第15話 最高の景色
薄暗闇で誰かが「今まで見た中で最高の光景だ」と声を上げた。
白々と明けようとしている空のもと、他の誰かが「こんな素晴らしい景色を見られて、本当に幸せよ」と笑みを漏らした。
ステキ。キレイ。信じられない。見たことない。生きてて良かった。
誰しもが口々にそう言って目の前の景色を褒め称える。
だけど僕にはそれが出来なかった。
「あの日見た、あの場所の景色の方がずっとずっとすごいじゃないか」
僕は最近そう吐き捨てることしかできなくなっていた。
湖を見下ろす峠の展望台がある。
湖畔に点在する展望台の中でも比較的閑散としている場所なのだが、新緑のころから紅葉が始まるまでの期間だけ観光客でごった返すのだ。
それも、その混雑は日の出の前後に限る。
いつのころからか、その寂しい峠の展望台は雲海の名所と呼ばれるようになっていた。
山に囲まれた湖はさながら杯の底に飲み残した霊薬のようで、深い神秘的な青色が人々の目を釘付けにする。
それだけでもきっと美しいのだろうが、人々が求めるのは、その杯にふたをするように現れる雲海だ。
メカニズムとか詳しいことは知らないが、特定の期間の夜明け前から早朝にかけて発生するそうで、以前からぜひ見てみたいと言っていた友人が、無理矢理に僕を連れ出した。
彼はいつもそうなのだ。
自称絶景ハンターは、出不精の僕の手を引いてはいろんなところに足を運んだ。
険しい山を登ったり、一週間で三千キロ超という車の旅をしてみたり、船でしか行けない岬の裏側にまわってみたり。
僕一人では絶対に行きはしない様な場所に、国内外問わず引っ張り回す。
おかげで僕はたくさんの景色を見てきた。
それはきっと、とても贅沢なことなのだろうけど、僕にとっては悲しいことでもあった。
僕はつい、前に見たどこかの景色と比較してしまうようになったのだ。
「山の上で見た雲海の方がきれいだった」
思っていたより大したことがなかった、なんて付け加えようものなら、観衆たちの冷ややかな視線が一気に僕に集中する。
しまったと思いながら撮影に夢中になっている彼に目をやれば、その口もとは満足そうな笑みをたたえていた。
周囲を気にしながら「君はそうは思わないのかい」と耳打ちする。
「思うよ。思うけど、これはこれでいいじゃない」
そう言って、ふたたびファインダーをのぞき込む。
誰のせいで素直に「きれい」と言えなくなったと思っているのか。
僕は彼が見せてくれた景色のせいで感覚がすっかり麻痺してしまったようだった。
それは本当に悲しいことだ。
外国の街を歩いたあとでは、外国の街並みを模したテーマパークを歩いても物足りない。
日帰りツアーで見られる長寿の大木も、自分の足でしか行けない山の中で数日過ごしたあとに見れば壮大な景色の一部でしかない。
トロッコ電車から見られる峡谷の絶景とやらは、何日も山々を縦走していれば飽きるほど目にする光景だし、レーザー光線で再現したというオーロラは肉眼で見た靄のような薄いオーロラにすら敵わない。
僕はいつもどこかの景色と比較している。
僕が心底喜べる景色はどんどん減っていく。
いつか最高の景色を見てしまったら、僕は何にも感動出来なくなってしまうんじゃないかと、内心怯えている。
「だから外に出たくないって言うなら、お前は阿呆だ」
彼は言う。
そんなとき僕が出来る抵抗は限られている。
「君のせいじゃないか」
この一言に尽きる。
だがそんな言葉にはなんの効力もない。
彼は僕が何も言い返せなくなったのを知って困ったようにため息をこぼした。
「そんなに心配なら、完全無欠の『美しい景色』をいくらでも作ってやる」
彼はそう言って魔法使いが杖を振るように、ピンと立てた人差し指で宙に何かを描く仕草を見せた。口調はわざとらしくおどけてみせても、その言葉がけっして冗談ではないことを僕は知っている。彼はそれができる存在だ。メカニズムとか詳しいことは知らないが、彼はそんな特別なことができる存在なのだ。
僕はまわりの誰かがその言葉を聞いたりしていないかと冷や冷やしながら彼の様子をうかがった。
彼は何事もなかったように、やっぱり楽しそうにアングルを変え、露出を変えしながら写真を撮り続けている。
同じものを見ているはずなのに、どうして彼はこうも夢中になれるのだろう。どうして彼だけが心躍らせていられるのだろう。
僕の心からしみ出すのは、清らかな歓びなどではなく後ろめたい妬みだけ。
「本当に作ってくれるの」
自然と口からこぼれた。
「お任せあれ」
彼は真剣な眼差しで僕を見た。
「何が欲しい」
「静寂」
「ではまず」
まずはじめに人々が消えた。
「ちょっと、そんなことして――」
「問題ない。それよりも次の注文を」
「じゃ、じゃあ、もっとこう自然な感じに」
「漠然としているな。こういうことか?」
彼が人差し指で宙をなぞるたびに、観光地然とした看板などが姿を消していき、しまいには建物や木の柵なんかも見えなくなった。
僕は景色と彼の顔色とを順にうかがいながら次のリクエストを探してる。
「色合いかなあ」
「何色」
「僕は絵描きのセンスはないからはっきりとは……。でもたぶん色のような気がする」
「これならどうだ」
するとたちまち雲海は白、黒、青に緑や黄色といった具合にいろんな色に変化して、変わるたびに僕に違和感を与えた。
「もしかしたら違うかもしれない」
「ではなんだ」
少し彼の声色に苛立ちが見えてきた。
「もしかしたら違うかもしれない」
「それは聞いた。だから、『ではどうすればいい』と聞いている」
「……僕を変えなければいけないのかもしれない」
いかようにも景色を変えられる彼だけど、僕を別人に変えてしまうというような力は持ち合わせていない。
彼を困らせたか、それとも怒らせたかと顔色をうかがうと、大きなため息が返ってきた。
「やはりお前は阿呆だ。今ごろ気がついたか」
彼が言うなり、僕らは元の景色に引き戻された。耳障りな歓声も、少しぼやけた山の輪郭も、心を震わせるには足りない雲の波と真っ赤な太陽も、みんなもとどおり。
でも僕の気持ちだけは少し違う。
後ろめたいけど、妬ましいけど、でも一歩だけ前に向かって踏み出した。
「それでもやっぱり、いつか見る『最高の景色』への不安は消えないんだけどね」
「阿呆め。考えるな、感じろ」
「……どこかで聞いたセリフだね」
「だから! 余計なことは考えるなと言っているんだ」
彼は王様のように言い放つ。
僕は苦笑いで、できるだけ彼の言葉に従ってみることにした。
急には完璧にできないだろうけど、従ってみることにした。
僕を刺す赤。吹き抜ける風。眼下の雲海。
考えるな、感じろ!
Garden~2人と季節の短編集~ 葛生 雪人 @kuzuyuki
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