朝焼けのラグナロク

ヰ坂暁

朝焼けのラグナロク

 身支度を済ませ、荷を纏め、明け方近くに宿を出る。

 朝食は向こうで摂ろう。市場の近くには俺のような商人や職人のため、早くに開いている飯屋も多いはずだ。

 地図とランタンを手に歩く街はまだ夜闇に包まれていて、日中なら目に鮮やかな三色のレンガ造りも今は黒一色だ。

 市場への道は途中大きく二つに分かれ、他方は街一番の高い丘に続いている。そして俺は市場の方へ行かずそちらの道を進んだ。丘からは街と海が一望できるそうで、仕事始めを前に朝日が照らす街を拝んでおきたかったのだ。

 地図通りに坂を登り、角を曲がり、階段を上がれば当然丘に辿り着いたが、そこで思わぬものに出くわすことになる。

――なんだありゃ……。

 丘には目印でもある鐘塔が建っているが、そこから少し離れた、ちょうど街を見渡すのにいいな、という位置に大きな塊が鎮座していた。最初は大岩かと思ったが、それにしては輪郭が丸っこい。

 ランタンの灯をかざしてみると闇の中にその全貌が浮かび上がった。ワニより何回りも大きな体。折り畳んだ翼には羽毛が無く、あちこちに作った傷からの流血が体表を覆う鱗を濡らしている。

――竜か……。

 小型種や稚竜(ちりゅう)ならいざ知らず、こんな大物には旅の商人という身分でもお目にかかったことはない。実際にいると知ってはいても見るのは絵画や書物の中だけの、空想にも近しい存在が目の前にいるのだ。

 ただ傷を負って動かないので死んでいるのかと思った矢先、ぐぐっ……とその身を動かした。

「うぉっ」

 小さく漏れた俺の声に反応したのか、竜が長い首を動かしこちらを向く。体はワニに似ているが顔立ちはトカゲやヘビのようで、くりくりとした大きな双眸にしゅっとした鼻孔は雌雄もわからないのにどこか女性的な美しさがあった。顔を合わせると改めて思う、「これが竜か」と。

 怪我を負った身とはいえこれほど大きな生き物が自由な状態で目の前にいるのに、俺には特に怖いという気持ちが無かった。それは竜が殆ど人を襲わないという知識のためか、殺気めいたものを感じないからかはわからない。暫し見つめ合った後、竜が口を開いた。

「あなたは、私を狩りに来たの?」

「……っ!?」

 俺に向けて喋ったのだ。竜語ドラコリンガとやらではなく、この国の言語で。大型竜は人と遜色ない知性を持ち、言葉を操る。太古、竜が人に知性と言葉を授けたと謂う神話もあるくらいだ。そう知ってはいるのだが、やはり実際に人以外の生物が自分に喋ってくるというのは面食らうもので、単純な問いの割に答えるのには時間を要した。

「いや……、俺は商人でね。市への途中ここに寄ったらあんたがいたってだけで、どうこうする気は無いよ。出来るような武器もないしな……」

「……そう」

 安心したのだろうか。竜は一度瞬きするとそう言って、元の方へ向き直った。それを見た俺は竜へと歩み寄り、すぐ傍らに跪く。

「何……?」

「竜を助けるといいことがあるって死んだ爺さんが言っててな。竜に効くのか知らんが、いい薬がある」

 鞄から小瓶入りの軟膏を取り出し、指につける。竜が特に嫌がる素振りも見せないので、布で血を拭うと傷口に塗り込んでいった。医学にも竜の生態にも詳しく無いが、見た感じもともと命に関わる傷じゃあ無さそうだ。

「随分たくさん使ってくれたみたいね」

 確かに小瓶の薬は元の半分ほどに減っている。何しろデカいからな。

「実は今日から仕事始めでね。ゲン担ぎに少しばかり奮発しても、まあ」

 金銭感覚の鈍い商人は論外だが、ケチり過ぎるのもまたよくない。東国の古い哲人も過ぎたるはなんとかとか、そんなことを言っていたはずだ。

「ありがとう、助かったわ。でも多分、ご利益を期待出来るような存在じゃないわ。私達」

 そう言う声には卑屈な響きがあった。

竜族あんたらは神じゃあ無いのか?」

「今そんなことを言うのは、竜の中でも年寄りばかりよ。

 あなただってお祖父さんの言葉、本気で信じてはいないでしょう? 商人は現実主義だと聞くもの」

 卑屈な色は濃さを増して感じるが、言っていることは確かにその通りで、俺は言葉に詰まった。


 古くから竜は神、或いはその眷属とされた。知恵と力の象徴であり、焔を吐き、風を纏い、命の生滅を左右する多くの事象を司った。その力強い姿は国家の紋章として用いられ、英雄譚の主人公は竜を友とし、王家の系譜を遡れば神代の古竜が名を刻まれている。それほどの存在だった。

 しかし今、竜への信仰が生きるのは一部の地域や老人の間だけ。多くの人間は俺がそうであるように、「なんとなく縁起がいい生き物」程度にしか彼らを捉えていない。

 人々が彼らへの畏れを失ったのは外来の異教が竜への信仰以上に力を持ったからだとか、共に持ち込まれた技術や知識が自然に大きく左右されず安定した生活を齎したからだとか、繁殖力の弱い彼らを人の軍隊が数と銃火器の力で上回ったからだとか、それらしい要因はいくつもあるが、とにかく言えるのは多くの人間にとって今や竜は神では無いということだ。


 俺は荷物を置くと竜の隣に腰を下ろし、同じく視線を前方に向けた。

 水平線からはちょうど太陽が頭頂部を覗かせ、闇一色の海と空に光が差し始める。座り込んだのはこの竜ともう少し話をしてみるため。当初の目的からずいぶん逸れているが、彼女に興味が湧いていたのだ。

「その傷、人間にやられたのか?」

「ええ。森の棲み処を大勢で囲まれて……。散り散りで逃げたけれど、狩られた仲間もいるでしょうね」

 竜の牙、鱗、骨、血……竜にまつわる品に市場で高値がつくことは商人なら常識だ。一部の金持ちや貴族には竜を飼おうとする好事家も、神話にあやかって竜とまぐわおうとする悪趣味極まる者もいるらしい。

 ある意味それも旧き神への畏れ故と言えるのかも知れないが、しかしそんな需要も供給も、竜への信仰が強固な時代にはありえなかっただろう。

「この丘にいるのは?」

「飛ぶのに疲れたから、空に近いところで休んでいるだけよ」

 棲み処を追われ、傷を負って翼を休める竜の横顔に俺は思わず見入っていた。間に置いたランタンの灯が照らすその表情が、人間でもそうそう見ないほどに哀しげだったのだ。

「祖母は言っていたわ。

 『自分達は神の血を引いている』『特別な力がこの身に宿っている』って。

 その祖母が異人の持ち込んだ疫病で死んだ時、銃を持った人間の群れから逃げる時、思った。

 私達はこんなものなんだって。神なんかじゃ無いって」

 「自分達は神じゃ無かった」――没落貴族もびっくりな嘆きの理由だ。しかし確かに、彼女の祖母のような古い竜などは自分達が神から獣へと堕ちゆく時を生きていたのだろう。

「長命で、知恵があって、空を飛べて、火を噴ける……私達は他の獣より、古い時代の人の群れより優れていたけれど、それだけ、それだけなの。

 優れているから神になれるわけじゃあ無いのよ」

 朝日が夜を食んでゆく中、竜の口から出た神についての言葉に俺は昔のことを思い出していた。

 

 子供の頃、今は隠居した父と行商の旅をしていた。その途中、礼拝に向かう人々や巡礼の旅人達を目にすることは頻繁にあったし、彼らを相手に商売をすることも珍しくなかった。

 そして少し知恵のつく年頃になると、宗教というものを知識でしか知らない俺は、彼らに大きな疑問を抱いた。

 彼らの祖が教えを授かったのは千年以上前の話。信じる神にまみえることは天に招かれる日まで決して無く、その御業の片鱗を体験した者さえ、伝承に残る数人の聖者のみだという。

 何故そんな保証の無い教えを、神を信じられるのか――俺がそう尋ねると父は少し考えてこう答えた。

「俺は信じちゃあいないし、学も無ぇが、きっと疑わしきを信じることこそ信仰なんだろう。東から日が昇ることを誰も信じるたぁ言うまいよ。知ってるだけさ」


 今かき消されてゆく夜の闇を、不便だという以上に人は畏れる。しかし、見えない、わからないということは恐怖でもあり、魅惑でもある。

 人は竜を畏れるには彼らを知りすぎてしまった。少なくとも、知ったと思い込める程度には。原始、人が猛獣を弓や投槍で征服したように、大多数の人にとっての竜はもはや「頭のいい獣」に過ぎないのだ。

「人間が嫌いか?」

「…………わからない。怒りも覚えるけれど、仕方ないことかも知れない。

 それより、自分達が嫌い」

「と、言うのは?」

 そろそろ空腹も感じつつ、続けて尋ねた。

「情けないもの。人にかしずかれて、神だなんて傲って……今はこれ。

 誇りも何もあったものじゃ無いわ」

 くぐもった声にちらりと横を向けば、大きな瞳から涙が流れていた。

 竜に出会ったと思ったら、こんな深刻な内心を吐露され、泣き顔まで見せられている。大国の都から辺境の貧村まで色々行ったし、色々見たが、今日ほど珍しい体験をした日も無いだろう。

 暫し沈黙が流れた。空は限りなく青に近い藍で、水平線近くが朱に燃えている。

「……かいこって虫、知ってるか?」

 朝になるまで黙り続けるわけにもいかないので、上手いことを言えるかわからないが口を開いた。こんな風に切り出したのは、今日店に並べるのが主に南方産のシルクだったからかも知れない。

「蛾の幼虫でしょう? 絹糸を吐く」

 竜の生活には関わらんだろうに、博識なもんだと感心しながら続ける。

「うん、まあ。

 その蚕な、人間が飼ってるのが殆どで、人間が絹糸を作らなくなったら絶滅するらしい」

「……そうなの?」

「ああ。竜は人間に甘えていたかも知れんが、蚕に比べりゃあずいぶんマシだ」

 虫の身で説法の引き合いに出される蚕には少し気の毒だが。

「だからな……俺はお前さんらの苦境を救うなんて出来ないし、人間が竜を狩るのも咎める気にならないが……」

 時計をちらりと見る。そろそろ行かんと朝飯の時間が無いな。

「まあ、頑張って生きろ。人間の武器に勝てなくても、竜は強いし知恵もあるんだろう。例えば人の来ない土地に群れで移るとかな。

 生き物は、神じゃなくてもしっかり生きられるんだ」

「……」

 今度は竜の方が沈黙する。さっきと違ってどう思っているんだか表情からは読み取れないが、しかし人間相手の説教も殆ど経験が無いのに、偉そうなことを言ってしまった。なんだか恥ずかしい。

「じゃあ、俺は市場へ行くよ」

 気恥ずかしさもあって、やや急ぎ気味に立ち上がる。尻に着いた砂を払って、荷を背負い直した。

「もう半刻もすれば鐘撞きの役人が来るはずだ。

 お前さんもそろそろ発った方がいいぜ。知ってるだろう? 人間は怖い」

 夜は完全に明けていた。見下ろした街の風景は開かれた当時からの旧来風と、ここ数十年で流行した当世風が入り交じっているのがわかる。煉瓦造りの屋根が覆う大市場グランバザルには商人達も集まり始めているだろう。今日から暫くはあそこが俺の職場だ。

「竜と話すなんて、珍しい経験が出来て良かったよ」

「私も。傷薬もお話も……あなたに会えて良かったわ。

 商い、頑張ってね」

「おう」

 それを最後にまだ臥している竜に背を向け、歩き出した。

 「頑張れ」――お互い無責任な言い方だが、旅に生きる者に責任ある言葉などそうそう吐けない。一瞬だけ交わった互いの旅路は、また別々な方向へ伸びてゆき、再度交わることは殆ど無い。


 丘を降りて、さっきの岐路まで戻り、今度はちゃんと市場への道を行く。市場の入り口手前、街の中心の広場には神の像が立っていた。特に珍しいものでもないが、あのやり取りの後なので思うところがあった。

 この神は、いつまで神でいられるのだろう。

 竜と違い、天に座すという彼は人間に征服されることも無く、永劫神の座にあり続けるのか。竜がそうだったように、新たな教えに取って代わられるのか。

 いつの日か、人間が目に見える世界だけを見て生きていけるようになるのか。多分俺が生きているうちは安泰なのだろうが、永い時を経て、この像が風化した頃にはどうだろう。

 数世紀続く市場の門を守護する、細かい意匠はすっかり削れてしまった竜の像は、ちょうどその新しき神を見守るような位置に座していた。



「おお、竜だ」

 屋台で朝粥を食っていると、店のオヤジが空を見上げて言う。俺も彼の視線の先を追えば、青空に浮かぶ、鳥にしては大きすぎる影が海の方へ遠ざかって行った。

 街に響き渡る鐘の音を聴きながら、この朝出会った旅人の前途が少しは明るくありますように、と、俺は自分の中の得体の知れぬものへ祈りを捧げていた。

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