3-9 ただ一つの報い

 その年は冬の訪れが早く、衣替えの時期を迎えて一ヶ月もしないうちに生徒達の間で冬の装いが目立ち始めた。泉らの住む地域は当たり前に積雪と降雪があるので寒さには慣れ親しんでいるものの、それにしても今年は様子が妙だと皆が感じていた。そして立冬を迎える頃、泉と遠藤は別れた。空の鈍色にびいろが欠け落ちるように初雪の降る日だった。まばらに舞う白は、幼すぎた二人に終わりを告げるようだった。

 それは破局というほど悲劇的なものではなく、淡々とした終焉だった。仲が険悪になったわけでもないし、決定的な出来事があったわけでもない。むしろ泉は、いつ別れたのかもはっきりとしない自然消滅になるものだと思っていたので、遠藤が律儀に別れ話を切り出したことすら意外だった。遠藤と泉の周辺では、そのような呆気ない恋の終わりの話は珍しくもなかったのだ。

 あれほど自らを苛んでいた罪悪感も、全身が燃え上がったのではないかと思わんばかりの熱も、穏やかで甘い恋も、すべては色褪せ、ひび割れ、枯れ果てていた。すべてを虚しく感じているかのような泉の憂いは、確かに別れの遠因だった。

 泉と遠藤は人気のない場所で身を寄せ合い、短い恋の思い出話をした。穏やかな友情を確かめ合い、それがこれからもほころばないことをちぎり合うひと時は、灰に消えた熱情をいたむように優しかった。最後の好奇心で、どうして私と付き合おうと思ったの、と聞いた。大人しい子と付き合うのがどういう感じなのか興味があった、と遠藤はことげに答えた。健全で活発な男子にとっては幼い日の男女の付き合いなどその程度のことなのだな、と泉は思った。その答えに思うところなど一つもない。きっとそうなのだろうということは、もうずっと前から察していた。

 気がつけば灰色の空は夜の黒を帯び始め、帰宅しなければならない時間がくる。遠藤は一緒に帰ろうと誘ってくれたが、そういう関係じゃなくなったんでしょう、とからかって、それを断った。


「二人で合格して、同じ学校に行こうな」


 遠藤が去り際に言った言葉に、ずっと浮かべていた作り笑いが少しだけ歪む。それは、はるか昔に思えるほどの過去から舞い戻ってきた台詞だった。真逆の場面で出てきた同じ言葉は因果めいていて、針で刺すような感触を伝えてくる。それがひどく煩わしく、忌々しかった。

 寒さに身を縮こまらせながら、靴音の響く校内を行く。時刻は中途半端に遅く、部活をしている生徒を残して、他の皆はほとんど帰ってしまっているようだった。季節と天気のせいで、夕刻にもかかわらず夜かと見紛みまがう闇が広がっている。ちょうど玄関を通りがかる。ついでに雪の具合はどうかと外を覗こうと向かえば、たん、と外履きが放られて地面に落ちる音がする。まだ誰か残っていたのかと意外に思い、下駄箱の前を通り際にちらりと盗み見る。

 後姿だ。しかし小さい頃からずっとそばにいて、目で追い続けてきた幼馴染の姿を、見間違えるはずがない。

 以前は彼と接するたびに込み上げてきた暖かく柔らかな思いは、その感触すら思い出すことはできなかった。今の泉が感じるのは筆舌に尽くしがたい色をしたうねりだ。少なくとも、それはまったくきれいな色ではない。そのうねりに突き動かされるようにして、泉は彼に向けて歩き出していた。

 終わりにしたかったのだ。いつまでも心の片隅に影を落とし、時が立つほど大きくなっていく黒い塊と、決別したかった。

 彼と対面することが、ずっとおそろしかった。しかし逃げ回り続けることの方がおそろしいと、知ってしまっていた。


 玄関のに踏み出す。靴裏で、こん、と湿り気のある木の音が寒々しく反響し、永井に自らの存在を知らせた。

 同じ教室で長い時間を過ごす中で、まったく特定の生徒と触れ合わないようにするのは普通なら不可能だった。だが泉自身が可能な限り彼を避けていて、また近くにいた友人達も永井を遠ざけようとしていたおかげで、こうして直接対面するのは、本当にあの日以来だった。

 蛍光灯の弱々しい光に照らされる彼は、少し精悍せいかんになっていた。身体も以前より大きくなったように思える。半年だ。それは一人の中学生が心身ともに変化するには十分すぎる時間だった。しかし、過ぎ去った時間がどれほど苛烈に牙を剥いてきても、今なら受け入れられる。そのときの泉には、そんな気がしていたのだ。


「まだ残ってたのか。どうしたんだ」


 永井は外履きを投げた格好のまま動きを止め、驚いたように声を上げた。

 その調子に泉は拍子抜けする。その声、所作、こちらを気遣うような視線、そのなにもかもが、泉の知る永井諒そのものだったからだ。


「ちょっと、友達と話し込んじゃって」

「こんな時間までか。程々にしろよ」


 からかうような言葉は少しの笑みを含んでいる。そんな些細な仕草さえ、あのときのままだ。それにつられて泉も相好を崩す。作り笑いなどではない、心の底から湧き上がる感情のままの表情だった。

 季節を逆行していくようだった。身につけてきたあでやかな衣装をかなぐり捨てる気分だった。雑誌で学んだきれいな笑い顔もなく、友人達を真似た媚びる声音もない。幼い日からずっと続いてきた泉本来の姿がここにあった。凍りついた心が優しく解されていくのを感じる。それは確かに遠藤が与えてくれた熱よりも穏やかで静かなものだったけれど、はるか以前からそこにあって、そしていつまでも続いていくことを信じられる力強さがあった。

 永井のことが、好きだったのだ。

 泉は、このとき初めてそれを強く意識した。

 告白されたからという受動的なものではなく、周りにはやし立てられたからという軽薄なものでもない、自分自身が彼を思慕しているのだという確信があった。それを自覚した瞬間の、どれほど幸福なことだろうか。あのとき永井も、こんな気持ちでいたのだろうか――そう思うと目頭が熱くなった。


「遠藤は一緒じゃないのか?」


 高まっていた熱が、冷や水を浴びせられるように凍える。

 その言葉には単純な疑問の響きだけがあって、皮肉の気配はない。それでも泉には耐えがたい苦痛だった。裏切ったのは自分なのだという当たり前の事実さえ脳裏から消え去っている。どうしてそんなことを言うのかと、身勝手な憤りさえ湧き上がっていた。


「遠藤君とは、別れたの」

「……そうだったのか」


 ごめん、と気まずそうな呟きが冷たい空気と一緒に地面へ落ちる。だが、泉が聞きたかったのはそういうことではなかったのだ。

 自分と永井を隔てるものはすべて取り払われたのだと思っていた。すべての障害はなく、あらゆるしがらみは清算され、あの頃の感情が残るだけだと信じていた。

 誰とも付き合っていないのなら、その隣を一緒に歩く権利が宙に浮いているのなら、その手を取らせてくれと、永井ならそう言ってくれるのだと思っていた。同じ感情を共有していると信じて疑わなかったのだ。


「でも、一人で帰るのは危ないから、今日の帰り道くらい付き合わせろよ。あいつも、なんだかんだ良いやつだから、断らないだろ」

「え……?」


 想像だにしなかった永井の申し出に、泉は間の抜けた声を漏らす。永井は泉の動揺に気づかなかったのか、地面に放った靴をふらつきながら履き始めた。俯いた面には深い陰影が落ち、その表情をうかがわせない。

 彼のことだから、一人で帰るなと言い出すことは知っていた。だが永井なら、そして永井と自分の仲ならば、一緒に帰ろうと言ってくれるはずだったのだ。

 もしかして、遠慮があるのではないかと泉は焦燥の中で思う。遠藤との別れを引きずっていると思われているのではないだろうか。一緒に帰るように仕向けて、仲直りする機会を作ってやろうとでも考えているのではないかと。

 違うのだ。帰り道を並んで、穏やかに談笑しながら歩きたい相手は、遠藤ではなかったのだ。それだけのことに気づくまで、これほど時間をかけ、ひどく待たせてしまったかもしれないけれど、今はわかっている。もう誰に気兼ねすることもなく、一緒にいられる。

 あの思いを、もう一度、聞かせてほしい。それだけが泉の願いだった。その強い感情が足を動かした。


 そのとき、永井が面を上げる。

 なにも変わらない普段の表情だ。ともすれば厳つい顔を、とぼけたような雰囲気が和らげる、警戒感を解して散らすような独特な空気。

 だが、泉は気づいてしまった。

 その視線が、佇まいが、形のない拒絶感を発散していることを。その足が、泉の近づいた分だけ遠ざかるように動いたことを。


「どうした?」


 縫いつけられたように立ち尽くす泉を案じる表情。なにかあればすぐに駆け寄ろうという優しい気配。そのすべてが、あのときからなにも変わっていない。

 しかし、変わらないなどということは、ありえない。

 たった一歩の動きが、そのことを残酷なまでに伝えていた。


 人間関係とは、生き物だ。

 生まれ、育ち、絡み、ほぐれ、強くなり、衰えて、そして死ぬ。流動的に移り変わるのが正しい姿で、変わらないというのは異常事態に他ならない。

 手ひどい裏切りがあったならば損なわれなければならなかったのだ。怒り、悲しみ、血を流しながらぶつかり合う。その正しい姿が、そこにはなかった。


 泉は気づいてしまった。永井は、過去の自分自身を再現するようにして、泉と対面しているのだ。

 その姿の、なんと無惨なことだろうか。

 人間関係の死骸から生皮を剥ぎ、腐った血が滴るのもそのままで顔に被せているような、おぞましさがそこにあった。

 永井は、もう諦めてしまっているのだ。

 きっと泉のことだけではなく、自分を取り巻くものすべてを。一時的な頑固ではなく、自分の人生の在り方として人との関わりを捨ててしまった、間違った潔さが永井にはあった。

 たかが色恋沙汰で――などとなじることなどできなかった。たとえそれが、高校生になれば苦い過去程度のもので、大人になれば恥ずかしい思い出程度のものだったとしても、まだ中学生の永井には、それがすべてだったのだ。


「具合でも悪いのか?」

「ううん、大丈夫」


 泉は震える声で答えた。そう言うしかなかった。今の彼になにを言ったところで、何一つ変わらないのだとわかりきっていた。

 謝れば、別に怒っていないと笑うだろう。泣けば、慰めてそばにいてくれるだろう。しかし過去のやり取りを投影したように空虚な優しさは、決して変わることはない。時間は傷口を膿ませるばかりで、癒えることなどないのだと思われた。熊倉をはじめとする彼の友人達でさえ、彼を慰めることができなかったというならば、もうなにもかもが無駄に終わるしかないのだ。

 すべては手遅れ――。

 いつか聞いた不吉な予言が胸を締めつける。


「じゃあ、俺は帰るけど。雪も少し積もってるみたいだし、気をつけろよ」


 そう言って、永井は笑った。頬の引きつる、不格好な表情だった。

 意外なほど無邪気に幼い笑顔は、もうそこにはない。なにも変わらない彼の態度の中で、ただそれだけが、取り返しもないほど変わってしまったことを知らしめている。


 二人の間に存在した関係は、もう損なわれることはない。

 深まることもなく、傷つくことも、新たな段階を見ることもない。きれいな姿のまま氷の檻に閉じ込められてしまった遺骸として、そこに存在し続けるのだ。


 これが結果なのだと、泉はようやく、それを思い知った。

 苦しみに耐える振りをして、誰かに責任転嫁していても、その事実が消えてなくなるわけではない。自分の心は騙せても、それは大切な人につけてしまった傷をなくすことにはならない。目を逸らせば、なにもかもなかったことになるなどということはない。

 優柔不断に流され、一時の愚かな熱情に浮かされ、胸のうちに生まれる罪悪感を友人に向けて吐き捨てた、これがその報いなのだ。決して取り返しのつかない現実を目の当たりにして、泉はついにそれを知った。


「うん。ばいばい」


 泉は胸元で小さく手を振って微笑む。皮膚の強張ったような不快感が残った。きっと鏡を見たなら、永井が浮かべているようなひどい笑顔があることだろう。なにかをいたむような、痛々しい笑顔が。



 ◇ ◆ ◇ 



 永井の去ったあとで、泉は独り玄関でうずくまった。

 握った拳で目元を押さえ、湧き出る熱を押さえ込む。泣いては化粧が崩れる、と咄嗟に考えてしまったことが、ひどく忌まわしかった。音が出そうなほど食い縛った歯の間から、獣の息遣いにも似た声が漏れ出る。

 悲しむ権利など自分にないのだと、彼のことで嘆いてはいけないのだと知っていた。しかし、今日だけは許してくれと思いながら、泉は嗚咽を漏らす。今このときだけは、感情を溢れ出るままにさせてくれと許しを乞うた。八つ当たりのような怒りを、まるでなにかを供養するかのように、最後に少しだけ燃え上がらせてあげたかった。

 いっそ、責めてくれればよかったのだ。そうすれば、謝ることができた。なぜあんな残酷なやり方で振ったのかと言ってくれれば、その怒りをいくらでも受け止められた。どうして、この浅慮せんりょ糾弾きゅうだんしてくれないのか。悔悟かいごする機会を、なぜ与えてくれないのか。

 贖罪しょくざいとは、ゆるされるための手段ではない。

 恨み続けるには大きなエネルギーが要る。かといって許すのは業腹ごうはらだ。その二択を迫り続けるのは相手に苦痛を強いることなのだと、その程度の分別を持って育ってきたのは、泉にとって不幸だった。

 自分勝手に謝り続け、ヒステリーを起こして許してくれないことを逆に責め立ててしまえば、いくらか楽になることはできた。既に四面楚歌の立場にある永井を悪者に仕立て上げて被害者ぶることなど容易だった。しかし、それでは意味がないのだ。本当に得たかったのは、スクールカーストを昇るための手段などではなかった。


 それを自覚した瞬間、すっと身体の震えが引くようだった。随分と前から巣食っていた罪悪感の重みが、このままではいけないのではないかという焦燥感が、どうして自分がこんな思いをしなければならないのかという憤慨が、一つの答えに向けて集約されるようだった。

 なにもかも取り返しがつかないならば、もはや悔やむ必要すらない。失われた道を惜しむ意義もなく、残された道を進むしかない。それは一つの覚悟であり、決意だった。

 彼が息絶えた人間関係の面影を持ち出してくるのなら、こちらもそうしよう。

 避けることも、近づくこともせず、なにも変わらないことを演じよう。まるでこの半年がなかったかのように過ごそう。

 悪びれもなく振る舞う姿に、彼の味方をする人から恨まれよう。いつか現われるだろう、彼の味方をしてくれる人に憎まれよう。

 それが泉の永井に対してできる唯一のことだった。それが息絶えてしまった人間関係への、せめてもの手向けだった。

 ただ――――。

 もし、彼が以前のような笑みを取り戻してくれるのなら。いつか誰かが彼の心を癒してくれたのなら。

 そのときは、怒ってくれるだろうか。

 なぜ受け入れてくれなかったのかと、なじってくれるだろうか。なぜ振ってくれなかったのかと責めてくれるだろうか。

 そのときこそ、謝ろう。恥も外聞もなく泣き喚き、縋りついて過ちを後悔しよう。

 泉と永井の間で死に絶えた糸を再び紡ぐために残された、それが唯一の希望だった。


 気分を落ち着かせた泉は、ゆらりと立ち上がる。既に外の景色は暗闇に沈み、玄関のガラス戸は蛍光灯の光を反射して幽鬼のような泉の姿を映し出した。

 ぼんやりと映るのは、ぼさぼさに髪を伸ばした、野暮ったい細縁の眼鏡の女ではない。

 艶やかなセミロングの黒髪、うっすらと化粧を施した少女が、そこに立っていた。磨かれた外見に自信もつき、人間関係の築き方を知り、たくさんの友人と思い出が生まれた。充実した学生生活を送る方法を、学んだ。

 そして泉は、それ以外のすべてを失ったのだ。

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