3-4 悲劇を終わらせるもの

 熱に浮かされ、目的も理由もなく廊下を行く。日本人離れした色彩を持つ八丈野やえのの感情は本人が考えている以上に表出しやすく、すれ違う生徒達は慌てた顔で道を開けていた。

 怒りは血流に乗って全身を巡り、体がふわふわとして現実感が薄れる。思考はまるで形を成さず、ただ目の前にある道を突き進むことしか今の八丈野には考えられなかった。立ち止まってしまえば力の限り周囲に当たり散らしてしまいそうだ。

 結果的には――――自分の存在が原因となって永井の汚名が広まってしまった。それはそれで、もちろん腹立たしいが、それ以上に八丈野を刺激したのは最後に芳田よしだが見せた表情だった。


 実は、あのようなやり取りを芳田と交わすのは、二度目だ。最初の一度は互いに幼い頃のことだった。

 その奇行で人の耳目を集める八丈野は、しかし話せば意外なほど屈託がなく、その容姿はとりわけ男子の目を惹いた。俗な言い方をするなら、。突き抜け過ぎた個性を発揮する八丈野に交際を申し込むほどの猛者はついに現れなかったけれど、八丈野のことを理解しようと友好的に接してくれた人も少しはいた。芳田はその中の一人で、そして八丈野の未来視に気づいた数少ない他人の一人となった。

 八丈野の背負った宿命を知ったとき、芳田は八丈野の未来を変えるための行動を止めようとした。感謝どころか奇異の視線を受けながらも人助けを続ける八丈野の姿を痛ましいものだと思ったからだ。だが芳田の行動はあまりに強引で、あるとき八丈野の行動を止めようとして二人で怪我をしたことがあった。そこに至るまで幾度も邪魔をされ続けてきた八丈野の辛抱は限界を迎え、やはり怒鳴りつけてしまったのだ。

 芳田は八丈野が自分の思っていた悲劇のヒロインでないことを理解すると、その日から少し距離を置くようになり、気づけば疎遠になってしまった。

 そのときの芳田の傷ついた表情は、幼い年頃ということもあるけれど、あまりに深く八丈野の意識に深く刻み込まれたのだ。


 物心つく前から、八丈野は自分が人の信頼を得られないことを知っていた。信頼を得るという意味を、その感覚を知らず、そしてそれを知る機会が生涯で訪れることがないことを悟っていた。肉親でさえも八丈野を信じることはできなかったのだ。八丈野が持って生まれた予言の力と呪詛を理解し、忠告をできるだけ聞くという対処を編み出すことはできたが、それだけだ。受け入れることと信じることは、根本的にはまるで違うことだった。

 しかし、信頼を知らないならば、それを得られないことで傷つくこともない。


 重い宿命を背負っているなら助けを求めているのだろうと勝手な解釈をして、頼んでもいない手伝いを買って出てくること。人のために傷つかなくてもいいんだと優しげな言葉で語りかけてくること。そういう善意に、八丈野は答えられない。自分の境遇を不幸だとは思っていないからだ。そして八丈野が救済を望んでいないことを知ると彼らは失望し、ひどいときは怒り出す。お節介だし、余計なお世話だった。ただ自分の好きなように生きているだけなのに、あなたと何一つ変わらないのに、と幼い八丈野は思い続けてきた。

 八丈野は永井に語ったように、自分の行動に外から意味を見出されるのが嫌いだった。そしてそれ以上に干渉されるのが苦痛だったのだ。最後には傷つけてしまい、離れていってしまうことがわかっていたから。

 だから八丈野は奇行を隠さなかった。むしろ目立つように心がけた。

 人につらく当たって遠ざけることは、自分の性格からして無理だった。人の良い家族に育てられ、過剰な悪意のない環境で育った八丈野には、人を自分の都合で傷つけることができなかった。だから初めから悪目立ちして、人の寄りつかない存在になればいいと思ったのだ。


 髪の色が特殊なら、黒く染めることはできた。目の色が他の人と違うなら、カラーコンタクトレンズをつけることもできた。人助けだって目立たないようにすることなんていくらでもできた。こんな力などないのだと振る舞い、普通の人間と同じになることなど容易だった。

 だが、八丈野はそれをしなかった。生まれ持ったさがなのか、周りのために自らを偽ることを八丈野の精神は良しとしなかった。

 独りになりたかった。過剰なまでに自己を演出することによって、他人を遠ざけたかった。傷つかれる前に、こちらから拒まなければならなくなる前に、嫌われてしまいたかったのだ。

 それでも、奇行や容姿のことなど気にせずに仲良くしてくれたクラスメイトが皆無なわけではなった。ただ価値観の深いところに打ち込まれた黒いくさびが、知覚できないほど微細な影響を八丈野の態度に与えている。この女は親しい友達を作らないのだと、子供特有の鋭い感覚が無意識のうちにそれを嗅ぎ取り、八丈野になにか――たとえば悲劇のヒロインのような儚さ――を期待していた人は自然と離れていった。

 そして八丈野は望み通り独りになっていた。高校二年生の春を迎える、そのときまでは。


 永井だけは、どこかが違った。

 なにも八丈野に期待せず、だから勝手に傷つくこともない。なにも信じず、そして疑わず、それでいて無関心ではない好奇の目で後ろから見ていてくれる。拒絶しなければならないほど近くなく、まったく無関係だと切り捨てるほど遠くもない。

 たとえ、それが彼自身の嫌な経験と過去にまつわるもので、なにか思惑があってのことだったとしても、中途半端で生温なまぬるい距離感が――――好きだったのだ。

 そう、永井のことが、気になっていた。

 高校生の少女に相応の青い色は、限りなく薄かったけれど。


 だが、もうこのままではいられない。

 永久に交わらない平行線は既に方向を変えてしまった。あの日、真実を知ってしまって遠ざかっていこうとした永井に、八丈野は追い縋ってしまった。これまでにない不安と苛立ちを感じてしまった。

 彼に対して感じていた心地良さが距離感だけに由来するものでないことを知ってしまった。

 気にしていないというポーズで、素知らぬ顔をしていることは、もう許されない。


「八丈野!」


 不意を打たれた八丈野の心臓は一拍だけ跳ね上がる。それが、今の今まで頭の中で思い描いていた人の声だったからだ。

 振り返れば、都合のいい助っ人を見つけて喜々とした顔が教室から飛び出ている。こっちはこんなに悶々とした気持ちでいるのに、その元凶がとぼけた面をして、と見当違いな苛立ちが募った。

 激しい足取りで詰め寄るようにして向かうと、八丈野が尋常でない状態であることに気づいたのか、永井は困り果てたように小さな呻き声を上げる。


「あ、えっと……今、暇か?」

「なに。なんか用」

「ゴミを片づけるのを手伝ってもらおうと思って」

「あんまり重いの持てないよ」

「かさばるけど、そんなに重くない。……やりたくないなら、別にいいんだけど」


 もごもごと口の中で呟かれた言葉を無視して、八丈野は部屋の中に入る。今も大勢の生徒が作業をしている教室の隅には紙や段ボールの切れ端が散乱し、脇に空っぽのゴミ箱が二つ鎮座している。一人で片づけるのは骨が折れそうだし、一度に運ぶのは難しいだろう。ゴミ捨て場は遠いので往復するのも面倒なようだった。

 態度が悪いのは永井に申し訳ないと思うが、心の動きまではどうしようもないので我慢してもらうとして、八丈野は乱暴な手つきでゴミを片付け始める。ありがとう、と永井が小さく言った。作業をしている生徒達は、八丈野のまとう剣呑な空気に気後れして、二人を遠巻きにしている。

 細かいものから先に奥底へ詰め、最後に段ボールのゴミを押し込んでいく。手の長さが足りずに四苦八苦していると、永井が横から手を伸ばして、ぐっ、と力強く圧縮してしまった。いつもなら、さすが男子だね、と一言でもかけられただろうが、今の八丈野は仏頂面で押し黙ったままだ。


「そういえば、やっぱり八丈野も芳田に会わなかったか。俺も仕事のついでに探してたんだけど」

「芳田?」


 沈黙に耐えかねたという風に、永井は躊躇いがちに無難な雑談を切り出した。しかしそれはタイミングが悪く、つい先程のことを思い出して八丈野の視線と声は鋭くなる。


「さっき、会った。でも、その話はしたくない」


 永井は思わぬ反応に目を瞬かせたのち、そうか、と呟いて、また沈黙する。

 その後、二人でゴミ箱を手に教室をあとにした。途中、八丈野はちらちらと横目にしてくる永井の視線を感じる。それは探している芳田の居場所についてのことでもあったし、なぜか怒り心頭でいる八丈野への疑問でもあった。しかし、永井はそのことについて八丈野を問いただそうとはしない。彼が今どういう気持ちでいるのか、それは八丈野にもわかっている。人に受け入れられることを諦めた、どこまでも受身な人間関係へのスタンスは、人の話を聞き出すという方向へ中々動き出せないのだ。

 だから八丈野は、決心する。

 永井に付きまとう黒い影を知ってしまった、あの日。関心を持たれないためには自身も無関心でいなければならない――そんな建前でつぐみ続けてきた口を開く。そうしなければならないと、強く感じていた。


「芳田が、永井君のことで余計なことを言いふらしたかもしれない」


 間接的には自分のせいでもある。もしかしたら芳田もろとも嫌われてしまうかもしれないと思いながら、八丈野は淡々と言った。


「余計なこと……俺が妙に忙しいのは、やっぱりあいつのせいなのか」

「そういうことじゃなくて。いや、もしかしたらそうなのかもしれないけど。私が言いたいのは、噂のこと。永井君には近づかない方がいいって言われた」


 そう八丈野が切り出すと永井は、あぁ、そのことか、と大したことでもない風に頷いた。以前はそのことが原因で卑屈な殻をかぶっていたというのに、まるでそんなものが感じられない清々しい表情だ。あっさりとした反応は拍子抜けで、むしろ八丈野はそれこそが腹立たしい。


「避けられてたのは、そういうことか……そりゃ、距離を置きたくもなるよな」

「どうして、そんな平気な顔をしてるの? こんなに頑張ってるのを台無しにされて、腹が立たないの」


 たん、と音を立ててゴミ箱の底が廊下の床を叩いた。八丈野は足を止め、その青い視線で射貫くようにして永井を刺す。


「熊倉君も泉さんも、思わせぶりなことしか言わなかった。そういうくだらないことに振り回されるのは、もう嫌だ。本当のことを教えてよ」


 その訴えは永井を驚かせた。八丈野が、これほどまでになにかに関心を示すことがなかったからだ。その驚きは、すぐに八丈野のまっすぐな視線へ報いるような真摯しんしさに取って代わられる。

 やがて、永井は腹を決めたように八丈野と相対した。そこにはかつて存在した気だるさや無気力感はない。ただ切実な思いだけが、目に、声に、強く力を込められて震える指に、表れていた。


「噂は事実じゃない。俺は人を傷つけるような嘘をつかない。そんなことするくらいなら、自分が嫌われる方が、いくらかましだ」


 少し掠れた声だ。そこには噂の中に存在するような逆恨みに憎悪を募らせる子供ではなく、八丈野の後ろを少しの好奇と心配げな面持ちでゆっくりと追いかけてくる、臆病で優しい永井の姿があった。


「夏休み前に熊倉君に聞いたら、たぶん永井君は噂を否定しないって言ってた」

「その頃だったら、そうだったかもしれない。随分と長い間、引きずってたから……噂が流れた原因は、本当に大したことじゃないんだ。すごく、くだらない。張本人が言い訳しても説得力ないんだけど」


 永井は八丈野の追及に答えると、ふっと息を吐いて表情を歪めた。恐怖をこらえるような、痛々しい笑みだ。


「詳しい話は、聞かない。興味ない」


 わずかに残された卑屈さを払拭するように、八丈野は力強い声で言い放った。細い両足で地面を踏み締める堂々とした姿。この華奢な身体のどこにこれほどの強さがあるのだろうと永井を感嘆させる。


「永井君が否定するなら、私は噂を信じない」


 八丈野は改めてゴミ箱を持ち上げると、まるで何事もなかったかのように行進を再開した。その後ろを、永井が慌てて追いかける。

 八丈野はの中で先程まで感じていた怒りは急速に冷えていった。頭の奥底に引っかかっていた澱みが取り除かれたような爽快感すら覚えている。どうやらそれが表情にも表れていたようで、隣に並んだ永井が顔を覗き込んできたあと、小さく苦笑いした。


「八丈野は、人に信じてもらえないのに、人のことは簡単に信じるんだな」

「実は嘘だったとか言わないでよ。私が馬鹿みたい」


 八丈野は少し不思議な気分になる。別に四六時中、一挙手一投足を疑いの目で見られているわけではないので、永井の言うことは的外れなものだった。しかし八丈野はそれに直接答えず、澄ました顔で突き放すように言う。


「私は、私の目で見て、私が感じたことしか、信じない」


 それは人と違うものを見てきたことに対する矜持きょうじだった。同時に、この半年間ほどで見てきた永井に対する評価の表れでもある。そのことを察したのか、そうか、と答える永井の横顔は、苦さのない微笑みをたたえていた。


「でも、芳田は一応、八丈野のことを心配してたんだろ。あんまり邪険にするなよ」


 永井の声にはおどけたような調子と、少しの同情の響きがあった。動機がどうであれ、芳田の八丈野への好意は疑う余地がない。だが肝心の相手にはそれほど伝わっておらず、それが友情なのか、それともそれ以上のものなのか、八丈野はいつまでも判断できずにいた。


「わかってるよ。小学校から一緒だから、悪いやつじゃないのは、知ってる」

「そう、悪いやつじゃないんだよな。ただ、時々すごく面倒くさいだけで」

「根は良いんだけどね。いや、私も嫌いじゃないんだよ。芳田のことは」

「良いやつだよ、本当に」


 陰で悪く言われていた永井本人が怒っていないので、外野で憤り続けているわけにもいかず、八丈野は永井に同調した。そのあと何故か芳田を延々と弁護するような雑談が続く。そしてふと、本当に良いやつのことは、わざわざ良いやつだと褒めたりしないのではないか、ということに気づいた。遠回りな陰口になっていないかと心配になって永井の方を横目にすると、鏡に映したような不安げな表情と出会う。

 そこから数秒、まじまじとお互いを眺め、どちらともなく吹き出した。両手が塞がっているので口を押さえることもできず、はしたなく大口を開けて笑う。それは永井も同じで、くしゃりと顔に皺を寄せていた。

 おかしさに身体を揺らしながら、八丈野は少しだけ驚いている。永井がこんな風に声を上げて笑うのは、初めて見る。引きつったように不格好な苦笑いより、こちらの方が彼には合っている。もしかしたらこれが本来の、なにかに歪められてしまう前の永井だったのかと、ぼんやりと考えた。

 そのとき、息を呑むような気配。

 ちょうど階段の前を通りかかっていた二人は、何気なく踊り場の方を見上げた。


「……人が頑張って働いてるのに、そっちは仲良く談笑?」


 ゆったりと階段を降りてくる泉の顔は、いつもと同じ柔和な笑みだ。

 だが、今の八丈野には、それが貼りつけられた仮面の表情に思えている。

 踊り場に立っていた泉が、一瞬だけ見せた表情。逆光に翳る顔は、信じがたいものを目の当たりにして打ちひしがれているようだった。それこそが血の通った彼女の表情だったのではないかと八丈野は直感している。だが今の泉に動揺の気配はなく、それが夢か幻だったのかと思われてしまうほどに落ち着いていた。


「人聞きが悪いな、仕事中だよ。そっちこそ、なにやってるんだ?」

「屋上の確認。文化祭中は晴れそうだから、開放するの。この間の打ち合わせで言ってたでしょ」

「自分に関係のないところまでは知らない。それより、芳田に会ったら、安全対策の周知が徹底されてないって伝えておいてくれよ。臨時の手伝い要員の指示じゃ、誰も言うこと聞かないんだ。委員から厳しく言ってくれないと困る」


 永井の態度からは、泉の見せた妙な感じに気づいているかどうかはわからない。少なくとも彼の態度には泉を不審に思っている様子は見られなかった。


「わかった、言っておく。私まだやることがあるから、じゃあね」


 泉は先を急いでいるように、慌てた素振りで二人と逆の方向へと踵を返す。一瞬だけ八丈野の方に視線を向けたが、そこにあるのは友好的な光だけで、口論をしたあとの気まずさなどはなかった。

 今の八丈野には、それがなにかを装った態度であることがわかる。永井が悪評を否定せず孤独を望んだように、八丈野が奇行を隠さず嫌われることを望んだように、泉もまたなにかを望んでなにかを偽っているのだ。

 彼女とすれ違うとき、その横顔が一瞬だけ、悲痛に歪んだように、思えた。

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