晴れにして君を離れ

伊東デイズ

晴れにして君を離れ



 俺が校内を小走りでむかう先はもちろん部室で、急ぐ理由は涼宮ハルヒだ。

 今日はただでさえ掃除当番で遅れているのに、このあいだの中間テストの件で岡部に呼び出しをくらった。これ以上の遅れは悪くすると人類に悪影響を及ぼす懸念がある。

 本当かどうか知らないが、古泉によるとあの空間はある日あるとき突然に現れるのではないらしい。日々の累積がある閾値を超えると、つまりわかりやすく言うとハルヒのちょっとしたイライラか積もりつもってある晩暴発ということなんだ。

 だから、俺が急ぐのも人類のためだと言えなくもない。そんな少しばかり悲壮なパフュームをちょっとばかり振りまきながら、足をはやめた。

 ハルヒのため、SOS団のため、そしておとーさんもおかーさんもこの町あの街日本中、世界人類のため俺は日夜戦いつづけるのであった。なーんてな。

 俺はただ、部室で朝比奈さんの癒し茶を飲みつつのんびり過ごしたいだけだ。わずかなら非日常をたのしむ余裕はあるが、俺にだって許容値というものはある。もっともこの一年でその許容範囲は強制的な拡張を余儀なくされている。

 二年になっても四月いっぱいは例の事件の後遺症とあと始末で俺も古泉もいそがしかったし、ゴールデンウイーク中は、妹と一緒に田舎に帰って小さい甥っ子だの姪っ子だのに慕われまくっていた。

 で、休みが明けてみれば特段イベントもなく、平和にひと月が過ぎて結果はともあれ中間テストも終わり、これからはちっとは波風立てずに過ごしたかったのだ。

 しかし、退屈はあの女の内なる圧力を上げる。

 ここ数日、古泉がめずらしく寝不足気味の顔をしていたときからそんな予感はあったのだ。



「だから、あなたと付き合うつもりはないからっ!」

「転入してきたばっかりだから、いろいろ教えてやるっていってるだろ?」

「人の弱みにつけこむ奴とは関わらないことにしてるの!」

「なんでそんなにカタイの? ちょっと帰りにつきあってやるといっただけでこの抵抗?」

 部室棟にむかう渡り廊下にさしかかったときだった。

 一年生もこの時期になると俺でも何人かなら識別は可能なのだが、見たことのない二人が売り言葉に買い言葉のレベルをさくっと通り過ぎて、言葉のぶん投げ合いレベルになっている。

 一年の男子は一見して校則ぎりぎりの長い茶髪チャラい系の雰囲気で、女子の口説きにも手なれた風情というか。女子のほうは、靴箱を開けたらアースワームがこぼれ落ちてきました級の不快感を露骨に表している。

 痴話げんかは勝手にやってくれ。だからすり抜けて通り過ぎてしまえばいいものを俺はつい余計なことを言った。

「通行の邪魔になっているようなんだが」

「あんただれだ」

「いや、べつに続けてもいいんだけど、身振り手振りよろしくやられるとね。渡り廊下は君たちの貸し切りじゃないんだし」

 見知らぬ一年は一瞬、キッと俺をにらんだが、どうやら相手が上級生だと言うことを認識したようだ。俺がつとめて平板な口調で言ったのが功を奏したのか、あるいは戦意がしぼんだのか。二人はさっと二つにわかれて道をあけると同時に、女子のほうが背をむけて走り出した。

 あっけにとられたその野郎が慌てて追いかけようとするところに、俺は全然そうするつもりもなかったのだが、勝手に足が動いて足払いをかけた。我ながら信じられなかったが、チャラ男の悪態を背にすみやかに部室に向かう……つもりだった。

 ところが、廊下を渡りきったところで背後にいつのまにかさっきの女の子がついてきた。

「ごめんなさい。今朝からずっとしつこく言い寄られてて、怖かったんです」

 比較的平穏な北高にもあんな奴はいるんだな、ぐらいにしか思わないが、この子にとっては生理的に受け付けなかったのかもしれない。

「まだ玄関にいるかも」

 とかいって、俺にぴったりうしろをついてこられてもほんと困る。

 しかし、年上の朝比奈さんに頼られたことはあるが、ここんとこ妹にすら頼られると言うことがなかった俺には、ととのった顔立ちのキレイな後輩を先輩として見捨てるわけにはいかないのではあるまいか。

 一瞬、部室に連れて行こうかと思ったが、可愛い後輩と手に手を取ってドアを開けるのは危険すぎる。全力で誤解されて、それこそ現在堆積中のハルヒのイライラ燃料に着火するかもしれないのだ。こればっかりは知恵を振りしぼっても言い訳は出来ない。

 俺が立ち止まるとすがりつかんばかりだし、歩き続けると部室に付いて、点火ということになってしまう。

 おびえた女子を安心して預けられるとこってどこだ?

 紳士的、というか強烈な過去のトラウマでいかがわしい行為とは四光年くらい無縁の安全な人と場所。思いつくところは一つしかなく、俺は覚悟を決めて部室の前を通り過ぎた。彼女はまだついてくる。

 俺はコンピ研のドアを叩いた。



 それが昨日のことだった。

 今日はハルヒが当番だったからまだ来ていない。確認するなら今のうちだ。

 俺は部室で古泉と向かい合わせに座っていた。机にトランプのカードが広げられている。俺が来るまでソリティアでもやっていたんだろう。

 どっしりとした雨雲のせいで、そろそろ部屋の電灯をつけたほうがいいような気もする。ときおり、風に押された雨が窓ガラスをぱらっとたたいている。窓やドアに小さなすきまがあるせいか、しめった空気が部屋を通りぬけて廊下にまで流れているようだ。

 長門はその窓際で文庫本を読んでいる。トレーシングペーパーのような薄紙をかぶせた緑の背表紙に金字の漢語がみえる。東洋文庫だろうか。

 長門のとなりの団長席は当然まだ空いたままだ。掃除が終わるまではしばらくかかるだろう。普段ならお茶の一杯も飲みおわって、液晶ディスプレイ越しに耳にとどくハルヒのタワごとを聞き流しているところなのだが。

 いつも早めに来ている朝比奈さんは、今日はほとんど俺と同着だった。俺と古泉が廊下で待つことしばし、ドアを開けてくれた朝比奈さんはメイド服だった。蒸し暑さが続く中、そろそろ夏バージョンが欲しいところだが、朝比奈さんは汗一つこぼさず、長袖に腕を通している。すぐさま遅れたのをわびて、今はお湯を沸かしているところだ。べつにお詫びなんかいいのに。

 朝比奈さんがお茶のアルミパックをひらくと、部室の中にぱっとかぐわしい香りがひろがっていく。お茶の研究に余念のない朝比奈さんのおかげで、俺もこの一年で、少しは舌が肥えてきた。今日の高級感ただようお茶はなんだろう。

「今日はダージリン・ティーです。ちょっと冒険してみました」

「期待してます、朝比奈さん」

「乞うご期待、です」

 やさしく微笑んだ朝比奈さんはお茶碗を窓際のキャビネットからとり出し始めた。一日一回、朝比奈さんがお茶を煎れて、どきどきしながら俺の反応を見つめているこの儀式がここに来るほとんどすべての理由といっていい。



「その人のことをもう少し詳しく話していただけませんか」

 古泉は切りかけたトランプの手をとめて言った。

 俺のさっきの一言で、少しばかり態度が変わったような気がした。というのは曖昧スマイルは相変わらずだが、目つきが心もちきつくなったからだ。

 さっき俺はこう言ったんだった。 

「ひょっとして、あいつもおまえらの仲間か?」

 なにしろ諸般の事情により、いまや俺はSOS団からの離脱は考えられないわけだし、うしろの席にやっかいな怒髪天女がいる限り、俺に好意的に近づいてくる女子などいるはずがない。

 古泉の表情が笑みを変えないまま軽い感じの「?」を俺に投げかけたままフリーズしていたので、俺はそいつのことをさらにくわしく話してやることにした。


 そう、梅雨どきの昼休み。やはりそとは雨だった。いやもう先週からずっとだ。

 高校二年にもなって仲良く弁当、というのは男子では少なくなってきたし、昼休みにそそくさとパンをかじったかと思うとおもむろにノートとにらめっこしているアホも出てきた。

 しかし、俺は学校生活の中で気をぬけるのはこの昼食会しかないのだ。放課後はまあ言わなくてもわかるだろう。授業中もあいかわらず後ろがうるさい。ハルヒが学食にすっ飛んでいく今だけが、心の平安を保てるのである。

 食べ始めてからしばらくして、曇天をながめつつ、なんとなく三人の会話が途切れた。俺たちだけじゃなくて、教室内で色とりどりのランチボックスを囲んでいた女子までが、言葉をとめている。

 いかなる予兆か知らないが、あたりが静まりかえったそのとき、がらりと音を立てて教室の前部ドアが開いた。

 教壇の前を通り過ぎ、長門級の静かな足取りでやってきたのは昨日の女子だった。そのまますっと机をぬって俺たちの弁当サークルにやって来た。

「あのう、食事をご一緒させてもらえませんか?」

 いきなりだったせいか、谷口のアホ面が“こいつダレ?”と俺に問いかけ、国木田はキョトンとしている。

 同じクラスの奴がまぜて欲しいってんならわからんでもない。ハバツ闘争があるわけでもない比較的平穏なクラスだ。たまにはいいだろうよ。

 けれど自称情報通(限る女子)の谷口ですらよく知らない女子、となれば話は違う。しかも結構キリリとした美形だ。

 そいつがいきなり、ぱたんと弁当箱を俺の机に置いたかと思うと、

「お願いです! わたし、昼休みは行き場所がないんです」

 これでは谷口の「は?」という簡潔な問いが俺の口からもシンクロして飛び出したのはしかたがないだろう。

 きのうはよく見てなかったが、髪はショートで、長門よりちょっと長い。秀でた額ときれいな生え際が、何というか知的な感じで、目の色が日本人には珍しいライトグレーという。クォーターかもしれない。

 身長は谷口よりわずかに高くて、出るところは出て、引っ込むべきところは理想的に引っ込んでいるガッチリしたモデル体型とでも言うか。ぴしっとアイコンタクトするところみると帰国子女なんだろうか。

 国木田はちょっと驚きつつも冷静に彼女を観察しつつ、谷口の反応をおもしろがってもいるようだ。彼女が谷口の脳内美形ランキングの上位数人を一瞬でけちらしてその地位を簒奪したのが俺にもわかった。

 そいつ自身は、教室内の女子たちが放射するコイツナニモノ視線を一身に集めていることなど毛ほども感じていないらしいところを見ると、その種の自覚はないらしい。昨日のおびえた様子は微塵もない。

 谷口は脳内シナプスに電撃が走って何らかの理解に到達したのか、はじかれたように立ち上がった。

「ど、どうぞっ。椅子用意しますんでそこにいて下さい!」

 谷口はとなりの席から調達した椅子を、すこしむっとした表情の国木田とのあいだにガラリとおいた。

「思い出した! たしか先月一年のクラスに転校してきたんだよね? 正式には転入か。この時期に珍しいですね。転入試験は受けたんですか?」

 合格したからここにいるんだろ。だいたい一年に敬語なんか使ってどうする。たしかに三年といっても通用する体型だが、お前の口から珍しいですね、はないだろう。

 だが女子情報専門の谷口でも知っているのは転入してきたことだけらしい。そのまま言葉は枯渇して、話は続かなくなった。

 べつにほかのクラスに侵攻して飯を食うことについて校則で禁じているわけじゃない。そんな条文があったらお目にかかりたい。だが常識ってもんがあるだろ? いきなり二年の教室に侵入して、初対面にもかかわらず、同席したいというのはちょっとわからない。

 それになぜ俺は昨日まで彼女のことを知らなかったんだろう。去年の古泉と同じく不自然な時期に転校してくればハルヒの興味を引かないはずもないのだが。

 まあ、ハルヒも例の怪事件の余波が引いていなかったのかも知れない。だから転入生まで手が回らなかったんだろう。長門や朝比奈さんが感知していたか、というと心許ないが、あの二人にきいても答えは返ってこないにちがいない。



 谷口の用意した椅子にほっとした様子ですわったそいつは言った。

「ありがとう。谷口先輩」

「え、俺のこと知ってんの?」

 早くも口元がほころんで、泳いだ目が縦横無尽に侵入女子をスキャンしているのが手に取るようにわかる。こいつの思考経路もだ。

 国木田が俺をみて目を伏せた。

“ほんとうにこの男、こりないやつだよな?”

 俺は国木田の非言語メッセージをかように解読した。まったく同感だ。

「谷口先輩は有名だから」

「どうしてなにが有名なのかな~?」

「ほかの先輩から聞いたんです。去年、文化祭の映画に出演して大活躍したとか」

「……ま、まあな。クラスというか、とある“団体”の要請でな。顔が広いと断り切れねぇんだこれが。活躍かどうかは評価の分かれるところだが」

 谷口の言葉で俺も一瞬だけ、昨年の映画作成にまつわる奇々怪々な事象がフラッシュバックする。あの時初めて、俺は裏方である古泉の気苦労の一端を垣間見たんだった。

 彼女が薄桃色の包みをといて弁当の箱をパッとあけると、どう見ても相当腕っこきの調理人が詰めたとおぼしき和風弁当が現れた。

「それから、こちらにいるのが国木田さん」

「僕のことも知ってるのかい?」

「もちろんです。このあいだの中間試験、現国で学年二位だったでしょ」

 国木田は少し疑っているような表情だった。谷口ほどのせられず、落ち着いているのはさすがだ。

「ふーん、あらかじめ調べてきたみたいだね。となるとキョンのことも知ってるわけだ」

「ふふ、話が早くて助かります。キョン先輩、昨日はどうもありがとうございました」

「おっ、なんだよキョン、知ってんの?」

「いや、昨日ちょっとな」

「私を助けてくれたんです」

 いや、ぜんぜんそんなんじゃないし。

「こ~れ~は、許し難いな。部室で美形三人に囲まれつつ、一年にも手を出したっときたか」

「キョンの好みも中学のころからかわってないね」

 国木田、そこで余計なことをいうなよ?

「で、キョンのどんなことを知ってるの」

「キョン先輩は、SOS団長涼宮先輩の、コ、レ」といって小指を立て、軽く振った。

 一瞬、かろやかに舞い降りた沈黙を谷口の笑い声がやぶった。

「いやぁ実はそうかも知んねぇな」

「というか、もはや全校的なコンセンサスじゃないかな」

 おまえらまで……この裏切りもんが。

「というのは冗談です。なにごともファーストインプレッションが大切。これが転勤の多い両親のもと、転校つづきのかわいそうなわたしの処世術なの」

 そう言い終えると、さっき俺たちに哀願したのもどこへやら、にこっとわらって弁当を食べはじめた。

 なんなんだこいつは。昨日の弱々しい姿は演技だったのか? それとも俺たち三人なら安心できると考えたのかもしれない。

 なんとなく勢いに押されて、俺たちは箸が進まないまま、彼女の身の上話とやらを聞くはめになった。

 実はなんかのバツゲームか? 負けたんで二年のところに行って弁当を食ってくる、という。それにしちゃ居場所がないっていう言い方に嘘はないっぽい。昨日の茶髪ゲス野郎が同じクラスならなおさらだろう。

 なんとなく俺は食が進まなかったが、谷口は矢継ぎ早に質問をし、相手はそつなく、しかも礼儀正しく答えている。そのうち、国木田まで引き込まれて話に乗った。

「転校して一ヶ月じゃまだ分からないこといっぱいあるよね。どこから来たんだっけ」

 隣の県のそれと知れた高校の名前が帰ってきた。進学校だが高校野球でも強豪校だから聞いたことがある。

 谷口の質問もネタ切れになったころ、ちょうど食事も一通りおわって、弁当箱を薄桃色のふきんで包みながら、彼女はふと思いついたように言った。

「私、まだこの町のことをよく知らないんです。よければ先輩たちに案内してもらっていいですか? 今度の休みにでも。私も前の学校の友達を何人か呼びますから」

「えっマジで?」

 素っ頓狂な喜びを爆発させたのは谷口で、国木田もまんざらではなさそうだ。

「でもこの調子じゃ、天気が心配だね」とか言ってお前も行くつもりなのか。

「俺は、いい」

「えーっ、どうしてですかキョン先輩。当日は私の人脈で綺麗どころを調達しますよぉ。だから参加して下さいよぉ~」

 そんなデカイ声で言うな。教室の廊下側で弁当をつついていた女子グループが一斉にこちらを見た。その視線にはトゲがある。マジで痛い。

 俺の呼び名はキョン君ではさすがに失礼という自主規制で、形だけ先輩はついているが、そのあとがいけない。これじゃまるで、野郎三人がかりで一年をたきつけて女子を調達しているみたいなシチュエーション、というかそのものじゃないか。

 あさましい。誰が参加するかよ。

「このところの疲れを癒すために、極力休みは外出をひかえてるから。それに週末もきっと雨だしな」

「ふーん。キョン先輩はどっちかっていうとインドア派ですか」

「というか、キョンはいつ涼宮の呼び出しがあるかわからねぇからな」

「うるさいって。それは関係ないだろ」

 相変わらずクラス女子のダレダコイツ目線が飛び交うのもかまわず、すっくと立ち上がった彼女は言った。

「ごちそうさまでした。また来るかもしれません。そのときはよろしく……キョン先輩?」

「なんだ」

「昨日は本当に助かりました。コンピ研の皆様にもよろしくお伝え下さい」

 きっちり頭を下げて教室の入り口に向かうと、入り口付近にたむろっていた女子連中がさっと二つに分かれて道をあける中、無人の荒野を行くがごとく堂々と教室を出ていった。

 谷口は早くも週末にむけて脳内を構想が駆けめぐっているようだったが、俺はふたたび現れた彼女に疑念がぬぐえないでいた……。




「それは興味深い。今度は僕も同席したいところです」

 と、ちっとも興味深そうでない古泉が言った。

 それはやめとけ。お前が中に入るとなんというか目立つ。場所も足りないし。

「今の話だと、あなたは彼女に以前から面識があったんですね」

「面識と言うほどのじゃないんだが」

 俺は昨日の放課後、渡り廊下での出来事を話してやった。彼女がコンピ研でそれからどうしていたかは知らない。帰宅時のボディーガードにしてはちょっと役不足だが、あいつらが手をだしたりはしないはずだ。

 古泉は本気度二割増しくらいの笑顔を作った。

「実にあなたらしくない武勇伝です。意外な一面というか。ところでその女性の名前をうかがってませんが」

 こいつは全生徒のプロフィールを調べていたはず。だとすると転入生だってそうだろう。かつての自分のように不自然に転入してきた女子ならなおさらだ。

「名前は伊織真砂子。体型もしっかりしているし、なんか運動部にでもはいってるんじゃないか」

「その通り。先日、バスケット部に入部手続きをしたようですね」

「なんだ知ってんのか」

「確認を取ったまでです」

「やっぱりお前の対抗組織かなんかか?」

 古泉は先ほど配りかけたカードを回収し、あざやかな手つきでカードを切っている。プロマジシャン級のテクニックだ。

「たしかに我々が生徒の挙動を監視していることは事実です。転校生も含めてね」

「別の組織だとして、こんなあからさまに怪しい接近をするのか」

「それが狙い目なのかもしれません。盲点を突いて攻撃してくるとか」

 それってけっこうマヌケじゃないか。突くほうも突かれるほうもだ。

 『機関』はいくつかの端末から情報のおこぼれをもらっているらしいし、朝比奈さんから未来の情報を聞き出そうとするやつらだっているかもしれない。

 だから長門や朝比奈さんに接近する理由はいくらでもあるだろうが、俺に近づいてなんのメリットがあるんだろう。

 俺の記憶している情報なんて、去年の四月以降はほとんど焦燥とタメ息だらけに違いない。



 朝比奈さんがふわっとした感じで俺の前に湯飲みをおいた。馥郁とただようお茶の香りで、飲む前から部室の雰囲気もがらっと変わったような気がする。

「ごめんなさい。ちゃんとしたティーカップでお出ししたいところなんですけど」

 ぜんぜんかまいませんとも。要はお茶に煎れてくれた人の心がこもっていれば。朝比奈さんならどんぶりでもよろこんでだ。たとえウエッジウッド謹製の高級茶器といえども、ハルヒに強制されるくらいなら飲まない方がマシだ。

 ひとくち飲んだ古泉が言った。

「もし予算に余裕があったら茶器をひと通りそろえたらどうでしょう」

「えっ、いいんですか」

 朝比奈さんは目をぱちくりした。

 ちっ、俺も今それを考えていたのに。それにお前が自由に使える金じゃないだろ。

「いまや朝比奈さんのお茶はSOS団になくてはならいセレモニーですから。当然、きちんとしたティーセットをそろえるべきでしょう」

 ますます腹立たしい。それも今おれが言おうとしていたところだ。

「じゃ経理担当の長門にでも聞いてみたらどうです」

 俺が割り込んで言えるのはこれくらいだ。古泉の奴、いいとこ取りしやがって。

 そうだ長門といえば。

 俺は朝比奈さんがキョドりながら長門と交渉を開始するのを視野におさめつつ、古泉に尋ねた。

「さっきの話だが、侵入者は長門の仲間、というか違う派のメンバー説はどうだ」

「校内にどれくらい端末が侵入しているかは正直わかりません。外見上はもとより、医学検査でも相違が見いだせませんからね」

 ひょっとして古泉の『機関』は全校生徒の健康診断結果まで入手しているのか。そうだろうなと言う気がした。

 長門が朝比奈さんに単価と数量をたずねて、朝比奈さんがかわいらしくも真剣そのものといった様子でメモ用紙になにか書いている。

 こういったことは、あれこれ考えるより直接きいたほうが早い。朝比奈さん、割り込んですみません。

「長門、実際のところ校内にお前の仲間はどれくらいいるんだ」

「けっこう」

「じゃ、数はいいから何種類くらい」

「時と場合による」

「今話した女子はそんなかに入るのか」

「わからない」

 長門がわからない……だと?

「情報統合思念体の諸派すべての思惑をはかることは端末の能力では不可能」

「では、その人物を長門さんの前につれてきて、非人類かどうかの判別は可能ですか」

「可能。だが回答が許可されるかどうかはわからない」

 古泉の問いを軽く流した長門は、朝比奈さんのメモ用紙を取り上げて交渉を再開した。

 どうもはぐらかされたような気がする。

 未来人ではないだろう。すくなくとも朝比奈さん系列の未来人ではないことは確かだ。これは以前の事件で結論がでている。襲来するとすれば別の未来からだ。

 だけど、いまは時間がらみのことは考えたくない。

 支出交渉がうまくいって、うれしそうに二杯目のお茶の準備をする朝比奈さんをみていると、このたぐいの質問を根掘り葉掘りきくのも抵抗がある。ことが禁則事項にからむと俺と朝比奈さんのあいだがしっくりこなくなって、しかも尾を引いてしまうのだ。

 去年の秋、俺と朝比奈さんが関わったカメさんと空き缶事件でも、わずかに見せた彼女のつらい表情を俺は忘れていない。この質問は最後にしよう。

 長門から答えが得られないので、俺の詮索はいったんここで行き止まりになった。

 古泉は心から紅茶を味わっているかのようにゆっくり飲んでいる。

「ダージリン・ティーはミルクティーにすると格別ですね。適温適量でミルクが紅茶の引き立て役となって味わいを深めています。喫茶店でもなかなかこうはいきませんよ」

「ほ、ほんとですか。じつは練習してたんです。そういってくれると嬉しいです」

 朝比奈さんはほおを少し染めているが、古泉は終始わざとらしい。

 そんな朝比奈さんがチラリと俺に期待でいっぱいの視線を投げてよこした。

「えーっと。美味しいです。レパートリーも相当増えたんじゃないですか? もう駅前喫茶店へ行く必要もないですね」

「わかります? あたし、あの店で飲んだお茶はよーく味わって覚えておいて、どれくらい再現できるか挑戦してるんです」

 胸に手をあて、ぴょこんとカカトを上げた姿を愛でたところで本日のかけがえのない儀式は終了した。ごちそうさまです、朝比奈さん。



「ほんとにわからないのか古泉」

 朝比奈さんのお茶を飲み干したあと、おれは再び古泉に質問した。こいつはわかっていながら俺に知らせなかったことが何度かある。

 任務上の古泉の立場もあることだからとやかく言うつもりもない。しかし今回はハルヒより俺に接近してきた事実は見過ごせない。

「校内である種の情報戦が展開されていることはご存じの通りですが、その全容を把握することは機関の力をもってしても困難です。間違いなく長門さんの作り主がそのなかでも最強ですが、四年前の“あれ”を感知出来る存在なら、ほかにもここに進入しているのでは?」

“あれ”っていうのは、朝比奈さんなら“時空の断絶”、長門なら“情報爆発”とでもいう事象のことだ。古泉は以前なら“涼宮ハルヒ神様説”に準拠していたはずだが、四月以降は自説にこだわることがなくなったようだ。

「じゃ、あの子がそんなかのどれかだってのか」

「かもしれません」

「いまのところ昼休みに一緒にメシを喰っただけで人畜無害だが、この先どうなるかわからんし」

 何かの拍子に正体を現さないとも限らない。過去にそんな例もあった。殺されかけたあの日以降、おればしばらく靴箱を開けるのにさえ勇気が必要だった。

 もったいぶりとイヤミの中間あたりの間を置いて、ゆっくり古泉はお茶を飲み干した。

「なぜあなたなんでしょう?」

「いってることがわからんが」

「涼宮さんに関する情報争奪戦ではなく、あなたに第三者が直接コンタクトをとってきたのは今回で二度目ですね。一回目は確か」

 もういい。するとあの時と同じくらい危険だとでもいうのだろうか。

 湯飲みを机に置いた古泉は声をひそめた。

「実は最近、涼宮さんをめぐる我々の対抗組織の一つが壊滅したことがわかっています。それとこの件に関係があるがどうかはわかりません。偶然とも思えませんが」

「それはどういう意……」



 ドアが轟音とともに開いた。いい加減このドアもガタが来てるからそのうちドア本体が俺の頭に直撃しないとも限らない。続いていつもの大音声が俺の耳に突き刺さった。

「遅れたわねっ!」

 そして無数の水滴が俺に着弾した。ハルヒが入室するなり、カサをばさっと振り回して広げたからだ。いく粒かは俺の飲みかけのお茶にブレンドされたに違いない。

 古泉は黙って洒落た絵柄のハンカチで髪をふいている。俺はハンカチなんか持ってないから手でぬぐった。

「部屋の中でふり回すんじゃない。玄関のカサ立てに入れときゃいいじゃないか」

「最近は物騒だしね。カサを家に忘れた子が無意識に持っていっちゃうかもしれないでしょ」

 雨なら先週からずっと降りっぱなしだろうが。そいつはずぶ濡れで登校したのかよ。だいたいこの雨の中、どこに行ってたんだ?

「掃除のあと、玄関からでて校舎をぐるっと一回りしてきたの」

「長雨つづきで気でもふれたか」

「今日のめちゃつまらない授業から頭を切り換えようと思ってね。あんたにはわかんないでしょうけど、傘をたたく雨音はなんか天からのメッセージが降ってくるような感じで」

 ハルヒは全然らしくない似非っぽい小児ポエムのようなことを言った。

 たしかに六時限目の数学は底なしにつまらなかった。俺には難しすぎ、ハルヒには簡単すぎるんだろう。だからといってこいつの頭に新たな頓狂な思いつきやメッセージが舞い降りてきて欲しくはない。

 ハルヒが団長席に座ったかと思うと、すぐさま机に魔法のごとく湯飲みが出現した。まるでハルヒの到着を秒単位で予知していたかのように、朝比奈さんがすでに紅茶を用意していたのだ。さすが未来人、秒単位でハルヒの行動を把握していたのか、なんてな。

「でも。こう長雨だと通学がメンドイわね。こどものころはカッパをきて雨のなかをころげ回っても平気だったのに」

「たまには、室内ゲームでもいかがです?」

 古泉が珍しくハルヒをさそった。さっと手を振るとトランプがきれいに弧を描いて扇型になった。

「古泉君には悪いけど、あたしは現実の世界で思いを実現させていくほうが楽しいから。ま、去年のコンピ研との対戦は面白かったけどね。有希も楽しそうだったし」

 全員参加して楽しかったのはあのときと、正月の鶴谷家での福笑いくらいだ。

 しかし、謎の島を巡るミステリーや去年の夏休みの終盤は、まだ“楽しい思い出”に変わるほど薄れちゃいない。

 そういえばあの夏の件で、どうしても長門に確かめたいことがあった……が、俺は妄想スイッチをたたき切って現実に意識を集中した。

「新学期が始まってもう二ヶ月が過ぎたってのに、とうとう新団員にふさわしい才能の持ち主は現れなかったわね」

 と言うハルヒの言葉が俺の聴覚神経を揺さぶったからだ。俺の警戒をよそに団長席を立ったハルヒは言葉を続けた。

「だから、そろそろ何か大きなイベントが欲しいところね。イベントに興味を持って参加した生徒から隠れた才能の持ち主を発掘するの」

「そうですね。実は僕も文芸誌以来、暖めているネタがありまして」

「本当? さすがは古泉君だわ。でもそれはいつかのお楽しみにしたいの」

「すると涼宮さんに何か妙案でも?」

「キョンがこれから考えるわ」

 笑みを浮かべつつ、大きな瞳に若干の意地悪と好奇がブレンドされ、その視線は俺の額のあたりをひたと狙いを定めている。

 いつも俺を心胆寒からしめているハルヒ流“面白いこと思いついた”表情だ。

 ハルヒはごくりと紅茶をのんで、間をあけてから言った。

「これまでの一年間を思い起こしてみなさいよ。まず、古泉君。古泉君はSOS団の設立以来、副団長としてあたしの右腕となって団をまとめてくれているし、これまでもイベントを立案・実施したのは揺るぎない実績といえるわね」

「朝比奈さんや長門だっているだろ」

「みくるちゃんはずっとお茶の研究にいそしんでるじゃない? 日々創意工夫しているからこそ、こうやっていろんなおいしいお茶が飲めるのよ。あたしもお茶の世界がこんなに奥深いものだったとは知らなかったわ。あんたもすこしは礼を言ったらどうなの」

「あ、ありがとうございます」

 と言ったのは、ほめられた当の朝比奈さんだ。滅多にほめることのないハルヒだから言われたほうがどぎまぎしている。

 もちろん朝比奈さんには、俺だって心から感謝している。今日のお茶だって素晴らしい。端麗な紅茶をコーラみたいにがぶ飲みするやつとは一緒にして欲しくない。

「じゃ長門はどうなんだよ?」

「団員一人一人にノートパソコンがあるのは誰の……」

 わかった、わかったって。

「有希にはずっと考えてることがあるけどそのうちね。今はいいの。となるとこのSOS団にいちばん貢献してないのはあんただけなのよ。わかる?」

 そこでいきなり指をさされても、まったく納得は出来ない。

 古泉によれば俺は去年、ハルヒが原因の危機から世界を救ったことになっている。しかも二度もだ。さらに世界をゼロから創り出したやつと対峙することにもなった。大人の朝比奈さんの助けがあったにせよ、人類に対して俺を超える貢献をしたやつが歴史上にいるかってんだ。

 しかし、それをハルヒにだけは絶対言えないのがつらいところだ。

「ということで今週の日曜日にイベント開催よ。あんたの立案・主催でね」

「だからなにを?」

「あんたが考えんのよ。SOS団らしい、驚異と発見にみちたイベントをね。秘められた才能の持ち主が興味を持つような内容にしなさいよ」

「では僕も微力ながらお手伝いを」

「古泉君」

 ハルヒはわざとらしく首を振りながら、

「あなたが団員のために心を砕いているのはあたしもよくわかってるわ。でも今回はキョン一人に全部まかせるつもりなの」

 絶対に古泉の苦労なんか知らないくせに。古泉の努力はハルヒのわからない水面下で行われているのだ。

「だから、キョン。これは団長命令よ。準備はここでやってもいいし、必要なら今週いっぱい、放課後は家に直帰してもいいわ。そのあいだの団活動は免除してあげる。費用については有希と相談してちょうだい。だけどあんまりお金のかかるものはダーメ。今後の団活動に支障があるから。イベントは来週中ならいつでもいいわ。わかった?」

 俺の返事を待たずに、席を立ったかと思うと、

「ってことで帰るわ。今日は町内の子供会でボランティアなの。そのうちあんたにも手伝ってもらうかもね。みくるちゃん、今日のお茶は上出来だったわ。それじゃ」

 ハルヒは言いたいこと一方的に言い終えると、床に広げたカサをたたんで部室を出て行った。

 いまどき近所の小学生の勉強の世話をするなんてハルヒらしくないが、それができるのも余裕があるからだ。成績も依然として学年トップの座をゆるぎなくキープしつつ、周囲の迷惑をかえりみずSOS団活動を突っ走っている。

 だが余裕なんかカケラもない俺がイベントだって? 驚異と発見ってなんだよ。どこにあるんだそんなもん。

「僕も帰ります。今日はちょっとバイトがらみで」

 すでにカードをしまい終えた古泉が立ち上がった。

 本当にヘルプなしか?

「では一つだけ。涼宮さんの退屈がきわまると人類が危機につながることをお忘れなく。今日はまだ木曜です。明日中に案がまとまらず、ネタに行き詰まったら側面援護させていただきます。では」

 なんだそれ。プレッシャーだけ与えて去るつもりか。それにバイトってなんだ。今夜も飛び回るのか?

 古泉は答えず、さわやかなつくり笑顔とともに部室を出た。続いてメイド姿の朝比奈さんが湯飲みと急須を洗い場に持って行こうとしている。

「朝比奈さん。今週の日曜なんですが」

「だめです。禁則です」

 まだ何も言っていないのに。

「あたしは未来がわかるはずだから、どんなイベントか聞きたい、そうでしょ?」

「…………」

「いくらキョン君のお願いでもそれだけは出来ません。あしからず」

 俺はずいぶん朝比奈さんのお願いを聞いてあげたじゃないですか。それも命がけで。

 朝比奈さんは湯飲みの入ったカゴをゆっくりと机に置いた。

「うーん。ええっと……、じゃこれだけ。禁則ギリギリですけど、今のところ今日から明日いっぱいは阻害要因はないと思います」

「それで?」

「……以上です」

 またしても朝比奈さんは、ふふっとかわいらしい笑声を残しつつカゴを抱えて部室を去っていった。

 朝比奈さんまでもはぐらかすのか。

 そうだ。俺にはまだ最終兵器がのこっていた……いや、長門は未来との同期を封印していたんだった。いや困った。

 その長門は、読んでいた本を鞄に入れ、帰る準備をしている。カバンの中には、もう数冊緑色の本が入っているのが見えた。

「長門」

 長門はカバンに本を差し入れた状態で凝固したまま、瞳だけを俺にむけてよこした。

「予算のことなんだが、いま部費の残高はどれくらいなんだ。朝比奈さんの分を除いてだが」

 長門は年度当初に生徒会から想定外の予算をぶんどってきたが、それ以降ほとんどお茶代くらいしか使っていないはず。

 長門は淡々と五桁の数字を言った。どうりで朝比奈さんのお願いが簡単に通るはずだ。確か、生徒会の予算書のコピーが団長机にあるはずだが……。

「そんなに? 前より増えてないか」

「増やした」

 どうやってだ。株の夜間トレーディングで資産運用でもやってるとか? 長門が全力で相場を張ったら、ブラックスワンが群れをなしてやってくるに違いない。たずねるのもはばかられる。

「どのくらい今回のイベントにつかえるんだ?」

「あなたが必要なだけ」

「イベントも手伝ってくれるか?」

「出来ない。これは涼宮ハルヒの命令だから」

 そう言うと、そのまますっと流れるように部屋を出て行った。


 どうすりゃいいんだ? 完全に助力なしだ。ミステリーツアー風のことはもうマンネリだし、驚異なんかそこいらの商店街に転がっているはずもないし。だいたい俺は怪異な才能を持った団員がこれ以上増えて欲しくないってのもある。

 落ち着け、俺。まだ時間はあるんだ。

 まず制限事項を列挙すると、どっかに旅行に出るには金はあるが準備の時間がない。となると町内か校内イベントか。古泉の傀儡とはいえ、生徒会長の監視もうるさい。

 当然、俺に古泉みたいな凝りに凝ったミステリイベントなどできるはずがない。『機関』の組織力もないんだし。

 どっかに俺を手伝ってくれる奴はいないか。

 ……いた。それも直近にだ。俺は廊下に出て、隣の部室にむかった。




「一緒に帰りませんか?」

 と伊織真砂子が言った。

 俺は下駄箱のフタをしめて、ちょうど玄関を出ようとしたところ。

 さっきまでの小雨はすっかり晴れて、沈みかけの太陽が放つオレンジ色の光が雲のあいだを縫っている。久方ぶりにお天道様を拝んだような気がする。

 などと感慨にふけるまもなく、夕映えを背景に伊織真砂子が俺の前に立っていた。待っていたんだろうか。

 まだ彼女をなんと呼んでいいかわからない。君、でもお前、でもいいづらい。

 昼飯中には気が付かなかったが、背後からの光のせいか彼女の髪が濃い栗色にみえた。玄関口からの風がふわっと髪を揺らせて高級石けんのような清潔なにおいを運んでくる。

 立ち上がって向かい合うと、まっすぐ見つめる真砂子の瞳が正面にあった。微妙な色合いの瞳のせいか、ずっと大人びてみえる。

「まだあいつにつきまとわれてんのか? これから下校中ずっとボディーガードはできないぜ」

「彼はもう二度とあんなことはしないと思います」

「部活があるんじゃないのか」

「今日は学校指定のユニフォームを店にとりにいくんです。部活は明日から」

「じゃ、毎日一緒に帰ることもこれからはないわけだ」

「ひど~い。そんなに嫌ですか。それとも約束でも?」

 真砂子はかわいらしく小指を立てた。

「そんなんじゃないさ」

 玄関を出るとすぐに真砂子は俺の横にならんだ。

 半歩右後ろについてこい、という時代錯誤的な意識はないけれど、俺よりわずかに低い背丈の女子が横を歩くのもなんとなく圧迫感がある。もちろん、男のマナーとして俺が車道側を歩いたが。

「お願いがあるんです」

 そうだよな。何の用もなく待ってるはずはないよな。

「わたし、卒業までここにいれないって予感があるんです」

「高校生なんだし、家族全員で引っ越ししなくてもいいんじゃないか。単身赴任でがんばっている父親はいくらもいるだろ」

「いいえ、叔父なんです。わたし、今回は両親が海外勤務で叔父夫婦に厄介になってるんで、わがまま言えないんですよ」

「わるかった」

「いえ、いいんです。いろいろな学校に行けて、友だちも出来るし」

 嘘、のような気がする。自分で行き場所がないって言ってなかったか?

 俺たちは会話が途切れたまま、二人並んで正門をでた。ダラダラした下り坂をそろって歩く。

 雨上がりの路面は湿った灰色をしていて、雨水が残る鋳鉄製のマンホールのフタがつるっとしている。こんな時刻なのになぜか同じ坂道をゆく生徒がまったくいない。

「中学の時も二回転校して、部活動もレギュラーになれなかったんです。高校だって、入学してすぐに叔父さんが転勤になって、この高校に転入試験を受けてまた最初からやり直し」

 そりゃ大変だったな。でも俺が何かをしてやれることはない。目下のところSOS団と学業で手一杯の俺には、ほかの要素をいれる余地はない。

「わたしは友だちが欲しい。一緒にどこかに遊びに行ったりしたい。高校一年にもなってこんなこと言い出すのはおかしいですか?」

 これは……?

 もしかしてこれは、コクられているのか?

 いや、そうじゃないと思う。転校がつづくと長いつきあいの友だちなんかいないんだろう。

 去る者は日々に疎しっていうくらいで、中学のつきあいなんかすぐに希薄になる。

 俺だって、あの血迷った一目惚れ事件が起こるまで中学で同窓だった中河のことなんか思い出すことなどなかった。だから気持ちはわかるが、なぜ今日になっていきなり俺たち昼休み弁当組に接近したのか。

「それでお願いっていうのは、土曜日、谷口先輩と遊びに行くんですけど、ぜひ一緒にきて欲しいんです。友達もつれていきます。私、口べただから、彼女なら明るくて話し上手だし退屈しないと思います」

 全然口べたなんかじゃないし。それに俺は日曜にイベントがある。

「お願いします」

 いきなり頭を下げられると、もとより性善説の俺は気の毒になってきた。

 一日くらいいいじゃないか。団のイベントだってまだ内容も確定したわけじゃないし、土曜日がイベントの準備でつぶれるかどうかはわからない。

「ちょっと時間調整させてもらっていいか? 参加するかどうかは確約できないが」

「ありがとう、うれしいです」

「きまったわけじゃないだろ」

「否定はしてないですよね? 可能性はある。それだけでも大勝利、という人生観なんです私」

 強気でいいね、こいつは。

 真砂子は安心したのか、坂をくだりながらまたおしゃべりを始めた。

 それは北高の印象だったり、貧弱な学食メニューにあきれて弁当派になったことだったりとたわいもない話だった。

 これが不思議と苦にならない。俺には敬意を忘れず言葉に気をつかっているのだが、自分のことを話すときはあっけらかんとしたところがあって、好感が持てる。

 それから話題は学校の教師に変わって、数学の吉崎がいかにあざとい野郎かということには俺と意見の一致を見たりして、なかなかどうして話上手だった。

 その話術で相手を丸め込んだのかどうかは解らないが、きのうコンピ研にあずけたときも、部長以下全員と仲良くなって一緒にゲームに興じていたらしい。

「皆さんとっても親切でした。出来たばかりの最新式のゲームを教えてくれて、面白かったです。部長さんもちょうどメンバー以外の対戦相手が欲しかったみたいで」

 軽い会話を途切れることなく続けるうちに、いつのまにか家の近くの交差点まできた。

「私のうちはここからすぐそこなんです」

 真砂子は全国的に展開している、とある大手賃貸マンションの名を言った。このあたりではそこしかないからすぐにわかった。思ったより近いところにすんでいるようだ。

「ユニフォームを取りに行くんじゃなかったのか」

「この制服にまだ慣れてないので着替えてからいきます。それじゃ。キョン先輩」

 真砂子はちょっと頭を下げてから、笑みを投げて角を曲がって小路に入っていった。

 三歩くらい歩いた時点で俺は気が付いた。

 こんなに近くに住んでいるんなら、そのうち登校時にキャプチャーされる可能性もあるわけだ。

 仲良く並んで登校、となれば人目に付くし、そのうち噂が立つ。これはなんとかしないと。それに、土曜に真砂子に同行するんなら携帯の番号くらいは聞いておいたほうがいいんじゃないのか。学校ではききづらいし。

 俺は急いで戻ってさっきの小路に飛び込んだ。

 しかし、ほんの数秒まえに別れた彼女の姿はなく、やがてポツリと水滴が俺の額に当たってまた雨が降り出した。



 晩飯の最中だった。

「キョン君、みくるちゃんとあそばないの? 有希ともあいたいなぁ」

 突然、さっきまでおかずのイモ天ぷらをもぐもぐやってた妹がきいてきた。小学校六年ともなれば、友達と遠出したり、お前もいそがしいんじゃないのか。

「なんだか、子供っぽくていやなの。みくるちゃんがいい」

 お前は充分子供だろ。

 だんだんこんな言い方をするようになるのか。そういえば、初めてこいつが産科から母親に抱かれてやってきたのは、俺が五歳だったか六歳だったか。

 それから十年以上一緒にいたがいっこうに幼いままじゃないか。いつしか俺をキョン君とよぶようになってからもそんなに経っていない……といった俺の回顧は次の言葉で霧散した。

「みくるちゃんに電話かけていい?」

 こいつはまだ携帯は持っていない。母親が許さないからだ。おそらくは妹の通話料が頭にあるからだろうが、今はそれどころではない。

 電話番号は俺しか知らないから、教えて欲しいということだ。

「ダメに決まってるだろうが」

「どーしてぇ」

「朝比奈さんは三年だろ。受験勉強でいそがしいんだ。そんなに遊びに出かけられないし、お泊まりなんかもうできないんだよ」

「キョン君は勉強しないの」

「俺はまだ二年になったばかりだからな」

 そんなわけはない。いまからでも遅すぎるくらいだ。このままでは来年の今頃はエラいことになるのは目に見えている。

 急に食欲が失せた俺は、むりやり晩メシをたいらげ自室へと撤退した。どうもこの頃は脂っこいのが胃にのこる。年のせいかもしれない。いや、わかってるって誰のせいかは。


 とりあえず机に向かった。かたちだけでも、勉強しておこう。

 本当は、一年の前半あたりでコケ始めた英語を初歩からやりなおしたりするのが理想なのだが、今日は宿題だけでもなんとかやりとげねば。一時間だけ本気出す。不退転の決意で英文法の教科書をとりだしたまさにその時、携帯が鳴った。

 朝比奈さんだ。俺の妹には予知能力でもあるのか。

『キョン君。夜おそくごめんなさい……今、連絡があったの』

「どこから」といいかけて、わかった。緊急で夜間に連絡してくるなら、そうに違いない。

『私の上司というか』

「ええ、わかります。で?」

『普通なら禁則のはずなの……でもこれだけは伝えるようにって』

 朝比奈さんは上から命令に混乱しているらしい。ひと息あいだをおいて言った。

『今日、古泉君と転入生について話していましたよね』

「彼女がどうかしたんですか?」

『あたしたちであの子を守らないといけないの』

「え?」

『古泉君ならうまく説明してくれる……たぶん。ごめんなさい、あたしは禁則のせいでうまく説明できないの。ただ、彼女の命を守らないといけないのは確か』

「朝比奈さん、それが起こるのはひょっとして土曜日なんじゃ」

 ガチャリとドアが開いて、シャミセンを抱いた妹が入ってきた。ノックぐらいしろとあれほどいってるのに。

 急に話しづらくなった。

「実は……誘われてて……土曜日に」

『出来るだけ一緒にいて上げて。あたしもキョン君たちと同行します』

「わかりました」

 携帯を切ると、妹が言った。

「土曜日、みくるちゃんとどっかいくの? あたしもいく」

 断固とした決意の表情を浮かべている。こうなったときの妹の頑固さと来たらもう……かんべんしてくれだ。



 朝飯を食べながら、これからどうするか考えていた。

 国木田は単におもしろがるかも知れないが、谷口なら露骨にイヤな顔をするんじゃないか。

 そう、妹。きのうの夜は説得むなしく、ぽろりとこぼした涙に負けて同意せざるを得ず、というか俺は女の涙に弱いのだろうか。小学六年ともなればめったに泣くことはないが、なぜか俺が内緒で朝比奈さんと出かけるのを感知して、それが許せないようだった。

 いまだって、ミソ汁を飲んでいるお椀越しに目線をガン飛ばしてきやがる。

 男子三人と真砂子、プラス彼女がつれてくる友人に加えて、朝比奈さんとうちのガキだ。男女三対五でどう考えてもアンバランスだ。

 しかもこの大所帯ミッションをハルヒに知られることなく極秘のうちに遂行せねばならない。谷口、国木田には言い含めておく必要がある。

 おまけに、もう金曜日だってのにSOS団のイベントだってまだ交渉中で、朝比奈さんの依頼の件もある。

 真砂子を守らないといけないという。誰から守れって言うんだろう。

 たぶん校内で跳梁跋扈するよりどりみどりの各種勢力のどれか、あるいはあのチャラい地虫野郎かも知れない。いずれにしてもあまりお近づきになりたくない連中だ。

 バラバラと重い雨粒が傘を連打するなか、イベント計画に加え真砂子防衛を今日の課題にしたところで、坂道にさしかかった。

 あきもせず全開で散布作業中の雨雲が学校の上空にひろがっている。まさに前途に暗雲立ちこめるといったところだ。

 教室に入った瞬間、二時限目が英文法なのに宿題をやってないことに気が付いた。



「相っ変わらずの間抜けっぷりね、キョン」

 今日はありがたくもシャーペンのとがってないほうで俺をつつきながらハルヒは言った。こいつはときとして先鋭なほうで突くからたまらない。

 英語の授業が終わったばかりの休み時間。梅雨の湿度が原因ではない不快な汗がたらりと脇の下を流れていく。

 今日の英語の時間は入学以来、いや俺の中学を含む学生史上、最低の展開となった。

 授業が始まって即、当てられるというのもあまりないが、それで宿題をやっていないことがすぐに露呈してしまった。それだけならまだいい。

 それから女性教諭のおしかりの言葉をバックグラウンドにして、脂汗たらしながらリアルタイムで問題を解きつつ板書するという刑罰をうけたからだ。それもしつこいチェックをうけながらだ。さらし者かよ。

 今朝すぐに国木田からノートを借りて三分の一まで写したところで時間が尽きたから、ろくな解答はできない。

「好きで間抜けをやっているわけじゃねぇよ」

「ひょっとして? 昨日の夜、イベントの企画を必死で考えているうちに宿題を忘れた、というなら情状酌量の余地はあるけど。できたの?」

 そう期待にあふれた顔つきをされてもな。

「いや」

「なんだ。あほらしい。もう時間がないわよ」

「わかってるって」

 俺とハルヒは立ち上がって教室を出た。三、四限の体育はテキトーに流すことにしよう。極力、体力温存コースだ。



 ……ところがそうはならなかった。

 今日はとことん俺を疲弊させようと神様は頑張っているらしい。神様と言ってもハルヒのほうじゃないぜ。もっと崇高なほうだ。いるとすればだが。

 この長雨で先週に引き続いて今日の体育はバレーボールだった。

 体育館を二つに割って一つは女子、残りを男子チームに別れた。六人制だからちょいとハンパが出たが、男子チームには岡部が無理矢理はいってようやく三チームになった。

 これがよくなかった。

 人数の帳尻あわせと、能力の均衡をはかるためか、岡部は国木田とかどっちかっていうとおとなしい連中のチームに入った。のこるメンツは長雨の運動不足で元気がたまっているヤツが多いのか、妙に張り切っていた。この時点である程度の危険性は予測できたと思う。

 始まってそうそう、ボールが一個しかないはずなのに、主観的には雨あられと打ち込まれ、死にものぐるいで右往左往する俺と岡部、逃げ回る国木田その他モヤシ連中という場景が繰り広げられた。

 そしてついに谷口の必殺の一打が国木田に直撃した、と言うわけだった。


「ま、気にすんなって。よくあることじゃん」

 先週までなら、しのつく雨を窓からながめつつ男子三人で粛々と弁当を食う、というなかばマンネリな定例会のはずだった。しかし午前中から波乱含みで正直食欲はない。

 体育のひと騒動がおわった俺たちは黙々と弁当のふたをあけて、箸を付けた。

 ぶすっとしたまま、国木田は口をきこうとしない。まあ本当に怒っているなら一緒に飯なんか喰わないが、左目には絵に描いたような見事な青いアザがある。

 気づまりを打開しようとした谷口の言葉もなぐさめになっていない。

 一方で俺は、二時限目の英文法の惨事がいまだに尾をひいて、立ち直るのにしばらくかかりそうだ。あの英語教師とは前世の悪縁でもあるのか。

 それと察した谷口の言葉もやっぱり慰めとはほど遠い。

「ありゃあないぜ。ほとんどみせしめじゃねぇか。今日はオバハン、あの日なのかな。イライラするらしいぜ。ひゃはは」

 ゲスっぷりがまた谷口らしい。

 国木田はそんな谷口を軽くスルーして、

「そんなに難しい宿題じゃなかったけど。でも宿題の存在自体を忘れるってこともたまにはあるから」

「まあ元気出せって。オバハンに責められたのは今日が初めてなんだろ? 何回かするうちにそのうち慣れるって。この俺が保証する」

 おまえらそれじゃ慰めになってないって。


 今日はすでに谷口と国木田の間に椅子は用意してある。その椅子をちらっと眺めてから谷口が話題を切り替えた。

「今日も来るのかな。あの子」

「来て欲しいの?」

「俺と同じ中学出身の一年にあの子のクラスのこと、きいたんだが」

「またランキング資料にでもするつもりか。場合によってはストーカー扱いされるぞ」

「別に全校に広めているわけじゃないし、ま、趣味というか」

「生きがいなわけだ」

 国木田が無関心そうに言った。顔をしかめているところを見るとまだ痛みがあるらしい。

 そりゃ他人の趣味丸出しのランキングよりは自分の目のほうが大事に決まってる。

 俺だって、遠くの天使より近くの悪魔、じゃなかった神様、つまり未知の女子より身近なハルヒの命令のほうが重要にきまってる。イベント関係もまだまとまっていないんだし。

「あいつは、クラスでかなり浮いてるらしいぜ。なんせ成績優秀、素行優良、そして目上と教師には礼儀正しい、ときたらこれで反感をもつヤツもいるんじゃね」

「いじめられてるのかな」

 国木田がちょっと心配そうに言った。

 この間の様子じゃそうかもな。転入したよそ者だし。

「身体もやや大柄だし、しっかりしてるからそれはないだろうけど、かえってなんつーか、庇護心みたいなもんがこうオレの中に……」

「ホレたの?」

「国木田よ、おまえって意外と無粋なところがあんのな。このオレの弱者への眼差しというか真心がわからんとは」

「全然わからないけど」

 とか言っているうちに真砂子が来た。

 ガラリと教室のドアが開いてクラスに進入した真砂子はつかつかと黒板の前を通り過ぎて俺の机に小さめの弁当箱をパタンと置く。その勢いにおされたクラスのほかのやつらは誰ひとりとめようとはしない。

 いまや定位置となっている谷口と国木田のあいだに自然な感じですわった。

 どうやらほんとにバツゲームではないらしい。それとも本当に一年のクラスで肩身の狭い思いをしているんだろうか。

「では今日もご相伴させていただきます。いただきま~すっと」

 あとのいただきますは弁当のほうだ。完全に馴染んでやがる。

 でも少し無理をしているような気もする。つとめて明るく振る舞いつつ家に帰って落ち込む、ということは実は俺にもある。今年の一月、問題を解決したにもかかわらず数週間はそんな感じだった。

 彼女がかたちよく伸びた白い指で包みを解くと、この春に鶴屋さん主催の観梅の会で食べたお花見弁当をかるく凌駕する豪勢なおかずがあらわれた。

「あれっ、国木田先輩その顔……」

「体育の時間に谷口のボールが当たってさ」

「よそ見をしているほうが悪い。おおかた女子バレーに見とれてたんだろ」

 謝罪モードも飽きたのか谷口が開きなおった。

「国木田先輩……動かないで。痛み止めのおまじないです」

「ち、ちょっと!」

 真砂子はいきなり、国木田の両方のこめかみに、手をおいて数秒目を閉じていた。国木田は耳たぶまで真っ赤になっている。

「おい、なんだそりゃ。今度俺がケガしたときにやってもらうかな」

「なんか、痛みが引いたような……」

「でしょ?」

 そのまま真砂子は俺のほうに向き直った。

「キョン先輩もなんか元気ないですね。おまじないしてあげましょうか」

「いいって」

 俺のほうはどっちかっていうと英語の時間にうけた心的ストレスで簡単に痛みは消えない。それより何か言いたそうな顔をしている谷口には予防線を張ったほうがいいようだ。

「谷口、あまりその話はするなよ」

「気にすんなって、俺も男だ。武士の情けだ」

「え、何なんですか」

「キョンがね、英文法で立たされたのさ」

「国木田! おまえなに人聞きの悪いこといってんだよ」

「キョンが黙っててほしかったのは谷口だろ。僕じゃないし」

「それくらいぜんぜんへっちゃらじゃないですか。私なんか中学の二回目の転校の時、行った先が一ヶ月も教科書進んでて、ほんと追いつくのにたいへんでしたから。それに比べれば、キョン先輩は全然だいじょうぶ」

「ま、どうでもいいけどな」

 と谷口は言って揚げシューマイを口に放り込んだ。

 よくねぇよ。二年のこの時期にこんな失態は致命傷だ。中学とは違うんだぜ。



「そんなことより、休みのお出かけのコースなんだが」

 最初は敬語を使っていた谷口だったが、今やすっかりなれなれしい。真砂子はそれを自然に受け入れているようだった。

「それがですね、午前中はいろいろあるんで午後からにしてもらえませんか? 私の友達の都合もあるので」

「連れてきてくれるなら昼からでもいいぜ。そうなるとスケジュールもきつくなるな」

「谷口先輩はどうしても行きたいところってあります?」

「俺はどっちかってーと、キョンと違ってアウトドア派だからな。だけど半日じゃ行く先も限られてるし……」

 ということは、団のイベント準備は午前中に済ませないといけない。まだ打ち合わせも途中だし、時間はない。

 ハルヒはまだ知らないはずだ。あえてご注進に及ぶやつもいないだろう。とんだ火の粉がかからないとも限らないからだ。そのうち入り口でばったりと言うことになるかもしれん。そんなときはおまえのツレってことにしておいていいか谷口?

 谷口は精いっぱい無関心を装ってはいるが、笑みがこぼれるのを隠せないでいる。

「別にかまわんけど」

「私もそれでいいですよ。先輩と涼宮さんの仲がトラブったりしたら気の毒ですから」

 だから違うって。こいつが何を考えてるのかさっぱりわからん。わけのわからんのはハルヒだけで充分なんだよ。俺は。

 俺の混乱をよそに、おまじないのせいか昨日はなんか疑っていたような国木田も打ちとけるようになっていた。もともと感情的にこだわりのある奴じゃないから、慣れると結構楽しそうだ。おかずを交換したりなんぞしている。

 ま、おれも自分の鶏つくねと真砂子のタラフライを交換したけどな。おしゃべりも野郎三人組よりはずっと楽しい。これは事実だ。

 谷口、国木田、俺のそれぞれにあった話題を巧みに真砂子がふってよこす手前、ことわる理由もない。真砂子の誘導尋問で、谷口が卒業したら速攻で免許とってバイクを買うつもりでカタログを集めていること、国木田がひそかに早朝ジョギングをしていることをまたたくまに聞き出している。

 谷口のカタログ集めは俺も知っていたが、

「国木田、どうしてジョギングなんか」

「このところ雨でやめてるけど、運動すると頭がハッキリするからね。受験は体力戦だよ」

 こうやって俺も話にのってしまう。

 そこへ真砂子が、自分がいかに体力を重視しているかの持論を展開、谷口がそれに参戦する、と言った具合だ。

 彼女の浸透力というか交流術はあなどれない。両手に花ならぬ男子をかかえた真砂子はこの場を完全に掌握している。なのにみんなもう楽しそうだ。

 国木田も屈託のない笑顔をみせ、谷口は始めから終わりまでワクドキ状態でもうみてらんない。

 ああそうさ、俺も楽しくないと言ったらウソになる。けっこうな美形で話し上手、それでいて先輩への敬意と礼儀を忘れない女子とお食事会だ。これで何も感じないヤツがいたら脳に禁則でもかかっているに違いない。



「私の顔にご飯粒でもついてます?」

「キョン、おまえさっきからずっと真砂子ちゃんの顔を見てるが、ハルヒに刺されても知らんぞ」

 刺される、と言う言葉が背中の右腎臓あたりをぞわぞわさせて、我に返った。

「あの女もああ見えて、お前に関してはそれなりにその気があるんじゃね? どこが気に入ってるのか理解できねぇけど」

「蓼食う虫も好き好きっていうからね」

 国木田までことわざ好きのジーサンみたいに余計なことをいう。

「考え事をしていただけだ。不愉快だったらゆるしてくれ」

「別にいいです。よかったら私の厚焼き卵と、先輩の唐揚げチキンを交換しません?」

「キョンのじゃなくて、俺のはんぺんと交換してくれ。最近うちのおふくろもネタ切れかしらんが、ほんと弁当が手抜きでな」

「作ってくれるだけいいじゃないですか。わたしなんか毎朝早起きして自作ですよ」

 マジか。それにしては美味すぎる。俺は口の中で柔らかくとけていく手作り厚焼き卵を味わいながら、ほかに交換できるおかずがないかチラリと弁当箱に眼を走らせた。

「冷凍食品とか使わないの? 僕の母親はよく使うけど」

「カロリー高いから。みなまで言わせないで下さい」

「そういわずに俺のはんぺんとだな……」

 といった谷口がいきなり、弁当箱をひっつかんで席を離れた。

 まさか。

 振り返ると、ハルヒが調理パンとコーヒー牛乳をもって入って来た。国木田は気が付くのが一瞬遅く、もう逃げるには手遅れな配置のせいか開き直ってもくもくとおかずを口にはこんでいる。巻き込まれたくないのはみな同じだ。

 今日は学食が休みなのか? 金曜だろ? という疑念はただちにどうでもよくなり、おれは防戦体勢に入った。すでにハルヒは国木田の横で平然と箸を動かしている女を注視している。

 真砂子は箸を置き、立ち上がってぺこりと頭をさげた。

「涼宮先輩。お噂はきいています。谷口先輩から」

「あんた誰?」

「ええっとハルヒ、彼女は谷口のツレでな。たっての願いで同席してるんだ」

「じゃなんで谷口が逃げんのよ」

 そうだった。なんで逃げるんだよ。あいつは。

「あんた一年ね? ひょっとして先月転入したって言う……」

「伊織真砂子、って言います。以後お見知りおきを」

 時代がかったもの言いで国木田の頭越しにビシッとさしだした手をハルヒは一顧だにせず、コーヒー牛乳と調理パンを自分の机に置いた。

「あんた一年にしては度胸があるわね。でも謎の転校生キャラはもう間に合っててるから」

「隠し属性があるかもしれませんよ?」

「ま、そのうちにね」

 何がそのうちかさっぱりわからないが、一見ほぼ互角にやりとりしている。つまり二人とも尋常じゃないってことだ。

「ところで、谷口はあたしのことをなんて言ってたの。場合によっては、ちょっと“お話し合い”が必要じゃない?」

 谷口どころかクラスの窓側半分に聞こえるように言った。ご当人は自席で一心不乱に飯をかき込んでいる。脱出するつもりらしい。

「谷口先輩が言うには、ああみえても涼宮さんはキョン先輩にご執心、だそうですよ」

 また余計なことを!

「ふーん。で、キョン先輩はなにを話してたのか教えていただけるかしら?」

 ハルヒは猛烈にイヤミっぽくいった。目は笑っていない。

「あたしね、その種のハヤリ病みたいな言葉がだいっ嫌いなのよ。わかる? 恋の釣り針を投げるとアホが釣れる。そうすると釣り糸の両端にアホが二匹ぶら下がってるってわけ。あたしはどっち側になるのもごめんこうむるわ。ましてあんたならね」

「それは言い過ぎだと思います」

「なんなの、あんた。キョンのことはあたしが一番よく知ってんの」

「つまりその気がある、ということですか」

「…………」

 なんとハルヒが言葉につまった! 普通のバカ女同士ならここらでキレでもおかしくないが、しばらく真正面から視線をカチ合わせていた二人だった。

「……下級生がこんなところで食事をするのもどうかと思うけど」

「別にいいんじゃないですか。仲良くするくらい」

「あんた気に入ったわ。ま、すわりなさいよ」

 ハルヒはぱさっと調理パンを俺の机に移動させ、あっけにとられている国木田を押しのけてそこに陣取った。

 自動的に真砂子が俺の正面になり、ハルヒは横だ。なんという息苦しいポジショニングだ。斜め前の国木田はハルヒと真砂子のあいだで弁当をしまい始めた。

「国木田先輩、まだおかずが半分以上残ってますけど」

「欲しいのかい」

「残すと家でおこられるんでしょ」

 母親みたいなことを言って国木田を制止している。怒られるのは俺だって同じだ。

 それからチャイムが鳴る五分前まで、ほとんどハルヒと真砂子の会話に終始した。脱出しそびれた国木田と、ときどき二人の話のダシにつかわれる俺は残りの弁当をなんとかのどに押し込むのみだ。こんなんがこれから続くのか?

 やがてハルヒは、真砂子がここにくるきっかけを聞き出している。やめろ。

「ワルの一年をなぎ倒して虐げられた姫をさっそうと救ったってわけ? らしくないわね。キョン、あんたが白馬の騎士を演じるなんて」

 なんか猛烈に脚色過剰だ。そんなんじゃねーよ。

 しかしこれまで、ハルヒが朝比奈さんや長門以外の女子にこんなに関心を持ったことはあったろうか?

 気のめいる昼食会が散会してから、次の五限がはじまる直前、ハルヒは俺にこう言った。

「別の属性キャラで、今から一人増やすのもわるくないわね」

 そのとき俺はなぜかまた悪寒がしたんだった。




「で、イベントは何になったの」

「イベント、と言うほどのものではないんだが」

 昼食の消化不良がたたったか、午後からの授業は胃のもたれが強力な睡魔を召還してしまい、気が付くと放課後、というなかば意識喪失状態で終わった。

 それから速攻で掃除当番をサボって部室棟にダッシュした。何しろ時間がない。

 お隣で打ち合わせを終えて、一歩部室に足を踏み入れると、すぐさまハルヒの質問、いや詰問が飛んできた。

 一人でカードマジックの練習をやっていた古泉と、ハルヒにお茶を注ぎ終えた朝比奈さんまで俺の言葉を待っているようだ。長門は定位置できのうと同じ東洋文庫を読んでいる。

 俺がネタに困って駆け込んだのはお隣さん、つまりコンピ研だ。団員で助けになる奴がいない以上、外部に助けを求めたわけだ。

 三年の部長氏も受験を控えて今学期で役職を降りる予定だし、来月の合唱コンクールを除けば、しばらくは大きな学校行事もない。

 だからなんとかならないか、と思って打診したところ、しぶしぶながら部長氏は了解した。しかし一方的な要求は当然のことながら通らず、コンピ研の要望をのむことになった。それでさっきまでの打ち合わせに時間を取られたのだ。

「で?」

「いつもの不思議探しツアーの代わりに、日曜にコンピ研と電気街探索だ。基本的にパソコンパーツ関連の案内は連中がしてくれる」

「なにそれ」

「駅周辺の探索もあきたし、どっか別の場所、というのはお前もいってただろ。それなら、電気街は連中のテリトリーだから、案内役として最適だ」

 ここで俺は本題に入る前に、朝比奈さんのジャスミンティーでのどをうるおした。

「実をいうと、向こうは新しいバージョンのゲームで俺たちと再戦を希望している。だけど、ここにあるパソコンでは性能が足りないんで、よく解らんが部品を交換する必要があるらしい」

「メモリの増設とグラフィックボードの換装」

 珍しく長門があいだに入ってきた。思わず声の主を見やった俺とハルヒだったが、

「キョン、まさか有希にも手伝いさせてんじゃないでしょうね」

「いや、そうじゃなくて」

「コンピューター研究部の総決算として、私も以前から関わってきた。今回のイベント共催は偶然」

「そうなの? あたしはてっきりまたキョンが無理強いしたのかと」

 またってなんだよ。俺がこれまで長門に無理難題を吹っかけたことなどあるか。その逆はあるが。喉まで出かかったがそれは言えない約束だ。

「ところで、そのパソコンの部品代はどこからでるのよ」

「……文芸部費だ」

「お話にならないわ!」

 ハルヒは飲みほした湯飲みを机に勢いよく置いた。割れないのが不思議なくらいのパァンという音が室内に響く。

「そんなの全部あいつらにやらせりゃいいのよ。対戦を申し込むくらいならそれくらい当然よ」

「いや、こちらから話を持ちかけたんだし」

「あんたがネタ切れなのは昨日あたりから見え見えだったし、だれかに頼っても別に驚きゃしないけど、相手の条件まる呑みでカモになってんじゃないの?」

 ハルヒは団長席の液晶ディスプレイがひっくり返りそうな勢いで立ち上がった。

「あたしが交渉してくるわ」

「私も同席する」

「キョンは来なくていいから」

 ハルヒは勢いよく飛び出して、長門は微妙に音もなく席を立ってあとに続き、部室のドアを静かに閉めた。



 よし、鬼の居ぬ間になんとやらで、今のうちに昨日の話をハッキリさせたい。

「朝比奈さん。昨日の電話ですけど、あれだけではなんだかさっぱり」

「よければ、僕が説明しましょう」

 急須を持ったままためらっている朝比奈さんが口を開く前に、にこやかに古泉が間に入った。

 古泉はテーブルに広げていたカードを一瞬でとりまとめ、トントンと机上でそろえてカードケースにしまった。

 朝比奈さんは禁則があるので、察しのいい古泉にその概略、というか精一杯のヒントを与えて解釈してもらうという協定でも結んだようだった。

 腹立たしいが、古泉は去年のシナリオ作成でもそこそこの能力を見せたから、適任かも知れない。ひょっとすると、超能力者と未来人の間で秘密協定でもあるんだろうか?

 いつだったか古泉が危険なほど優秀、と誰かが言っていたのを思い出したが、詳細は何かが、いや誰かが俺の記憶中枢をブロックしているような気もする。

 突っ立ったまま湯飲みを持っているのも何なので、古泉の向かいにすわった。どういうわけか古泉のいつもの笑みが希薄だ。

 朝比奈さんはいつハルヒが戻ってきてもいいように、というわけではないだろうが、お盆を持ったまま団長席の横に立って俺たち二人を見つめている。

「昨夜の連絡では、真砂子さんを守らないといけない、ということでした。なぜ朝比奈さんは僕とあなたに伝えたんでしょう?」

「朝比奈さんは自分では過去へ干渉出来ないからだ。必ず現時点の人間が実行しないといけないからだ」

「つまり?」

「朝比奈さん的には過去への干渉ってことか」

 朝比奈さんはなんの意思表示も見せず、目を伏せた。俺だって真砂子の正体だってわからない以上、見当はつかない。だが、俺はいつぞやのハカセ君を思いだした。

「では誰から、あるいは何から真砂子さんを守らないといけないんでしょうか」

「それはわからない。だが彼女を守らないと歴史が変わってしまう可能性がある。つまり朝比奈さんは……」

「未来に戻ることは不可能になる」

「敵は誰だ? 別の未来人か」

 あの事件かららもう二ヶ月ちかい。そこでも別の未来人が暗躍していた。

「はっきりしたことは言えませんが、朝比奈さんの未来の危機、というのは単なる結果であって、本当の目的は真砂子さんへの攻撃だけではないかと僕は思います。手を下す連中は、朝比奈さんには悪いですが、未来にどんな悪影響を及ぼすかは無関心なのでは?」

 ということは現時点の人間、ということになる。遠い未来がどうなるかなんてどうでも良くて、今すぐに結果が欲しい連中。でもなぜ彼女が狙われる? 

 これまで黙って俺たちの会話を聞いていた朝比奈さんはどことなく暗い表情で、去年の秋に俺にだけ見せたつらそうな表情だった。

「朝比奈さん。どのくらいのあいだ守らないといけないんです? 最低限、それだけでも教えてもらえませんか」

「あの……、今から三日間です。それ以上のことは……ごめんなさい」

「時間のリミットだけが提示されていると言うことは、それ以上の情報を僕たちにあたえると、判断を誤ってしまうから、ですね?」

 朝比奈さんは答えない。

「正直な話、宇宙人や未来人は手に余りますが我々が正面切って戦える現時点の人間なら、朝比奈さんの依頼をうけます。あなたはどうしますか」

「もちろんだ」

 朝比奈さんは、明らかにほっとした様子で深い息をついた。

「ありがとう、キョン君、古泉君」

「この件については、我々も強力な応援を……」

 廊下を響きわたる悲鳴が古泉の言葉をさえぎった。



 部室のドアが開くと同時に、悲鳴音源が接近してくるのがわかった。

 最初に入ってきたのは長門で、ついで廊下から鶏をシメたような断末魔の叫びと、園児を叱咤する母親のようなハルヒの怒声が響いてきた。

 恐るべき膂力で引きずってきたのはハルヒで、荷物になっているのはコンピ研部長氏である。

「ちょっとまって! 涼宮さん。まだ決まったわけじゃ」

「あたしが決めたんだから、もう決定よ」

「だからぁ!」

「みくるちゃん、部長君にお茶。さ、すわって説明しなさい」

 今週の日曜日に、みんなで電気街まで出かける。そこで買いものをする、と言う話は、すでに俺と部長氏の間で成立しているが、これ以上なにを盛りこんだのか。

「ええと、実はいっしょに買い出しにでかけて、電気街のおもしろスポットを色々と案内するつもりだったんだが……あ、ありがとう」

 部長氏はジャスミンティーを朝比奈さんからおそるおそる受け取っている。渡す朝比奈さんもなんとなく及び腰だ。

 部長氏はお茶をすすって団長席の前に屹立しているハルヒをうかがった。ハルヒのうなずきを発言許可と受けとった部長氏は語りはじめた。

「うちも四月からは新入生も入部して大所帯だし、ずらずらと大名行列を作っていくのもアホらしいと」

 と言ったのはハルヒだろう。

「だから、あらかじめパーツは我々が購入した上で、パソコンを改造する。それから、我がコンピューター研究部のこの一年間の努力の結晶とも言えるゲーム……」

 ハルヒがわざとらしく咳払いをした。語りが冗長だ、ということらしい。

「……をインストールして、練習試合を何回かやって、みんなでゲームに習熟してから近く行われる本番に備えるというか」

「本番はいつなんだ?」

「あんたも含めて全員がそれなりのレベルに達してからよ。そうでないとおもしろくないわ。それから、わかっていると思うけど……」

 ハルヒは自席から部長氏にガンを飛ばした。

「前みたいに、トリックを使ってまで勝とうなんて少しでも考えたら……去年の写真はまだあるわよ」

 と釘を刺すのは忘れなかった。

「ここまではよし、と。ところでキョン、あんたはなにすんの?」

「え?」

「え、じゃなくて。ここまではほとんどコンピ研とあたしの指導でイベント準備しちゃったじゃないの。このほかにあんたはなにすんのってきいてんのよ」

 これで充分だろうが。パソコンの準備とゲームで目一杯だ。これ以上なにをやれと? まさか全校に向けてこのイベント告知をやれとか言わないよな。俺は極力コンピ研をふくめてこぢんまり終えたいところなんだが。

「じゃ、こうしたらどうかな」

 部長氏が割り込んだ。余計なことを言うなよ。たのむから。

「練習試合だけど、優勝した人になにか賞品でもあると面白いんじゃ」

「じゃ、それに決まり。キョンあんたの自腹で勝者に賞品を用意しなさい。しょぼかったらあたしはうけとらないから」

 今月の小遣いの余力はあまりない。それにおまえは始める前から勝つつもりか。

「じゃ、イベントも決まったことだし、解散!」



 とうとう土曜日になった。

 昨日の昼の会食では、結局真砂子のイベントについてハルヒに語るヤツはいなかった。方針を保留していたはずなのに、いつのまにか俺も参加することになっている。

 俺も団のイベント準備を理由に特別に早めに帰っている以上、真砂子達と遊びに出かけますとは言えない。

 真砂子のイベントが終わっても、ずっとあとまで別行動を取ったことを隠しつづけなければいけないとすれば、なんとなく後ろめたい。

 SOS団のほうは、ハルヒがすっかり仕切ってしまってすることもなく、結局十一時過ぎまで眠っていた。

 実際のところ、中間試験が終わるまで封印していたゲームについ手を伸ばしてしまって、明け方までやりこんでしまったんだが、たまにはいいだろう。

 こんだけ余裕があるのは、昨日古泉から『機関』の全面サポートを約束されたからだ。

 今日の午後からは俺が彼女のそばにずっといるし、いたからといっても何かできるわけでもないと思うが、古泉によると一層厳重な監視が付くらしい。

「キョン君、遅刻だよ~もうっ」

 階下で妹が声を張り上げている。

 そろそろ行かないとまずい時間だ。パジャマがわりのスウェットのまま下りると、すでに妹はすっかりおでかけ仕様で立っていた。アニメイラスト付きの水筒まで肩にかけている。遠足じゃないって。それでも俺はいそいで遅めの朝食を取って、着替えに上がった。

 階段の下で叫ぶ、妹の声にイライラがまじり始めて、また要らぬトラブルを呼ぶわけにもいかない。

 階下に降りようと扉を開けたまさにそのとき、携帯が鳴った。ハルヒだった。

『キョン、コンピ研の連中とパーツの買い出しに行くことにしたわ。きのうの夜、なんとあの部長が有希を誘ったんだって。信じられる? 悪い虫が付いたら困るからあたしたちも行く事にする。二時に駅前。わかった?』

 返事も待たずに切れた。

 結局、連中と買い出しに行くのか。じゃ昨日の仕切りは何だったんだよ。というか、電気街へは電車で行くし、谷口たちと行くショッピング・モールは逆方向だ。

 長門ならどうかしらないが、俺は同時刻に別の場所にも存在することはできない。

「キョン君ったら!!」階下の妹がまた叫んだ。

 どうするよ?

 お出かけ中止で妹をほっぽり出して別の場所に行く、という選択肢はあり得ない。わずかに残る兄への敬意をこんなことで失いたくないし。

 くそ。乗りかかった船だ。さきに谷口たちに合流してあとはなんとかしよう。まったく何の目算もないが。



 十一時四十五分。

 集合場所には早めに着いた。喜び勇んだ妹を先頭に俺がそのあとを追った、というのが正しいかもしれない。

 意外なことに、駅前には谷口と国木田はすでに来ていた。

 谷口は一見ズタボロ風ウェザリングのジーパン(本人曰く、高かったそうだがそうは見えない)、それとちょっと着崩したかんじのTシャツにジャンパー、手には紳士用の大型雨傘。めかし込んでいるようだが、なんかちぐはぐだ。

 さらに、谷口の違和感を加速させているのが国木田で、上衣はピンストライプの半袖ワイシャツとネクタイ着用のうえ、これまた高価そうなネクタイピンがきらりと光る。こいつもすこしばかり気合いを入れているが、谷口とは方向性が真逆だ。

「よっ、ちょっと早いかなっと思ったんだが」

「気合い入れすぎだ。まだ十五分もあるぞ」

「おまえもな。ところでそれは」

 それって、これか?

 谷口は黙ってうなずいた。谷口も悪い男じゃないし、それなりのデリカシーを持っているらしい。妹本人の前では嫌な顔をせず、

「いいって。俺は一年の相手をするからよ。残りは国木田とお前にまかせる」

「みくるちゃーん」目ざとく朝比奈さんを見つけた妹が走って行く。

「え、朝比奈さんもか」

「そうだ」

「お前が誘ったのか? 別に悪くはないけど……」

「あれっ、キョン君じゃないかい」

 鶴谷さん?

 レインコートを羽織った鶴谷さんと真砂子が並んで立っていた。

「あたしは、後輩からどうしてもデートにつきあってほしいってせがまれてね」

 デートじゃないし。

 確かに年次的には後輩だが、どういった接点があるのか。いまだ正体のわからない女子と、『機関』をひそかに支援する名門の次期当主だ。もうどう考えても偶然じゃないって。

「転校してきてすぐ、鶴谷さんから話しかけてきてくれたんです。いろいろと相談にのってくれて本当にありがたいです」

「前の高校の友達はどうしたんだ?」

「ごめんなさい。谷口先輩。今日、どうしてもこれないっていうから」

 後輩に可愛い声でこうまで頭を下げられたら、さすがの谷口も怒るわけにも行くまい、って昨日の俺もそうだった。真砂子は不思議に人の心をつかむのが上手だ。

 いきなり場を仕切られた谷口ががっかりするのはわかる。先輩として一年女子の先に立って出かけるつもりが、あまり接点のない朝比奈さんに俺の妹なんだから。

 朝比奈さんは谷口と真砂子の残念な会話から少し離れて話しかけてきた。

「あっ、あのう、涼宮さんからの連絡、ありました?」

「返事を待たずに切れてしまって……」

「俺たち二人揃って、団長命令違反というのはまずいですね」

「何とか途中で、抜け出せたらいいんですけど」

 朝比奈さんにも当然ながらハルヒからの連絡があったらしい。それでもなお、こっちの方に来てくれたのはうれしい。ま、その結果は考えたくもないが。

 谷口は、強力に人を引きつけてやまないお方、鶴屋さんと話している。

「谷口君。あたしとみくるに真砂子ちゃん、それにキョン君の妹も含めて四人の綺麗どころが同伴するんだよ。文句なんかあるわけないよねぇ?」

「え、はっはい。もちろんです」

 鶴谷さんは俺の方を見て笑顔を返した。たぶん、俺の同意を求めているんだろうと解釈し、

「国木田もいいよな」と俺はすかさずふった。

「鶴屋先輩と同道できるなんて光栄です。よろこんで」

「じゃ出発進行、といきたいけど、どこに行くんだい?」

 谷口はメモを取り出した。

「ええっと、モールで映画を見て、ボーリングにカラオケ、という」

 中学生みたいなコースだ。アウトドア派のおまえがこの街を案内するんじゃなかったのか。

「そうはいっても時間がないし。また雨がぶり返しそうだしよ」

「ま、いいっさ。あたしもこのところ全然こういったことと縁遠かったからね」

「そういうわけで」

 谷口が精一杯の仕切りをいれた。

「いきましょうか」



 こうしてやや構成員にムラのある団体は移動を開始した。

 すこし遠いが、モールまで歩いて行く。俺と妹は朝食が遅かったから、腹ごなしにはちょうどいい。

 せまい歩道を歩くうち、自然と二列縦隊プラスαになった。

 先頭は俺と鶴谷さん、次は谷口と真砂子、最後尾は朝比奈さんと国木田の間にむりやり妹が割り込んで、三人横に並んで歩いている。

 朝比奈さんとでかけるのも久しぶりだから、妹は手をしっかり握ってはなさない。もう一方の手は国木田につないでいる。

 国木田は俺の妹のわりこみも上の空で、朝比奈さんに見とれていた。

 そういえば、こいつは去年の文化祭で朝比奈さんの本格メイドコスプレにのぼせあがってたっけ。

 背後から聞こえてくる会話は、妹が口火を切って国木田が受け、朝比奈さんの可愛らしい声が返すというスムースな言葉のキャッチボールで、なんともくやしい展開のようである。

 朝比奈さんも礼儀正しい国木田には優しい上級生でいられるらしかった。

 すぐ後ろは、つねに先輩への敬意と配慮を忘れない真砂子と、いい調子の谷口が続く。谷口は三年のどっちかと組むよりはこちらのほうが良かったみたいだ。

 で、俺はと言えば、真砂子と話し込んでいる谷口ながめつつ、華麗に電柱にぶつかってその場を盛り上げた。わざとじゃねーぞ。笑うな妹よ。



 しかたなく湿気混じりの空気を深呼吸したあとは、前進することに専念する。もちろん、横を歩く鶴谷さんに対する注意は怠っていない……はずだ。

「だいぶお疲れみたいだね」

「ええ、ここ数日、ちょっとばかり慌ただしくて」

 俺はアスファルトに散らばる水たまりのまだら模様に集中しながら言葉を返す。

 ハルヒのイベント命令のことを話しはじめると愚痴になるから、俺はここで言葉を切った。

 それにしても、鶴谷さんは何かのイベント直前とか、俺がお疲れ状態のときにかぎってその姿をほいっと見せるような気がするのはどうしてだろう。いつだったかも、この人がきっかけで、事件に巻き込まれたことがある……。

 いや、今日はすでに事件に足首どころかヘソまで浸かっている状態だ。ハルヒの命令に従おうにもできないという大事件に。フラストレーションが爆発して下手すると今夜、燐光を放つ空の下で古泉に奮闘してもらわないといけない。

「キョン君、きいてる?」

「ええ、もちろんです」

「じゃ、さっきあたしが話したことをいってごらんよ」

 別に怒っているようではない、軽い感じで俺をからかっているというか、大人の朝比奈さんが俺を見るときの目に近い。いつもの鶴谷トークの勢いもなく、俺より一回り以上の年齢を感じる。何もかもわかってはいるけれど、わけあって言うわけにはいかない、というちょっとばかり謎のパフュームを振りかけたような。

 意識には上らないものの、聞いていたはずの内容を脳の海馬のあたりでごそごそ検索していると、

「ヒントは、将来のこと」

「進学先に迷っていると言うような話だったような」

「キミが迷ってるんじゃないかって、きいたつもりだったよ」

「そうでしたっけ? 高校を選ぶときも親が私立だけはやめてくれってんで、何となく北高方面にきめて、だから大学もそんな感じになるんじゃないですか。でも国立は無理かな」

「そうかい? 大学はどうなるかわからないけど、高校は誰かさんに呼ばれたんじゃないのかい?」

 またきわどいことを言う。なぜ、今こんな質問をするんだろう。背後の楽しげな会話がだんだんフェードアウトしていく。

 足の速い鶴谷さんは俺に難なくついてきているから、うしろの連中とは距離がひらいているようだ。モールまではまだしばらくある。

「入学して、はじめてハルにゃんに会ったとき、どう思った?」

「なんで、そんなことをきくんです?」

「なぜ君なのか、わからないからさっ」

 えっ? いまの台詞、どこかできいた。たしか、あれは……。

 あのときひどく俺は疑念に苛まれていて、見たくない事実を突きつけられたはず。つらい感情の記憶だけが残ってはいるが、それがいつどこでの出来事なのか判然としない。

 もう少しで思い出しそうになったとき、突然視野に入ってきた電柱を避けた俺は、そのまま少し先に行く鶴谷さんがじっと俺を見つめているのに気がついた。

 しかし、喉まででかかった答は消えていた。

「不思議な人だね、キミは」

 いままで鶴谷さんがここまでつっこんだ発言をしたことなどあったろうか。いつもはみんなが幸せなのを眺めているだけでいいという、まことに奇特な人なのに。

 さらに驚いたのは、続いて自分の口から出た答えだった。

「俺が望んだことかも知れません」

 中学の時、いまは遠いところにいるあいつにエンターテインメント症候群をからかわれたっけ。普段の日常生活からふわりと舞い上がって突拍子もないことを考え出す中学特有の病。 

 麻疹みたいなもんだ。けど大人になってからの麻疹は重症で命にかかわるって言うし、今のうちにかかって何が悪い。

 でも、ハルヒは俺のそんなかるい気持ちの延長線上にあるわけじゃない。

 鶴谷さんは、風でみだれた髪をさらりとはらって、静かに俺を見つめている。俺の心臓は早歩き以外の動悸増加の理由をみつけたらしく、圧力を上げ始めた。なんだこれは?

 俺の言葉を受けて鶴谷さんはゆっくり言った。

「その答えはいいとこ突いている、かもね」

 もう質問は終わったようだった。

 それからは俺にとって興味深い、鶴谷さんの進路についての話が続いた。

 鶴谷家次期当主としては、やんごとなき筋が代々進学する大学にいくことを期待されているらしい。身上調査が厳しいので有名な大学だ。鶴屋さんなら家柄も申し分なく、学力も優秀だし、一発合格だろう。

 でも本人は海外留学志望で、手続きを進めているところだと言う。

 となると、俺ごときが鶴谷さんと肩を並べてこうやってデートもどきをするなんて今後一生まずないだろう。

 だから、この一瞬一瞬が途方もなく貴重、かつ俺の人生の中でも上から数えて何番目かの重要性はあるはずなのだ。

 あと五年もすれば、この人は殿上人で、俺とは完全にちがう世界に行ってしまう。そもそもこんな県立高校に来るようなお人ではないのだから。

「おーい、キョン、ちょっと早すぎるぜ」

 振り返ると、妹たちはもとより、谷口と真砂子もかなり後ろになっている。

 朝比奈さんと国木田は妹が足を引っ張っているから仕方がないが、妹を間にした二人はてんで気にせず、ウフフ・アハハ状態だ。国木田の野郎め。

 鶴谷さんが足を止めた。

「ちょっとまってあげようか?」

 モールまであと少しのあたりだった。妹グループは嬉しそうに手をつないだまま走ってくる。

 十二時二十分。

 時刻を確認して後悔した。あっという間に今朝からの焦燥感が復活してきた。

 時間がない。なんとかしないと。なんとか……。



 最初は映画の予定だったが、どれ見るのかでもめた。

 やり合ったのは俺と谷口メインだった。小学六年の子供づれでは、谷口が推奨する映画など却下案件ばかりだ。そりゃそうだろ。

 俺はもう上映時間が短ければ短いほどいいってんで、短めのラブコメを強く推奨したが、妹が頑として認めない。

 てなわけで、映画のチョイスはちょうど上映中の小学校低学年向け長編アニメになってしまった。

 俺と谷口は完全に浮いた状態で小学校低学年のガキ子供ジャリ連れの親子組がならぶうしろについた。

 唇をかんだまま渋い顔をした谷口と、おそらくおなじくらい不快なツラをしているはずの俺のうしろでは、女性陣プラス国木田が和気あいあいで開場をまっている。

 妹は朝比奈さんに買ってもらったポップコーンを片手にご満悦で、空いた手のほうは相変わらず朝比奈さんの手をしっかり握ったままだ。

 映画が終わったら、二時過ぎだ。絶対に間に合わない。もーどうでもいいわ。腹をくくって映画に没入することにする。携帯の電源も切った。すまぬ古泉、今夜はまかせた。

 座席はどういうわけか先頭を歩く真砂子の次に俺、谷口、鶴屋さん、そして朝比奈さんとその手を握って話さない妹のあとにつづいて国木田、という変な並びだった。

 谷口は明らかに真砂子ねらいで隣席を目指していたのだが、微妙に回避されてこの座席になった。

 妹がときたまポリポリかじるポップコーンの乾いた音がやがて意識から遠のき、しだいに俺はなんとか映画に没入してきた。ほかに考えたくないことがあるときはこれに限る。


 いじめられっ子の主人公が、超美麗な少女にしか見えない謎の宇宙人たちの力で不思議な力に目覚め、復讐の火ぶたが切って落とされたところで、俺のすべての感覚は自分の太ももに落ちた。

 俺の膝小僧より少し上あたりに、何か暖かいものが乗っかっている。真砂子の手だ。

 なんか、こう急に熱くなってきた。我ながらぎこちない動きで真砂子のほうを見やる。

 すこし小首を傾げた真砂子の目が燐光に輝いていた。



 戻っていく。なにかが俺の中で逆回転する時計のように、すべてが。

 突然、俺は四月の混乱の最中にいた。

 長門の謎の沈黙とルソーの治療があって幽霊騒ぎになり、その前の文芸誌完売とそのきっかけとなった生徒会長とのやりとりがあって、俺は鶴谷山の山頂付近で古泉とあたりをほっくり返している……とまらない。

 短い間隔で次々と俺はその場にいたことを確信する。まるでタイムマシンのように。俺の心はさかのぼっていく。

 古泉企画の猫探し事件。麓でまっていた鶴屋さんと妹に駈けよる俺たち。不思議なスクリーンに向かって知恵をしぼる俺たちと時間可変エリアの謎。遭難しかけて謎の洋館へ。

 やがて、去年のクリスマスのつらい経験が俺の心を刺し貫いた。

 俺はその場にいながらもどこか第三者的に視点から見ているような感覚もあり、だからかもしれないが、あの冬を逆順から追ってみると不思議に時系列はすんなり理解できている。いや、これは俺の“理解”なのか。

 なぜかここだけ再生する時間が濃厚な気がしたが、次第にさかのぼる速度が上がって、俺と朝比奈さんの晩秋の歴史干渉があって、文化祭が去って行き、つづいて終わりなき夏の最後の日へ……。



「痛って!」

 脇腹の痛みで俺は我に返った。谷口が俺に腹パンを食らわせたのだ。暗がりだったせいで力加減を誤ったらしい。

 鶴屋さんが席をたって静かに移動している、その端にすわっていたはずの妹と朝比奈さんの姿もすでに無い。谷口と国木田が俺の横に並んでいた。

「どうするよ。女性陣がいなくなったぜ」

「キョン、妹さんの具合が悪いみたいだよ。朝比奈さんがトイレにつれていったけど」

「見たがった本人がいないんなら、ここをでよう」

 頭を低くして席を移動する俺のすこしあとから真砂子がついてくるのがわかる。

 トイレに行くと、鶴屋さんが女子トイレの前に立っていた。

「妹さん、ちょっと食べ過ぎたみたい。みくるが様子を見ているよ」

 真砂子は俺を通り過ぎて、トイレに入っていった。

 男どもは顔を見合わせたけれど、子供なんかつれてくるからだ、とは誰も言わなかった。

「谷口、俺は妹を連れてタクシーで帰る。おまえらで続きをやってくれ。すまないが」

「小さい兄弟がいるとたいへんだな」

 そう言いつつも頭ん中でこれからの行き先を猛烈な勢いで検索しているであろう谷口はお悔やみ、じゃなかった慰めを言った。

 二人が妹を連れて出てきた。

「朝比奈さん、迷惑をかけちゃって」

「少し戻したらよくなってきたみたい。大事を取って家にかえったほうがいいかも」

「あたし元気だよ! さっきは痛かったけどいまなんともないよ」

 朝比奈さんの手をきゅっと握ったまま妹は力説したが、こればっかりは認めない。まあ、妹もこのまま終わるのがイヤなんだろうが。

 朝比奈さんが携帯を取りだした。

「あっ。はい、え、今ですか。今はええと、用事があって、その、違い……」

 ハルヒからだと、瞬間的にわかった。すまなそうに朝比奈さんは俺に携帯をわたした。いつもながら勘がいいというか、周辺騒音から普通の場所でないことを察したようだ。

『キョン、みくるちゃんとそこで何してんのよ。ゲーセン? 映画館? あんたが遅れるのはいつものことだけど、みくるちゃんが遅れるなんてね。それでかけたら仲良く外出中っと……。これはあとからみっちり理由を聞いたほうが良さそうね? 二人揃って遅刻ということは、そういうことなの?』

「妹のたっての願いで、朝比奈さんと映画に来たんだ」

『妹さんにかわりなさいよ。そこににいるならね』

「ハルヒからだ」

 疑り深いヤツだ。俺は妹に携帯を渡した。

「いまモールにいるの。いま映画見てたとこ。……うん、わかった」

 妹から携帯は俺の手にもどったが、耳に直接当てるまでもなく、明瞭な声が聞こえてくる。

『嘘はついていないみたいね。映画は終わったの? なら速攻でこっちにきなさいよ』

 またしても返事をしないうちに切れた。



「悪いがここで分かれよう。俺は妹を連れて帰る。朝比奈さんもハルヒと合流しないといけなくなった」

 先にまず妹を連れて帰ってからだ。俺が行くかどうかはまだ保留にしておく。真砂子を守る件についてはもう古泉の『機関』に任せるほかないようだ。

あからさまにがっかりとした国木田を察したのか、真砂子は国木田といきなり腕を組んだ。

「じゃこれからわたしは国木田先輩とペアになります」

「え、それは」

「一緒に昼ご飯を食べた仲じゃないですか。ボーリングにいきましょ。それからカラオケでしたっけ?」

 といって俺のほうに謎のウインクをよこす。こういう機転はありがたいが、さっきのは何だったんだろう。

「じゃあたしは谷口君とだね」

「ははっ」

 ってお前は臣下か。確かにこいつの生涯の記録トップ一、二に輝く出来事なのは間違いないが。

 俺たちは鶴谷さんたちと別れ、モール前のタクシープールで車を拾った。

 俺と朝比奈さんの間に妹が座る。車に乗ってすぐに妹はすとんと眠りに落ちた。やはり疲れていたんだろう。

 妹の寝顔をしばらく朝比奈さんは眺めていたが、

「キョン君」

「なんですか」

「あの人やっぱり、不思議な人だわ」

「妹さんの具合が悪そうだったから連れだしたんだけど、あとから真砂子さんがお手洗いに入ってきたの。妹さんの頭にそっとふれたとたん、なんかけろっと治ったみたいで」

 あの“おまじない”、か。

「なんかの暗示とかじゃないんですか」

「いいえ、よく感知できなかったけど何かが行われたような気がする」

「なぜです。俺に近づくためなら妹と俺を帰らせないでしょう」

「あたしにもわからない」

 詳しく訊こうにも、このタクシーは古泉のアレじゃなさそうだし、妹も寝ているふりをしているだけかもしれない。

 上映中のことを話すべきか。いや、一つだけきいておく必要がある。

「こうなるのも規定事項だったんですか。それとも今日の任務は終了とか? ……ごめんなさい」

 思わず嫌みな言い方になった。

「いいの。あたしにも解っていないことが多すぎるから。キョン君ならなおさらだわ。それでも私たちのために頑張ってくれてるし」

 俺がそれこそ時空を巡り東奔西走しているのは朝比奈さんためだけです。まあ、結果的に人類というか朝比奈さんの未来を助けていることになるらしいが。

 ちょっとばかり陰りのある表情を見せた朝比奈さんだったが、こんな表情をみせるのはなぜいつも俺にだけなんだろう? 

「キョン君、これからどうします?」

「妹の体調も悪いし」

「じゃあたしだけ涼宮さんと合流します。キョン君は妹さんの具合が悪いからって話しておきます」

「助かります。朝比奈さん」

 かつてシャミセンが脱毛するくらいで、なんとか許しをもらったくらいだから、妹なら大丈夫だろ。

「今日はそれなりに楽しかったわ。ありがとうキョン君」

「企画したのは谷口ですよ。こっちは妹が迷惑ばかりかけて」

「全然……。あたしにもこんな妹がいたらね」

 俺は朝比奈さんに兄弟がいないらしいことがわかった。未来は人口爆発かなんかで一人っ子しか許されないんだろうか。

 そんな妄想をよそに、朝比奈さんは優しく妹の頭を撫でた。目がさめた妹は朝比奈さんの手をまたしっかりと握りしめている。

「また、いつかね」

「約束する?」

 妹と朝比奈さんは指切りをしたところで、家の前についた。

 料金を払った俺は、まだ寝ぼけまなこの妹を車から降ろした。今日は難なく朝比奈さんから引きはがせたのは、やっぱり妹の調子が悪いせいだろう。

 朝比奈さんの乗ったタクシーが去っていくのを眺めながら、気がついた。

 これでこの人とは兄妹そろって何らかの指切りをしたことになる。俺が約束したのはヴェガとアルタイルの輝く夏の夜、大人の朝比奈さんとだけれど。



 たぶん自己陶酔が爆発モードの谷口がカラオケで歌い踊っている頃、俺は妹が体調を崩した件で母親にこってり小言をくらっていた。

 それでも、途中で妹のために仲間と別れて帰ってきたことで、この小言は明日に持ち越すことなくこれでおわったようだった。

 風呂から上がって、昨日のゲームの続きをやろうか、それともこれから寝ちまおうかと考えていると、ドアを叩く音がする。

 ノックをしてはいってくる妹も珍しいが、こんなにしおらしくしているのはめったにない。後ろにいたシャミセンがするりと妹の足をすり抜けて入ってきた。

「キョン君、今日はごめんなさい」

「べつにいい。もう遅いから早く寝ろ」

「みくるちゃんにもごめんなさいって……」

「もういいから」

 途中で帰るはめになったのが多少なりとも自分のせいだと思っているようだ。おまえのせいなんかじゃないと口を開きかけたそのとき、ベッドの上に放り出していた携帯が鳴った。

『古泉です。少しばかり時間をいただきたいんですが』

かすかな遠雷のような空電音が声にかぶっている。どこからかけているんだろう。

 妹はまだ言い足りないことでもあるのか、ベッドに座った。先日の件もあるから追い出したいが、うなだれた姿を見るとそうもいかない。

 この時間帯は古泉の真の活動時間である。と言うことは、『機関』がらみだ。

「なんかあったのか」

『今日は、つつがなくイベントが終わったようで。妹さんの体調はいかがですか』

「いまは大丈夫だ。尾行でもしてたのか?」

『僕はしていませんが』

 ということはお前らの仲間が尾行でもしてたのか? それとも機関の協力者……。

「古泉、この件に鶴屋さんはどれくらい関係あるんだ?」

『僕の話から先でいいでしょうか?』

「ああ、もう寝るところだから簡潔に頼む」

『了解です。まず一つ。今日一日かけて真砂子さんが以前在籍していたはずの学校をすべて調べました』

 そこまでやるか。『機関』もご苦労なこった。

『しかし、そのような人物は存在しませんでした』

「転入手続きで使った書類にうそをかいたってことか?」

『いえ、伊織真砂子、という氏名ではなく、別の名前でした。容姿はよく似ています。それ以外の背景、たとえば家族とかは違う。数少ない友人に確認したところ大変物静かで落ち着いた性格だったということです』

「今とはぜんぜんちがうな」

『転校したのは事実でしょう。しかし、転校する度に別のカバーストーリーがつくられている』

「なぜそんなことをするんだ」

『ここからは僕の想像ですが』

 と古泉は言葉を切った。こいつの想像や空想、というのは時に的中率が高かったりする。

『我々人類を最も観察しやすい場所はどこでしょうか。観察者が誰からも疑われずに時間をかけて成長できる場所は?』

「学校、なのか」

『どんな社会でも子どもの失敗には寛容です。侵入者はそれを利用して人類を観察するうちに、涼宮さんを発見してしまった……ということではないでしょうか』

「それにしちゃ、俺たちとほとんど年齢が変わらないが」

『我々の調査で三年前までさかのぼったのですが、相当情報操作されているようです。ですが彼女は三年前からほとんど姿は変わらず、高校一年のままということがわかりました』

 道理で成績優秀体力抜群なわけだ。何回も高校生をやっていれば当たり前だ。

 しかしほとんど成長していない。あいつがどんな組織の一員か知らないが、とんでもない不老テクノロジーを有してでもいないかぎり、真砂子は少なくとも人間じゃないはずだ。

 つまり、涼宮ハルヒの呼び寄せた“何か”にちがいない。どのカテゴリーに属するかは今のところ判断できないが。

『これからも調査は続行しますが、こうなると真砂子さんを誰からどうやって守ればいいのか』

「直接訊いてみたらどうだ。それとも俺が……」

『それも一つの方法ですが、もう少し事実関係が明らかになるまで待っていただけませんか』

 そういうと古泉は、

『実は今夜もバイトがあるのでこのへんで』

 電話を切ってすぐに、俺は鶴屋さんの事を聞きそびれたのに気が付いた。

 妹はいつのまにか部屋を出ていて、そのかわりに俺の足元でシャミセンが毛づくろいをしているだけだ。

 古泉のバイト……。今夜もあの燐光を放つ空の下、あいつは戦ってるんだろうか?




 月曜日になった。

 登校した俺がまず考えたのは、なんとかハルヒの隙を狙って、映画館での出来事を古泉に話すことだった。鶴屋さんの事もあるし。

 教室にはいると同時に、昨日ハルヒに同行しなかったことを責められるのかと思っていた。

「キョン、妹さんの具合はどうなの? みくるちゃんの話だと、あんまり良くないみたいね?」

「食べ過ぎだと思うけどな。やっばり女の子だから心配なんだ」

 と、これくらいは言わないといけないだろうやはり。猫じゃないんだから。

「意外に妹思いなとこあんのね」

「意外に、は余計だろ」

 こう見えても、田舎に帰省したときなんかはけっこう甥っこや姪っこたちに慕われるほうだ。問題はほとんどが小学生、ということくらいだ。

昨日の日曜は、俺が妹の病気につきそっているせいで出席できないと伝えただけで、イベントそのものは延期になったらしい。やはりどうしても俺がいないとダメなのか。パソコンのパーツは土曜に買ったようだから、このままお流れになるはずもないが。

 確かにハルヒは妹には優しい。近所の子供会でボランティアしているくらいだから、子供慣れしてるんだろう。

 買い物につきあわなかった件についてとくにおとがめもなく、ハルヒは授業中もずっと窓ガラスをこぼれ落ちていく雨粒をながめていたようだ。

 また何かを考え込んでいるに違いない。

 これ以上神様がこいつの頭に変なアイデアを振らせないよう俺は密かに祈り、そのまま何となく背後に警戒感をぬぐいきれないまま、午前中の授業が頭の中をまたたくまに通り過ぎ、やがて昼休みを告げるチャイムが鳴った。



「キョン、お隣は学食に行ったから机をくっつけなさいよ」

「え」

「一つの机じゃ足りないでしょ」

 しかたなく俺は横にぶら下げているバッグから弁当を取り出し、机をお隣にくっつけた。すかさずハルヒが俺の右隣にすわった。

「たまにはいいんじゃない?」

「先週もそうしたろうが」

「先週は途中からでしょーが」

 ハルヒは前の席にいる二人に声をかけた。

「谷口? それと国木田も。こないの? 真砂子ちゃんがそろそろ来るわよ」

 うへぇというような顔をした谷口と、明らかにげんなりぎみの国木田が立ち上がった。

「谷口はあたしの前、一つ開けてその横に国木田はすわんなさい。谷口、嫌そうな顔をしてるわよ。同じ中学のよしみで情けをかけてやってんだから」

 これで喜んで同席するヤツがいるとは思えない。

 真砂子がやってきた。前の入り口を開けて黒板前を歩く足取りは軽い。

「ごいっしょしてかまいませんか? 涼宮先輩」

「もちろん!」

 こうして、谷口、真砂子、国木田の向かいに俺とハルヒが座った。息苦しさは昨日と変わらない。

 真砂子が弁当を机に置くのと同時に、ハルヒは自分の持ってきた弁当箱を開けた。

 これまた真砂子の弁当に勝るとも劣らない、一流シェフが作ったとしか思えない洋風弁当が現れた。自分の弁当を確認したが、やはり昨日の残り物だ。続く真砂子の弁当もいつもながらのハイレベルで、

「真砂子ちゃん、ほんとうに自分で作ったの」

「先輩もですか?」

 ハルヒの調理技術(と味覚)がずば抜けているのは事実だが、真砂子に対抗意識でもあるのか。

「ま、これくらいはね。あたりまえよ」

 やれやれ、ってなかんじで俺たち男子は飯を食い始めたが、ハルヒが立ち上がった。

「その前に、みなの者に周知したいことがあるの」

 なんだよ、俺たちはおまえの下僕か家来なのか? 

「今日から真砂子ちゃんはSOS団の準団員になったわ」

「涼宮先輩、私はまだ決めたわけじゃ……」

「いいの、あたしが選んだ人だけが団員なの。だから参加者の意志は問わないことになってんのよ。気にしなくていいから」

 大いに気になるところだ。俺も去年、と回想モードに入りかけたとき、ハルヒが爆弾を落とした。

「そしてここ重要なトコだからよく聞いて。いったんSOS団に入団した以上、あたしの庇護下にあるものと心してね。だから真砂子ちゃんをからかったり、冷やかしのたぐいはあたしが許さない。谷口、わかった?」

「俺がそんなこと言うわけねーじゃん。はは」

 力なく笑った谷口はそのままエビフライを口に運んだ。

「別にいいけど」

 一見無関心そうな発言の裏で、ちょっぴり残念そうな国木田だった。

「というわけで、これを校内に幅広く周知するから、もう二度と変な奴らはよってこないわ。それから真砂子ちゃんが団に慣れるまでキョンがアシストする。ざっくりいうと、お付き合いすることになったの」

 それだけ言うと、ハルヒは椅子に座って、唖然とする周囲をどうだといわんばかりに見渡したのち、にこやかに「いただきまーす」といって箸を取った。

 真砂子は真っ赤に頬を染めている。谷口はエビフライの尻尾が食道あたりで逆トゲに引っかかったような顔をしているし、国木田も先日のカラオケにつきあった真砂子のことを少しは気にかけていたのか、ご飯に箸を刺したままフリーズしていた。

 美味そうにチキンフィレ・ステーキをほおばっていたハルヒは、飲み下すなり断言した。

「キョンもよろこんで真砂子ちゃんとつきあいたいっていってるわ」

「いったい何の話だ?」

 谷口はいきなり態度を硬化させた。

「だまんなさい。キョンと真砂子ちゃんは付き合うことになったの。妨害はこのあたしが許さない」

「涼宮先輩、そんな大きな声で言わなくても」

「キョン、お前は抜け駆けすんのか」

「いや、これにはたぶんワケが……」

「お黙り! みんな箸が進んでないわよ」

「い、いや。たべるけど、どうしてもここにいなくちゃダメか」

「もちろん。みんなで仲良く食事ができるのもそんなにないでしょ」

 まさに鬱、という感じで国木田はぼそぼそと食べている。

 ハルヒがいなくなったあとこいつらにはそれなりの説明が必要なようだ。

「でも突然こんなこと言われて私もビックリ……」

 この程度でビックリしているようじゃこの先もたないぞ、と言いかけた俺をさえぎってハルヒは言った。

「気にしないの。それともイヤなの?」

「そ、そんなことないです。でもキョン先輩に迷惑じゃないかなって」

「そんなこと全然ないって」

 と言ったのはハルヒで俺の意向など聞く気はハナっからないらしい。

「つまり、転校してきていろいろ慣れるまで大変だから俺が手助けする、その程度のつきあいだと思ってくれ」

「わかりました。じゃ涼宮さん公認のお付き合いってことで」

「みんな食が進んでないわよ。キョン、あたしのおかず分けてあげようか。今日のあたしはなんて太っ腹なの?」

 しかし俺には素直に嬉しそうにしている真砂子に比べて、ハルヒが少しばかり無理をしているような気もしたのだ。



 放課後のホームルームでは、最近傘の盗難が多いから注意しろとか、ほんとどうでもいい屁みたいな話が岡部の口からでたほかは、さしたる変事もなく終わった。

 去年の学祭に校内探検というテーマしか思いつかない平々凡々たるクラスで、ほとんど二年になっても面子は変わらない。つまり、ありきたりなクラスのありきたりなホームルームだった。ただ一人、特異点的にとんがったヤツはいるが……よそう。

 何を企んでいるのかハルヒは急ぎ足で部室に行ってしまい、俺は少し遅れて教室をでた。

 部室棟への渡り廊下に入ると、腕組みをして夕日を背に窓枠に寄りかかっている男子生徒……古泉だった。同じ制服ながらいつもは隙のない着こなしをする古泉だったが、姿はなんか疲れているように見えた。

「待ってたのか?」

「部室に入ると込み入った話もできませんしね」

 確かに今日の部室は真砂子も入れて全員そろい踏みのはずで、そこでは話しづらいこともあるだろう。俺もだが。映画館の話はまだしてない。

 放課後は部活が始まってしまうと、この廊下も人の行き来は少なくなる。だからここしかないか。俺も屋上階段はちょっとためらいがあるし。

「で?」

「聞きましたよ。真砂子さんのこと。おめでとうございますと言っていいのかどうか」

「耳が早いな」

「一時はあなたと真砂子さんが原因で、閉鎖空間が発生するのではないかと気が気ではありませんでした。いまのところ発生はなく、まずはめでたい、といったところなんですが」

 言葉を切ってふり向いた古泉の横顔を、ちぎれ雲を縫って射した夕日が染めている。

「俺的には問題がべつの方面に発展したというか」

「それは僕も同じです。我々の数少ない情報源によるれば、敵対勢力の活動が活発化しています。それも一つや二つのグループではない。実は昨夜も結構忙しくて」

「俺にどうしろってんだ。そっち方面はお前の専門だろ」

「一年前、僕が転校生としてここに来たときのことを覚えていますか」

「まあ、それもハルヒの望みだったからだろ」

 最近はこのフレーズ一つで何だってアリになっている。実際そうだからしょうがない。

「俺が団員にむりやり徴用されて、そのあと長門と朝比奈さんを確保してすぐに、お前がハルヒにひっぱってこられた」

「当時の最も有力な勢力、つまり宇宙人と未来人が涼宮さんのもとに集まって均衡がくずれるのを恐れた上層部が僕を送りこんだんです。僕の視点ではね」

「つまり、またメンバーが増えることで、去年のお前のようにあらわれる奴もいるかもしれないと」

「そのとおりです。それは友好的な存在ではないかもしれない。今後とも彼女には護衛を付けます。相手の正体もわかりませんが……そろそろ部室に行きましょうか」

 いや、まだ話すことがある。

「実はこのあいだの映画のことなんだが」

「彼女の治癒能力ですか?」

 その話はしていないはず。だが今はそんなことはどうだっていい。

「お前、去年の夏休みのことを覚えてるか? 終わりのほうだが」

「個人的にはたった一回だけですが。あなたは違うんですか」

「その記憶の中に、真砂子はいたか?」

「主要な関係者は我々五人、もちろんバイト先や近所の人たちもいましたが、彼女がそこに存在したか、と言われるとはっきりしませんね」

「実は、その記憶のなかに真砂子がいたような気がする」

 俺は映画館の出来事を話した。膝におかれた手の話は省略した。

 古泉は俺が話しおえるまで黙っていたが、まるで俺の話を総括するかのように静かに言った。

「断片的な記憶ではなくすべての記憶情報を取り出したいとすればあなたに追体験させるほかはない、ということでしょう」

「取り出す?」

「こうなる可能性は実は予見されていました。涼宮さん自身の情報、つまり一次情報をこれまで多くの勢力は収集していたようです。我々機関も含めてね。ですがあなた視点の情報、二次情報から何らかの解答を見いだそうとするものも現れるだろうと」



 いつのまにか俺たちは部室の前に来ていた。ドアが開いている。

 長門が今度はレンガみたいな分厚い革とじ本を抱えているところと、朝比奈さんがカセットコンロにやかんをかけ、お茶の準備をしているのは普段と変わりない。

 違うのは、メガネをかけたコンピ研のメンバーたちが段ボールの箱をせっせと運び入れているところだ。パソコンのパーツらしい。

「キョン、パーツは買っちゃったし、イベントを開催するわよ」

「真砂子は来てないのか」

「今度正式に団員になったからバスケ部の顧問と話してくるって」

 バスケ部の顧問は全力で彼女を引き留めるべきだと思うが、後で聞いてみよう。団とほかの部活二足わらじははっきり言って無理だ。


 日曜日のイベントはハルヒの一存で今日開催されることになったみたいだった。俺は全然きいてないから賞品なんか用意してない。

 机の上には、パソコンのパーツが入った箱が山積みになっている。良くは分からないが、ノートパソコン五台にデスクトップすべてを改造するとなったら結構金がかかったんじゃないのか。

「そこは大丈夫。今使っている大きいパソコンの中身を下取りしてもらって、あたしたちは足が出た分だけ部費で充当しただけだから、安いもんよ」

 というのは非道い。もともとこのパソコンはコンピ研のもんだろうが。

 その間にも悟りきったような無表情で部長氏とおそらく入部したばかりらしいパシリ専門の一年が淡々と開梱してパーツをセットしていく。

 しばらくすると長門も辞典本を本棚に戻し、デスクトップパソコンの部品を換装し始めた。またしてもどことなく楽しそうにみえるのは俺だけかも知れないが。なんにせよ長門が楽しそうなのは良いことだ。

 ハルヒのパソコンはもうほとんど原形をとどめないくらい改造され、部長氏によるとコアが八個、グラフィック性能は十倍くらいになったらしい。

 普段はハルヒがネット閲覧くらいしかしないのに完全にオーバースペックだろう。

 パシリ君が、箱からとりだした分厚い本を配り始めた。

「なにこれ」

「操作マニュアルです」

 世界史の教科書より厚くないかこれ。こんなのどうやって操作するんだよ。

「あたしはどっちかっていうと派手なドンパチで疾風怒濤のゲームがやりたいんだけど。好みじゃないわ」

 といいつつも却下せずにマニュアルを読み進めるハルヒだった。

 結局、ゲームは明日以降に持ち越しになった。各人マニュアルを熟読するように、というハルヒのお達しのもと本日はこれまでだ。

 コンピ研の連中が段ボール箱を手に部室を去ったあと、それが合図のように長門が立ち上がって東洋文庫をカバンにしまった。そこへちょうどタイミング良く、朝比奈さんも洗い終えたお茶碗をかごに入れて持ってきた。

 着替えに入ろうとする朝比奈さんを前に、自然な流れで俺と古泉は部室の外に出ようとした。いつものことだ。

「キョン、みくるちゃんの着替えが終わったら、あんただけ残りなさい。ほかのみんなは解散よ」

 日常はハルヒの一言で砕け散った。



 なんとなく、オドオドした感じの朝比奈さんが古泉のあとから部室をでて、ためらいがちにドアを閉めた。長門はとっくに帰ってしまった。

 これだけでも珍しいのに、ハルヒに部室に残るように言われて二人っきりというのは初めてのような気もする。俺は椅子に座ってハルヒの言葉を待った。

 ハルヒは自分の考えをまとめているのか、俺に背を向けて日の落ちかけた空と向かい側の校舎を眺めていた。

 俺もすることがないので、ハルヒの背中ごしに東の空が青からしだいに藍色に変わっていくのを見ていた。中天にポツンと浮かんだ雲が西の残光を受けて金色に輝いている。

 くるりとふり向いたハルヒは言った。

「あたしね。きのうの夜ずっと考えていたわ。なんであの子のことが気になるんだろうって。あの子がSOS団に興味を持っている、ということだけじゃなくてね。それとあんたにはものすごく好意的よね?」

 ものすごく、というところに力が入ったような気もするが、それは置いておく。

 俺も言いたいことはあるが、こんなときはハルヒが全部言いたいことを終えるまで聞いているのが正解だ。

 ハルヒは俺に向き直った。ちょっとからかっているような、どこか謎めいた視線でハルヒは言った。

「真砂子ちゃんのこと、どう思う? キョン先輩は?」

「確かに昼飯どきのしゃべりは楽しいし、谷口や国木田もかなり好感を寄せているみたいだ」

「あんたがどう思ってるかってきいてんのよ」

「なんか転校ばかりで苦労しているせいか、礼儀正しいところがあるかな」

「それば事実を列挙しただけで、あんたの意見がないわよ」

「わかったよ。俺も正直、悪くないと思う。大抵の男子はそうなんじゃないか。谷口の評価じゃないけど、容姿も悪くないし」

「じゃあんたは、好感を持っているわけね?」

 なんか外堀を埋められつつあるような。

 ハルヒは俺の前に立って顔を近づけた。大きな瞳は透明だったが、いつも以上に強い意志が込められているような気がした。

「あの子を守ってあげなさい」

 まったく予想外の言葉だった。しばらく、ハルヒの顔を見つめた。冗談か悪だくみの気配を探してしまうのはこれまでの経験からしかたないだろう。

「とってもいい子だわ。でもまたすぐに転校するかもしれない。そんな気がする。先週の昼ご飯の時、あの子はずっとあんたを見てた。すこしイラッときたのはたぶん、あんたに嫉妬しているからじゃないのよ? いきなり言葉尻を取られたからね。少し頭に来たのは事実」

「でもね、あたしも小耳にはさんだんだけど、あの子はクラスで浮いてるみたい。転校したてだからじゃくて……」

 ハルヒは口ごもった。

 たしかに昼休みに行く場所がないっていうのが事実だとしたら、相当クラスメイトからは孤立していることになる。

「頭もずば抜けていいし、運動能力も優秀らしいわ。でも、優秀すぎてあまり友だちがいない。そのうち自分で何とかするだけの力はあると思うけど、今はまだ無理ね」

 ハルヒの言いたいことがおぼろげにわかった。まるで真砂子が一年前の自分のようだと言いかけているのだ。

 俺に真砂子を支えてやれ、一年前のあたしにしたように、本当はそういいたいのか?

 近づいてきたハルヒが俺のネクタイをつかんだ。去年の屋上階段で俺を締め上げたときとは違ってふわりと優しいつかみかただ。

「あたしは彼女を正式に団員に昇格させるつもり。だからキョン、あの子を守ってあげなさい。これは団長命令よ。わかった?」

 俺はなにも答えられないまま、ハルヒがネクタイから手を放して部室を出て行くのを見つめていた。



 最後に残った俺がドアを閉めて鍵をかけていると、まるで待っていたかのように一つ隣の部屋のドアが開いた。真砂子がこちらを見つめている。

 バスケ部で相談中じゃなかったのか。

「今日は県大会の打ち合わせがあって、顧問の先生が外勤でいなかったんです。それでこっちにお邪魔していました。キョン先輩もよかったら来ませんか」

 もうとっくにコンピ研の連中だって帰っているはずだが。

 俺はさっきハルヒに守れ、と厳命を受けたからではないが、コンピ研のドアをくぐった。

 室内はカーテンを閉め切っているせいで暗かった。

 パソコンの画面はなぜかついたままで、いつか見た宇宙船を示す三角の記号がゆっくり動いている。部員は一人もいない。

「電灯をつけたほうがいいと思うんだが」

「わたしにはちょうどいい明るさなの」

 ドアを施錠する音が背後から聞こえた。

 突然――俺は女子生徒と薄暗い密室で二人きりという状況を認識した。ふり返るとすぐ後ろに立っている。

 彼女の穏やかな息づかいだけが聞こえるほかは、微かにパソコンの空冷ファンの音がするだけだ。ほかにもう一つ、俺の鼓動が無視できないほど大きくなってきた。

 いつのまにか真砂子の瞳が燐光を放っている。

「やっとわたしの言葉で話せるようになったわ」

「一体何の話だ?」

「だまって」

 真砂子が目の前に立っていた。真正面に輝く瞳がある。

「コンピ研の連中はどうした?」

「今ごろ古泉先輩と一緒に処理されているわ。仲間にするためにね」

 古泉をどうするって? わけがわからない。

「これから俺と二人でゲームってわけじゃなさそうだな」

「これも大きなゲームの一部分かもね」

「お前なにもんなんだ? 宇宙人か?」

「わたしは……ただの乗り物よ。彼らの道具に過ぎないわ」

 また一歩俺に近づいた。

「彼らってだれだ?」

「いいのもう。もうすぐわたしと同じになるから。何も考えなくていいの」

 動けない。ぼうっと足が何かにくるまれたように固定され、それがだんだんとくるぶしからすねを駆け上がって膝にまで来ている。全然足に力が入らない。

 真砂子の目から視線を逸らすことが出来ないまま、俺は再びあの夏に戻っていた。

 古泉の企画した妙にリアルな孤島劇の種明かしと、困惑する俺たち、クルーザーに乗って島へ乗り乗り込んだときのこと。さらにさかのぼって休み早々にハルヒが孤島行きを宣言したその場に俺はいた。

 しかしその場にいるのだけれど、自分が何かを失っていると言う感覚……つねに誰かが俺の視点で観察しているのをいやおうなしに感じながら。

 やがてカマドウマ事件は収束し、フロイト先生大笑いの夢とも現実とも付かない世界から解放され、気づけば燐光の空の下、ハルヒと二人っきりになったかと思えば、謎の転校生の超能力お披露目大会こと青い巨人倒しがあり、第一回不思議探しツアーは散会した。俺は長門に図書カードを作ってやり、図書館で本の虫になっていた長門を書棚から引っ張っていった。二回のくじを引いて長門とペアになり、朝比奈さんの奇っ怪な未来人発言をこなして一回目のくじを引く。その少し前の駅前の集合タイム……。


 ダメだ、これ以上さかのぼっちゃいけない。

 俺の中にある何かが警告するが、ライトグレーの輝く瞳がそれを許さない。微かに彼女の高級石けんのにおいを感じつつ、次なる記憶の再生がはじまって……。

「断片的な記憶ではなく、すべての記憶情報を取り出したいならば追体験させるほかはない」

 確か古泉はそう言っていた。

 吸い出されていく。

 いきなり場面が飛んで、ハルヒと朝比奈さんのバニースーツ姿を再び目撃し、またさかのぼっていく。古泉が初めて部屋にやってきたときのこと。屋上階段でハルヒにネクタイを締め上げられたこと。

 しかし、今、俺のネクタイを握っているのはハルヒなんかじゃないことに気が付いた。

 真砂子。

「あと少しで終点。あなたの最も深い記憶にたどり着く」

 そして再び意識が過去へ加速しようとしたとき、

「そこまでです」

 制服姿の古泉が言った。

 いつの間にか、戸口にたっていた。ドアノブがいつの間にかはじけ飛んでいる。


 振り返った真砂子は古泉を見つめていたが、

「長門さんね? あなたが一人でここに来られるはずはない」

「現在、学内に侵入していた彼らを処理しているところです。もう結果がでるころかと」

「……そう。だめだったのね」

 真砂子はすっと俺から離れた。俺の足にはまだ麻痺が残っている。

「キョン君、ごめんなさい。もう何もしないわ。古泉君、あまり時間もないんでしょう?」

「そのようですね」

「一体どうなってるんだ?」

「『機関』も危うく壊滅するところでした。コンピ研のメンバー全員、そして鶴谷さんにも彼女と同じ共生体が侵入していたようです」

 共生体ってなんだ。

「わたしの中に住んでいる存在のことよ」

 やはりそういうことになるのか。こいつもハルヒに呼ばれた存在なんだ。

「じゃ叔父さんの仕事で転校ばかりとか全部嘘っぱちなんだな? それに鶴谷さんまで利用して俺に探りを入れた。そうなのか」

「ごめんなさい、キョン先輩。わたしの意志じゃどうにもならないの。逆らうことはできない……。鶴谷さんなら大丈夫よ。共生体が侵入して以降の記憶は亡くしているでしょうけど、きっと長門さんなら……」

 こいつらが何をしようとしていたのかはよくわからない。しかし、コンピ研の連中や鶴谷さんまで利用するとは。

「なぜ俺に近づく。何が目的なんだ」

 俺は真佐子に――正確には彼女の中に潜んでいる奴に――向かって言ったつもりだったが、彼女は俺から逃げるように窓際に立った。

「四年前……、わたしは交通事故で死にかけたの。一緒に乗っていたお父さんもお母さんも、弟も死んじゃった。そのとき彼らが問いかけてきたの。生かしてあげるから協力して欲しいって。その存在は地球上では生存できないから、この星の生き物と共生するしかないって言ってた。人類より進んだ科学でもどうしようもないって」

 四年前、という数字が俺の頭にしみ通るのを待つかのように、真砂子は俺から顔を背けていた。

「その四年前の事故って、もしかすると……」

「確証はないけど、わたしという存在が涼宮さんの望みだとしたら、家族が死んだ原因はそういうことかもね。でもいいの。もう涙なんかとっくに枯れちゃったわ」

「わたしはその生命体に自分の身体を貸してあげた。わたしが見るものはすべて彼らが見ている事になる。それだけじゃなくて、知識の共有も許されたわ。彼らは年を取らない健康な身体と治癒能力をあたえてくれた」

 しかしそれは不安もないかわりに、成長も将来への展望もない。

 ある意味、去年の終わりなき夏に近い。しかも彼女は自分でそこから抜け出すこともできない。人間よりわずかに優れているだけで、ただ命令に従うだけの存在でしかない。

 俺はまだハルヒが真砂子にしたかもしれない残酷さが足かせとなって次の言葉が出ない。

 けれど、そんなことはとっくに知っていたかのように、古泉が会話を促した。

「それ以来、ずっとあなたは高校生だった?」

「ええ、彼らは何かを必死で探しているみたいだった。それが涼宮さんだってことは北高に転校してすぐにわかった。彼らの興奮はわたしにも伝わってきたわ」

「それでまず俺に接近して、最終的にはハルヒの能力を利用しようとした、と」

 真砂子は答えず、カーテンを開け、付けっぱなしのディスプレイの電源を落とした。

「もう時間がない。仲間からの連絡も途絶えてしまった。わたしの中にいる“それ”はまだ生きている。でもとってもおびえてる。こうなるかもしれないとは覚悟してたけど……長門さんは酷い人ね」

 古泉、どういうことだ。

「まもなくここに長門さんが来ます。しかし、この件について、あなたとは話したくないと。僕はあなたを真砂子さんから解放し、ここから連れ出すように言われています」

 どうなるんだ? 真佐子は殺されるのか?

「キョン先輩。わたしなら大丈夫。ここで長門さんを待つわ」

「俺も残る」

「残念ながら、それはできません」

「おまえだって彼女を守ると言ったろうが!」

「あなたが最初に彼女を守ったんでしょう?」

 いつになく笑みのない古泉が言い切った。

 真砂子ははっとしたようだった。一瞬見開いた瞳をすぐに伏せる。

 俺は古泉から目を離さないまま言った。

「ひょっとして、人の心を操ったり出来るのか? あの茶髪野郎から救い出すように俺を操作したのか」

「違うわ! ……最初はそのつもりだったの。でも、先輩は自分から進んで動いてくれたわ」

 いや、俺の意思じゃないかもしれない。もう一人のメンバーを望んでいたハルヒの望みのせいか。ならそれでもいい。俺はここを動くべきじゃない。長門が話したくないなら、ここにも来ないに違いない。

 と、後ろから伸びた白い手がすっと俺の前で組まれた。真砂子がうしろから俺の肩に頬を寄せている。暖かいやさしい抱擁だった。

「ありがとう。付き合ってくれて。とても……とても楽しかったわ。でも、もういいの。こうなったときの覚悟はできてるから」

 声も出せない俺と真砂子を古泉は静かに見つめている。すこしの哀れみが目にあったかもしれない。だが、俺を連れて帰るよう厳命されているに違いない。俺の手を廊下へと引く。

「これ以上、先輩と長門さんのあいだでわだかまりを作ったらいけないんでしょ?」

「じゃ長門に伝えてくれ。俺は真砂子に危害を加えるのは絶対に許さないって。ハルヒも朝比奈さんそれを望んじゃいないんだ」

「その言葉だけで十分です」

 組まれていた彼女の手はゆっくりとほどかれ、いつになく強い力の古泉に引かれながらふり返った俺に真砂子は寂しそうに軽く手をふった。



 古泉と俺は押し黙ったまま、家の前まで一緒に歩いた。

 まだ護衛は続いているのかどうか知らない。そのまま別れを言い、いつものスマイルがかすれがちな古泉のツラをちょっと眺めてから家に入った。飯も喰わず風呂にも入らずにそのまま翌朝まで自室に閉じこもるしかなかった。

 彼女を傷つけてほしくない俺の気持ちが長門に伝わっていれば、きっと元の鞘に収まるはずだ。そうでなければ古泉と一緒に帰って来るものか。

 しかし。

 ベッドに横たわったまま天井を見つめる俺の頭に、これまで無意識的に抑圧してきたあの考えがいやおうなしに鎌首をもたげる。


 今日みたいなハルヒをめぐる暗闘が実はもう何回も繰り返されているんじゃないのか。


 その暗がりの中でおびただしい存在が傷つき、敗れ、消え去っていく。

 去年、ハルヒ超監督の突拍子もない映画作りのころ、古泉も話していた。水面下で行われている様々な抗争、っていうやつの一端を俺は垣間見たんだろうか。

 ハルヒという聖杯を求めて参集した多数のグループ。そこでは現在の人間、未来人、宇宙人その他もろもろがしのぎを削っていると。

 過去一年間をふり返ってみても、あの時もそうだったんじゃないか、いやあれもそうだったにちがいないとか、疑念に任せればいくらでも考えられる。

 その真相を知っているのは超常的存在のあの女子二人だけだ。古泉も現時点の人間ではもっともよく知っているはず。もしかすると鶴谷さんも……。

 しかし、俺にはこんな生活がいつまでも続かない予感があった。

 俺の立場というか役割はどんな形で終わるんだろうか。それは多分残る高校生活のなかで決着がつくような予感がある。

 ……結局、ガラにもなく明け方までベッドの上で眠れずにいた。



 夜半から降り出した雨は、朝方になって霧雨になった。

 俺はいつもよりずっと早く登校して、カバンを誰もいない教室に置いてすぐに部室にいった。

 絶対に長門がそこにいる予感があった。

 しかし、部室には予想外の人物がいた。

「おはよう、キョン君。きっと来ると思っていたわ」

 生徒会の筆頭書記こと喜緑江美理さんだった。

 黒板に背を向けて座っていた。カーテンは開け放たれ、久しぶりのやわらかい朝日が差し込んでいる。学校に入るまでは、まだ雨が降っていたはずなのに。

「長門は来ないんですか? 真砂子はどうなったんです?」

「まず座って」

 俺は喜緑さんが促すまま、正面の椅子にすわった。いつもながらこの人の穏やかさはなんだろう。長門の仲間であることはまちがいないんだが。

「長門さんはね、人間で言えば心のわだかまりというか、エラーの累積がここのところかなり進んでいた。だから私に頼んだの」

「真砂子が原因とか?」

 喜緑さんは軽く頷いた。

 共生体云々より、これは俺に急接近した真砂子への……嫉妬、なのか?

「人間ならそう言うかも。それは私たちにはとても危険なことなの。おぼえてる? 去年のこと。キョン君のおかげで長門さんが処分をされずにすんだわ。でも、一部の権限が長門さんの次に上位にある私に委譲され……」

 喜緑さんは言葉を切って、俺を見つめた。

 どこまでも、人間らしい仕草と落ち着いた言葉づかい。思いやりすら感じられる。

 しかし、彼女も端末の一人なのだ。どうして長門とこんなに違うんだろう。というか長門はなぜこの人と違うのか。

「キョン君。去年、長門さんがどれほど危険な立場だったかわかる? あれは重大な命令違反だった。あなたの言葉がなければ、今ごろ長門さんにそっくりだけど別の存在がここにすわることになったでしょうね」

 喜緑さんなのか? バックアップってそういうことなのか。

「だから、今回は彼らの目的を察知してすぐに対抗処置をとったの。これは正しい行動だったわ。でも、最後の最後で長門さんは判断できなくなったの。……途中で気が付いたんだわ。真砂子さんを消してしまうと、あなたが悲しむ。あなたが傷つく」

「じゃ、やめるように長門につたえてください」

「でも今度ばかりは任務不履行となれば、長門さんも処分されてしまう」

 そうか。それで喜緑さんに仲介を頼んだわけだ。直接言えないほど、そのエラーとやらが強すぎるのか。

「真砂子は無事なんですか」

「彼女ももう限界だわ。共生体によって、身体に手を加えられているから。もうほとんど人間以上の存在なの。あの治癒能力もね。でも心は事故にあったときから回復していない」

「その共生している奴だけ殺せないんですか」

「互いに深く依存しているから、共生されて以降の記憶は消失する。それは今の彼女の人格を死に追いやることと同義だわ。長門さんもそれに気がついたの」

「真佐子もハルヒに呼ばれたんだったら、なぜじゃまをするんです?」

 俺は宇宙や自律進化云々を語る知識もキャパもない。だが、俺にはハルヒと朝比奈さんとの約束がある。

 ハルヒは物理法則を歪めてでも望んだことは必ず実現させる女だ。

 だから真佐子だって仲間になってもいいんじゃないか? しかもハルヒだって別のキャラ属性で団員にしてもいいって宣言したんだ。

「彼らの解析能力は我々に遠く及ばない。なのにあなたを通じて涼宮さんを利用しようとした。失敗すれば宇宙規模の大惨事にならないとも限らない」

「じゃ、俺が真佐子を説得します。ハルヒに干渉とかしなきゃいいんですよね?」

「最初はそう思ったわ。でも、わたしたちの呼びかけに彼らは激しく抵抗したの。だから鶴谷さんたちに共生していた存在はすべて除去した」

「真砂子に取り付いているヤツはどうなんです?」

「意思の疎通を拒んでいる。彼女自身も」

「じゃ、一体どうすれば」

「だからあなたの助けが欲しい」

「俺が?」

「これはわたしたち端末の願いでもあるの。あなたはかつて、長門さんを救ったわ。情報統合思念体を相手にそんなことが出来たのはあなただけ」

 俺じゃない。ハルヒだ。ハルヒの望みがあったからこそ俺の言葉が通じたんだ。あいつがSOS団の存続を望んでいる限り、誰一人メンバーが欠けたりはしない。

「時間はあまりないわ。あなただけが彼女を救えるはず。でも誰も傷つかずにこれを収拾できるとは思えない」

 俺が、去年の暮れに長門を救った方法はもう使えない。俺の考えを見透かしたかのように、喜緑さんは言った。

「あなたの考えを聞かせてほしい」

 透き通るような薄緑色の瞳を俺に向けて喜緑さんは俺の回答を待っている。

 俺の考え? それはもちろんハルヒ、朝比奈さんの望みをかなえることだ。二人とも真佐子を守ってほしいという。

 だが、そのままにすれば長門は処分される。

「俺にはわからない……だけど」

「キョン君」

 喜緑さんは俺の言葉をさえぎった。

「こんなことを尋ねるのは失礼なのはわかっているけど、一つだけ教えてほしいの。あなたは彼女のこと好きだった?」

「なんでそんなことをきくんです。あなたには関係ないでしょう?」

 人間そっくりだからと言って人の心までわかるとは限らない。なんてつまらない質問をするんだろう。

 俺の背中に身を寄せた彼女の暖かみを思い出した。それがなんなのかは言葉にできない。

 だが、同じくらい強い思いを抱いていながら、それが叶わなかった存在がもう一人いる。俺はどちらか一つを選ばないと行けないのか。

「では言い方を変えてみるわね。あなたは彼女がいなくなったら悲しい?」

「……ええ」

「ありがとうキョン君。その答えでよくわかったわ」

「喜緑さん!」

 髪を揺らして立ちあがった彼女に俺は声を振り絞った。

「できるだけ……苦しまないようにしてあげてほしい」

 静かにうなずいて彼女は廊下へ出てドアを閉めた。

 そのとたん、窓の外は曇天に変わった。初めから朝日なんか無かったかのように。薄暗い部室でひとり俺は立ちつくしていた。

 喜緑さんのとの会話で一つ俺もわかったことがある。

 これまでも、そしてこれからもハルヒを取り巻く事件の中では、誰かがジョーカーを引かないとゲームはけっして終わらないのだと。




 その日の昼食会はまるで通夜だった。

 真佐子の登場を今や遅しと待っている谷口は、自分からは口を開かない。もっぱら俺がハルヒと会話するだけで、国木田は自分の弁当に向かって沈思黙考している。

 いかに普段の真佐子のコミュ能力に頼っていたか、あるいはハルヒの会話阻害能力のほうが大きすぎるのか。

 俺はもう彼女がここに来ないことはわかっていた。

 だから、今日彼女が現れないことをしきりに残念がり、俺たちのコミュニケーション能力がいかに足りないかを指弾するハルヒのたわごとを聞き流しつつ、昼食は終わった。


俺が行くところは決まっている。部室だ。今朝、黄緑さんが俺に預けた以上、俺があいつと対峙しなければならない。

 いつものように椅子に座らず、長門は真正面にいた。

 ドアの回転半径のすぐ外ぐらいの位置にぽつんとひとり立っていた。短い髪がドアの勢いで揺れた。こいつも待っていたに違いない。

 俺は前置きなしで言った。

「彼女はどうなった? ……消去したのか」

 長門は黙ったまままっすぐ前を見つめているが、視線は俺を微妙に避けているようなのは気のせいか。

「俺は、彼女が今まで通りこの学校に通って、みんなと一緒に過ごせるようにしてほしいんだ」

「…………」

「これはハルヒの望みだ。そして俺の気持ちでもある」

「喜緑江美里と協議の結果、共生体は生かすことにした。ただし彼らの母星への連絡ルートは完全に破壊した。彼らの母星の存在はこれを情報統合思念体の意思表示と受け取るはず。今後、涼宮ハルヒに手を出すことはない」

「じゃ真砂子はこれまで通りここにいられるんだな?」

「伊織真砂子はこの学校を去る。彼女の家族関係や新たな居住地については今後も継続的に私の情報操作で維持される。あなたが真砂子について記憶していることは失われない」

「なぜそんなことをするんだ!」

「彼女が望んだから。あなたに接近することは涼宮ハルヒとの関係を危うくすると」

「お前がそう言ったからじゃないのか」

 言ってはいけない言葉を言ったような気がする。

 長門は何も答えない。じっとしばらく俺を深い宇宙色の瞳で眺めていたかと想うと、やがて会話が終わったと判断したのか、部屋を出て行った。

 俺もチャイムが鳴る前に部室を出た。

 少しばかり強くドアを叩きつけたような気もする。



 あれから彼女の来ない一週間が過ぎた。

 次第に接近する夏が雨の勢いをすこしずつ削いでいく。午後からは憂鬱な雲間を割って陽光がこぼれ落ちることもある。


 いつもの昼食会は続いている。もうハルヒは同席していない。

 谷口も国木田も彼女のことを話さない。忘れたのか、それとも情報操作なのか。俺は自分から尋ねる気にもならないでいる。

 今は、当たり前のように谷口がつまらんジョークを言い、国木田がつっこみ、俺が受け流す。そんな集まりにもどっていた。

 誰もが彼女のことを最初から知らなかったみたいに。


 俺は心のなかに未消化のもやもやしたものが残っていて、今日、朝比奈さんに声を掛けられるまでは、身体もだるく免疫力もダダ漏れに低下中といったところだった。

 二階の階段の踊り場で朝比奈さんにぱったりあった。

「キョン君、ありがとう」

 俺は礼をいわれることは何一つしていない。

「キョン君に伝えられることはこれだけ。任務は成功しました」

「一体どうなってるんです」

「あの人は未来にとってかけがえのない人。これ以上は言えないの。ごめんなさい」

 そのまま朝比奈さんはふわりと長い栗色の髪をなびかせて変えて階段を上っていった。

 任務。つまり過去の人間を動かして未来に必要なことをさせることだが、それはどういうわけか俺でなくてはいけないらしい。

 その結果を知ることは決してない。

 ただの「任務」にすぎないのか。俺と真佐子の気持ちをまるで……。いや、よそう。俺にはどうにもならないのだ。

 昼休みあとのまどろみの五限目で生まれる妄想かもしれないが、俺はこう思う。

 彼女もその中に住んでいる何かもまだ生きている。つまり長門たちほどではないが人類より優れた宇宙存在がいるわけだ。

 真砂子はその共生体にいろいろと教えてもらったと言っていた。だから、朝比奈さんが必要としているのはその知識なのか。あるいはこれから先、真砂子がこれからする何かが歴史的に重要なのか。



 あと一コマで授業が終わるお疲れの六限目を待つ休み時間。

 後ろの女が何かしゃべりたそうになっているのをテレパシーならぬシャーペンの突っつきで認識した俺は後ろを向いた。

「キョン、あの子転校したらしいわ」

 とっくに分かっていたが、べつにそのことを自分から報告する義務はない。転校先はだれも知らなかったし、あえて訊ねようとするヤツもいなかった。

 一年前の転校騒ぎであれほど入れ込んだのに、今回のハルヒは妙に淡泊で関心を示さない。

「この学校にいたのはたったひと月あまり。惜しい人材だったわ。彼女はもう一人でやっていけるのね。たぶん。それとも誰か彼女を支えてくれた人がいたのかもね」

 そういってハルヒはちらりと俺を見た。

 今、彼女を支えているのは長門だ。なぜそこまでするのか。

 ここからは妄想だが、長門はひょっとすると真砂子に自分と同じ境遇を見いだしたのかもしれない。ともに任務のために何らかの思いを抑圧しながら、ハルヒをめぐる異常な環境で任務を遂行するという。

 真砂子はこれからもずっと長門に頼ることになるわけだし、あの長門のマンションですごしたりするのかもしれない。超絶宇宙存在に作られた有機アンドロイドと、半分宇宙人の真砂子とが。

 でも、もう二度と会えないような気もする。

 時間は無情に流れていく。真砂子は俺にだけは本当の気持ちを打ち明けてくれた。それだけはずっと残る。いや、忘れない。

 今日も帰宅した長門をやっぱりどっかの高校から帰ってきた真砂子が待っていて、二人で仲良くお茶でも飲んでいる。そして互いに遠い宇宙の話をしているかもしれない。

 そうであって欲しい。



 窓を見上げると晴れあがった空が夏の到来をつげていた。



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