薄墨桜
歌峰由子
第1話
ひらり、ひらりと花弁が舞う。薄墨を刷いたような低い空の下で、桜が舞い散っていた。
否、見渡す景色一面、天と地を覆い尽くして舞うそれは、花びらなどではない。
灰だった。
『薄墨桜……? なに、それ』
園芸好きだった友人の話題にのぼったその名を、何故か今でも覚えている。その桜は真っ白な花を咲かせ、散り際にうすい墨色に染まるというのだ。
桜と言ったら薄紅色。墨色の桜なんて、美しくもなんともないだろう……。そう笑ったことを覚えている。
『実際にはほのかに紅色なんだけどね、少し青みがかっているのかな……岐阜にあるっていう、有名なやつを一度生で見てみたいんだけどね』
そう穏やかに笑っていた彼は、その願いを叶えることなくこの世を去った。
「――ねえイツキ。ごめん、訂正する。薄墨色の花吹雪も綺麗だよ……」
誰もいない場所に向かって、私は呟く。防塵マスクが、その吐息を吸い取った。
『サクヤは? 君の行きたい場所はどこ?』
そう問われ、私は当時迷いなく答えた。
『宇宙旅行』
宇宙に、この空の向こうへ行ってみたい。いまやそれは、夢物語の世界の話ではなかった。太平洋上に設置された軌道エレベータは地球と静止軌道上のステーションを繋ぎ、その向こうには隕石傘として展開されたカウンターウェイトの裏に宇宙港が作られている。月程度ならば、飛び切り贅沢な新婚旅行で行ける。そんな時代だ。
『私を月へ連れてって』
そう女性からプロポーズするのが一世を風靡したのはつい数年前だ。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン。随分と古い洋楽がしょっちゅうテレビCMで流れていた。
私もいつかお金を貯めて、軌道エレベータの切符を買って。月じゃなくてよい。とりあえず、宇宙港でバイトでもしながら食いつないで、いつか外宇宙の探査船に潜り込みたかった。
地球まで、光の速さで何十年の距離を旅するのだ。それはつまり、二度と振り返らないということ。旅行などと、生易しいものではない。だがその時、私はそこまで言えなかった。
『そっか……宇宙も良いよねぇ』
おっとり微笑んだ彼は、その実何をどこまで知っていたのだろう。
私の願いは、思わぬ形で叶った。
ただひたすら、寒々しく降り積む灰の雪原を私は後にする。
今は四月、本来ならば本物の桜が見られるはずの時期だ。だが、空一面を灰に覆われたこの国に春はやって来ない。桜の花芽はまだ固く閉じたまま、その多くが永久の眠りに就いた。
今、目の前にあるのは彼の口にした三大巨桜の一本、岐阜県は根尾谷淡墨桜である。
この古木もまた、永い永い冬の中に眠っていた。
その枝に、薄墨色の灰が降り積もっている。まるで、満開の桜のようだ。辺りに積もる永久の雪――火山灰は五十センチ。しんしんと、全ての音が灰に吸い込まれた無彩色の空間で、私は一人桜を見上げた。旅立つ前に、ここに来たかった。
来週、私は軌道エレベータのアースポートへ渡るためハワイ諸島へ出発する。
降灰が酷いため航空機は使えない。船旅だ。そしてアースポートから軌道エレベータへ、宇宙へ。
数年前、巨大な連弾地震が発生した。
南海地震、東南海、南海トラフ、そんな名前を付けるのが馬鹿馬鹿しいような、遠洋地震と直下型地震の、正しく『連弾』。それに次いで、日本の火山という火山が噴火を始めたのだ。多くの山が破局的、と呼ばれるカルデラ噴火を起こし、膨大な量の火山灰がこの国をくまなく襲った。
経済減速だの、少子高齢化だの、外交だの、格差社会だの。
そんなものは全て自然の脅威の前に吹き飛んだ。後に残ったのは「生きなければいけない」という現実だけ。
国は『移民』という決断に舵を切った。
それも、地球外移民だ。移民先は、まだ誰もその眼で見たことが無い場所。
M18星系第25恒星第2惑星。通称、『アキツ』。
大規模テラフォーミングが可能とAIを積んだ無人探査機から報告の入ったその星へ、この国の数パーセントの人々が移住する。私はその中の一人だ。若く健康で、生産性のある者として選ばれた。生産性――つまり、妊娠可能な女性として。
移民船はゆっくりゆっくり旅をする。私はそのアキツを拝むことはできない。大体三世代後に船はアキツへと到着する予定だ。そして移動が終わってもテラフォーミング完了をまた二世代くらい待つらしい。つまり、アキツの大地を目にするのは私の五代くらいあとの子孫なのだ。
成功の保証は全く無い。永遠の片道切符である。
だから最後に、この桜をこの目で見ておきたかった。ここから先、「外の自然」を目にして触れ合えることは永遠にない。
宿に帰って、携帯端末を開く。今日は灰の雲が薄いらしく電波状況は良好だ。
インターネットにアクセス。彼のFBアカウントを開いた。
本人は死んでも、こうしてSNSアカウントが残る場合がある。
私は定期的に報告を入れていた。これが最後だ。
『薄墨桜、見てきました。薄墨色の花吹雪、綺麗だったよ。』
メッセージとして送信する。
「……えっ?」
返信がきた。
ありがとう。いってらっしゃい。
ごめんね、本当は自分の言葉で伝えたかった。
君を、月まで連れて行きたいって。
いつまでも、すぐに離れられる距離感でいなければいけなかったこと、
実は結構つらかったよ。
身の程を知らない、愚者の恋でした。
僕はずっと、この星に居ます。
ずっと、ずっと。もう一度この国の桜が芽吹くまで、この国の木々と共に。
元気でね。
日本人工知能学研究所 自律人型機械部門 特別研究員 YM2S-000ITSUKI
百十数年後。アキツ行の移民船から十数光年の宇宙を越えて通信が入った。
『TO:ITSUKI FROM:SAKUYA アキツの月は満ち始めました。桜は咲きましたか?』
それを受信し、今はボディを失くした環境再生システムAIが笑う。
――うん。きっと、来年には。
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Twitterフリーワンライ企画(#深夜の真剣文字書き60分一本勝負)参加作。
使用お題:「真冬と桜の花弁」「離れられる距離感で」「愚者の恋」「宇宙旅行」「ごめんね、自分の言葉で言えなくて」
薄墨桜 歌峰由子 @althlod
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