サーバールームと引籠る蜜蜂
よたか
プロローグ
閉じたカーテンの隙間から差し込む朝陽。光の上で舞うホコリたちを、ロープの風切り音が撹拌する。朝7時に起きて縄跳びをするのが蔵間民夫くらまたみおの日課だった。窓を閉め切りエアコンも入れないので室温と湿度は少しずつ上昇し続けていく。
高校1年から不登校だった民夫は運動不足が気になって縄跳びを始めた。部屋の中なので靴は履いていない。裸足だからロープが足に当たれば相当に痛い。だけどもそれくらいの緊張感があった方が効果があると民夫は考えていた。
引きこもりでもその気になればウエイトトレーニングくらい出来るのだけど、民夫はベンチプレスやスクワットなどのトレーニングは無駄だと考えていたので、縄跳び以上のトレーニングは一切やらなかった。
民夫はずっと不登校だったが、学校は特別に自宅学習あつかいにしてたので、今年の春、高校は卒業してた。学校から郵送されるプリントの範囲を勉強して、定期試験の時だけ学校へ行ってた。
2年以上、民夫はほとんど他人とは関わらずに過ごしてきた。それでも無駄な時間も交通費も使わない自宅学習を『効率的』だと民夫は積極的に受け入れる事にしていた。
そして民夫は、自分自身を合理的な人間だと思う事にして、どんな時でも『効率』を意識して行動するようにした。あり余る時間を使ってずっと効率的な勉強方法とか、効率的な儲け方とか、効率的な生き方などを考えてきた。
結果的に試験の成績は常に上位をキープする事ができた。しかし「高い授業料を払ってまで大学に通うのは効率が悪い」と言って大学は受験しなかった。
高校在学中から続けている仕事があるので『受験の必要は無い』とうそぶいていたが、本当は人が集まる場所、集団の中に入って行くのが恐いだけだと民夫自身も自覚していた。
縄跳びを始めてから30分が過ぎ、タイマーのアラームが鳴る。ロープの速度が落ちて縄跳びが終る。あと1周回るロープが足先にかすった時、民夫は少しだけ痛いと感じた。
ずっと閉め切っていた部屋の空気が民夫の体から流れ落ちる汗で湿っぽくなっていた。民夫はせっかく溜まったカロリーをおしみつつ、部屋がカビないように換気の為に窓を開けた。
開かれた窓から心地よい初夏の空気が朝陽といっしょに流れ込んで来たが、民夫は一時の清々しさよりもたまった熱が発電に使えない事を残念に思っていた。
部屋の空気の入れ替えをしながら、机の上のパソコンのスイッチを入れる。起動音の後、デスクトップが表示されるのを確認して、窓を閉めて厚いカーテンを引く。
暗くなった部屋で着替えた民夫は、唯一の光源になったモニターに向かいキーボードを叩く。キーボードを叩くたび、右手がかすかに動くたび、民夫の白い顔がモニタの光でイロイロな色に照らされる。
精気なく無表情な顔。神経質に血走った眼。
夜のうちに入ったメッセージに目を通した後、部屋を出て階段を下り家人が居ないのを確認して台所に行き、母親が作った食事をトレーに乗せて部屋に戻った。
食事を摂りながら、今日の仕事を確認して段取りを考える。
「女性からの依頼があるなぁ」
つぶやきながら先週ブログから連絡して、昨日ファミレスで見た女性の事を思い出していた。
民夫は依頼主とは会わない。
いろいろな相手からマークされているし、依頼者のフリをした『敵』が近づいて来る可能性だってある。もし依頼が失敗した時は“リアルを晒される”場合だってある。
“晒されてしまった者”の最後は辛い……。
そう思った瞬間、民夫の脳裏に“教室でひとり。じっと席に座ったまま背中を丸めて泣いている少女の姿”がフラッシュバックした。
それはどうしても消えない民夫のトラウマ。それが原因で民夫はほとんど表に出られず、室内で『クレーマー代行』をやっていた。
昨日、依頼者の女性と交渉役の春野圭雄はるのけいおが話をしているのを、2つ離れたテーブルから観察していたので、民夫は面識が無くても、顔を含めて彼女の細かい情報をすべて知っていた。
名前を含めて個人情報を知らないと仕事ができないので、一番最初に了承を取ってから会う事にしている。それでも名前すら言うのを拒む依頼人もいる。
仕方が無いので、依頼を断って席を立つ指示を春野に出すと、結局諦めてほとんどの依頼者は自分から個人情報を喋りだす。
個人情報がどうのこうの言っても所詮その程度だと民夫はつくづく思う。もっともそんな庶民の個人情報がわかったところで本当に何の役にも立たない。だから民夫は保存なんてしない。実はそんな依頼があった事もイチイチ憶えていやしない。
今回依頼をしてきた女性は、2ヶ月前にスマートフォンに機種変更し、最初こそ興味本位で触っていたが、先月はネットを含めて大して使う事はなかった。
それなのに、想定の倍以上の金額が請求されていて、納得いかずに1度は販売店で話をしたのだが、販売員に上手くなだめられてしまったらしい。
「わたしは何もしてないのに、電話が勝手にネットに繋がってるみたいなんです」依頼主の女性は少し小さな声で、何度もボソボソと同じ事を言ってる。
チョコサンデーを食べながら、民夫は問題点と解決方法を探って小型の無線ルータ経由で、春野が持っているタブレットに指示を出す。
こんな近距離でもメッセージのやり取りはインターネットを経由した方が簡単なんだけど、民夫は万一の事を考えて単独の無線LANネットワークを構築して直接指示を出していた。無線だから盗聴される可能性はあるけれど、インターネットを迂回する事を考えればリスクはずっと少ない。
春野は民夫の指示にしたがって、柔らかい口調で優しく状況を説明している。
それを見ながら民夫は、自分だとあんなにスムーズに話が出来ないから、春野が居てくれて良かったと思ってた。
それは年齢的な事かもしれない。
就職浪人とはいえ大学を卒業して成人している春野と、未成年の民夫とではすでに見た目から違いすぎる。どれだけ技術があったとしても第一印象とはまったく関係ない。
女性が一通り喋り終えて落ち着いたところで、春野は難しそうに長い溜め息をついた。
「多分、契約時に不必要な契約をさせられて、解約し忘れているんだと思います。それとスマホはねぇ……」
専門家の様な口調で語る春野を見て、民夫は少し嫉妬した。でも、それは仕方ない。あの交渉術は自分にはない技術だし、春野がいるからちゃんとギャラが貰える事くらい理解している。
そんな事は十分わかってる。だけど、理屈ではなく納得できない気持ちもあった。
「助けてくれるんですね。ありがとうございます。今月分は払わなくても済むんですか?」女性の声が少しハズム。
「えっと、いくらくらい戻ってくれば満足されますか?」春野は少しあきれ顔を作ってそう聞いた。
「全部戻ってくるんじゃないんですか? 多ければ多いほど……」
女性がそう言った瞬間、民夫は『またか』と思った。
クレームとは言っても、何でもかんでも文句を言ってる訳じゃない。交渉なんだから、まず要求の設定が必要だ。
多ければ多いほど……。なんてそんなのは交渉じゃない。1円でも多くよこせなんて守銭奴みたいな交渉は、違う職業の人がやればいい。民夫はしない。
それが民夫のポリシーだった。
民夫が、引き上げの指示を送ると、仕方なさそうに春野が席を立とうとする。
「そんなのはただのワガママです。交渉でもなんでもありません」
春野がそう言って諭すと女性は驚いた。
「ごめんなさい。さっきの嘘です。言ってみただけです。今月の請求が半分くらいになって、来月からもそのままだったらそれでいいです」慌てた女性がすがるように言った。
「わかりました。あと、私のギャラもお願いしますね」春野が言った。
「『私たちの』だろ」その時民夫がつぶやいた。
9時5分前のアラームが鳴る。
民夫はパソコンの前に座り直し、マイクの付いたヘッドセットを装着する。
「あ〜っ」民夫は昨日の女性の声を思い出し、確認するように発声練習をした。
ソプラノは無理でも女性っぽい声くらい問題なく出せる。声帯を半分だけ震わせて、少し甲高い印象の声を出す発声練習をして準備をしていた。
始業開始の9時。
ここで出遅れると電話が繋がらずに、仕事が30分遅れてしまう。それは効率的じゃない。だけど9時ジャストだと交換機に蹴られる可能性が高いので、一番繋がりやすい10秒すぎたくらいのタイミングで通話ボタンを押した。
パソコンのIP電話が繋がる。
あらかじめ調べておいた番号をクリックして、速攻でオペレーターと接続させる。電話の呼び出し音が鳴ったところで、パソコンのキーを押して録音を開始する。
「おはようございます。ケータイバンク、サポートセンター宮入です」明るい女性の声。
「あ、あの私の携帯が、勝手にネットに繋がって、お金が高すぎて払えないんです」
民夫は、少しパニック気味になってるフリをして、オペレーターに訴えた。
少しおとなしい感じの依頼者を思い浮かべる。きっと緊張するとこんな感じで、うわずって喋るに違いない。
「お客さま、申し訳ございません。お客様番号か、契約されている電話番号をお知らせください」
「えっと……。ごめんなさい」昨日の女性から受け取った、書類のコピーを確認しながら話を続ける。
男性は契約書類をぞんざいに扱う事が多くて、契約内容が確認出来ない事が結構あるが、女性は契約の類いが苦手なせいか契約書だけでなく、店頭チラシや書き留めたメモまで保管している事も少なくない。
携帯電話の契約の場合は、店舗オリジナルのオプション販売をやっている事があるので、この手のチラシは案外役に立つ。
今回の依頼人はチラシからメモ、あげくはプライスカードの写メまで保管してたので、切り札が使いやすいと民夫は思っていた。
今回の契約のポイントは、オプションの指定があまりにも多すぎる事だ。
店頭チラシには保証サービスとパケット定額のオプションしか指定がないのに、申し込み時の契約書の写しには、プロバイダ契約や、ポータルサイトの入会、医療関係のオプションまで申し込みが指定してある。このオプションだけで、しめて1万円弱……。
無料期間だった物もあったらしく、全額請求はされなかったみたいだっだが、もし全額請求されていたら2万円は超えるはず。
しかも、どんな契約であっても絶対なければならない物が、その契約書には欠けていた。
普通なら単純に契約を解約すればいいのだが、取引に使えそうなので民夫はこれを今回の切り札に使う事にした。
オペレーター宮入さんは、多分彼女が見ているモニタに映っているであろう情報を見ながら、加入しているオプションを早口でまくしたてた。
「お客様の契約内容に不備はないのですけど、不明点などがあればお聞かせいただけますか?」オペレーターが客を言いくるめる時に使う決まり文句が、ヘッドレストから聞こえて来る。
そんなに簡単に理解できて質問できるなら、わざわざ電話なんて掛ける訳がない。
さて、ココからが腕の……、いや、口の見せ所。
「えっと、さっき言われたオプションは何も申し込んでないんですけど」民夫はきっぱりと言いきった。
「ですけども、お客様契約書には書かれてますよ」オペレータも、自信を持って返事する。
「書いてませんよ。契約書の控えのコピーを送りましょうか? いま、メールで送りましたけど確認できますか?」そういいながら民夫は、スキャニングしておいたデータをメールで送りつけた。
「えっ? はい。あの……」オペレータ宮入さんは、民夫の素早い行動にちょっとあわて出す。
「それと、その時のチラシも、持っているので一応送りますね」民夫は余裕を与えないようにつづけて言い放った。
「あっ、ありがとうございます。え、えっと、両方、確認しました。あっ……」電話越しにオペレーター宮入さんの短い声が聞こえた。どうやら契約書の不備に気がついたらしい。
「えっと、私、そのオプション何も申し込んでないんです。なのに、どうして、請求されちゃうんですか?」民夫はあくまで可哀想な弱者の嘆き声で訴えた。
「そ、そうですね、不必要なオプションを解約させていただきましょうか?」オペレーター宮入さんは、マニュアル通り『解約』を勧めて来たが、大きな切り札があるので、民夫は全く応じる気はなかった。
「えっと、解約だと、今月の請求分は払わないといけませんよね。契約してないのに解約っておかしくないですか?」オペレーターが一番動揺している時に使いたかったセリフを言い放った。
「それはそうなんですけど……」ココまではまずまず。オペレーターの宮入さんは完全に動揺してる。
「その契約書って、有効なんですか?」今回はコレが民夫の切り札。
「えっ、それは……」最初はハッキリ返事をしていた、オペレーター宮入さんが言葉に詰まる。なにしろオプションの契約書には契約者のサインも、印鑑もないのだから……。
「それに、パケット代も変です。今月は全然ネットに繋いでないのに上限まで払わないといけないなんて変ですよね。どこに繋いでいるんですか?」ここで一気にたたみかける。
「それは個人情報なので、接続先は言えないんですけど……」これは携帯キャリアの決まり文句。本当はただ調べるのが面倒なだけなのだ。
「個人情報って、わたしの個人情報ですよね、本人にも言えない個人情報を、他人のあなたは見てるんですか?」正論で押し通す。
「えっ、で、でもそういうキマリなので、私には何も出来ないんですけど……」
よし! 『私には出来ない』という一言を言わせたかった民夫は、小さくガッツポーズをした。
「契約の方はどうですか?」つづけて、厳しく追いつめる。
「そちらも私ではなんとも……」もう1回言わせた。
「あなたって、なにも出来ないんですね。なんの為のサポートをされてるんですか?」かわいそうだが、この一言でオペレーター宮入さんは今日1日仕事にならないかもしれない。まぁ宮入さんは頑張った。マニュアル通りに。
「すいません」マニュアル通りに謝るオペレーター宮入さん。
「あの、謝って欲しいんじゃなくて、質問してるんです。どうすればいいですか?」ここは強気に出るのではなく、可哀想な弱者を装って相手を追いつめる。
「あの、私にはなんにも……」本当に可哀想なのは、オペレーター宮入さん。
「じゃ、ちゃんとお話出来る方と、変わっていただけますか?」民夫はあくまで、すがるように訴えった。
「いや、それはちょっと……」
「でもあなたは、何もできないんでしょ。役に立たないんでしょ」
「……すいません……」
「だから、謝って欲しいんじゃなくて、質問に答えて欲しいんです」
オペレーター宮入さんから返事がない。泣いているかもしれない。
「わかり、ました。上司にかわります」気丈に返事はしていたけど、オペレーター宮入さんが泣いているのがわかる。
さて、ここからが本番。『上司』と言われているのは『クレーマー担当』の強者。クレーム電話は、オペレータがクレーマー担当へどう取り次ぐかで成否の半分が決まる。感情的に話したり、ただゴネたりしてるとクレーマー担当は絶対譲歩しない。
製品かオペレーターに明らかなミスがあって、ユーザーが怒る寸前が一番有利に交渉する事ができる。
「代わりました。宮入の上司の飯森です。この度は大変失礼をいたしました」
30代後半、しっかりした印象の低い男性の声。
「あの、契約は無効ですよね……」すこし怯える感じで、民夫は確認をする。
「内容をもう1度お聞かせいただけますか?」
ここで最初から話をさせるのはクレーマー担当の手口。話をくり返させる事で争点をぼかしてなだめる作戦だ。だからココで相手の話に乗ってはいけない。全ての状況はモニタに表示されているので、クレーマー担当は最初から話を聞く必要なんてなにも無いのだ。
「あれだけ時間を掛けてお話させていただいたのに、もう1度はじめから全部言わないといけないんですか? 前の方からなにも聞かれずに電話を代わられたんですか? 何も記録を取らないんですか?」半泣きで怒りかけた演技をして出バナをくじく。
「あっ、申し訳ないです。確認します」怒らせると話が進まなくなるので、クレーマー担当の飯森は一旦引いた。
「確認しました。そうですね。この契約は無効ですよね」
「じゃ、今月の請求書は訂正されますよね」
「申し訳ないのですが、1度発送してしまいましたので、訂正は出来ないんです。来月、相殺させていただくと言う事では、だめでしょうか?」
「1ヶ月も、そちらにお貸しするお金はありませんから、請求し直してもらわないと困ります」会社側の都合の話なので、ココは強く主張して布石を打っておく。
「わかりました、今月の請求分から、なんとかします」ココまではクレーマー担当も想定内だったのだろう。
「いえ先月の請求分から、訂正をお願いします」民夫はココでも追い打ちをかけた。
「そ、そうですね、契約が成立してないから先月分から訂正して、余計にお支払い頂いた分を、差し引いて請求書をお作りします」声にキレがなくなった。クレーマー担当の飯森は、すこし面倒になりかけていた。
「お願いします。それと……」このタイミングを逃さず、民夫は次の要求をする。
「えっ、まだなにかありましたか?」丁寧な返事だが、すでに嫌気がさしてるのがわかる。
「パケット代なんですけど、今月1回も使ってないのに、上限まで請求されてるんです。変ですよね。知らないうちに、どこに繋いでいるんですか?」今度はすこし毅然と話をした。
「えっと、接続先は個人情報なので、たとえご本人であっても、お教え出来ないのですけど……」
「それって、私の個人情報ですよね。自分の個人情報を知る事が出来ないって、変じゃありませんか?」怒るギリギリの声で一気にぶつける。この緩急が大事。
「ですけど、キマリですので……」
「じゃ、安い契約のフリして毎月上限までお金を搾り取るなんて、詐欺じゃないですか」
「いや、詐欺だなんて、そういうわけじゃ……」
「だって、さっきの契約書だって、サインもしてないのに、契約完了って言ってたでしょう? それって、騙してるとしか思えませんよ。詐欺と変わらないじゃないですか」今回の切り札は本当によく切れる。
「わ、わかりました。今回だけ『特別』にパケット代も最低金額に修正しておきます」
「今月、訂正された請求書が先月分と一緒にもう1回送られてくるんですね」
「はい。そうです」クレーマー担当の声が、少し疲れているように返事をする。
「わかりました。あっ、それから……」
「えっ? まだなにか?」さすがにクレーマー担当の飯森は、息が止まりそうだった。
「いろいろ、ありがとうございます」すこし間を置いて、軽やかな声で最後の挨拶をしてIP電話を切った。
30分かけて、オペレーターの女性を追いつめて、クレーマー担当を呼び出し、オプションの契約無効と、パケット代の最低料金を勝ち取った。成果は上々だ。
クレーマー担当の稲森はもったいぶってはいたが、民夫はこの会社からすでに5回『特別』を貰っていた。
1つ片付いたので、次の依頼の電話を掛ける。今度は20代の男性だ。
「はいありがとうございます。ドチモサポートセンターです」
「あー、あのさーちょっと代金の事で聞きたいんだけど……」
※
夕方、近所のファミレスの4人席で、民夫と春野はサポートセンターとのやり取りを、イヤホンで聞きながら話をしてる。
春野の前には氷が溶けきって薄くなったアイスコーヒー、民夫の前には食べかけで溶けかかったチョコサンデーあるけど、2人とも気にしてる様子はあまりなかった。
「ねぇ民夫。あの契約書にサインとか印鑑がなかったのはどうしてなの? 代理店が忘れただけなの?」
「ちゃんと説明もしないで、こっそりオプション契約の書類作っちゃったから、サイン貰えなかったんでしょうね」
「それじゃあ、本当に詐欺じゃない。しかもすぐバレちゃうでしょ」
「代理店はね、別にバレてもいいんですよ。バレても解約されるだけだから。今回みたいに契約そのものが無くなる事はほとんどないでしょうしね」
「それってどう違うの?」
「解約されても、契約が成立していれば、代理店に取り次ぎ手数料が入るけど、契約が無かった事になっちゃうと、代理店に取り次ぎ手数料は入らないんだよ」
「手数料って、機種変更の?」
「それだけじゃなくて、オプションの契約手数料だよ。機種変更とか、新規契約の手数料だけじゃ代理店はやっていけないから、ほとんどの代理店は、オプションの取り次ぎ手数料で稼いでるんだよ」
「それで、契約してないオプションに無理矢理入らせてるのか。いわゆる抱き合わせってやつか。携帯の代理店も大変だね」
「そういう事。でっ、そこをしつこく突いて、今回はパケット代金まで下げさせたわけ」
「でも来月からは、パケット代は普通に掛かるんだよね」
「そうだね、また上限まで掛かちゃうよ。多分ね」
「彼女、また文句言ってこないかなぁ?」
「でもそこまでは、どうやっても無理。契約書を読まずに機種変更した方が悪いと思うよ。春野さん、そこんとこ上手く言っといてよ」
「了解。ネットなんて切った方がいいですよって言ってみる」
「それ、ケータイバンクが言ってるのと同じだよ」
「ひでーな、そんな対応してるの? ケータイバンクって」
「本当にサポートが酷いよね。だから俺らみたいな仕事が出来るんだけどね」
「なるほど」そう言いながら、春野は思い出したようにコーヒーに口を付けて、少し顔をしかめた。
「今回は資料も揃っていたし、割とやりやすかった」
ここ2、3年スマホに乗り換えてから契約内容で揉める人が多いので、携帯電話のトラブルにもだいぶ慣れて来た。しかも掛かる時間の割にギャラがいい。今月に入ってから、もう20件以上も片付けた。
『本人』が何を喋ったのか憶えてないのは、あとあと困る事もあるので、確認も含めて電話でのやり取りを1度だけ依頼者に聞かせておく。
聞かせるだけで音声データを渡したりはしない。音声データを渡してしまえば声紋から『足』がつく可能性が出てくる。
音声データを依頼者に渡しはないけど、民夫はサポートセンターとのやり取りをSDカードにコピーして保存していた。
聞き返せばその会社のサポート体勢がどうなっているのか把握出来るし、弱点も見えてくる。
うまくいった時の通話は何度も聞き返し、思うような成果が上げられなかった場合も反省しながら何回か聞いておく。
仕事の資料というよりも、それは限りなく民夫の趣味に近かった。
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