第30話 夢のまた夢

 品川の実家を出たのは27か28のとき。その数年後に結婚し、子供を二人授かった。何かの理由をつけて孫の顔を見に来る両親も、最近では父の足の具合が悪く家からあまり外に出ていないようだ。私も子供の成長と共に親の都合だけで実家にはいけなくなていたから、ここ数年は何回か――夏休みと正月くらいしか品川の実家には帰っていない。しかし、思えば家族を置いて品川に一人で帰るのは何年ぶりだろうか。そう思うと急に懐かしさがこみ上げてくる。


 旧東海道は、北品川、新馬場、青物横丁と京浜急行線に平行して立ち並ぶ昔ながらの商店街になっており、今でも昭和やそれ以前の面影を残す建物や史跡が観光としても人気のスポットになっている。私にとっては少年時代にはいたずらの思い出、中学生の時には喧嘩や恋愛、高校生の時には早く抜け出したいふるい町。そして今は懐かしい町であり、私の記憶の一部である。そう、これは私の記憶の一部なのだ。だからなのか。私は無性に誰かに昔話をしたくて仕方がなくなった。そしてその話を聞いてくれるのはあの老人――静かなる老人しかいないのだ。


「私の両親は函館出身で、私が3歳のときに上京したんです。品川に落ち着いたのは5歳の頃で、以来20年くらいこの街に住んでいました。あー、そう、私、自己紹介してなかったですね。川島といいます。」

 老人が名乗るだけの十分な間をあけて私は更に話し続けた。老人が自ら名乗ることはないとわかっていても、そういうことは、身に付いた私の会話のリズムである。


「函館は確かに生まれ故郷なんですが、それほど思い出があるわけではありません。それに比べてこの町は20年も住んでいましたから、やはり特別な場所なんでしょうね。こうして歩いていると、いろんなことを思い出します。知ってますか? このあたりは結構古い神社とかあって、お祭りも結構盛大なんですよ。でも、私は神輿を担いだり、そういうかかわり方はできなかったんです。そういうのって、最初が肝心で、そこにすぐに溶け込めなかったんですね」

 老人が会話に入り込む間を十分に取りながら、そして老人がどんな話に関心があるのかを探りながら話をしていたが、だんだん、そういうことはどうでもよくなり、私は無邪気にべらべらと話しを続けた。


「悪いこともしました。小学生のあれは、3年生か4年生の頃だと思います。老夫婦がやっている駄菓子屋が……えーっと、ここをもう少し先に行ったところを右に曲がって、えーっと、確かレコード屋があって、本屋があって、その2軒か3軒隣だったかな。もう、その店は今はもうないんですけどね。で、そこで友だち数人と万引きをしようってことになって、私は一つ10円の花火を二つ万引きしたんです。なんの苦労もなくできちゃったんです。で、それが、いやでいやでね。ものすごい罪悪感があって、それ以来、私は一度もそういうことはしませんでした。しないというか、できなかったんですね」


 老人はうなずきもしなければ、こちらを見もしなかった。それでもなぜか、ちゃんと話を聞いてくれているという感覚が確かに私にはあった。私は子供の頃にしでかした数々の失敗談や、どんなことに興味があり、どういうものを恐れていたのか。そんな話を、まるで子供が親に「ねぇねぇ聞いて」と今日学校であった出来事を報告するような口調で話し続けた。


「だいたい遊び場所にはよく、怖いおじさんやおばさんが時々来て、ボクらが悪さをするとこっぴどく叱るんです。今はもうそういうことはこのあたりでも少ないのでしょうが、あれはあれでシツケとか道徳とか、地域が教育の一部分をきちんと担っていたのかもしれませんね。友達同士の殴り合いの喧嘩だって、遠目から限度を越えないように……そう、まるでレフリーやらドクターがついてる試合のようなものでしたからね。こう見えてボクは警察に補導されたこと、何度かあるんですよ」


 話をしているうちに、いつの間にか『私』から『ボク』に変わってしまった。そう、私はどこかの時点から意識して『私』と自分のことを言わなければ、思わず『ボク』と言いそうになっていたのだ。しかし、一度『ボク』と声に出してしまってからは、もう、抗うことの無意味さを思い知らされていた。そう、今『私』は『ボク』になって老人と話しているのだ。今はそれでいいじゃないか。


「パラダイムシフトって言葉があるんですけど、えっと、つまり大きな出来事があって、それまでの価値観が変わってしまうっていう体験のことを言うんですが、ボクにとっては小学校から中学に上がった時がまさにそれでした。クラスでちょっとしたいじめ見たいのがありまして……どもりの子で、クラスのみんなとあまりコミュニケーションが上手にとれてなかったんですね。で、あるときちょっとしたもめごとがあって、それをきっかけに大きな騒ぎになっちゃって、クラスの子、ほぼ全員でそのどもりの子……確か竹田君っていったかな。その竹田君を取り囲んであわや集団暴行って、そんな雰囲気になっちゃって。それでボクはこれはマズイって思ってみんなを止めたんです。本当に怖かったんだけど、ボクはそういうことがとても嫌で……」


 不意に老人が立ち止まる。私は意表を疲れて、思わず体のバランスを崩して、変な格好で立ち止まりつつ老人のいる方向に向きを変えた。が、そこにあるべきもの――老人の姿は見えない。驚いてあたりを見渡す。不思議なことに、周りに人がいない。話に夢中になり、周りの景色にあまり気を配っていなかったがゆえか、或いは偶然にそういう状況ができていたのか。いや、それにしてもおかしい。この道に流れてきた人の数は、私が話しに夢中になっている間に全ての人がわき道にそれるなどということは考えられない。


 どうやら私は、再び妄想の世界に迷い込んでしまったらしい。そしてやはり、それは現れた。


 一匹の蝶が、どこからともなく現れた。それは小さく、しかし力強く羽ばたいている。白でもなく、黒でもなく、青のようでもあり、赤のようでもある。その蝶そのものが光っているのか、或いは光が蝶を包んでいるのか、弱弱しく、しかし暖かい光に包まれ、それは夜の街を彷徨う。私の目の前を二度三度と行ったり来たりを繰り返し、私の意識が十分に蝶に向けられたとたんに、蝶は少しずつ私から離れていく。私はどうしようもない不安に陥り、その蝶の後を追うしかなかった。その先に何があるかという不安よりも、蝶を見失う不安のほうが圧倒的で、絶望的に思えたのは、蝶の進む方向以外の風景は、すっかりと闇に閉ざされ、建物の形も道路の行方もすべていい加減になってしまっていたからである。選択肢はなかった。



 蝶はまっすぐに、そしてゆっくりと宙を舞い、私はその後を静かについていった。蝶の前方の景色に違和感を感じ始めたのは、感覚的にはすぐであったが、もしかしたら数分は経っていたのかも知れない。それほどに時間の感覚があやふやででたらめに感じていた。


「この景色は、品川には違いないけど、これって昔の……小学生の頃の風景じゃないか!」

 夜なのか昼なのか。或いは朝なのか夕方なのかはっきりしないほどまどろんだ空間に、見覚えのある建物がひっそりと並んでいる。ガラス張りの扉の入り口。店の中央にレコードの棚、壁両面には懐かしいLPレコードが所狭しと陳列してある。あのレコード屋で最初に買ったのは……確かアリスの武道館ライブ。2枚組で私が好きな曲がたくさん収録されていた。あれは確か、誕生日のプレゼントに買ってもらったものだったか。レコード屋の向こう側の本屋。入り口に雑誌が並んでいる。私は本を読んだりマンガを読んだりするのは好きではなかったから、友だちと本屋に行こうと誘われても、あまり気が進まなかった。立ち読みするにも、何を読んでいいのかわからず、暇を持て余し……そうだ。それでSF映画やホラー映画の特集した本を見つけたんだった。


 本屋を過ぎると和菓子屋と普通の民家が並んでいた。「そうか……そういえばそうだった」そして蝶はその隣の駄菓子屋へと入っていった。とたんに私の中にどうしようもないほどの罪悪感がこみ上げてくる。「なんだ。一体なんだっていうんだ。この感覚は……まるであのときの」


 蝶の後を追って私は駄菓子屋の入り口の前に立ち、自分の胸の右手で押さえていた。それは具体性を伴う心臓をちくちくと針を刺すような痛みと心の無防備な部分を突き刺すような感覚の両方で、どちらかといえば、後者のほうが激しかった。店の中を覗くと、そこには『懐かしい』という言葉でしか言い表せないのがもどかしく感じるほどの『古く』、『色あせた』、『可愛らしく』、『かっこよく』心の奥の深いところをくすぐる、こそばゆい感覚をともなう光景が広がっていた。


 ズキン!


 だけで、そのこそばゆい感覚はすぐに激しい痛みにかき消された。


 ズキン! ズキン!


「何もかも昔のままだ。それにこの場面はあのときの……」

 そこには3人の子供がいた。一人は半ズボンに白いシャツ。一人はオーバーオールに野球帽。そしてもう一人は……水色のシャツにジーパン姿の小学生、あれは、あれはあの頃の私、あの頃のボクではないか!


「なぁ、大丈夫かな」

「平気だよ。みんなも絶対にバレないっていってたよ」

「でもさぁ。やっぱり……やだよ」

「根性なし!そんなんじゃ、みんなに馬鹿にされるよ」

「なんでもいいから、ホラ、早く。じゃないと本当に見つかっちまうぞ」


 そう。あのとき、学校の裏の神社で他の学校の奴と知り合って、それで変な自慢話になって、こんなこと――肝試しをする話になったんだった。どっちが勇気があるかなんて、そんなことで。


 そんなことで……計れやしない


「お前、やらなかったら仲間にいれてやんないからな」

「わかったよ」


 ボクは煙幕花火と呼ばれる小さな爆弾の形をした花火を二つ手に取り、それをポケットに入れようとしていた。

「やめろ。その手を離すんだ!一生後悔するぞ。この胸の痛みを一生背負うことになるぞ!」

 私はボクに声をかけたがその声はまったく聞こえていないようだ。ボクはしばらく手をポケットの中にいれ、ついにそのまま何も握らずにポケットから手を出した。ポケットには小さなふくらみが二つ。


 ズキン! ズキン! ズキン!

 勇気の量なんて


「行こう」

 一人の少年が声をかける。ボクはうなずき、そして一目散に店から飛び出す。私のすぐ横を走り去るその表情は苦悶に満ちていた。

「嫌なら、なぜやめない!」

 私はあまりの胸の痛みに思わず嗚咽を漏らした。

「こんなこと、こんなこと、今更……いったい何のつもりだ!」


 走り去るボクと少年二人の後姿はあっという間に闇に吸い込まれてしまい見えなくなってしまった。そうだ。こんなことすっかり忘れていた。今の今まで、あの老人と昔話をするまでは……


「痛みを伴う記憶は、時に忘れ去られる。忘れてはならないからこそ痛みを伴っていたものを、それでも人はそれを忘れる。しかし、こうして思い出すこともある。忘れる必要があるから忘れ、思い出す必要があるから思い出す。それだけのことじゃ」


 その声のする方向に目を向けるが、そこには一匹の蝶がヒラヒラと宙を舞っているだけだった。

「忘れてはいけなかった。忘れてはいけなかったんだ」

「でも忘れてなかった。こうして思い出したのだから、忘れてはいなかったのじゃ」

「そうなんでしょか。ボクは……私は……」


 そう、してはならないとわかっていても、私はその後、中学生になってから自転車を盗んだのだ。自転車を盗んだときの私は、すっかりその罪悪感を忘れていた。そう、忘れていたということを、今思い出した。私は膝から崩れ落ち、両手を地面について、そして駄菓子屋に向かって頭を下げた。

「ごめんなさい。ボクは、ボクには勇気がなかった。そして同じ過ちを……」


「人の心はそれほどに単純なものではない。それに勇気がなかったのではない。勇気の出し方がわからなかっただけじゃよ。どれ、次はそなたの勇気を見ようではないか」

 次の瞬間、私が崩れ落ちたアスファルトは、グレイの合成樹脂のフローリングに変わった。

「これは……まるで教室の床」

 次の瞬間、肩や背中や腰に痛みが走る。人の気配。それも大勢。視野が少しずつ広がる。足……たくさんの上履き、これは中学のときの上履き。赤色……そう僕らの学年は赤色の上履きだった。

「どけよ!川島!じゃますんなよ!」

 怒号が聞こえる。

「なんでそんなやつをかばうんだよ!」

 そんなやつ……いったい誰のことだ。いや、わかる。

「おい!竹田なんかどうでもいいだろう!」

 竹田……竹田君。次の瞬間私と床の間に頭を抱え小さく丸まった竹田君の姿が現れた。


 なんてことだ!今度はあの場面なのか!




 教室は騒然としていた。

「あんたたちやめなさいよ!」

「うるせぇ。女子は黙ってろ!」

「こいつ絶対にゆるさネェ。調子に乗りやがって!」

「竹田君がなにかしたの?」

「知らない。でもなんか余計なこと言ったみたいよ」

「へぇーそうなんだ」


 本気で蹴飛ばしたり、殴りかかるようなことは誰もしていなかった。それでも大勢に囲まれて暴力を振るわれる恐怖というのは相当なものだっただろう。しかし、そういうことを想像したことはなかった。あのとき自分がとった行動について論理的に説明することは難しい。もし説明をすればそれは、不合理極まりない。竹田くんのことは好きではなかった。いや、それどころかまともに会話したこともなければ、話したいと思うこともなかった。平たく言えば嫌いだった。嫌いな奴が、大勢に囲まれて危険な目にあっている。竹田君を取り囲んでいる人の中には仲のいい友だちもいた。もし、論理的に説明するなら、彼らが竹田君に暴行を加えることで、友達が後で学校の処罰の対象になり、酷い目にあうかもしれないと、そう思ったからだ。竹田君を守るためではなく、暴行に加わろうとしている友達を止めるために、私は……いや、オレはとっさにあの行動に出たのだ。しかし……


「まわりは、それを理解しなかった……特に大人たちは」

 老人の声が聞こえる。これだけ大勢の人に囲まれているにも関わらず、老人の声は実に静かに、そして淀みなく耳に入ってくる。相変わらずオレのしたにうずくまっている。いったい、どんな表情をしているのだろう。さぞかし怯えているのだろう。そう思って、武田君の顔を覗き込もうとするが、どうにも顔が見えない。なぜだか急に腹立たしさがこみ上げてきた。


「オレはお前のせいで、こんな……こんな辛い思いを」


 突然ドアが開く音。そして担任の女教師の怒号。

「コラー! やめなさい! 何をしてるの!」


 静寂と沈黙。やっと終わったのか。こんな茶番……


「さぁ、座りなさい。何も心配はいらない。私たちは学校をよくしたいんだよ。川島君はなにか悩みとかあるかい。学校に対する不満とか……みんな、何が不満なのかね。先生に教えてくれないかな」

 そこは校長室。校長と担任がソファに腰掛けている。オレはなんとも不快な思いを胸に秘めながらも、促されたように対面のソファにすわり、この応えようのない質問にどう答えるか。どうかわすか。どうやったらここから早く出れるかだけを考えていた。


「別に、僕には不満とかそういうのは……」

「いいんだよ。なんでも相談にのるから。だからこれからも学校のためにいろいろと協力して欲しいんだ」

「協力……ですか」

「そう。川島君はとても『勇気』がある生徒だ。先生はとても誇りに思っているんだよ」


 (『勇気』って何ですか? 先生! 教頭先生の言う『勇気』って何ですか?)


 たった一つの出来事で、オレの環境はすっかり変わってしまった。大人たちからはヒーロー扱いされ、仲間内からはいい格好をしただけだと、逆にいじめられる始末。その関係を修復するためにも、オレは証明をしなければならなかった。オレもみんなと同じ大人に不満を持った一人の中学生なんだって。


「だから……」

「ふたたび、罪悪感を押し殺し、自転車を盗んだわけか」

「そう。でも罪悪感はこれっぽっちも感じなかった。あの時とは違ったんだ。だって、オレが望んだことだったんだから。盗むのが目的じゃない。仲間が欲しかった。認めて欲しかった。ただ、それだけだったのに……」


 目の前に警官が一人座っている。ここはそう。自転車を盗んだ事がばれた交番だ。

「じゃあ、ご両親に連絡を入れるから、いいね」

「はい」

「最近の中学生は平気で人のものを盗む。まったく困ったものだ。親の顔がみてみたいわ」

 もうひとり警察官がいる。パイプ椅子に座るオレの横で、いぶかしげにこちらを睨んでいる。どうやら目の前に座っている若い警官の上司のようだ。

「ちゃんとお子さんを監視しないとだめですよ。お父さん!」

「この子は、大丈夫ですから。何も心配は要りません」

 父が、父がいつの間にか横に座っている。その言葉に思わず涙がこぼれる。

「うちの子にかぎってってやつですか?そんなことだから」

「もう結構ですから。あとは家で、ちゃんと言って聞かせますから、今日はこれで失礼します」


 中学に入学した頃から、父親とも母親ともあまり会話をしていなかった。小さい頃は毎日のように父親に怒鳴られ、殴られ、それなりのしつけは受けてきた。ある時点から父親はオレに何も言わなくなった。それをいい事に、好き勝手にしていたが、それでも親に直接心配をかけるようなことはそれまでなかった。今回、よほどこっぴどく怒られるかと覚悟していたのに……


「盗んだ持ち主の所に謝りに行くぞ。それでこの件は終わりだ。いいな」

 涙を浮かべながら『ごめんなさい』と謝るしかなかった。涙で曇った世界は、再びでたらめにまどろみ始めた。暗闇にまた一匹の蝶が現れ、私の前をヒラヒラと舞い始める。次はどこに連れていくというのだ。もう私には何もない。これが今のわたしの全てだ。私という人間は、こうして作られたのだ!


「まだまだじゃ。まだまだこれからじゃよ」

 老人の声。

「どれ、最後にもう一つ、見せてやろう」

 その声とともに蝶が私の周りをぐるぐると円を描いて回りだした。不意に身体全体に悪寒が走る――目眩、私は体のバランスを失い、思わずよろけてしまった。耳鳴りがする。炭酸水がシューと激しくあわ立つような音がする。一瞬上下左右の感覚が失われ、宙に浮くような気持ちの悪い浮遊感が私を襲う。


「大丈夫ですか?」

 不意に男の声が背後でした。私は意識を取り戻した。そう、何者かにとらわれていた意識を自らの身体に取り戻したのだ。

「大丈夫ですか?気分でもわるいんかいな?」

 関西弁?なんでこんところで関西弁が……



 人懐っこい表情を浮かべながら、一人のサラリーマン風の男が私の背中を支えてくれた。それがなくても倒れはしなかった。いや、きっとままならなかっただろう。いったい、自分の身に何がおきたのか? いや、それよりも、ここは一体どこだ。その疑問はほんの数秒ほどで解決した。そこはよく見慣れた場所。実家から歩いて5分ほど離れた旧国道の交差点だ。ここを左に曲がり、少しいったところが私の両親と妹が住むマンションだ。


「兄さん、さっきから、ふらふらしながら歩いてたから、心配して見てたんやけど、急に立ちどまって、なんだか声を上げたかと思ったら、急にその場でクルクル回りだして、倒れそうになったもんやから、思わず駆け寄って助けなアカンと思ったんや」

「あ、す、すいません。なんだか酷く疲れていたみたいで。歩きながら寝ちゃってたのかもしれません。も、もう、大丈夫ですから」

「なんや、酔っ払いかと思ったら酔うてへんのや。身体きいつけなアカンでぇ」

「あ、はい。ご心配お掛けしました」

「あ、でなぁ、兄さん、この辺の人かいな?」

「ええ、すぐ近くに実家があります。地震の影響で家には帰れなかったもので」

「そうか、そうか。いやな。じつはワシ、今日大阪から出てきたんやけど、この騒ぎやろう。知り合いのところにいかなアカンのやけど、どうも不慣れで難儀してんねん。大森の駅に行きたいんやけど、この道でおうとるんかのぉ」


 私は一瞬狐につままれたようなそんな感覚に襲われた。しかし、そういうこともあるのかもしれないと、その男に丁寧に道順を教えてあげた。ここを右に曲がり、京浜急行の新馬場の駅を過ぎて、国道15号にでたら、左に曲がり、まっすぐに行けば、いずれ大森駅方向へ曲がる交差点の案内が出ているだろうから、それを頼りに行けば迷うことはない。わからなかったら、その道なら、同じ方向に向かう人もいるだろうから、道を訪ねればいい……と。


「おー、おー、そうか。わしゃあ てっきりこの道が国道かと思ってな。やけに細い道やし、おかしいなぁとおもってたんやけど、ほう。これが旧東海道ってやつかいな。まぁ、国道には違わなかったわけやな。ほな、ありがとさん。おおきに」

 男は片手を高く上げ、私に手を振りながら、ようようと去っていった。私は男の後姿を身ながら、ふと、あの老人のことを思い出し、そして、今この世界が現実であるかどうかを確かめるべく携帯電話を取り出し、カレンダーを眺めた。


 2011年3月11日23時26分


 ここは現実で、そして老人の姿は見えない。当然にあの蝶の姿も気配もない。あの地震からまだ10時間もたっていないこの世界こそ、私がいる世界なのだ。あたりをもう一度見回し、ペットボトルに残ったお茶を飲み干す。近くの自動販売機の横に設置してあるゴミ箱にペットボトルを投げ込み、旧東海道を左に曲がる前に、私はもう一度あの関西弁の男が向かった方角に向きを変え、男を捜した。そこに男の姿があった。その横にもう一つの人影が見えたような気がしたが、その影はすぐに街燈の明かりの中に姿を消してしまった。


 老人が最後にもう一つ見せてやろうといったのは、いったい何のことだったのだろうか?


 大きくため息をついて、私は実家へと歩き出した。そして私は知ることとなる。老人が最後に見せてやるといったもう一つの世界のことを。


 それは、翌日の朝日とともに姿を現したもう一つの世界。日本中がパラダイムシフトを迫られた『震災後の世界』であった。私が経験したいくつかの出来事、そして妄想の中の出来事は、常にいくつかの可能性を秘めている。それを私は――私たちはいくつも選択をし、現在に至っているのだ。私がバスの中で見た妄想は、決して妄想にとどまらない一つの可能性を示していたのだと今なら思える。


 私は見た。繰り返されるニュース映像。多くの命が奪われ、多くの悲しみが生まれた瞬間を。


 私は見た。夜が開け、自宅へ帰ろうと動き出した電車に乗り込むために地下鉄の入り口に列を成す人々を。


 私は見た。東京タワーの折れ曲がったアンテナを。


 私は見た。夜を徹して普及作業に追われた駅員の疲れ果てた姿を。そしてその駅員に詰め寄る客の姿を。


 私は見た。食料や水を買いあさる人々の姿を。物資を送る人々の姿を。


 私は見た。壊された道路を。そしてそれを直す人々を。


 私は見た。明かりを失った夜の街を。


 私は見た。歌うことを忘れた歌唄いを。


 私は見た。


 そう、確かに私はあの日、あの震災の日に静かなる老人を見たのだった。


 そして、今、私は、自分が『蝶になった夢から覚めた自分』なのか『蝶が見ている夢』なのかを、はっきりと答えることが出来る。


 私は――



『教訓が生かされなかった現実』という夢の中で生きている。


 人類が滅びるそのときまで。

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