3-6 いくつかの報い

「永井君!」


 砂嵐にも似た不明瞭な世界で、八丈野やえのは独り叫んだ。

 なぜ彼の名前が出てきたのか、それは八丈野にもわからない。散らばっていく意識の中でただ一つ、それが形を持った名前だった。


「永井君、そこにいる?」


 巫女が神に祈るように真摯しんしな声――それに応えるかのごとく、開かれる引き戸の、埃っぽいレールを激しく走る音がする。


「八丈野か? どうかしたのか」


 そのとき、無秩序に暴れ回っていた数多あまたの映像が、今この時に収束していくのを八丈野は感じていた。永井が現われたことによって無数に枝分かれしていた未来が急激に可能性を狭めたのだ。第六感の沈静に伴って五感が正常な機能を取り戻していく。涙に濡れた瞳は暗幕の壁を映し、耳は永井の気遣わしげな声を、触覚は暴れようとしていた身体を抑える芳田よしだの腕を感じている。

 しかし、自身の状態に安堵している場合ではなかった。感覚は戻ったが、未だに震えている身体は言うことを聞かない。だから八丈野は、懇願こんがんするように声を上げるしかなかった。


「しばらく教室に誰も入れないで! 入り口を塞いで!」


 壁を崩してくれ――とは、八丈野には言えなかった。それが最も確実な手段だとわかっていても、永井を悪者にはできなかった。

 八丈野の逼迫ひっぱくした様子に事態を察したのか、永井の応答が返ってくる。だが、行動を始めようとする彼を止める声があった。


「永井、待て!」


 隣で動き出す気配を八丈野は感じる。八丈野が他に人といると思っていなかったのか、暗闇の向こうで永井が驚いている気配がした。


「クラスの出し物を止めさせる権限は、お前にはないだろ。入り口は俺が押さえておく。お前はつぐみちゃんについていてくれ」


 あまりにも意外な申し出に驚く間もなく、芳田は迷路の中を慌てて立ち去っていった。元々、子供向けのような簡単な迷路なので、きっとすぐに抜け出していけるはずだ。あちらこちらに身体をぶつけるせわしない気配が、出口の方へと向かっていった。

 なにが起こるのかもわからないまま信じてくれる――芳田が、それほどまで気にかけてくれていたのかと、八丈野は少し申し訳ない気持ちになる。だが、それを伝えるのはまだ先のことだ。

 身体の深奥まで貫くような悪寒が、未だに治まらない。

 未来視と慣れ親しんできた八丈野の勘が、このままではいけないのだと警鐘を鳴らしていた。


「入り口だけじゃ、だめだ。他の出入り口も塞がないと!」


 迷路の造りは、教室の後方の出入り口を始点、前方の出入り口を終点としているが、終点から入られないよう見張りをつけているわけでもない。それに廊下側の壁には足元に小さな扉があり、高校生でも無理をすれば通れる程度の隙間を作れてしまう。一応鍵はついているものの、締められている確証が持てない。


「無茶言うなよ。俺の身体は一つしかないんだ」


 さすがの永井も焦りを隠せずに言った。内部は迷路になっているため、すべての出入り口を一度に見張ることはできない。かといって廊下には移動する人々が溢れ返っているので監視するのにも限界があった。芳田は入り口の封鎖で手一杯なのでこれ以上の負担はかけられない。

 それならば自分が、と思うが腰が抜けてしまっている。壁を頼って無理矢理立ち上がっても、身体を支えきることができず、前のめりに倒れ込んでしまった。動け、動けと念じるように、皮膚を破りそうなほど強く拳を握り締める。


「どういう未来が見えたんだ?」


 そこに、この場にふさわしくないほど軽い調子で問いかけられる。見えもしないのに顔を上げる。暗闇と壁の向こうに、飄々とした彼の顔がある気がした。


「でも」

「あくまで、参考だよ」


 まるでいつかのようなやり取りだった。それを口にすれば最後、永井は未来を変えることはできなくなってしまうだろう。永井はそれを知っているはずだし、八丈野は永井以上にそれを知っていた。

 だが、なぜだろうか。あるいは、それすらも未来視がもたらした啓示の一つだったのか。

 八丈野は躊躇いもなく口を開いていた。


「壁が倒れて、子供が巻き込まれるの。もしかしたらドミノ倒しみたいに他の壁も巻き込んで、廊下側の窓も割れちゃって、そっちにも怪我人が出るかもしれない」

「大惨事だな」


 苦笑混じりの声が闇の向こう側から聞こえる。八丈野は、自分がしたことを一瞬遅れて理解し、はっと息を呑んだ。その場の感情と感覚に流されて過ちを犯してしまったのではないかと、全身の血が引くような後悔を感じる。


「八丈野、ちょっと下がってろよ」

「え……?」


 声とも吐息ともつかない、間の抜けた空気が唇の合間をすり抜ける。無視しているのか、それとも届いてすらいないのか、永井はそれに答えない。その代わりに八丈野が感じたのは、大きなものが動くときの気配だ。

 直後、連続する大きな音が耳をつんざいた。

 驚愕に身体が跳ね、衝撃が床を揺らしているような錯覚に囚われる。教室の中は思いのほか音が反響し、びりびりと肌が痺れるようだった。

 やがて音が収まり、八丈野は縮こまっていた身体をゆっくりと解きほぐす。最初に思い浮かんだのは、未来視のとおりの現象が起きたのではないかという憂慮だったが、倒れるはずだった壁は未だに八丈野の前に存在した。

 這いずるようにして迷路を進み、その壁の向こう側を覗くと――まさに惨状だった。

 茫然自失の体でいる八丈野をよそに、ドアや窓が開く気配。ぱちん、と軽やかな音と共に天井の蛍光灯が点灯する。無機質な白色光が照らし出したのは、うずたかく積み上がった机の山だ。八丈野が見た未来の光景に酷似しているが、壁は教室の後ろ側へ向けて倒れていて、窓ガラスは無傷のままでいる。ただなにかが下敷きになっているということは八丈野の未来視と同じだった。


「永井君!?」


 絡み合うように重なった机の山の中に黒い制服があるのを認め、八丈野は悲鳴じみた声を上げる。話し声がして野次馬が現われ始めたことがわかるが、八丈野にはそちらに気を取られるほどの余裕がなかった。

 果たして――がらがらと騒々しい音を伴って、折り重なる学習机を押し退けるようにして立ち上がる人影。


「くそ、痛いな……」


 言葉とは裏腹に、永井はしっかりとした声で呟いた。

 外から人の声がする。大丈夫か、怪我人はいないか、という呼びかけに、永井が大丈夫だと答えている。呆れるほどに頑丈だと、八丈野はこんなときなのに感心した。

 しかし、事態はそれほど穏便には進まない。やがて混じり始めたのは、憤慨、不満の声だ。壁の一部が取り払われて見晴らしがよくなり、八丈野の位置からも教室の入り口が見えていた。未だ腰を抜かしたままでそちらを見れば、野次馬をかき分けるようにして現われた何人かの生徒が顔を見合わせ、不穏な調子で話し合っているところだった。この迷路を作ったクラスの生徒達に違いない。長い時間をかけ、一致団結して作り上げた出し物が、こうして無残に破壊されている。それを見れば憤るのはごく当然のことだった。


「なんだよ、これ!」


 永井が転がる机を乗り越え、押し退けながら脱出を図っている最中、大袈裟なほど驚く声がした。おそらく迷路作りを主導したリーダー的存在なのだろう。彼の怒りが向いているのは、永井だ。

 八丈野は先程とは別種の焦りを抱く。第三者から見て、この事態を引き起こしたのは、どう見ても永井だった。実際に手を出したのは確かに永井なのだけど、そそのかしたのは自分だ。


「お前、なにやってるんだよ!」


 ついに、非難の言葉が飛び出してくる。体が動かないなら、せめて声を出せばいいと八丈野は気づいた。彼は巻き込まれただけで、壁を押し崩してしまったのは自分だと言えばいいのだ。奇行のことで普段以上に糾弾きゅうだんされることになるだろうけど、永井が悪者になるよりは、その方がいいと思った。

 そうして大きく吸い込んだ息は、吐き出すこともできず、ひっ、と音を立てて呑み込まれることになる。


「それは、こっちの台詞だ!」


 学校中に響いてしまうのではないかと思うほどの怒号だった。

 威勢良く文句を言い立ててきた彼も、その後ろで永井を非難がましく睨んでいた彼のクラスメイト達も、剣呑な空気を面白がっていた野次馬達さえ、突然の圧力に身を竦ませる。恵まれた体格から放たれた大声は迫力が桁外れで、八丈野の怒鳴り声など、これと比べれば小鳥のさえずりだ。

 反論することすらできずに硬直する彼らの前で、永井はおもむろに制服の懐からプリントを取り出した。それを確かめるようにして目を通すと、先程のような激しさはなくとも、いわおのように硬い声で言い放つ。


「机を積むのは、二段まで。積んだ状態のものを並べるなら、転倒防止のために脚を紐で結ぶことになっていただろ。これは――――」


 永井はそこで、床に転がっている机を一つ、軽く持ち上げた。暗幕をテープで止められた三段目の机は転倒防止策など取られていない。


「どういうことだ!」


 永井が文化祭委員の腕章をつけていることに気づいたのか、そのクラスの生徒達の何人かは、しまった、という風に顔を伏せた。

 文化祭前日には実行委員が安全性の最終チェックをしていたが、佳境には時間の制約と作業の多さに忙殺され、確認もおざなりになっていた。最終チェック後にまた手を加えようとするクラスが散見されたものの、しかし何度も学校中の見直しをするわけにもいかず、こうして委員の目を逃れたところも少なくない。


「そんなルール、俺達は知らなかった!」

「毎週の委員会で、毎回毎回、言い聞かせるように伝えたのに、まだ足りないっていうのか? そもそもルールがどうこう言う前に、こんな積み方をしたら危ないってわかるだろ」


 言い逃れを図る彼らを圧倒し、永井は蹴散らすようにして足元に散らばる暗幕と机を脇に追いやった。そして呟くように、しかし強い口調で言い切る。


「このクラスは、もう閉鎖する」


 その一言に彼らは色めき立った。それはクラスの一員として文化祭を最後までやり遂げたいというより、自分達の過失で閉鎖されるというのが気に入らなかったからだった。それがわかっているからこそ、永井の表情は険しい。


「自分の不注意でものを壊しておいて、人のせいにするのかよ!」

「うるさい!」


 火を吹くような怒声が響き渡った。二度目だというのに威力は変わらず、それは反論を容易に消し飛ばす。


「巻き込まれたのが一般客だったら、どうするつもりだ! 全員、今すぐこの教室から出ろ!」


 渋々という感じで動き出した野次馬達を尻目に永井は身を翻し、教室の奥でへたり込んだままの八丈野へと向かってきた。

 見下ろしてくる彼の顔は、先程まで声を張り上げていたとは思えないほど優しく穏やかだった。その豹変振りに目を丸くしていた八丈野は、ふと永井の頬に一筋の傷があることに気づく。


「永井君、顔に怪我してる」

「机がかすっただけだ。打撲って感じじゃない。頭は庇ってたから、大丈夫」


 永井は気丈に言うと、悪だくみをする少年のように口の端を吊り上げた。


「こうやって被害者になりきれば、体裁はつくろえるんだ。八丈野は、もっとずるくなった方がいい」


 永井はきっと全身が、そして心も痛いだろうに、それをまるで感じさせなかった。そして身を屈めると、肩を貸すようにして八丈野を立ち上がらせる。身長差があるので不格好になるが、ひとまず移動するには十分だった。

 崩れた迷路を迂回して歩き始める。途中に八丈野が見たのは、廊下から永井を睨みつける憎しみの視線達だった。彼らにも彼らの過失と責任があるというのに、そのすべてを永井に被せることで自らの尊厳を守っている。きっと永井はこれから、自分の起こしたトラブルを人に押しつけて保身を図ったのだと言いふらされることになるのだろう。

 八丈野は永井に顔向けができなかった。悪評を触れ回ったのだと芳田を叱りつけた自分がひどく愚かしい人間に思える。結局、永井の努力と献身を台無しにして、それどころか悪人に仕立て上げたのは、自分自身だったのだ。

 それは初めて感じる切なさだった。未来視の力が、こんな形で人を傷つけるのは、これが初めてだ。それに未来視の力のために傷つくことを選んだのは、八丈野自身を除けば永井が初めてだった。

 その事実に気づいて、八丈野は驚愕した。

 慌てて永井を横目にするが、彼は無言で教室の出入り口を見つめたままでいる。

 八丈野は永井の視線の先に、野次馬の中に紛れたやんちゃそうな少年を見る。親の目から逃れてあちこち遊び回っているだろう子供は、誰もいない迷路に嬉々として飛び込んで、目の前の壁を触ってみたくなるのだろう。その壁が机を積み上げて作られたものだとわかったら、登りたくなるのだろう。そんな彼は、ありえたかもしれない未来を知るよしもなく、ただ退屈そうな目をしてその場を走り去ってしまった。


 ようやく教室から脱出し、八丈野は廊下の隅の方で床に降ろされる。芳田に頼んで保健室に連れて行ってもらうかと聞かれたが、気持ちが落ち着けばすぐに動けるようになると言って断った。ここで自分だけ逃げ出すわけにはいかないと感じていた。

 低くなった視界でもはっきりとわかる、好奇と非難の視線。慣れ親しんだそれらは、しかし今は八丈野本人ではなく、その予言に従った永井に突き刺さっていた。彼はそれでも目を伏せることなく、毅然と前を向いてそれを受け止めている。そこに少しでも狼狽する様子が見えたなら誰かが同情してくれたかもしれないが、その決然とした佇まいは降り注ぐ感情をエスカレートさせるだけだった。

 その目は強い光をたたえたまま、周囲を一つずつ噛み締めるようにして見つめていく。

 涙を浮かべた女子生徒に、未だ怒りを抑えられないでいる男子生徒。彼らにとってこの日の文化祭は苦い思い出として記憶に刻まれるのだろう。

 思い出すのは、立ち去った少年の後姿。彼は、誰が救われ、誰が傷つき、誰が怒っているのか、それを知ることすらない。

 芳田は勝手な行動を委員会でとがめられるかもしれない。永井は悪評を背負い、八丈野はなにもできなかった無力感と罪悪感に苛まれ続けている。


「誰も、救われないな」


 その心情が零れ落ちるように、永井は言った。


「八丈野は……いつも、こんな気持ちだったのか」

「ごめん」


 独白にも似た呟きに、八丈野はざわめきにかき消されそうな小さな声で答える。

 こんなはずではなかった。そんなつもりではなかったのだ。誰にも傷つけられたくなかったから、誰も傷つけたくなかったから、八丈野は独りでいるために奇異な言動と容姿を隠さずにきた。

 それなのに切羽詰った状況に直面して、八丈野は永井を頼ってしまった。この状況こそ、避けたかったもののはずなのに。


「ごめんなさい……」

「謝るなよ。八丈野と同じだ。やりたいと思ったことを、やっただけだ」


 上から降ってくる言葉はひどく力強く、先程の怒鳴り声よりも重く強く八丈野を殴りつけた。

 思わず永井を見上げれば、彼はおかしそうな満面の笑みでいる。なにも楽しいことなどなく、嬉しくもないはずなのに、どうしてそんな顔をできるのかと、八丈野は胸が苦しくなる。


「でも、せっかく汚名返上できるところだったのに、水の泡になっちゃった」

「そんなの、どうでもいい。別に、そのために実行委員の手伝いをしてたわけじゃないから」


 それは八丈野にとって意外な言葉だった。はじめからそれが目的ではなかったにしろ、そういう意図が少しはあったのだと考えていたからだ。その驚きが顔に出ていたのか、永井は声を上げて笑い出す。


「人の行動を勝手に意味づけるなって言ったのは、八丈野だろ」


 そう言われてしまえば八丈野に反論する言葉はない。本当は、心の中で渦を巻いている感情をぶつけたかった。それを永井に伝えたかった。だが、自身もその感情の名前を知らず、もどかしいままで口を噤むしかなかった。


「永井、大丈夫か?」


 そのとき、野次馬を追い散らしていた芳田が駆け寄ってくる。その心配そうな様子を見て、八丈野は永井が机の雪崩れる中に巻き込まれたことを思い出した。それすら忘れ去らせてしまうほどに彼は泰然としていたのだ。きっとそれは気遣わせないための痩せ我慢なのだろうけれど。


あざくらいはできてるかもしれないけど、大したことない」

「一応、保健室に行ってこい。あとのことは俺がやっておくから」

「いいのか?」

「さっきも言ったけど、本当ならクラスの出し物を閉鎖するのは副委員長と委員長に許可を取らなきゃだめなんだ。勝手に決めやがって」


 乱暴な言葉と裏腹に芳田は、憂慮と罪悪感、尊敬――そして少しの嫉妬と、雑多な感情の入り混じった静かな眼差しで永井を見つめていた。彼は自分の持っていたスケジュール表の裏側に、閉鎖、と大きく文字を書いた。それをクラスの扉に貼りつけて、ひとまずの処置は終わりということだろう。あとはこの問題を委員と教師に知らせなければならない。

 芳田は携帯電話を取り出し、どこかへ連絡を取ろうとして、ふとその手を止めた。そして永井の方を見つめると、消え入りそうに言う。


「永井……ごめん。俺、お前のことを陰で悪く言ってたかもしれない」

「八丈野に聞いたけど、気にしてないから。いいよ」


 永井はあっさりと言うが、やがてこらえきれないという風に、嬉しげな表情を見せた。


「でも、そのことで謝ってくれたのは、芳田が初めてだ」


 永井が変わった、ということを、八丈野は初めて目に見える形で実感した。もしこれが、今年度の初めの頃の永井だったら、なんで謝られているのかわからないという態度を取っていたような気がしている。

 永井のことは、ずっと根が素直な人間だと思っていた。きっと今の彼は、根だけではなく、どこまでも素直な人間なのだろう。


 その後、事務的な会話を一言二言と交わし、永井は保健室に去っていった。八丈野も少しずつ落ち着いてきて、脱力感は否めないものの立ち上がるところまで回復する。

 ようやく普段の高さまで上がった視界の、わずかに残っていた野次馬の最後尾に、八丈野は偶然ながら見知った顔を見つけた。本来なら、そんなところにいるべきではない人の姿だ。

 泉香奈が、そこにいた。

 まるで神か亡霊でも見てしまったような表情だ。副委員長として芳田や永井を助けることすら考えられないままで立ち尽くしている。

 事態が収束しつつあることに気づいたのか、彼女は金縛りにあっていた身体をびくりと震わせた。きょろきょろと怯えたように辺りを見回す彼女は、やがて八丈野の青い視線に気づく。しかし彼女は、なにも言わず、逃げ出すようにして身を翻した。その奇妙な態度に八丈野は困惑するしかない。

 八丈野に見られていると気づいたときの、彼女の表情。

 まるで聖者を裏切った咎人とがびとのような顔が、八丈野の胸にしこりとなっていつまでも残った。



 ◇ ◆ ◇ 



 人気のない方へ走っていた。

 そこに目的意識はなく、ただ逃れたいのだという欲求が脚を動かしているだけだ。

 途中で知り合いとすれ違う。委員の仕事? 頑張ってね、という声に、手を振って答える。彼女らに、こちらの状態を不審がる様子はない。それもそのはずで、この程度で壊れてしまうような仮面なら、とっくにどこかでボロを出していただろう。今日まで形を留めている仮面は、まだその強度を高いまま保っていた。

 しかし、その端には既に小さな亀裂が入っている。あと一押しで全体を瓦解させる致命的な亀裂だ。

 それを生んだのは、彼の表情だった。数年前に失われてしまったはずの、屈託のない笑顔。

 引きつったように不格好な痛々しい仮面を、彼は既に捨ててしまっていたのだ。その事実が、こちらの仮面をも突き崩そうとしている。

 泉は、逃げ出す心地で走っていた。

 その逃避行も、もうすぐ終わる。蘇る過去の映像を目の当たりにしながら、それを予感している。

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