終章 誓い

4-1 誓い

 その一段目に足を乗せた瞬間、すぐ違和感に気づく。踏まれることに慣れていないタイルの感触。うっすらと積もる砂埃の乾いた感じ。

 毎日、何百、何千と人の行き来する学校の中でも、屋上へと向かう階段は最も人通りの少ない場所の一つだ。上り切った先には施錠された扉しかないのだから、それも当然だ。しかし文化祭中は屋上が開放されており、澱んでいた冷たい空気も人の流れと一緒にどこかへと散らされたようだった。

 力いっぱい叩いたら凹みそうな、心許こころもとないドアのノブを握る。捻れば、ぎりぎり、と錆びた手応え。それを押し開いた瞬間、広い朱が視界に飛び込んできた。空が落ちてくるのではないかという壮絶なまでの夕焼けに、しばらく圧倒される。

 乾いた風に目を細め、永井は屋上に踏み出した。

 昼間は人々が青空の下で食事を楽しんでいただろうテーブルの間を縫い、喧騒の残り香が漂う中を奥に進むと、フェンスに寄り添って空を見上げる女子がいる。スカートと黒い髪の靡く後姿は額に収めれば様になりそうなほどに絵画じみていた。


「手伝いが必要そうには見えないな」


 気配に気づいていたのか、泉は驚いた様子もなく悠然と永井に向き直った。そして目尻を下げ、口角をきゅっと吊り上げて微笑む。

 その笑顔の、なんと魅力的なことだろうか。かつて永井が知っていた泉は、その頃から周囲とは一線を画する可愛い女子だったけれど、遠藤と付き合うようになってからは更に磨かれていた。決して派手に着飾ることはせず、しかしそれが彼女の落ち着いた姿を際立たせる。委員会の仕事の途中に遠藤と雑談をする中で、彼女が男子の間で非常に人気があるということを聞いた。それも仕方がないと思えるほど彼女の存在は目立っていたのだ。


「うん、手伝ってほしいっていうのは、嘘だからね」


 泉は悪びれもなく言った。永井は、しょうがない、という風に溜息をつく。彼女から連絡を受けてここまで足を運んだのだが、どうやら徒労だったようだ。


「きれいな夕焼けだったから、諒君にも見せてあげようと思って。どう?」

「どうもなにも、夕焼けに感動するほど俺は繊細じゃない」


 ぶっきらぼうに言うと、泉は訳知り顔で鼻を鳴らした。永井と幼少の頃から一緒だった泉は、それが強がりであることを簡単に見抜いていた。


「そうかな。あのときの空に少し似てると思わない?」


 泉の問いかけに、永井は目を見張る。

 あのとき、というのがなにを指しているのか、わからないはずがない。永井と泉にとって、夕暮れの屋上というのは特別な意味を持っていた。あれから泉がそのことに言及したのは、これが初めてだ。


「諒君、意外にロマンチストだよね。あの日、今の私と同じように、夕焼けがきれいだから屋上で告白しようって思ったんでしょ?」

「どうだったかな。そんな前のこと、おぼえてないよ」

「私は、おぼえてる。……この学校で香奈がかわいいことを知ってるのは、今のところ、俺だけだ。他のやつがそれに気づく前に、付き合ってくれ、って。そう言ったでしょ」

「本当に、よくおぼえてるな!」


 驚嘆と照れ隠しのために永井は叫ぶように言った。その顔が瞬く間に赤くなっていくのを目の当たりにして、泉は声を上げて笑う。くしゃりと相好そうごうを崩す、子供の頃のような笑い方だ。穏やかで優しげな微笑みを浮かべていた泉だが、永井が馴染みのあったのは、この泉の姿だった。


「おぼえてるよ」


 決して大きな声でもないのに、彼女の言葉は風にふらつかずまっすぐに永井へ向かって届く。俯き、目を閉じたポーズで、泉はなにかを噛み締めているようにも見える。

 やがて彼女は面を上げ、黒い双眸を見開いた。

 泉がこれほど強い、痛ましいほどの覚悟を秘めた目をするようになったのは、いつからだっただろう。その強さは、まるでこの日、この時のために研がれたように、永井を鋭く射抜く。


「……怒ってる? 私のことを」


 その短い問いかけは、永井に多くの感情を去来させた。

 二年だ。あれから、もう二年以上も経っている。十代の少年少女にとっては、すべてが変遷へんせんするには、有り余るほどの時間だ。しかし幼いからこそ傷つきやすい、その心に刻まれた跡は風化することはない。

 戸惑い、疑い、絶望、悲しみ、怒り――――そのすべてを永井は一瞬で追体験したようだった。

 だが、永井は笑っていた。

 数多あまたの感情を抱擁し、凪ぎ切った心地で、ただ頷いた。


「怒ってたし、恨んでたよ」


 それほど直接的に答えられるとは思っていなかったのか、泉は目を丸くして言葉を失った。


「あの変な噂を否定してほしかったし、どうせ振るなら面と向かって言ってほしかった。……付き合ってほしかった、っていうのが一番の本音だったけど」

「…………」

「でも、もういいんだ」


 その言葉を裏切るように、永井の気持ちは澄み渡っていた。吹っ切れているからこそ、こうして言葉にもできている。

 いつかの諦観も、くすぶる怒りと悲しみも、もはや熱や煙を生むことなく沈黙している。すべては過去のことなのだと割り切ることができていた。もはや、そのことを恨み続けて自分を慰める必要もなくなってしまったから。


「今、わりと楽しいし、幸せなんだ」


 そう言って、永井は笑った。ともすれば厳つく見える顔を意外にも無邪気に綻ばせた笑い顔だった。

 もしあのとき泉が頷いてくれていたら、泉の答えを聞くまでその場に留まる勇気を持てていたなら、違う現在と、違う幸せがあったのかもしれない。もしかしたら、それは現実の今とは別の楽しさがあったのかもしれない。ありえたかもしれない今への興味は確かに存在した。

 かつて夢見た未来は既に失われ、時計の針は容赦なく巡り続ける。

 未来のために全力で生き、戻らない過去のことは惜しまない、不可逆の世界を真摯に生きる術を、永井はもう知っていた。

 永井と泉、二人の間に存在したしがらみは音もなく崩れ落ちていく。

 未来が慈悲もなくやってくるのと同じことで、どんなに目を逸らしても、忘れた風に振舞っても、過去は決して消えることはない。まるでなかったように扱われた過去は亡霊となって人を蝕むのだ。その存在を認められ、正しく弔われたそれは、清々しい気配と共に空へ昇っていった。


「なぁんだ」


 泉はねた調子で言うと、眩しそうに目を細める。


「そろそろほとぼりも冷めただろうし、今なら謝ってあげてもいいかなって思ったんだけど。そう言うなら別にいいよね」

「なんだよ、それ」


 永井は苦笑いをして、それからふと申し訳なさそうに頭をかいた。確かに、噂の原因は泉だったのかもしれない。しかしそのあとのことは、自業自得な部分もある。


「俺も、悪かった。……ねてたんだ。意地張ってて、ごめん」

「このことで諒君に謝られたら、私の立つ瀬がないんだけど……」


 心底嫌そうに泉が言う。それもそうだと思って、悪い、と言えば、ほらまた、と泉は眉を吊り上げた。そんなやり取りが無性に懐かしく、おかしくて、二人は声をはばからずに笑い合う。

 そこには清楚を装った泉の姿も、精悍せいかんな顔立ちの永井もいない。ぼさぼさの髪で野暮ったい少女と、首筋まで赤くした幼い表情の少年の姿があるだけだった。


「用事がそれだけなら、俺はもう帰るぞ。さすがにくたくただ」

「うん、お疲れさま。私は、もう一回ここを確認していくよ」


 そうか、と言い残して永井は身を翻そうとする。が、中途半端な姿勢のままで動きを止めた。


「どうしたの?」

「……あのときのことで、聞きたかったことがあるんだ。それだけ教えてほしい」


 当時は自分の感情が先走っていて、そのことが気になりだしたのは少し経ってからのことだった。だが、それを聞く機会もなければ、知ったところでどうしようもないと諦めていた。この世には理解できないことも、理解する必要もないことも、溢れている。そう言い訳して目を伏せたままでいた。だが、知らないわけにはいかないのだ。永井はそう強く思っていた。

 もう一度泉に向き直り、ひどく緊張した顔で彼女を見つめる。二年前の春を思わせる表情だった。


「あんな振り方をしたのは、傷つけてやりたいくらい俺のことが嫌いだったのか。俺を……なんとも思ってなかったのか?」

「違う!」


 切ないほどの訴えに、悲鳴のような叫びが答えた。泉は目を見開いて、拳を握り締め、必死の形相で首を横に振る。


「それは、違う……」


 意外なほどの激しさに驚いていた永井は、やがて表情を和らげる。

 救われた気分だった。ずっと胸の奥に刺さっていたくさびの、最後の一欠片が、抜け落ちていく。


「よかった」


 永井は静かに震える声で答えると、強張っていた顔を崩し、今度はおどけた風に言った。


「実行委員に誘ってくれて、ありがとう。大変だったけど、楽しかったよ」


 泉もそれにつられ、多少ぎこちなくはあるが微笑む。


「ちょっと、なに勝手にまとめに入ってるの。まだ片付けが残ってるし、諒君にはもっともっと働いてもらわなきゃいけないんだからね」

「おい、まだこき使う気なのか?」

「当たり前でしょ。だから、今日はゆっくり休んで。怪我もしてるみたいだしね」


 遠回しな気遣いに苦笑いをして、永井は、じゃあな、といって手を振る。そして、今度こそ振り返らずに屋上を後にした。

 いつも後ろ向きで、日陰者であり続けた気分を、もう感じない。

 永井は、そこで初めて、自分が完全に過去と決別できたのだということを知った。



 ◇ ◆ ◇ 



 再び一人きりになった泉は、喉元まで出かかっていた言葉をようやく飲み下した。鉛のように重く毒々しい言葉だ。

 吐息をついてフェンスにもたれかかり、校門の方を見下ろせば、その辺りに一人の生徒の姿が見える。それほど視力のよくない泉には顔が判別できない距離だが、ひどく悪目立ちする彼女のことは見間違えようもなかった。そして彼女がそこに留まっている理由も明白だ。

 これでよかったのだと言い聞かせてくる自分と、なぜその言葉を形にしなかったのかと後悔する自分がいる。内からの声に耳を塞ぎ、泉は崩れ落ちるようにしてその場にしゃがみこんだ。

 途端、熱が込み上げて来る。

 以前もこうだった。永井を見送ったあとでうずくまっていた。だが今回は耐えようと思っていても堪え切ることはできない。屋上の地面にぼたぼたと涙の雫が零れ落ち、しゃくりあげる嗚咽が風にさらわれてどこかへと消え去っていく。

 ゆるされたい、ただそれだけを願ってきた。罪悪感というくさびで顔に打ちつけられた仮面を剥ぎ捨ててしまいたかった。だが、なんのことはない、永井は既にゆるしていたのだ。思い出したくもない過去を認め、怒りを飲み込み、消化していた。

 無惨に朽ちるだけだった人間関係は息を吹き返した。永井とは、また新たな人間関係のステージに立つことができるのだ。


 しかし、切望していたものを得たはずの泉に去来したのは安堵でも歓喜でもなかった。

 それは底知れぬ後悔と、灼熱に泡立つ嫉妬だ。

 実行委員の勧誘のために久しぶりの再会を果たしたときには、既に永井は過去を引きずることを止めていたのだろうと思う。あのとき、彼の見せた前向きな表情に違和感を覚えていたのだ。

 彼のかたわらには、彼女がいた。

 かつて自分が一身に受けていたはずの気遣いや優しさを向けられ、それをおごることもなく、遠慮するでもなく、ただ素直に受け入れていた彼女。人の目を気にしてなにかを誤ることもないだろう、どこまでも心の赴くままに生きられる強さは、不安定に揺れていた永井が惹かれるに十分すぎるほど鮮烈な存在だった。

 結局のところ永井を癒したのは、あるいは癒しを促したのは、泉ではないのだ。時間すら劇薬になりうる深い傷を跡形もなく消し去ったのは、あの人だ。そのことを思うと泉の中で醜悪な感情が攻撃的に鎌首をもたげ始める。

 ゆるされたい、ただそれだけを願ってきたつもりだった。だが、罪の意識から解放されたからこそわかる。結局のところ、心の底から求めていたのは、そんなちっぽけなものではなかった。

 一度は手の中に掴んでいたもの。一時の激情に流され打ち捨ててしまったもの。それはもう彼女が大事に抱え込んでしまって、滅多なことでは戻ることはない。罪を自覚したあのときとは比べ物にならない、途方もない絶望感に泉は打ちひしがれる。

 掌に爪が食い込むほど握り込んだ拳は小刻みに震え、目に押し当てた袖口は濡れそぼっている。いつの間にか嗚咽は苦鳴に変わっていた。吐息は毒を含んでいるかのように焼けるほど熱い。

 どうしてこうなったのだろう。どこでどう、なにを間違ってしまったのだろう。

 自分にも未来が見えていたなら。

 こんなことになってしまうとわかっていたなら、それを強く抱き締めて、決して誰かに渡してなどやらなかったのに。


「あのときに戻れるなら、私は私を殺してやりたい……」


 どす黒い涙声の独白に恐れをなしたかのごとく、吹いていた風が急に凪ぐ。

 その気配に顔を上げれば、赤々と燃えていた空は静かな藍色に染まり始めている。あと数刻もしないうちに、それはぬばたまの夜に変わるだろう。

 変わり続ける空の色に啓示を見て、泉はすっくと立ち上がる。涙の衝動は未だに収まる気配がなく、化粧も見る影なく崩れてしまっているけれど、そんなことよりも大事なことがある。

 贖罪しょくざいとはゆるされるための手段ではない。

 そして、ゆるされたからといって贖罪しょくざいが終わるわけでもない。

 今更になって諦めることなどできようはずもなかった。損なわれてしまったものが息を吹き返し、新しい段階へ進むというのなら、その未踏の地をどこまでも切りひらいていかなければならない。その奥に求めてやまないものがあるなら、それを目指して。どこにもないというのなら、それを持っている彼女から奪い取るほどの熱情を秘めて。

 そのために、やらなければならないことがある。自分のせいで流布してしまった彼の不名誉を否定し、まさに今日、新たに生まれてしまったそれを確実に打ち消してやらなければならない。

 たとえそのために過去のことで誰かに軽蔑されても構わなかった。なにを今更、と永井を案じ続けた人達からなじられるのだとしても望むところだった。百人の他人の悪意に晒されても、ただ一人の心を得られるのなら、それで構わなかった。


 彼の愛情を得るために。同じ舞台に立つことが許された自分に、一体なにができるのか。

 泉は、既に答えを持っていた。

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