4-2 カッサンドラーは語らない

 見覚えのある人影を遠くに見つけ、永井は少し早足になる。

 校門に背を向けている彼女は、なにをするでもなく棒立ちしているだけだが、手持ち無沙汰に落ち着かない様子というわけでもない。確信を持って、そこに凛と立っていた。世界を清澄な滴で彼女の形に穿ったように鮮烈な存在感があった。

 八丈野やえのは永井の姿を認めると、足元に置いていた鞄を拾い上げて彼の近づくのを待つ。手を挙げて永井が合図すると、頷くことでそれに答えた。


「待っててくれたのか?」


 尋ねると、彼女は再び頷いた。どことなく気まずそうに見えるのは機嫌が悪いというよりも、先の出来事のせいで永井にどう接するべきなのかを測りかねているようだった。


「俺がグラウンド側から帰ろうとしてたら、待ちぼうけだったぞ。委員の仕事が長引くこともありえたし、気をつけろよ」

「大丈夫。わかってたから」


 明瞭な語調で断言され、永井は鼻白んだ。

 帰り道は校門のほか、逆の方角のグラウンド脇にもあり、そちら側から帰ることも当然ありえたのだが、八丈野はその可能性をきっぱりと否定する。彼女のこんな話し方には覚えがあった。けれど、それにこちらから言及するのは違うと思い、永井は口を閉ざす。

 永井が文化祭実行委員になってからは別々に帰宅することがほとんどだったので、連れ立っての帰り道は新鮮だ。そういえば、いつの日か、夕暮れの帰り道を校舎から見下ろして、どこかの誰かの仲睦まじい様子を――今なら素直に認められるが――妬みながら見ていたことがある。夕暮れというには少し時間が遅いものの、あのときのその場所に立っているのだと思うと不思議な気持ちだった。


「未来を見るのを、やめるのを、やめることにした」


 思いにふけっていた永井は、八丈野の言葉で現実に引き戻される。

 その内容を吟味して、やはり、と永井は納得した。校門で待っていたというのも、それが理由なのだろう。日の暮れる前に自分が校門を通る未来を八丈野は見ていたのだ。

 突然の告白に永井は相槌を打つだけで、他に言葉を見つけられずにいる。八丈野も永井に反応を期待していなかったのか、そのまま淡々と話を続けた。


「この力は自由自在に扱えるものだと思ってたし、その気になればいつでも捨てられるんだと思ってた。でも、勘違いだったみたい。元々、感情が昂ぶったりすると暴走しがちだったんだけど、あんなの初めてだった」


 八丈野は、憔悴しょうすいしていた。どこまでも遠くを見通すような目は、今は俯いてアスファルトを映すだけだ。


「……初めて、怖いと思った」


 その脳裏を過ぎるのは、自分という人間の存在すら押し流されてしまうほどの膨大な情報の奔流だ。その流れに捕らわれ、八丈野はなすすべもなく震えた。まるで自分ではない誰かが、この身体を通してなにかを見せようとしているようだった。目を逸らすなと、耳元で怒鳴られたようだった。

 だが、それでも意外なほど絶望は感じない。この力とは長い付き合いだということもあるが、それ以上に――――その自分以外の誰かの、慈悲を感じた気がした。その誰かというのが誰なのかわからないし、そんな存在がいるのかすらもわからないのだけれど。


「未来が怖いのなんて、誰だって一緒だ。そういう時期だしな」


 永井は慰める風でもなく、あっけらかんと言う。その気楽な様子に八丈野は口をへの字にした。


「そういう問題なのかなぁ」

「そういう問題だろ。見えてるものが違うだけで、それ以外は同じことだよ」


 八丈野は目が覚める思いで、それに頷く。確かに、未来が見えることなんて大したことではないと思いながら生きてきたはずなのだ。

 結局のところ、どこかで自分は特別だと思っていたのだと八丈野は自覚する。人と同じだとうそぶきながら、人と違うものを見ることを楽しみ、人と違うことで悦に浸っていた。

 しかし、それももう終わりだ。八丈野は恐怖を知ってしまった。

 同時に、喜びも知る。これで本当に、皆と同じ場所に立ったのだという実感だ。


「これとは、たぶん一生付き合うくらいの気持ちでいなきゃいけないんだ。そうじゃないと、また思いもよらないところで人を傷つけることになっちゃうから。それなら普段から慣れ親しんでた方がいい」

「俺は別に傷ついてない」


 八丈野は頑なに否定する永井を不機嫌に見上げた。その頬には、擦り傷を保護するための絆創膏が貼られている。すかすかする臭いは、湿布のものだろう。幸いにして大怪我というほどではないが、軽傷というほど小さいものでもない。それになにより、大きく損なわれたものがある。


「でも、噂が」

「さっきも言ったけど、気にしてないって」


 永井は沈んだ八丈野を見かねて、これから話すことを整理する。どうしようもなく恥ずかしく、みっともないことだけど、どうしても八丈野には話さなければならなかった。


「さっき、香奈に呼び出されてたんだ」


 不意に飛び出てきた名前に、八丈野は過敏な反応を見せる。驚きと不審、そして若干の嫌悪感。わかりやすい嫌がり方に、永井は目を丸くした。


「香奈となにかあったのか?」

「別に」

「それならいいけど。……とにかく、呼び出されて、俺の噂のことで少し話をしたんだ。あの噂は、香奈がきっかけだったところもあるから」


 それは、その事実を改めて噛み締めるような語り口だった。穏やかで優しく、遺恨の一つも残していない清々しい気配。彼の発する雰囲気のなにもかもが正しい方向へと変わっていったことを八丈野は感じる。


「そこで、決着がついた。俺も香奈も、もう気にしない。きれいさっぱり清算した」

「謝ってもらったの?」


 問われて、永井は首を捻る。あの場面を始まりから終わりまで追想して、うん、と答えを出す。


「いや、謝ってもらってはいないな……」

「呆れた。いいの、そんなんで」

「いいんだよ、そんなんで。お互い様っていうところもあったから」

「人が良いっていうか、なんていうか」


 決して褒めているとはいえないニュアンスで八丈野は呟いた。それは八丈野にだけは言われたくないと、むっとしないわけでもないが、どうして簡単に許せるんだと聞かれなかったのは永井にとって幸いだった。泉に答えた内容を八丈野に話すのは、どうにも気恥ずかしい。

 互いに幼い人生観を変える出来事を経験したあとなので、なんとなく気の抜けた気分になる。永井は八丈野が気になって横目にするが、奇行の気配もなく落ち着いたものだった。そうしていると不意に視線が出会い、八丈野はからかう調子で言う。


「そんなに気にしてなくても、なにもしないよ」

「なんでだ?」

「だって、そうしたら永井君、私に付き合って無理しちゃうでしょ?」


 それは一片の疑いもない言葉だった。どこまでも孤独でいたからこそ保っていられる、どこまでも無防備な信頼。それは痛ましいものではあったが、確かに永井という人間を救ったのだ。それを永井は認めがたくて、お優しいことで、と皮肉った。八丈野もまた、そうでしょう、とうそぶく。

 普段は他の学生で賑わっている通学路はがらんとして静かで、遠くを走る電車の音すら聞こえてくる。多くの生徒は近場のカラオケだったり、少し離れた場所のファミレスだったりで文化祭の打ち上げをしているのだろう。もちろん文化祭実行委員の打ち上げもあったが、永井は当然のこととして辞した。八丈野は、そもそも彼女の連絡先を知っているのが同じクラスでは永井と熊倉だけで、熊倉は交際相手の彼女と楽しいひと時を過ごしている最中に違いなかった。

 そういう他愛もない雑談をしながら、いつも以上にのんびりと歩いていると、永井はふと八丈野の様子が妙なことに気づいた。会話をしながらもどこか上の空で、見れば珍しく俯き加減でいる。開いた左手の甲を不思議そうな面持ちで眺めていた。


「手、どうしたんだ」

「えっ?」


 そのことを聞くと、八丈野は頓狂とんきょうに聞き返してきた。まん丸に開いた目は瞳が零れ落ちそうだ。


「さっきからずっと手を見てるみたいだったから。まさか、怪我でもしたのか?」

「いや、大丈夫。なんともない」


 ぱたぱたと忙しなく手を振る様子を見ると、確かに痛んでいるわけではなさそうなので、永井は気のない返事をする。それでもなぜか気になってちらちらと視線を送っていると、どうしてもそれに言及されたくないのか、八丈野はあらぬ方向に目を向けて口を閉ざしていた。

 なんだか変な雰囲気になったな、と思っていると、その八丈野が突然に、あ、と声を上げる。


「そういえば永井君、あれ、どうやったの? 私の予言、疑わなかったでしょ」


 色々なことに流されていて、八丈野は永井にそれを聞くのをすっかり忘れていた。八丈野は、あのとき教室で起きた出来事が、自分の人生を変える転機になるということを感じていたのだ。

 事故が起きて怪我人が出るかもしれない、だから怪我人が出ないタイミングで事故を起こしてしまえばいい。予言を聞いた永井は、それを事も無げに実行してしまった。助言や指示ではなく、未来視の内容自体を知った上で未来を変えたのだ。八丈野本人以外にはできなかったはずのそれを、初めて永井が成し遂げた。

 その事実を思い出し、八丈野は胸の奥が満たされる不思議な感覚を噛み締める。

 人に信じてもらえること。そして――傲慢だが――自分のために傷つくことをいとわない人がいること。ただそのことが、涙が出そうなほどの暖かさを与えてくれたのだ。


「諦めてたつもりだったんだけど。言ったことを信じてもらえるのって、こんなに嬉しいものなんだね」


 きっと、予言を信じるための条件があるのだろうと八丈野は思っていた。元々、この力を解明することに八丈野は興味がなかったので、どこかに見落としがあったのだと考えたのだ。その画期的な発見は、内容によっては未来視に対するスタンスを見直すことにも繋がるかもしれない。

 しかし永井は、あー、とか、うー、とか、言葉にならない呻き声を上げて困り顔をしている。どうしたのかと目で問いかければ、彼は躊躇いがちに言った。


「いや……実は、信じてなかったんだ」


 その答えはまったく予想の範疇はんちゅうになく、八丈野は衝撃を受けるというより疑問を抱いていた。まさかあれは不慮の事故だったのかと思うが、だとしたらこんな軽傷では済んでいないだろう。事故が起こることを知っていて身構えていたからこそ永井は今も無事でいるのだ。


「じゃあ、なんで?」

「なんとなく、かな……」


 八丈野は言葉を濁す永井の前に回り込んで、その顔を真正面から見つめた。どこまでも遠くまで貫いていくような強く青い視線に、永井は息を呑む。


「誤魔化さないでよ」


 もう無関心な振りはできなかった。その曖昧な言葉の奥底に、恥ずかしく、もどかしい、どう伝えればいいのかわからない思いがあることを八丈野は知っている。永井のそれを、聞きたかった。彼の思いを知りたかったのだ。

 永井は言葉を整理するように少しの間、黙り込んだ。それからゆっくりと、覚悟を決めた顔で言葉を紡いでいく。


「八丈野の未来を見る力と、それを人に信じてもらえない呪いは、本物なんだと思う。色々試してみたけど、それだけはどうしても覆らなかった。でも、未来視の内容を話すと未来を変えられなくなる、っていうのは違うんだ」


 八丈野は反射的に込み上げてくる否定の言葉を呑み込んだ。予言を通して未来を変えることができるのは、その予言をした自分自身だけだと思っていた。それは経験則だ。だが、永井がそれを実行したというのも確かな事実だった。


「きっと、迷いが原因なんだ。自分のやってることが間違ってるんだと思ってると、どうしても迷う。八丈野の予言を聞いて行動しても、自分のやってることが正しいことなのか自信が持てなくて、思い切れないんだ。逆に言えば、それさえできれば、八丈野の予言を聞いても未来は変えられる」


 永井の言っていることがすぐには理解できず、八丈野はしばらく首を捻ってその言葉を吟味する。そしてその内容が浸透してくると、次に現れたのは多大な驚愕だった。


「それ、本気で言ってるの?」


 大きな声で責めるように言うと、永井は一切の気負いもなく頷いた。それがどういう意味なのか理解して、それでいて受け入れた覚悟の表情だ。

 まるで信頼できないことに躊躇なく従うと、永井はそう言っているのだ。

 それがどれだけ危険なことかわかっているのだろうか。まるで、妄信だ。不幸の薬を迷わずに飲み下す行為だ。あまりにも愚昧ぐまいな宣言に、八丈野は言葉を失った。

 もし悪意を持って偽りの予言をしたとしても、永井はそれを信じてしまうのだろう。自らが培ってきた価値観と、育んできた人格より、他人の得体も知れない予言を信じるなど、まったく正気の沙汰ではない。


「どうして……」


 掠れた声で問いかける。

 彼のことを振り回してばかりで、傷つけたことさえあった。それなのに、どうしてそこまで言えるのだろう。困惑に思考がかき回されていく。

 未だかつてない感情に動揺を隠せない八丈野を前にして、永井は莞爾かんじとして笑った。


「先に信じてくれたのは、八丈野の方だ」

「それは……だって、そんなの、大したことじゃない。私は、たとえ永井君が悪い人で、変な噂を流されても、どうでもよかった。ただそれだけだったのに」

「それでもよかったんだ。それが、俺にとってのすべてだったんだ。だから俺は、俺を信じてくれた八丈野に答えたい」


 そして永井は、かつて失ったはずのまっすぐな視線で八丈野を見つめ、言った。


「俺は、八丈野の予言を信じない。でも、八丈野のことは信じてる」


 八丈野の視界は唐突に霞む。

 驚いて双眸に手を伸ばせば、そこは暖かく濡れていた。

 それを自覚した途端、更に涙が溢れ出してくる。なにか彼に答えなければならないと思うが、塞がった喉は意味のある言葉を生み出せない。ただしゃくりあげ、途切れ途切れに嗚咽が零れ落ちるだけだ。


 予言を信じてもらえたと勘違いをしたときとは比べ物にならない、切なく甘い幸福感。八丈野は、生まれて初めてそれを感じた。同時に、人から向けられる好意に鈍感だった理由を八丈野は知る。

 容姿も言動も目立つ八丈野は、人の耳目を否応なく集めた。その中で、誰某だれそれに好かれているらしい、なんて話を聞いたことだって何度かある。それでも八丈野は彼らの思いに答えられるとは思えなかったのだ。

 それは、諦めだった。どんなに好いてくれても、この身を案じてくれたとしても、自分のすべてを理解してくれる人などいないのだと思っていたのだ。この予言の呪いがある限り、全幅の信頼を寄せられることなどありえない。

 どうせどこかで自分のことを疑うのだろうと、ねていたのだ。


 予言の力を特別だと思ったことはない。同情されたくない。同調してほしくもない。それは八丈野が常に思っていることだった。

 だが、それならば、なにを望んでいたのだろう。どうしてほしかったのだろう。その疑問の答えは、すぐ目の前にある。

 そう――信じてほしかった。

 親が子に向けるものよりも無垢なものが。友人同士で交わされるものよりも確かなものが。

 危険性さえ孕んだ、純粋すぎる信頼を知りたかったのだ。

 正論でも一般論でもない、そのどうしようなく不合理な感情論を望んでいたのだ。


 なく流れ落ちる涙の熱に、八丈野は自分自身すら理解していなかった本心を知る。

 どうしようもなく恥ずかしくて乱暴に目元を袖口で拭い、視線だけを上げた。そして八丈野は意外なものを目撃して、赤らんだ顔は泣き笑いに変わる。


「なんで永井君まで泣いてるの」

「うるさい」


 そう答える永井は、大きな手で目元を覆ってあらぬ方向に目を逸らしていた。歪んだ口元は震え、強がった声も頼りなく揺れている。

 自分の思いが伝わり、それがなにかを変えるということ。それは永井が求め、そして得られなかったものだった。

 どこまでも孤独な二人の間に、糸にも似た繋がりが築かれたのだという実感。目の前にいる大事な人と、確かに同じ感情を共有している。永井には、それがなににも代えがたい幸福だった。


「困ったことがあれば、俺を呼べ。俺は、たぶん八丈野の予言を信じない。でも八丈野の予言のとおりに動いてみせる。俺は、八丈野の人生を、悲劇にはしない」

「永井君、意外にロマンチストだ」


 少し前に聞かされたようなことを言われ、永井もまた泣き顔を綻ばせる。

 ここで交わした想いを、一生忘れない。そういう確信が二人にはあった。それは頭を抱えるほど恥ずかしいものだし、もしかしたらいつか思い出したくもなくなる苦い記憶に変わるかもしれないけれど、それでも、それは幼い二人の心を清らかに変えた大切な言葉だった。


「信じてくれて、ありがとう」


 夕暮れの通学路に、きれいに重なった二つの声が静かに響く。それは朱色の陽光に紛れる、一筋の赤い光の煌めきを予感させていた。



 ◇ ◆ ◇ 



 今に語り継がれる神話ギリシア神話において、その女性カッサンドラー強く美しい神アポローンの寵愛を受けた。

 神により授けられた祝福は、未来を知る力。立ち込める闇を祓い、茫漠たる世界に道を拓く一筋の光。


 その目はすべてを見通し、その声は誰にも届かない。終焉の到来を知りながら、ただ一人の信頼すらも得られない。

 誰一人救えず、何一つ変えられず、残酷な未来を迎えてしまった預言者。彼女の生涯は万人が悲劇だと感じる凄惨なものだった。


 その心を知ることは、きっと永久に叶わない。

 彼女が心から求めたもの、彼女が自ら望んだこと、彼女に寄り添った人。神話の中に、それは描かれていないからだ。

 もし神代かみよかたが預言者の生涯をつまびらかにしていたなら、それは悲劇として語り継がれることはなかったのかもしれない。


 ただ一つだけ確かな事実――――それは、悲劇は再演されないということ。


 現代に蘇った、カッサンドラーは語らない。どうせ信頼を得られぬのならばと、その口はつぐんだまま、細い両の手を小さな悲劇に差し伸べるだけ。

 彼女は、その傍らに、いつも一人の理解者を伴っていた。



カッサンドラーは語らない <了>

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カッサンドラーは語らない テイル @TailOfSleipnir

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