆は短期間で鎮圧され、国兼らも殺される。この一揆の首謀者と疑われた歳久は、兄義久から討手を差し向けられ、激戦の末、薩摩竜ヶ水で自害する。このあたりも謎が多い。国兼の謀反は、太閤検地に不満があったからと史書には残るが、検地から時間が経ちすぎているのと、朝鮮出兵に合わせたようなタイミングであることから、上の話は直ちには信用できない。歴史が、為政者の都合よく上書きされるのは、よくあることだからだ。

 また、歳久は無実だ。一揆は、国兼が勝手にやったとの史書があるが、反乱軍の八割以上が、歳久の配下地侍であったことの説明がつかないように思う。島津家として、家から謀反人を出したくなかっただけではないか。謀反を否定することは、かえって、歳久の価値を貶めるように思える。

 更に、大友家家臣や、龍造寺家家臣、阿蘇家の幼い当主も連座され処断されているが、薩摩国菱刈湯尾を領するにすぎない一介の地頭に、大名たちを、巻き込むことができるだろうか。高校生のとき、祖父からこの一揆について聞いて以来、私のライフワークとしていろいろ調べたが、資料は、おそらく意図的に失われ、全くと言ってよいほど残っていない。この大きすぎる謎にも、次回作で挑戦したい。


 朝鮮出兵中に秀吉が死亡し、大陸から引き上げた義弘を待っていたのは、伊集院忠棟暗殺に始まる歴代の家臣伊集院氏の反乱、石田三成と徳川家康の争いの末の関ヶ原の戦いである。

 関が原で成り行き上、西軍にくみすることになった義弘の島津軍は、朝鮮出兵同様、中央の争いに消極的な義久が、出兵を禁じたことにより、総兵力の十分の一に過ぎない千五百しか集められず、大恥をかくと共に、三成から冷たい扱いを受ける。しかし、千五百に過ぎぬといっても、その軍容は島津豊久はじめ川上兄弟、押川強兵衛、柏木源籐など一騎当千の強者揃いであり、ただ義弘を男にしたい一心で、処罰を恐れず集まった男たちの結束は強く、それが関ヶ原の敵中突破につながって、全国に武名を轟かすことになる。押川強兵衛や川上兄弟、柏木源籐の活躍、島津豊久の壮絶な最期など関が原については、いろんな物語になっているが、どの作品も、敵中突破の一番肝心な部分、なぜ命を懸けて義弘のみを逃がそうとしたのかが、儒教的な君臣の忠の一字で、片づけられてしまっている気がする。関ケ原に集まった島津家の武将たちは、個人的に義弘に惹かれて集まった男たちである。例えるならそれは、西南戦争の際、参加した者の中に、薩摩はもちろん、庄内藩の若者など、西郷隆盛個人の人徳に惹き寄せられて集まった者がいたが、そのことと似ている。こんなに男たちを惹きつける島津義弘の魅力を、もっと掘り下げる必要があると感じている。機会があれば書きたい。


 さて、ここでこの物語の主人公である川上忠賢のその後を語って、この物語を締めくくりたいと思う。


(三)

 天正十四年(1586年)の夏のこと、九州制圧戦において、筑前口を担当する島津義弘率いる島津軍は、肥前、筑後、筑前に広大な領地を有す国衆、筑紫勢と戦をしていた。

 敵の当主筑紫広門は手強く、先の肥前鷹取城の攻防で、片腕と言うべき、実弟の右衛門大夫晴門を失い、次々に城を落とされても、なお頑強に抵抗を続けていた。 この度、広門が依っている筑前高鳥居城は、今までの居城としても防御が固く、敵の士気も高く、先鋒の島津彰久、忠長らを悩ませていた。

 特に出城を守る広門の嫡男春門は、九州北部に武勇の誉れ高く、城での防御戦においても、城を出ての野戦においても一級の指揮官ぶりで、この男がいる以上、高鳥居城の攻略は諦めざるを得ないかのようにも思えた。


「また来たぞー。」

 物見の声が甲高く響く。忠長は正直頭を抱えたい気持ちだった。

 僅か五百の敵が籠る城を、十倍の五千で囲んではいるものの、防備の厚さに中々城を落とせず、夜営をすれば、どこからともなく襲ってくる筑紫勢に毎回尋常ならざる被害を受けた。

 襲い来る筑紫勢の先頭には、大槍を振るいながら、必ずあの男がいた。六尺豊かな恵まれた体躯、敏捷極まる動きに、大力無双。知っている誰かと、そっくりな男だ。

「どうであった。」

 悔しいが、台風が過ぎるような短時間の攻撃の後、被害を確認するのが習慣のようになった。

 「兵糧がやられもした。火をつけられ、半分ほど使いもんになりませんど。」

 被害を確認して家臣が落胆して言う。何か手を打たねばならないが、有効な手立てを思いつかなかった。義弘さまに、泣きつくしかないのか。


 数日後、義弘から援軍の川上勢百と共に兵糧が送られてきた。

率いるは、川上三兄弟、忠堅、忠兄、久智である。

 彰久と忠長は戦況を説明した。つぶさに確認した後で、忠堅は言った。

「要するに、筑紫春門さえ倒せば、こん城は落ちたも同じ。そういうこつごわすな。」

「簡単に言うが、あやつは強かど。わしが見るところ、お主とよか勝負か、それ以上じゃ。」

 忠長が言った。それを聞いて、むっとするでもなく、忠堅は静かに言った。

「まずは見てから。」


 その夜、突然としてその機会はやってきた。

新しい兵糧が運ばれたのを知って、夜半、筑紫軍が奇襲をかけてきたのだ。

兵糧の警護をしていた忠兄は、襲ってきた春門と戦いになり、数十合打ち合ったが、余りの大力に刀を弾き飛ばされ手傷を負って敗走した。

 春門は深追いせず、兵糧を燃やすと、ゆうゆうと引き上げていった。


 兄がやられたのに、日ごろ冷静な久智が珍しく怒り、自分が行くという忠堅を説き伏せて、次の晩は久智が兵糧の警護をした。久智は警護を配下に任せ、自分は弓を持ち、大木の上に潜んで春門を待った。不敵にも、再び、ゆうゆうと姿を見せた春門に矢を射かける。しかし、春門はあっさりと矢をよけると、大力で大木をゆすり、久智を振り落とした。頭から落ちて大怪我した久智を顧みもせず、島津の兵糧に火をつけると、またまた、ゆうゆうと引き上げていった。


 兄弟が二人ともやられては、黙っているわけにはいかない。

しかし、また夜襲を待つのでは、あまりにも芸が無さすぎる。どうするのかと、忠長らは気をもんでいたが、忠堅は意外すぎる行動に出た。

 一人馬に乗り、槍一本かついで、敵城の城門前に立つと、大声で呼ばわった。

「おい(俺)は、島津家臣、川上忠堅でごわす。この城を守る筑紫春門殿、その武名は筑肥に鳴り響いているとか。おいも多少は武術ん心得がごわす。お出ましになり、ぜひ仕合おうではごわはんか(ございませんか)。」


 城内で春門はその様子を見ていた。

「あやつは誰じゃ。」

家臣に尋ねる。

「島津家の川上忠堅というと、………確か龍造寺隆信公を討ち取った豪の者ですぞ。」

老臣が訳知り顔に応え、更に言った。

「あれほどの豪の者が、伴も連れず、源平の御世ならまだしも、一騎打ちを挑むとは、何か必ず謀があるに違いござらん。現に、龍造寺軍も、島津の謀に敗れたとか。御曹司、ご辛抱を。」


「あの龍造寺隆信を、………。面白し。」

 春門は隆信を敵として知っており、強い敵として、いつか戦いたいと神仏に念じていた。二年前、隆信が討ち取られたと聞いた時は、しばらく呆けたようになったほどだ。遠目に見る川上忠堅は、堂々とした体躯に大胆な行動、春門の戦いたいという気持ちを沸き立たせてくれる十分な相手に見える。


 しばらく忠堅を見入っていた春門は、遊びを我慢できなくなった子供のように、がばと立ち上がった。


「御曹司、敵は我が方の十倍、我慢をと申し上げております。」

春門は、ばつが悪そうに老臣に告げた。

「物見じゃ。しばらくやりおうたら、さっと引き上げてくる。」


城門が開いた。

敵が出てきた。

ただ一騎。こちらと同じように、馬に跨り。

一瞬でわかった。

忠堅、春門二人とも同時に、

同じようなのは、身なりだけではない。

体格、身の丈、醸し出している空気。

おそらく、戦を離れて出会えば、肝胆相照らす友となれたであろう。

真に不思議なことだが、二人ほぼ同時に思った。

これは宿敵だ。

運命が定めた敵が、今、目の前にいる。


笑った。楽しそうに。

二人とも、子供に戻って遊ぶかのように。

そして叫んだ。二人同時に。


うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!


槍を片手に、馬を全速力で走らす。

宿敵目がけ、突っ込んでいく。


真夏の空はどこまでも蒼く、二人の叫びは、その空をどこまでも登っていくように響いた。


                     (完)

あとがき


 私の最初の完結を迎えられた小説です。この小説を昨年(2015年)4月30日に、末期がんのため52歳で亡くなった、最愛の妻ますみに捧げます。


 あなたは何がやりたいの。


 公務員を42歳で辞め挑戦した司法試験、試験の半年前に末期がんが発覚し、治療と生活と病院代のために、勉強もそこそこに、住所と職を転々とし、企画やコンサルなど、いろんなことに手を出す私に生前妻が言った言葉です。


 もちろん、弁護士だよ。


 嘘をつきました。まともに勉強できない環境、夢に描いても、受かるはずがないことは、分かっていました。ロースクールでの成績が抜群だっただけに、悔しい思いを隠す私に、妻はいつも私の人生を誤らせたと、後悔の言葉を口にしていました。

 

 妻が亡くなり、仕事を辞め、治療のために住んでいた東京から逃げるように鹿児島に帰り、何にもする気がなくて、3か月仕事もせずに、一日中残された愛犬たちと過ごしていました。食うために仕事を始めましたが、妻が生きていた時のように、エネルギッシュに取り組むことができない自分に気が付きました。

 生きている以上、命を燃やしてがんばらねば。歴史小説で育った私は、陽明学に心惹かれています。その信条に反する生き方をしている。司法試験は今の環境では難しいが、何か心を湧き立たせるものを。考えて、数年前趣味で続けていたもので、中断していた小説を、また書いてみようと思い立ちました。書きたい話のうち、完結まで持っていける比較的短いものを。書き終わって、今は正直に亡くなった妻に言える気がします。


 これが、俺のやりたいことだよ。





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肥前の熊に薩摩の狐 宮内露風 @shunsei51

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