3-5 予言

 多くの高等学校がそうであるように、永井らの通う高校でも文化祭は二日間にわたって開かれる。一日目は学内のみで行われ、二日目は一般公開される。

 文化祭初日は驚くほど順調に進行し、目立ったトラブルもなく終了した。もっとも、それは運営側の見方であって、飲食店をしているクラスは食材の調達や金銭の管理に多くの課題を抱えていたらしい。それぞれに反省を済ませ、対策を講じ、本番たる一般公開日に臨んだ。

 そこには普段の学校にはない新鮮な活気が溢れ、見慣れない人々の姿が慌しく行き交っている。学校の行事とはいえ、それが祭りなのだということを否が応でも理解させられた。物を展示するだけのクラスはそれでも暢気でいられるが、金銭のやり取りが発生するクラスは緊張を隠せぬまま客に応対している。

 そんな中、校門の前にひどく目立つ二人の影があった。


眩暈めまいがする」


 ぼそりと呟いたのは、八丈野やえのだ。青灰色せいかいしょくの瞳は眠気だけではなく強い疲労から細められている。意図的に未来視を抑えるのにも慣れてきたと思っていたが、集中力が散漫になってくると、それも覚束おぼつかなくなってくる。多くの未来が見えすぎる人混みは元々苦手だったが、嫌でも目に入るものを見ないようにするというのは意外に難しく、普通に未来が見える状態でいた方がまだましなほどだ。目を逸らすのにも、エネルギーがいるのだ。


「八丈野さんは都会に行けないな」


 隣で突っ立っている熊倉が八丈野の声を聞きつけて笑った。その巨体は八丈野の容姿と同じくらい人の目を集めているが、それも慣れっこという様子で落ち着き払っている。


「熊倉君は都会に行ったことあるの?」

千佳ちかの検査に付き合って、何度か。最初は大変だったけど、慣れれば大したことないよ」

「へぇ」


 森の熊さんといった風情の熊倉が都会慣れしているのは意外で、それと少しだけ悔しく、八丈野は気のない返事をした。疲労感がピークに達しつつあり、それどころではないということもある。

 ちょうどそのとき、一台の車がゆっくりと二人の前に現れた。人の行き交う中を慎重に徐行してきたそれは、熊倉家のものだ。何度か顔を合わせた熊倉の両親と挨拶を交わし、後部座席の方へ向かう。そこには車椅子と、その上にちょこんと鎮座する女の子の姿があった。

 千佳は夏休みのあとから病状が回復に向かい、この日、ついに外出が許可された。両親の付き添いと車椅子が必須で、たったの一時間という厳しい制限がついていたが、久方ぶりの外の世界は少女を歓喜させたのだ。

 熊倉は昨日のうちに委員の仕事を多めにやらせてもらい、今日はその分だけ自由時間を作っていた。実直そうに見えて中々小ずるい手を使っていて、本当は前々から予定していたことだというのに、千佳がこられることになったのを急遽決まったことのように話して、無理を押し通したというのだ。しかも千佳を病院に送ったあとには、その足で交際相手の高校に向かうというのだから、さすがの永井も呆れ果てていた。当の熊倉は、照れ笑いをするばかりで、こたえた様子もない。

 恋は、人を変える。そんな陳腐なことを考えながら、八丈野は熊倉を手伝って千佳を車から降ろし、その小さな身体に親愛を込めて抱きついた。



 ◇ ◆ ◇ 



 八丈野の高校は、バリアフリーがそれほど進んでいない。あまり混み合うところには近寄れず、回れる場所をのんびりと回っているうち、あっという間に期限の時間を過ぎてしまった。

 永井と会えなかったこともあって千佳はごねにごねたが、熊倉家の方々と八丈野で根気強く説得して、なんとか病院に送り出すことに成功する。千佳は日に日に血色が良くなっていて、しばらく見舞いに行けなかった八丈野は回復の早さに驚いた。熊倉の両親は千佳が最期に命を燃やしているのだと悲愴な思いでいるらしいが、熊倉と八丈野はわりと楽観している。

 千佳を見送り、さて、と八丈野は腰に手を当てて思案した。自分のクラスの休憩所には、入り浸ることをガマ直々に禁止されてしまっている。永井は、あちらこちらに引っ張りだこで、どこでなにをしているのか見当もつかない。一人でのんびりと歩き回るのも悪くないが、それはそれで退屈だ。

 とりあえず校内に戻ったところで、あ、と驚く声がする。頭を巡らせれば、そこにいたのは芳田よしだだった。


「なに、人を幽霊みたいに」

「いや……いきなりだったから、驚いて」


 芳田が心なしほっとしている様子なのは、思ったよりも八丈野が先日の怒りを引きずっていなかったからだ。もちろん八丈野は芳田には思うところがあるが、あのあと永井と彼のことを散々に言って笑っていたことに負い目を感じてしまって、あまり強く当たれずにいた。


「この間のこと、謝りたかったんだ。ごめん」


 その殊勝な態度は八丈野を驚かせる。少なくとも芳田が前に八丈野を怒らせたときは、気まずさのあまり対面して謝ることもできずにフェードアウトしていたからだ。

 しかし、素直に謝りにきたからといってすぐに許すわけにはいかないので、八丈野はしかつめらしい顔で釘を刺す。


「謝る相手が違う」

「わかってる。永井にも謝る。ちょっと会いづらいから、取り持ってくれないかな」

「別にいいけど。そんなに怒ってなかったから、許してくれるんじゃない」

「そっか」


 芳田はあからさまに安堵していた。知り合って日が浅いとはいえ、永井とは同じ文化祭委員の中で協力し合った仲なのだ、こんなことで決裂しては悲しすぎる。

 それにしても、芳田もいつの間にか大人になったものだと八丈野は感心した。女子は男子と比較して精神的に早熟なのだというけれど、かつて男子達も女子に対してこんな思いを抱いたのだろうかと感慨に浸る。そして雑談をしているうち、せっかくだから一緒に回らないかという話になった。委員の仕事はどうしたのかと聞けば、今日は見回りと新聞部に提供する写真の撮影をするらしかった。ほとんど遊びじゃないかと思いながらも、八丈野は芳田についていくことにする。それは単に退屈していたということでもあるし、芳田の態度から、本題をまだ話していないのではないかと直感したからだ。その本題がなんなのかは、まるで想像もつかない。


「こうやっていたら、カップルに見られるかもね」


 いくつかの教室に立ち寄り、縁日の屋台のようになっているクラスで遊んでいる途中、芳田が何気なく言った。それが実は何気ない風を装った、八丈野に自分を意識させるための殺し文句だということは芳田しか知らない。だが八丈野はといえば、少し身を引いたかと思うと、ひどく渋い顔を作った。


「ごめん、そこまで気が回らなかった。ちょっと離れる?」

「待って、そうじゃなくて。別に嫌だっていうわけじゃ」


 煮え切らない態度で言い訳をする芳田を見て、さすがの八丈野も察したことがあった。実のところ、八丈野は人並み外れた鈍感というわけではない。ただ今まで向けられてきた感情の大半が好奇のものであったことと、できるだけ嫌われるように行動しているという自覚から、自身に向けられる好意を素直に受け入れられないだけなのだ。

 なんとなく気まずくなったまま再び校内に繰り出し、昼時に近づいてきたので、混み合う前に食事を摂ることにする。中庭に出ると一年生のクラスが焼きそばの屋台を出している。


「去年、ここで同じことをしてたなぁ」


 一年生を眺めながら芳田が先輩風を吹かす。私は学校内を呼び込みで走り回ってたから屋台の手伝いなんてなにもしてない、と本当のことを言うと余計に刺々しい空気になりそうなので、八丈野は気を遣って頷くだけにとどめる。

 二人が屋台のあたりに備えつけられたベンチで食事を済ます頃には、混雑が本格的なものとなってきた。学年につき一クラスのみ、校内に三つしかない飲食店に一般客が殺到しているのだ。昨日の校内限定での文化祭でそれを学習していた生徒は混み合う前に購入しているか、近くにあるコンビニに向かっている頃だ。八丈野と芳田はそんな彼らを尻目に散策を再開することにした。

 校内の人の流れは緩やかになり、ひとところに留まる姿も少なくなっていた。午後からは体育館のステージで生徒による歌唱やダンスのパフォーマンスがあり、彼らの友人達や一般客の多くはそちらへ集中している。それに加え、同日に学園祭を開催している他校、つまり熊倉の交際相手であるところの彼女が在籍している高校に客を取られているのだ。あちらの学校は音楽関係の設備が非常に充実しており、学園祭ライブが大きな目玉となっている。県内でも有名な一大イベントに注目している一般客は、多い。

 二日目の午後ともなると活気も段々と弛緩し、残り時間の消化という様相を呈し始めた。通りがかったついでにクラスの休憩所を覗けば想像以上の大盛況で、八丈野はなんだかむなしい気分になった。元々各クラスの出し物というのは文化祭の目玉ではなく、前哨戦とでも言うべきものだ。二日目の午後、最後の一大イベントに向けて人々は移動したり、準備したり、そういうものに興味がない生徒は各々おのおのの落ち着ける場所でのんびりしたりしている。


「あれ、このクラス、さっき入らなかったっけ?」

「入らなかったよ」


 芳田がとあるクラスの教室に入ろうとしたので声をかけると、明瞭な答えが返ってくる。左右に隣り合っているクラスには入った覚えがあるのに、そのクラスの出し物である迷路は記憶の中になかったのだ。しかしどうやら、芳田の様子を見ていると、彼が意図的にそこを避けていたようだった。

 廊下にぽつんと出ている机には本来いるはずの受付の生徒がおらず、もはや放置されているらしかった。入り口で懐中電灯を受け取ることになっているようだが、受付に残されたそれの数を見ると今は誰も中にいないようだった。暗闇の中をうろうろするだけという出し物は、午前中は中々盛況だったものの、今となっては時間を多めに消費するだけの退屈な施設に過ぎなかったのだ。

 扉を開くと、暗幕に窓の全面を覆われて、ひんやりとした黒のとばりが降りている。中に入って後ろ手に扉を引けば足元すら危うくなる。天井近くまで積み上げた学習机に暗幕を被せ、それを壁に見立てて迷路を作っているのだ。人気のない教室は思った以上に静かで、薄気味が悪い。八丈野は芳田がこのクラスを後回しにしていた意味がわかった気がした。きっと彼の中では万全のデートプランがあるのだろう。色気のない八丈野には、そういうことがよくわからない。

 少しずつ進むと窓側に行き着き、暗幕の合間から漏れる陽の光が、埃っぽい薄暗闇をまっすぐに切り取っているのが見える。芳田の持つ懐中電灯を頼りに闇へ目を凝らして進んでいくと行き止まりに突き当たってしまった。後ろをついてきていた八丈野は狭い道を片方に寄って、こちらを振り返った芳田を通そうとするが、彼はもじもじとしながら八丈野を見つめて動こうとしない。


「つぐみちゃんは、まだ未来を見るのをやめてないの」


 そして、芳田はおもむろに言った。

 やはりその話か、と八丈野は思う。八丈野の未来視に対する興味という意味では、芳田は誰よりも八丈野に執着していたのだ。それが今でも変わっていないのだということを、なんとなく察していた。


「それを言うために連れ回したの?」

「もちろん、一緒に遊びたかったっていうのもあるよ。でも……そうだったのかもしれない」


 芳田は、毅然きぜんとしたポーズを取って八丈野と相対する。その真面目ぶった顔は端正で、窓から差し込んでくる細い光に照らされる姿は意外にも様になっていた。


「昔、俺は逃げた。つぐみちゃんのことは気になってたけど、それより自分の方が可愛かったんだ。でも、つぐみちゃんが人のために行動してるのに陰口を言われてるのは、やっぱり嫌なんだよ。俺は、どうでもいい他人が傷つくより、つぐみちゃんが傷つくことの方が、もっとつらい」


 思わぬ熱い告白に、八丈野は柄にもなく頬が上気するのを感じる。

 八丈野は、それが一つの正しい感情であることを知っていた。百人の他人より大切な一人、というどこまでも人間臭い価値観を、八丈野もまた持っているからだ。

 しかし、それでも八丈野の心は動かなかった。なぜこれほどまでに他人から向けられる感情に対してドライでいられるのか、それは八丈野自身もよくわかっていない。心配されるのは鬱陶しい。好かれるのは不安になる。嫌われるのはどちらかといえば楽だがどうでもいい。そういう意味では、どこまでも軽薄な芳田は付き合いやすい方だったはずだ。少なくとも今までは。


「言われなくても、未来を見るのは少し前からやめてる。そろそろ奇行が許される歳でもなくなってきたし」

「つぐみちゃん……」

「芳田に言われたからじゃない。私が自分で考えて、そうしてるの」


 勘違いをして感激している芳田に八丈野は慌てて弁解するが、彼はそれを照れ隠しと受け取っていた。一歩詰めてくる芳田と反射的に距離を取ってしまう。さすがにそこまで芳田が分別を弁えない男だとは思っていないが、それがむしろ八丈野が芳田に抱いている感情を露骨に表している。

 引いた踵が、がん、と音を立てて机の脚を蹴飛ばしてしまう。どうやら机で組まれた壁にぶつかってしまったらしく、ひやりとした思いで八丈野は背後を見上げる。

 そこには、あるはずの暗幕の壁が見えなかった。


「え?」


 八丈野の視界に映るのは、ゆっくりと傾いていく黒い壁だ。三段も積まれた机が、ちょっと小突いたくらいでどうにかなるはずもないのに、それは確かに倒壊の最中にあった。暗幕を巻き込んで、周りの机ごと芋づる式に崩れ落ちていく。ドミノ倒しのように向かい側の壁すら突き崩し、たくさんの机が折り重なって床に衝突する瞬間、八丈野は思わず身体を竦ませた。

 しかし、おそれていた衝撃はいつまでたってもやってこない。気づけば、倒れたはずの机の壁は、変わらずそこに存在していた。

 そこではじめて八丈野は気づく。

 今のは、未来視だ。

 その事実に八丈野は愕然とした。普段の未来視でもなければ、精神的に不安定なときの暴走とも違う。まるで未来視の力自体が意思を持っているかのように、八丈野に未来を見せたのだ。今までの人生で、こんなことは一度もなかった。

 ――――。

 何気なく使ってきた単語の神秘性を、八丈野は今になって思い知る。

 コマ送りするように目の前の景色が目まぐるしく変化し始める。未来と現在、それが激しく入り混じっているのだ。喧騒、静寂。明るい、暗い。五感のすべてをノイズに覆われて、八丈野は前後不覚になる。完全にコントロールを失った予言の力は、その光景がどれくらい先の未来なのか、どういう過程を経てそうなるのかすら八丈野に教えてくれない。戸惑う芳田の声は遠く、雑音にも似た幻聴が八丈野を苛んだ。

 そして、八丈野は気づいてしまった。

 瓦解して無秩序に積み上がった机の山の中。突き破られた窓のガラスが散乱する床に、小さな手足が投げ出されている。そして先程から聞こえている幻聴は、搾り出すような、苦鳴だ。


「つぐみちゃん!」


 耳元で叫ばれる声と、身体ごと抱きすくめられる感触が、八丈野を現実の世界に引き戻す。八丈野は、いつの間にか自分の手が前に伸び、現実には健在である机の壁を掴もうとしていたことを知った。同時に、その意図を理解してしまう。

 誰かがこの壁に潰されてしまうのだというのなら、誰もいない今のうちに、崩してしまうしかない。

 なにかが身体の中に降りてきたかのような無意識の行動は、まさに神の言葉を聴いた預言者のように頑迷だ。八丈野には、それをしなければならないのだという確信があった。


「離して!」

「待てってば! まさか、これを倒すつもりなのか?」

「だって、このままだと!」


 子供が潰されて怪我をしてしまう。八丈野はその言葉を必死の思いで呑み込んだ。わずかに残された可能性が、その一言でついえてしまうからだ。予言を聞いてしまった者は未来を変える可能性を失う――八丈野は自分の呪いを、これほど憎んだことはなかった。

 芳田は説得に応じることはないだろう。八丈野を離したが最後、彼女がこのクラスの出し物を台無しにして、ありとあらゆる負の感情と非難を受けることになると勘付いている。永井や熊倉ほど圧倒的な力の差はないが、それでも非力な八丈野では芳田を振り切れない。

 そうこうしているうちに予言した未来がやってくるのではないかと、八丈野の心は焦燥に支配された。なにか手立てはないかと思考だけが空転し、それは感情の乱れになって力の制御を余計に誤らせる。視界は明滅し、激しい耳鳴りが聴覚を阻害する。この数週間、未来視を抑圧してきたのがあだとなった。完全な暗黒の中から陽の下へ引きずり出された者が光に網膜を焼かれるように、八丈野は突如として雪崩れ込んできた未来視の情報の奔流に翻弄されている。

 膝から力が抜け落ちてくずおれる八丈野に芳田が声を上げるが、それすらもどこか遠い場所で起きている出来事に思われた。見開いた目は虚ろなまま涙を流し、苦しみで塞がった喉は浅く不規則に喘ぐことしかできない。

 世界が溶けて崩れていく錯覚に包まれ、なすすべもない。

 途方もない虚無と孤独――――誰か、助けてくれと、八丈野は震えながら祈る。


 そして、見つけた。

 未来視の力と同じで、ひどく不安定な、理由も根拠もない、異能力なのか思い込みなのかもわからない代物だけど。

 立ち込める闇を祓い、茫漠たる世界に道を拓く一筋の赤い光。それを、見つけた。

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