3-8 悪意の産声

 遠藤と交際するようになって、泉の生活は様変わりした。

 下校時、遅くまで教室に残って歓談することなんて初めてだった。そのあと近くの娯楽施設に繰り出すなんて今まで考えられなかった。彼らは放課後をどう過ごしているのだろう、と抱いていた疑問を、泉は自分の身体と共に理解していった。

 遠藤は基本的に善人だった。時々どうしようもなく鬱陶しくなるけれど、泉が嫌がることは何一つせず、強引に迫ることはなかった。思春期の男子としてやりたいことは山ほどあったはずなのに、奥手で怖がりの泉を気遣って根気良く付き合ってくれていた。最初は衝動的な交際に不安があったものの、彼への憧れは以前から泉の中にも存在していて、それは多少の優越感と恋慕の情に変わっていた。

 彼の友人達もおおむねは好きになれた。あいつらは子供だと遠くから見下してきた彼らは、学校外に出て活動する分には間違いなく大人びていて、社会を生きるための手続きや交友関係の広げ方に驚くほど長けていた。なにより世間知らずの泉に対して優しく、面倒見が良かった。学外の遊びだけではなく、体育の授業で、行事で。また学業が極めて優秀なクラスメイトに勉強まで教わって成績も上がった。女友達には化粧を習って、野暮ったい風貌は垢抜けるとまではいかなくともこぎれいになった。素材は良かったのだと褒められるのがたまらなく嬉しく、化粧の上達が楽しくて仕方がなかった。賑やかなグループにいながら大人しく勤勉ということで、教師からの覚えもよかった。

 普段一緒にいる面子が変わったからといって、以前の人間関係が断たれたわけでもない。騒がしいのに疲れたときは何食わぬ顔をして、前から仲良くしていた友人達の元に舞い戻った。彼女らは最初は戸惑ったような遠慮の気配を見せていたが、泉自身が変わったわけでもないので、再び打ち解け合うのに時間は要らなかった。クラスを大体二分する、賑やかと静かの境目を、泉は気分で行ったり来たりすることが許されていた。どちらとも仲が良く、溶け込み、イベントの際には彼らの橋渡しのような役割を果たすこともあった。自分の存在が、クラスの中で唯一のものになっていく快感。それを確かに泉は感じていた。


 それは夏の日のことだった。それぞれの部活が引退試合を終え、イベントも残すところは少しの学校行事、そして入試だけになる。特に一部の生徒は一般入試用の勉強とは別に推薦入試の対策にも追われ、ひどく忙しい日々を送っていた。

 放課後、泉は自分には関係ないと思っていた推薦入試について担任の教師に尋ねることにした。試験で合格を勝ち取る自信がなかったのだ。推薦入試を受ければ試験を飛ばして入学できるという程度の認識しかなかった泉は、推薦入試が一般入試よりも厳しい関門であることすら知らなかった。そちらの方が楽ならそうしたいという、どこまでも甘えた認識でしかなかった。厳しい現実を説き伏せるようにして教師に説明され、心底情けない気持ちで朱色の差し込む廊下を一人で歩いた。

 遠藤はどこかの部活の引退試合の打ち上げに参加するということで、泉より先に学校を出ていた。その部活の生徒と特に親しいわけでもなかったので参加する気はなかったのだが、遠藤はそもそもそれを泉に確認することもしなかった。交際を始めて三ヶ月以上も経ち、二人が互いに抱いていた熱情は冷めつつあった。

 それは嘘のように静かな時間だった。校庭を使う部活動が試合でいないため、校内には静寂のみが漂っているようだった。独りというのがどれほど惨めなことか、孤独と疎遠になっていた泉は改めて思い知った。意気消沈とした気分に拍車をかける憂鬱な夏の空気に、泉はひどく沈んだ気分のままで教室に帰ってきた。

 もう誰もいないだろうという泉の予想を裏切って、そこには一つだけ人影があった。驚くほど巨大な男子の姿だ。

 熊倉は窮屈そうに身を丸め、電気もつけずにノートと教科書に向かっている。斜陽の光が朴訥ぼくとつとした面に深い陰影を落とし、そのせいか熊倉はひどく憔悴しょうすいしているように見えた。

 彼の姿を捉えた瞬間、悪寒にも似た感覚が全身を貫く。恐怖に身体を抱き、泉は慌てて周囲を見渡した。耳を澄まし、天敵に怯える小動物のように震える。


「諒なら、いない」


 泉がいることに気づいていたのか、熊倉は静かに言った。それは寂しさが強く表れた、小さな声だ。その言葉に安堵にしている自分に、泉は動揺する。永井に責められることを未だにおそれていると、罪の意識を抱いているのだという事実をまざまざと見せつけられたのだ。

 同時に、なぜこれほど怖がらなければいけないのか、と開き直る自分がいた。

 三ヶ月だ。

 高校生からすれば短く、大人になれば一瞬にも等しく感じられる程度の時間ではあるけれど、中学生の彼らには自らを取り巻くなにもかもが変遷へんせんするには有り余る時間だった。

 あの程度の些細なこと、時間の奔流の中で中和されていてもいいはずだ。そんなことでいつまで怒っているの、と冗談混じりに笑い飛ばしてもいいはずだ。そう考えると、急に脚が軽くなるようだった。泉は平然を装って、唇で上品な孤を描くよう心がけて、そっと話しかけようと試みた。


「クマ君、なにやってるの? もうこんな時間だよ」

「うるさい」


 穏やかな問いかけに返ってきたのは、あまりにも苛烈な視線だった。面を上げた熊倉は泉を視界に捉えた途端、鼻面に皺を寄せる。獰猛な野生動物さながらの威圧に、思わず泉は後退した。


「よく平気な面で俺に話しかけられるな」


 それは紛れもない怒りであり、皮肉であり、糾弾だった。まるで数分前の出来事で憤っているかのように鮮烈な怒気が夕陽よりも赤く泉に降りかかる。

 一瞬の驚愕、そのあとで込み上げてきたのは、苛立ちだった。


「なにそれ。私が悪いことしたみたい」


 泉はまなじりを吊り上げ、喉元からヒステリックな響きの声を吐き出した。昔から知る臆病な女子の思わぬ反撃に、熊倉は息を詰まらせて怯んだ。反射的に出てきた言葉は泉自身をも驚かせていた。自己主張の激しい人達に囲まれているうち、自分の感情を大袈裟に表現する手段を、いつの間にか泉は身につけていたのだ。

 一度声に出してしまえば、もう止まらなかった。ようやく訪れた明るく暖かな学生生活の中で、ただあのことだけがしこりとなって頭の隅に居座り、今という時間を全力で楽しめていない気がしていた。教室の隅で、永井と仲の良かった数人がぐちぐちと陰口を叩き、非難の視線を向けてきている気がしていた。罪悪感と焦燥感が常に泉を苛んでいた。そうして溜まったフラストレーションが渦を巻き、波を立て、ついに堤防を呑み込んだのだ。


「悪くないとでも言う気か。あんなことがあったって言うのに」

「私が誰と付き合ったって、私の勝手でしょ。ちょっと行き違いがあったかもしれないけど、そんなことで怒られる筋合いはない!」

「ちょっと、行き違いがあっただけ、だと?」


 勢いに押されていたのは最初だけで、熊倉は地獄の底から響いてくるように重い怒声を吐いた。大きな身体が一回り更に大きく見えるようだった。あいつだけは怒らせてはいけないと、冗談が半分、本気が半分に言われ続けてここまできた、その熊倉が目の前で怒り狂っている。その事実は泉の心を折りかけたが、もう退くことはできなかった。


「間違ったこと言った? だって私、諒君と付き合うなんて一度も言ってない」


 そうだ――――彼も悪いのだ。その考えは、八方塞で行き場を失った泉にとっての光明だった。黒い感情のけ口で、それが最後の逃げ道だった。


「諒君が勘違いしたのが悪いんじゃない。告白されたとき、返事は後でいいって言って、それきり聞きにこないんだもん。勝手にオーケーをもらえるって思い込んで言いふらして、早とちりしただけでしょ。それで私に怒るのは自分勝手だ!」


 弾かれるようにして熊倉が立ち上がり、彼の座っていた椅子は冗談のように軽々と吹き飛んだ。学校中に届いてしまったのではないかという大きい音に、泉の身体は反射的にびくりと跳ねる。


「お前、諒がいじめに遭ってたってことも知らないらしいな」


 泉は一瞬、熊倉がなにを言っているのかが理解できなかった。数秒の沈黙の中で、遅効性の毒のように理解が進んだあとで最初に思ったのは、なぜ、ということだった。

 永井はいじめの標的になるほど目立つ存在ではなく、かといって弱くもない。熊倉に次ぐほどの体格と落ち着きのある物腰があったし、いざというときに自己を主張する思い切りの良さもあった。彼が弱者のように虐げられ、それを甘んじて受けている意味がわからなかったのだ。


「いじめっていっても靴に画鋲とか、そういう程度だったけど、最近まで続いてた。遠藤の彼女に付きまとってたストーカー野郎だっていう陰口と一緒にな」

「なにそれ……意味わかんない」

「ちょっと考えればわかるんじゃないのか」


 熊倉は神経質に口を震わせながら、まったく似合わない皮肉の言葉を吐いた。

 そのときの泉には考えつかなかったけれど、色よい返事をもらえたのだと言いふらすことによって交際を断れない空気を作ろうとしたのだ、と永井はいわれのない非難を浴びていた。その邪悪な目論見を遠藤が暴き、それが縁で遠藤と泉の交際が始まったと周囲は考えていた。

 もっとも、その噂がそれほど具体性のある話だったのは最初だけで、そこから広がっていったのはストーカーというわかりやすい記号だけだ。一度悪い噂が立てば抑えは利かなかった。あいつはいじめてもいいやつなんだという評判が立ち、遠藤や泉と大して距離が近くない連中まで、こぞって永井をからかい始めた。遠藤をはじめとする泉の周囲にいた人達は皆、そのことが泉の耳に入らないように気を配っていたのだ。泉がそのことを知るのは、数日後の話になる。


「……だから、なんなの? 私に関係ないじゃない!」


 咄嗟に口をついて出たのは、どこまでも言い訳じみた叫びだった。それを自分に言い聞かせなければ立つことすらできなくなりそうだった。そう、信じ込まないわけにはいかなかったのだ。

 熊倉は怒りを急激に収めていた。かわりに表れたのは、どこまでも冷たい視線。

 それは失望だった。永井が傷つけられたと知った泉の口にしたのが、彼への心配や労りではなく自己の保身であったことに、幻滅していたのだ。泉には、それがなによりおそろしかった。責められるよりも、怒られるよりも、自分を認めてくれていた人に諦められるのが怖かった。


「私のせいじゃない! 私が諒君の悪口を広めたわけじゃない! 私は悪くない!」


 泉の悲鳴じみた声に、熊倉はもう一顧だにしなかった。震える手で、机の上に広げていた勉強道具を鞄に詰め込み始める。無視されているのだという、そのことが、泉の心を氷の鎖で締め上げた。


「ちょっと、逃げるの?」

「逃げるよ。このままお前の顔を見てたら、手が出そうだ」


 思わず吐き出した挑発も熊倉の行動を変えることはできなかった。彼は大きな掌で自身の筆箱を引っ掴み、乱暴に学校指定の鞄に詰め込んだ。立ち上がったときに蹴倒した椅子を拾い上げ、机に叩き込むようにして片づけると、一刻も早く泉から離れたいといわんばかりに身を翻す。

 泉が止める間もなく立ち去ろうとした熊倉は、教室から出て行く直前で足を鈍らせる。


「本当は、こんな話をするつもりじゃなかった。俺はお前に謝ってほしいわけじゃない。そんなの、期待してない」


 そして少しの逡巡のあと、ひどく弱々しい調子で、言った。


「もう手遅れなんだ」


 その不吉で静かな言葉の意味を、問いかけることはできなかった。それを知ったが最後、この数ヶ月で築いたすべてが崩れ去るだろうということを泉は悟っていた。暗くなり始めた朱の色を浴びながら、泉はただ、耳に痛い静寂の中で立ち尽くすしかなかった。

 ――――熊倉が教室に残っていたのは、妹の千佳が難病にかかったために看病と心労で授業に身が入らず、放課後の時間を使って自習するためだった。そのことを泉が知るのは、この出来事からしばらくあとのことだ。

 なぜ教えてくれなかったのかと怒る権利などなかった。一切の接触を断っていたのは、他ならない自分だからだ。


 泉は自分が認められていく事実に自信を感じている中で、静かな領域にいる男子だけは、永井と同じ空気を持つ彼らだけは徹底的に避けていた。同じ教室の中にいるのだから否応なく関わり合うこともあるだろうと恐怖に怯えていたが、不思議なことに、その機会はやってこなかった。それはとても幸運なことで、いつしか泉の周りに少しだけ残っていた緊張の気配は薄れ、すべての違和感は溶けてなくなった。時がすべてを解決するという願いは聞き届けられたのだと、泉は喜んだ。その喜びさえ、当然となった日常の中で意識することすらなくなっていった。

 けれどそれは幸運ではなく、なんのことはない、あちらも泉を避けていたのだから、かち合うことなどありえなかったのだ。永井の思いを、考えうる限り最も残酷な方法で踏みにじったことを、彼の友人達は決して許すことはなかった。


 すべてが終わったような気になっていたのだ。それが間違いだったことを泉は思い知った、つもりだった。

 しかし、このときには本当にすべてが終わってしまっていた。熊倉が言い残したとおり、手遅れだったのだ。

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