~追憶~

3-7 あのとき求めたもの

 永井諒が泉香奈に告白をしたのは、妙に寒気が強い春の日、夕暮れの赤光が降り注ぐ学校の屋上でのことだった。

 あの頃は過剰なまでの安全対策を推し進める流れは弱く、永井らの通う中学校では屋上が開放されていた。転落防止の高い柵があるのは仕方がなかったけれど、生徒の憩う場としての役割は十分に果たしていた。もっとも、放課後にもなると部活に向かう生徒がほとんどで、誰もそこに近寄ろうとはしない。屋上から見渡せるのはグラウンドや田んぼだけなのだから、長く留まって楽しいこともなかった。

 永井は泉を呼び出して、そこで待っていた。屋上での告白というのが彼なりの精一杯のムードを作るための努力で、たとえ寒さのせいで大きな身体が少し震えていたとしても、泉はそれを無様だとは思わなかった。

 彼とは小学生の頃からの付き合いだった。家が近いから交流する機会も多く、性格も似たところがあった。子供特有の男女の交友をはやし立てる声がないわけではなかったけれど、二人ともあまり気にしなかったし、リアクションが薄いためにそれも長続きしなかった。なにより永井も泉も目立たず、ぱっとしない子供だった。永井は昔から体格がよく運動もできたものの、顔立ちが整っているわけでもなければ愛想がいいわけでもなく、むしろ不器用で落ち着きすぎていた。泉も似たようなものだ。髪は伸ばしっぱなしのぼさぼさで、野暮ったい細縁の眼鏡は度が強いため目を小さく見せ、親戚から褒められるときはいつも賢そうな子というワードがついて回った。もう少し外見に気をつければましになるのにと親や友人に言われても、それならば、と一念発起する快活さもなかった。

 そういうわけで永井と泉は一緒にいることが多く、まだ付き合っていなかったのかと驚かれる仲だったが、その歳になって永井が突然に交際を申し出てきた。

 二人が中学三年生の頃の話だ。

 あれから、もう二年と半年が経つ。

 告白の文句を泉は思い出すことができない。まるで鍵をかけたように、そのあたりの記憶だけが閉ざされてしまっているのだ。その比喩が正しいのであれば、その鍵を施したのは、他ならぬ自分なのだろうけど。

 どうして今更になって告白するのか、高校受験を控えてカップルが別れ始めるような時期なのに、と永井をからかったことを泉は思い出す。それに対して彼は茹蛸のように赤くなった顔のまま、ここで付き合っておけば同じ高校に入るために勉強を頑張れるだろ、と笑った。永井は成績が良く志望校への合格が確実視されていたが、同じ学校を受験する泉はそれなりに頑張れば五分五分という厳しい成績だったので、私にもっと勉強を頑張れという嫌味かと、形だけは怒ってみせた。

 永井は、返事は今度でいい、と言って耐えかねたように屋上から逃げ出していった。それをへたれといって罵る余裕も泉にはなかった。二人とも色恋沙汰とは遠く離れたところにいて、たとえ互いの思いがなんとなくわかっていたとしても、その感情に明確な名前のついたラベルを貼りつけるのが恥ずかしかったのだ。永井が去ったあと、泉はしばらくその場を動けなかった。見上げた空の茜が目に焼きついている。


 瞼を上げて見えた現実の空は、記憶にある色よりも深く濃い。

 季節が違うのだから、それも当然だ。泉はあのときのように空を仰ぎ、フェンスにもたれたままでうれい顔をしている。

 文化祭は既に終わり、生徒達は解散している。わずかに残されたのは生徒会と文化祭実行委員で、戸締りや忘れ物のチェック、迷子などが取り残されていないか見回りをしている。副委員長である泉もそのうちの一人で、開放されていた屋上を施錠するために訪れていた。

 辺りにはテーブルや椅子が遺構のように残されている。文化祭の後片付けは明日の午前中に学校を挙げて行われるので、今日はこのまま野晒しになる。天気予報が雨なら皆で片付けをしなければならなかったが、幸いにして予報は晴れだった。膝を抱えるように腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せてくる。心身ともに疲れ切っていた。

 あのときも、こうしていた。永井の立ち去る姿を思い出して一人で笑い、胸に込み上げる暖かな思いを噛み締めていた。

 泉は確かに、永井が好きだった。永井が好いてくれているのと同じように。

 どうしてこうなったのだろう。どこでどう、なにを間違ってしまったのだろう。その問いは幾度となく湧き上がり、そして逃れることのない現実が答えを突きつけてきた。


「香奈って、彼氏いないんだよね」


 永井の告白は思い出せないというのに、皮肉にも、その声は今も耳の奥に転がっているのではないかと思うほど鮮明に思い出すことができた。

 どう永井に答えを返そうかと考えていた泉が帰宅の途で出会ったのは、遠藤だった。現在も積極的に動き回り、文化祭の実行委員長に立候補して見事やり遂げた彼は、当時から目立つ存在だった。端正な顔立ちをしていて、性格は闊達かったつで開けっ広げ、勉学は取り立てて優れているわけではなかったけれど、とにかく華がある男子だった。女子のうちの半分くらいは、程度の違いこそあれ、彼に関心があるのだと思うほどだった。


「もし他に好きなやつがいないなら、俺と付き合ってください」


 その遠藤に大袈裟な動きで告白をされ、泉は自身の耳を疑った。なにかを聞き間違えたのではないかとうろたえた。そして次の瞬間に感じたのは、熱湯に放り込まれたのではないかというほどの熱だった。急かされるように心臓が胸を打ち、耳の奥でどくどくと血の流れる音が木霊する。身体の感覚と裏腹に冷え切った指先で頬を撫でれば、触覚で赤色が感じられそうだった。薄く開いた唇は湯気が出るほどの呼気を吐き、細い脚は見るまでもなく小刻みに震えている。

 心が、身体が、そのすべてで歓喜を表現している。その事実に、少しだけ残された理性は打ちのめされた。それは永井の告白でさえ感じなかった強烈な恍惚だった。

 初めての経験だった。燃え上がる恋など創作の中にのみ存在するフィクションなのだと信じていた。現実で、また物語の中で、恋愛にうつつを抜かして身を破滅させる男女のことを愚か者だと見下していた。

 結局は自分もその一人だったのだ。現在の泉は、鼻を鳴らして自嘲する。

 身体ごと倒れるような礼から立ち直った遠藤は泉と再び向き合って、よかった、と満面の笑みで言った。なにが、よかった、だったのか今になっても泉はわからないでいる。泉が首を縦に振ったのだと勘違いしたのか、躊躇っている泉を勢いで押し切るために嘘をついたのか――――あるいは無意識のうちに頷いていたのだろうか。あとになって遠藤に聞いてみたが、彼も忘れているようだったので真実は忘却の彼方だ。泉もまた、そのあとのことはまるでおぼえていない。熱に浮かされた脳が機能することを放棄していたのだ。ただ手を強く握られて、引っ張られるようにして帰宅したのだということだけが事実として残っている。

 あのとき、なぜ誤解だと遠藤に言わなかったのか。告白されたとき、永井と付き合うのだと言い切らなかったのか。きちんと声を出すことができていたなら違ったのだろうか。

 彼女のように未来を見ることができたなら、勇気を持てたのだろうか。


 その翌日、泉は生まれて初めて、仮病で学校を休んだ。高校生になるまでは携帯電話を持たせないという風潮が強かった頃の話だ、誰も泉に連絡を取ることはできなかった。泉は時が解決するのだという都合のいい話を信じていたのだ。それこそ、そんなものは物語の中にしか存在しないとわかっていたのに、それに縋るしかなかった。

 泉は起伏のない平坦な道を生きてきた。寄り道もせず、妨害もなく、面白味はないけれど安らかで穏やかな道だった。トラブルに対処するための前向きな姿勢が、過ちを正すための積極的な心構えが、決定的に足りなかったのだ。なにもしないうちに、なんとなく収まってくれないかと、そんな都合のいいことを祈っていた。

 いっそそのまま引きこもってしまいたいほどだったが、受験に向けた学習をおろそかにするわけにはいかないと義務感が勝った。色恋で人生を棒に振るうことはしないのだという矜持きょうじもあった。だがいつもどおりの時間に登校をするのはおそろしく、永井や熊倉とは絶対に出会わないだろう、遅刻寸前の時間帯を狙った。その時点で既に裏切りの意識を抱いていたのだということを自覚したのは、それからずっとあとのことだ。すべてが手遅れになった、そのあとのことだったのだ。

 永井らを避けて登校したところで出会ったのは、遠藤だった。出会ったというよりも、遠藤は泉と一緒に登校するために待っていてくれたらしかった。顔を合わせたとき遠藤が見せたのは心配の表情だ。そしてかけた言葉は、俺が味方だという、意図の掴めない励ましだったのだ。

 道すがら泉が聞いたのは、永井が泉のことで変なことを言っているらしい、というなんとも曖昧な噂話だった。しかし、その意味に気づいた瞬間、泉は全身から血の引く音が聞こえるほどうろたえた。

 きっと永井は友人達に、泉に告白したことを明かしたのだ。そしておそらくは、色よい返事をもらえるだろうということを話していたのだ。また遠藤も友人達と同じ話をしていたのだろう。別の人物が話す同じ内容に不穏な空気が流れたのは、想像にかたくない。

 俺達、付き合ってるんだよね、と念を押すように遠藤は言った。それは強制する響きではなく、むしろ不安がって甘えた声だったが、泉は否定することができなかった。二股をかけたのだと中傷されることが怖かった。自分はそんな人間ではないのだと信じたかった。決して優等生ではないが、不真面目で自堕落な人間でもないという自信があった。事の真相が明るみになって、不細工なくせに人騒がせな女だと思われるのが我慢ならなかった。

 焦りに震える脚を、しかし止めることは許されない。断頭台に向かう心地で泉は遠藤と教室に向かった。そしてここに至り、まだ事態が都合のいい解決を見せることを願っていた。遠藤と永井が、偶然に二人きりで話をする機会が訪れ、誰も傷つかない大団円が訪れることを信じていた。


 並んで登校した二人を迎えたのは、遠藤の友人達の囃し立てる声だった。

 祝福の声だ。こうなるのだろうと確信していたといわんばかりの歓声だ。まるで祝勝会に誘われるように、教室の窓側前方、ストーブの唸る音が聞こえる暖かな席に招待された。その道を示された瞬間、泉の中で鬱屈していた気持ちは圧倒的な感動の洪水に押し流されていった。

 泉は、いつも憧れていた。

 幼く屈託のない笑みでうるさいほどに騒ぎ、うんざりとした教師に叱られる彼らに。中学生らしからぬ態度と服装、化粧までして、大人に呆れられている彼女らに。

 真面目で素直な子として退屈な学生生活を送ってきた泉は、憧れていたのだ。

 居心地の良いストーブの近くはいつも彼らの定位置だった。何度その場所を物欲しげに見つめていただろう。あの輪に紛れ込めたら、と考えない日はなかった。住む世界が違うという言葉が呪縛だった。彼ら彼女らと隔絶された場所に追いやられているのだという劣等感が生涯ついて回るのではないかと、いつでもおそれていた。

 その場所が、自分のために開かれている。たとえそれが降って湧いた幸運で、別の真摯しんしな思いを残酷なまでに打ちのめして手に入れたものだとしても、泉はそれが嬉しくて仕方がなかったのだ。泉はその場所に歩を進めるしかなかった。誤解を解くことなんて考えられなかった。この幸せを失って、汚名を被ることなんて信じられなかった。


 高校生になった今、それがどれほどくだらないことか、泉は理解している。

 だが、中学生の泉には、それがかけがえのない幸福だった。たとえそのために、与えられたはずの愛情を裏切らなければならないとわかっていても、それを得ることに躊躇はなかった。

 窓側の一番前、暖房の乾いた空気が当たる一つの席。そこに座る権利を得ること。

 それがすべてだったのだ。

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