第一章 再会

 民夫は夜9時にブログを更新していた。

 もともとは、愚痴を書くために始めたブログ。


 いろいろなメーカーのサポートへの愚痴が、いつからかクレーム自慢のブログになった。ちょっとしたノウハウを書くだけで信じられないのくらいのコメントがついた。非難やひやかしまじりのモノが多かったが、中には非公開で真剣なメッセージも送られて来た。最初はちょっと面倒だと感じていた民夫だったが、リアクションがある事はなんとなく嬉しかった。


 どんな事でも、反応がよければ続けてしまう。

 3年前に始めたブログの時だってそうだった。


 高校1年の時、民夫は目立たない生徒で、進級してクラスが変わると名前も忘れてしまって挨拶もしなくなるような、なんとなく一緒に居るだけのグループの1人だった。

 そんな薄い人間関係も高校1年の6月に、民夫たちのグループは暴走して、同級生の少女を巻き込んで崩壊してしまった。そして民夫は学校との繋がりもほとんど皆無になってしまった。


 現実リアルでの疎外感が、民夫をネットへ追い立ててきた。


 陽の光に執着せず、カーテンをずっと閉め切った部屋に閉じこもっている民夫は、昼と夜との意識がうすい。かといって時間の概念がない訳ではない。打ち合わせの時間は守るし、カップラーメンの待ち時間さえもタイマーで正確に計る。

 性格的なものかもしれないが、電話を掛けるタイミングを逃してしまっては、この仕事すら出来なくなるから、そうなってしまったのかもしれない。


 民夫はいつも通り、ブログの更新をはじめる。

 いつも通りに、問合せを順番に確認する。

 次々に開いては閉じるウィンドウ。

 その途中で、ふと手が止まる。

 見覚えのある名前。

 忘れられない名前。


   『阿南あなみ 美奈みな


 表示された名前に少し心がざわついた。1度は『いまさら連絡をしてくるなんて、どういうつもりなのだろう?』と民夫は思った。しかし阿南美奈は民夫がこのブログをやっているのは知らないはずだ。

 知っている訳がない。

 もしかしたら本人ではないのかもしれない。

 もし偽名だとしたら間違いなく罠だ。

 この依頼は危険だ。

 とても危険だ。

 それまで民夫は少しでも危険だと感じた依頼は全て断っていた。

 しかしこの依頼は……。

 罪悪感が民夫を過去に引き戻した。


 目立たない民夫に『おはよう』と言ってくれた柔らかな笑顔。

 朝の教室で1人きり、じっと座ってうつむく姿。

 教師に呼ばれ、視界から消えて行った少女。

 次々にフラッシュバックする記憶。


 1年の1学期で高校を中退した少女。手元に数枚の写真は残ってはいるものの、民夫は彼女の事をそれほど知っている訳ではなかった。だけど他人との接点が極端に少ない民夫にとって、記憶の中の彼女の比重は3年前とさほど変わってはいなかった。


 ふいに思考が飛ぶ。何時間も考えていたような気がしたが、実際には数秒しか経っていなかった。民夫は気を取り直して依頼内容を確認した。

 

 ■名前 阿南美奈

 ■対象 サラス製菓株式会社

 ■内容 スナックを食べてアレルギー症状が出た。損害賠償を要求したい。


 サラス製菓と言えば、ちょっと前にも似たような内容で依頼が来たのを、民夫は思い出した。その時は『アレルギーが出たことをブログで書いたら削除依頼が来た。悔しいから言い負かして欲しい』と言う内容だった。あの時はブログの記事を買い取らせる形で決着をつけた。


 しかし今回は損害賠償。気持ちはわかるけど損害賠償請求は消費者団体や弁護士の仕事。民夫の様な素人クレーマーが手を出すのは違法だし起訴されれば有罪は確定。ただでは済まない。その上リアルにも晒されてしまう。そんなことは十分わかっている。

 わかっている。

 わかってはいるんだけど……。

 民夫はこの時、いつもと違う脳で思考していた。


     ※


「民夫、どうしたの? こんな依頼受けちゃって」

 いつも打ち合わせをするファミレスで、春野が不思議そうに民夫の顔を覗き込んでそう言った。今まで『この話は違法だから依頼を受けられない』と断っていたのは民夫の方だった。もし高校の時の事や彼女の事を言ったら、春野はどう思うだろう? 『仕方ないなぁ』と笑って協力してくれるだろうか?

 まさか……。

 私情を挟んだ事を軽蔑されるだけだ。と民夫は思った。

 民夫は「じゃあいいよ。これは1人でやる」と少し声を荒げて返事をした。

 美奈の名前を見たときから、ちょっとだけ考えていた。民夫は気持ちのどこかで『春野と美奈を会わせたくない』と感じてた。

「どうしてそうなるの? 理由を聞いてるだけじゃん。やらないなんて言ってないじゃん」

 あわてた春野が回りを気にしながら、少し声を殺して民夫をさとした。民夫はちょっと安心しつつ『思った通りにはいかないなぁ』と思った。


 美奈との打ち合わせは、3日後に決まった。


 少しだけ待ち遠しかったけどやっぱり恐い。民夫がやった事で美奈は心に傷を負って退学した。きっと美奈は民夫を許していない。

 出来るなら会って、話して、許しを乞いたかった。

 もし美奈が許してくれてなくても、会って話す事で何か変わるかもしれないと、民夫は思ってた。


 そうは思っていても、美奈に会うのはやっぱり恐かった。

 だけど、ずっとこのまま生きて行くのはもっと恐かった。


 民夫が初めてブログを公開したのは高校1年の時だった。

 活気のない仲間同士で始めた『愚痴と悪口』で埋め尽くされたダウナーなブログだった。

 最初の頃は一日のアクセスもせいぜい一桁だった。むしろ誰からも見られてないから、普段なら口に出来ない暴言や女子に対する妄想が日に日に沈殿していった。

 やがて、そう言った語句が増えてくると、心ない検索エンジンに見つけられて、優しくない他人の目に留まるようになってきた。『リアル高校生の心の叫び』は注目ブログとして、アクセスも少しずつ増えはじめた。

 今まで人に見向きもされなかった仲間たちは他人に見てもらえる事が嬉しくて、コメントに喜びを感じアクセスアップに力を入れた。

 もともと大したコンテンツがあった訳ではないので、アクセスを維持する為に内容がどんどん過激になりはじめ、少しずつ制御を失いはじめ、やがて多くの人を巻き込み、他人を傷つけながらブログは暴走しはじめて、ブログサービスの管理者に削除されて幕を閉じた。

 民夫はブログが無くなった時の虚脱感を忘れていない。ブログが無くなって初めて、そのブログに愛着があった事を思い知った。

 民夫たちはその時、美奈を一緒に巻き込んでしまった。


     ※


 依頼人と打合せをする時は近くのファミレスは使わない。なるべく遠くの場所まで行った。それで美奈との打合せも、電車を2回乗り換えて駅から少し歩いた所にあるファミレスを指定していた。

 民夫は春野よりも先に入って、なるべく目立たない席に座り、アイスコーヒーを注文した。大きな窓から差し込む初夏の日射し、平日の午後なので1人か2人でボックス席を使う客もいるので、満席ではないが席は割と埋まってる。冷房の強さにムラがあり民夫がいる窓際の4人掛けのテーブル席はかなり寒かった。

 いつも通り、少しだけ遅れて春野が2つ離れたテーブル席に座わった。依頼人より30分は先に到着するのはいつもと変わらない。

 さっそく、2人の間でしか繋がらない小型無線ルータの接続を確認してメッセージを送受信して確認した。

「打ち合わせ通りに、指定したブログに記事をアップさせて、記事を買い取らせる方向に誘導してくれ」

「了解。だいじょうぶだよ」春野からはいつも通り、軽い返事が返ってきた。

 結局今回も前回同様、ブログの記事を買い取らせる方向で決着をつける事にした。これなら法には触れないし、電話だけで仕事も片付けられる。

 しかし、この仕事の流れだと民夫は美奈と話をする事が出来ない。出来ればどこかで話をしたいけど、段取りを変えてまで美奈に会う勇気があるわけでもなかった。

「高校1年の時からなにも変わってないな。俺」不甲斐ない自分を憐れむように、民夫はひとり呟いた。


 ちょうどその時、春野の携帯が鳴った。依頼人の『美奈』が近くまで来たようだった。

「あぁ、そうです。その信号を渡った場所にあるファミレスにいます。店に入ったら、左手をチョキにして振ってください。解るようになるべく大きく。こちらから声を掛けますから」

 依頼人と会う時は、リアル割れのリスクを防ぐ為に最初から場所を教えない。近くまで来させてから、ネット経由で通話してもらう。だけど内容が内容だけに相手だってかなり警戒している。探り合いから打ち合わせを始めるなんて、対人スキルが低い民夫には絶対に出来ない。

 しかし春野は違った。

 どれだけ緊張した中でも相手の警戒心を解いて、きっちりと話を片付けてしまう。民夫は春野の話術が超能力か魔術のようだと感じていた。


 5分程で『美奈』がファミレスにやって来た。

 春野に言われた通りに左手でチョキを作って、大きく振っている。

 ゆるく大きなウェーブの掛かった長い黒髪。体のラインがよくわかるキツメのシャツとダメージのデニムのショートパンツ。3年前の上品な明るさが消えてしまい、どこかしら日本人離れした印象になっていたが、人懐っこい目元と、いつだって笑う準備ができている唇を見た民夫は『美奈』だと思ったが、別人のようにも感じた。

 3年という時間の経過で『美奈』との間に、どうしようもない隔たりができた事を民夫は痛感せざるを得なかった。

 一方、春野の方はピースした左手を大きく振る姿が似合う女性が、この世に居る事を初めて知った。

 初対面でもわかるように『左手ピース』をやってもらっているのだけど、それなら服装の特徴を言うとか、もっと自然な方法がいくらでもあるのに、春野はあえて『左手ピース』をやらせてた。ほとんどの依頼者はその不自然な行動を躊躇しながらやっていた。ある女性は肘だけを曲げて肩の高さで『ピース』を振り、ある男性は握りきれずに『チョキ』になりきれない左手を痙攣させるように怖々振った。

 春野は「“会話の主導権を握る為”にあえてクライアントに恥ずかしい行動を取らせている」と言っていたが、民夫はただの悪戯でこんな事をやらせているとしか思えなかった。

 春野はとりあえず手招きして『美奈』を自分のテーブルに呼び、民夫からは見えない場所に座らせた。

 いきなり損害賠償請求したいとか言って来たので、春野はいつもよりも少し構えていたが実際に会った彼女は、それほど五月蝿うるさい相手には見えなかった。

「このお仕事、1人でやられてますの?」いきなり『美奈』から質問してきた。

「えぇ、まぁ。人数が少ないほど秘密も守れますからね」

 予想しない質問ではあったが、無難な答えを見つけて返事した。ただなんとなく『美奈』の話に乗せられてしまうのはあまり良くない気がしたので、春野は主導権を握れる仕事の話に無理やり切り替えた。

 春野が『クレーム内容を記事にしてブログにアップし、記事を買い取らせる提案』をすると『美奈』はあっさりと応じた。

 大きくて人なつっこい目が春野を見て笑った。媚びた印象がまったくなかったのが春野には不思議だった。話が上手く進むのはいい事なのだが、上手く行き過ぎるのは気味が悪い。そのせいか春野は一瞬だけ『美奈』が見た目とは違う印象で笑った気がした。


 民夫は『美奈』と春野の会話を、端末に繋いだイヤホンで逐一聞いていた。民夫は『美奈』に会いたかった。だけどどうしても一歩が踏み出せない。イヤホンからは懐かしい『美奈』の声が聞こえてくる。でも民夫からは『美奈』の後ろ姿しか見えない。とてももどかしい。

 きっと彼女は笑っているに違いない。もし笑っているのなら春野だけではなく自分にも笑いかけてくれればいいのに。そんな事しか考えられない民夫は、自分が情けなかった。

 

 打ち合わせは『美奈』がクレームの内容を春野にメールで送って、内容を書き直して適当なブログにアップする事で話がついた。

 そして、春野が『美奈』を見送ろうとしたその瞬間、狙いすました様に「ここの払いは持ちますわ。お疲れさま」突然『美奈』が春野にそう言った。

 いつもは先に依頼者を帰して、民夫と春野の2人でもう1度打ち合わせをするのに『美奈』にタイミングを外されてしまった。

『単独行動』になっている春野は無理に残って怪しまれたくなかったし、民夫の対人スキルは春野もよく解っていたので、依頼者と直接会わせるのはなるべく避けたかった。

 仕方なく出来るだけ自然に『美奈』に礼を言って店を出た。

 店の外からでも電波が届けばさほど問題はないのだが、小型の無線ルータにそこまでのパワーは期待できない。

 春野は仕方なく店の外に出て道路を渡り、窓辺に座る民夫とファミレスの出入り口が両方見える位置に移動し、民夫が店から出て来るのを待って、民夫の携帯にメールを入れた。

 

 春野が居なくなったテーブル席には『美奈』が1人で座っていた。『美奈』を後ろから眺めながら、高校1年の時のみたいだ民夫は少しデジャヴを感じていた。

 授業中こんな風に美奈を後ろからなんとなく見ていた。出来れば振り向いて笑ってくれないかといつも考えていた。

 あれから3年経っている。

 あの頃も、美奈はそんな民夫の存在にさえ気づいていなかった。ただ民夫が遠くから美奈を見てただけ。今でもそれは変わっていない。

 無力感が民夫を襲う。

 民夫はこのまま店を出て春野と合流する事にした。少しだけ下を向いて『美奈』から目を外した次の瞬間だった。

『美奈』が振り向いて民夫の方を見た。

 民夫は偶然だと思って、そのまま顔を伏せていたが『美奈』は1回だけ大きく笑うと、席を立ち、民夫が座っているテーブルの前までやって来た。

『美奈』が化粧室かどこかに行くのだろうと思って、民夫はその場をやり過ごすつもりでいたが、『美奈』は民夫の前で立ち止まり、民夫を見下ろして少しだけ微笑みをうかべてる。

 民夫はどうしていいのか解らずに端末を触るフリをして、もうアイスコーヒーが無くなったグラスに刺さったストローに口をつけて音を鳴らした。グラスをテーブルに置くと溶けかかった氷がグラスの中で小さな音を立てた。

 民夫は端末を持つ手が汗ばんで湿っぽく、鼓動も速くなってる気がした。

 クレームの電話を掛ける時も高揚感で緊張するけど、今は最近味わった事がない緊張を感じていた。

 どうしよう? こちらから声を掛けた方がいいのか? いや、それよりも『美奈』は気がついているのか? そもそも俺が今回の依頼と関係ある事なんて知ってる訳ないじゃないか。そうだ。依頼と関係ないなら話くらいしても大丈夫だ。

 やっと決心した民夫は、ゆっくりと顔を上げて『美奈』の顔を見た。

 そこには別人のように少女の幼さが抜けきって、しっかりした目鼻立ちが魅力的な女性が立っていた。

「蔵間民夫くん久しぶり」

「えっと、久しぶりです……」

「あれ? 忘れちゃった? 美奈だよ。同じクラスだった阿南美奈」

「い、いや、ちゃんと憶えてます。あの時は……」

「あの時の事はいいよ。ココ座っていいかなぁ?」

「は、はい。どうぞ」

 その時、春野からのメールの着信が民夫の携帯を鳴らした。

「メール来たんじゃない? 見なくてもいいの?」椅子に座りながら『美奈』が言った。

「あっ、これは今でなくてもいいから。後でいいから……」民夫はかろうじてそう言った。「そうなの」と言いながら『美奈』が1回笑みを浮かべた時、民夫は背中が冷たく感じた。

『美奈』はテーブルを挟んで民夫の前に座る。ウエイトレスを呼んで席を移った事を告げて、紅茶のお替わりをオーダーした。

 ウエイトレスがテーブルに背を向けたとほぼ同時に、民夫が『美奈』にうわずった声で話しかけた。

「あ、あの、あの時は本当にごめんなさい。すいませんでした」

 意図しない声に驚いたウエイトレスは、1度立ち止まって振り返るが、2人の様子を見た後、少しだけ肩をすくめてキッチンへ向かった。

「やめてよ。恥ずかしいから。日本の高校での事は忘れる事にしたんだから」

 民夫は『美奈』の『日本の高校』という言い方に少し違和感を感じた。

「『日本の』って、どういう事?」

「あぁ、私ねアメリカのハイスクールに行ってたの。行ってたというより寮だったから閉じ込められてたって感じなんだけどね」

 そう言って『美奈』は口を左右にひろげ、白い歯を少しだけ見せて笑ってみせた。

「あぁアメリカに行ってたんだ。知らなかったよ」

「そりゃそうよ。あんな事があったんだから、こっそりと海外逃亡したのよ。私は島流しにされた気分だったけど」

 日本からアメリカに行くのに『島流し』という言い方が適切なのかどうか民夫には判断は出来なかったけど、何となく言いたい事はわかった。

 民夫はもどかしさを感じてた。

 予め『台本』を準備している仕事の電話はどんな場面でもスムーズに話が出来るのに『美奈』1人を前にしただけで言いたい事も満足に口にできていない。

「そ、そうなんだ。それで卒業して日本に帰ってきたの?」 

「卒業はしたけど、9月にはアメリカに帰るわ。カレッジに行くの。せっかく日本に帰国しても友達なんて誰もいないからね。アメリカには友達もボーイフレンドもいるのよ」

 そう言って『美奈』が少しだけ寂しげに笑った時、ウェイトレスが紅茶を持ってきた。

「おまたせしました。紅茶はこちらでよろしかったですか?」

『美奈』が軽く右手を上げてウェイトレスに合図すると、ウェイトレスは手際よく『美奈』の前に紅茶のセットを並べて、軽くお辞儀をして立ち去った。ウェイトレスがいる間は、自然に会話が途切れたので、その間に民夫は話題を探す事が事が出来た。

「それより、げ……」民夫が『元気そうでなにより』と言いかけたところで『美奈』が遮るように話を始めた。

「ファミレスってなんか不思議よね。あんな高そうな端末を時給1,000円のパートタイマーに持たせちゃうんだから。盗まれるとか考えないのかしら?」

 民夫が考えもしなかった方向に話が転がる。台本がないので、返事のしようがない。

「あの端末って結構高そうじゃない。それに分解して構造とか調べれば、タダで食事する方法とか解るんじゃないかしら? ねぇそう思わない?」

『思わない?』と聞かれても、多分ほとんどの日本人はそんな事を考えないと思ったから民夫は少し驚いた。

「そんな事考える日本人は、多分、阿南さんだけだと思うよ」

「そうなのかぁ。日本ってそういう意味で平和よね。あぁ、美奈でいいわよ。今はそう呼ばれ慣れてるから」

「わかったよ。あな……美奈さん」

「変なの。美奈で呼び捨てでいいわよ。同じ歳でしょ」

『美奈』は投げつけるようにそう言って、目の前の紅茶に口を付けた。

『美奈』にとっては、呼び捨てにされるのは特別な事ではなく、アメリカのボーイフレンドともそれくらいの気軽な感じで付き合ってるに違いないと民夫は思った。というか信じたかった。

「あ、あの、美奈、は、アメリカで、友達多いの?」

 本当は『男友達多いの?』と聞きたかった民夫だったが、何となく聞けなかった。

 無理して名前を呼び捨てにしたせいで、民夫の思考リズムが完全に狂ってしまった。

「そうねぇ、日本人ってモテるのよねえ。欧米人から見ると『エキゾティック』に見えるらしいわ。真っ直ぐな黒髪とか、吸い込まれそうに神秘的な黒い瞳、きめが細かくてスベスベの肌。そんな風に誉められちゃって、アメリカに行ったらすぐにボーイフレンドも出来ちゃったんだから」そう言いながら『美奈』は悪戯っぽく、誘うように、嘲るように小さく笑った。

「そ、そうなんですか。美奈……さん……」ショックなのは隠せなかった。

「でもね、それほど順調でもなかったんだけどね」そう言って『美奈』は軽く笑顔を作り直した。

「民夫は……、民夫くんって呼んだ方がいい? あれからどうしてたの?」

 民夫にとってこの質問は『美奈』の笑顔ほど軽くなかった。

「お、おれは……」口が重いのは変わらないけど、さっきまでとは明らかに違う。緊張ではなく、気まずさや後悔で民夫の口は上手く動いていなかった。

「『おれは』どうしてたの? 民夫くん。内緒なの?」そんな民夫の様子を気にする事無く『美奈』は追いつめる様に民夫の言葉に踏み込んで来る。

「いや、内緒とかじゃなくて、お、おれは、あれから、あまり学校に、行ってなくて……」それ以上話すのを拒否しているように、民夫はそのまま俯いてしまった。

「じゃ、卒業してないの? 大学とかも行ってないの?」『美奈』は容赦なく民夫に質問を続けて追いつめる。

「そ、卒業は、出来たけど、大学は行ってなくて……」

「へぇ〜。卒業できたんだ。じゃあ、良かったじゃない」

 そう言って『美奈』は笑った。

 民夫が顔を上げると、どこか冷たさを感じる『美奈』の笑顔があった。

「じゃ、結構自由に時間が使えるんだよね」

 そう言いながら『美奈』はティーカップに口をつける。

「自由だと言えば、自由なんだけど……」

 民夫は語尾を濁しながら返事をした。

「じゃ、あたしが日本にいる間は付き合ってくれるわね。民夫」

『美奈』は意識的に民夫を呼び捨てにした。『美奈』の言葉の一言一言は見えない鎖のように民夫を縛リつける。

「あ、うん。かまわない」

「よかった。じゃ、携帯とメアド教えて」

 携帯番号とメールアドレスの交換。このすごくあたり前のやり取りに、民夫は少し躊躇した。

「なに? やっぱり、あたしには教えたくないんだ。あんな事やった相手なんか信用できないわよね。まぁ解ってたけど」

「いや、そんな事ない。教えるよ。教える」

 そうして、民夫は予備ではあったが、携帯の番号とメールアドレスを『美奈』に教えた。教えてしまった。

 教えられた番号をさっそく試してみる『美奈』。

 テーブルの上ではなく、ポケットに入れておいた携帯から呼び出し音が鳴った。

「へぇ、携帯2つ持ってるんだ」

「う、うんまぁね。こっちではほとんど通話しないから」

 民夫はそんな事を言ってなんとか誤摩化した。

「番号ありがとうね。助かったよ。近いうちにまた掛けるからね」

 そう言って、意味深な笑顔を浮かべて『美奈』は席を立った。

「じゃ、またそのうちに……」

 ちゃんと話が出来ず、民夫が少し残念な気持ちで見送ろうと立ち上がり掛けた時『美奈』は思い出したように言った。

「それよりもさ、蔵間民夫くん」

「あっ、はい」

「今回の依頼、しっかりお願いね」

「えっ?」

 最初、何を言われたのか解らなかったけど、今日『美奈』がココに来ている理由を思い出せばとても簡単な事。

 

『美奈』は民夫の事を知ってる。

 

 しかも『美奈』は予備とはいえ民夫の携帯番号とメールアドレス、それから本名と住所まで知っている。

『美奈』は、勝ち誇った笑顔を作って、勘定書と一片のメモを民夫の前に残して、ファミレスのドアを開けて表に出て行った。

 

 残された民夫は、もう1度ファミレスの安っぽいビニルのソファーに深く体を預けなおして『美奈』が出て行ったドアを見つめていた。

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サーバールームと引籠る蜜蜂 よたか @yotaka

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