3-3 赫怒

 文化祭の準備が佳境に差しかかっている――という事実に、八丈野やえのは感慨に浸ることなどなかった。イベントを成功させて達成感を味わいたいとか、来年は受験や進路のことで大変だから今年は楽しもうとか、そういう溌剌はつらつとしたものが八丈野にはない。

 本番を明日に控えたこの日、学校中が活気に湧いている。買出しのために校外へ出ることも認められており、窓から外を覗けば慌しく出かけていく生徒の集団が見える。廊下には怒鳴るように張りのある声が飛び交っている。

 そういう人達を尻目に、八丈野らのクラスはあっという間に準備を完了していた。生徒の私物、机と椅子を運び出し、男子が畳を運び入れて、女子は映画上映のための暗幕とプロジェクターを用意する。映画は生徒が家にあるものを持ち寄った。飲食店を出すクラスと提携して云々、というアイデアもあるにはあったが、それを先導するリーダーがいるなら休憩所などやってはいない。

 休憩所が完成したのをいいことにクラスメイト達は畳に寝転がって怠け始めたが、たまたまそこを通りかかった先生にこっぴどく叱られ、周りの手伝いに散らばることとなった。八丈野も流れに乗ってその辺をさまよっている。力仕事はからきし、仲の良い人もいないのでどこへ行っても長続きせず、ふらふらしているだけという感じもする。暇潰し程度に手伝っていた隣のクラスの小物作りも終わってしまい、また放浪の旅に出ることにする。

 廊下に出た途端、ばったりと永井に出くわした。フットワークの軽い男子は引っ張りだこで、今も今とて辺りを奔走している。


「お疲れ。大変そうだね」

「どこも手が足りてないんだよ」


 さすがに疲労感を滲ませている永井は、いつの頃からか腕章までつけて、実行委員の遊撃部隊つかいっぱしりという感じだ。聞いたところによると文化祭当日も校内見回りのシフトが多めに入っているらしい。

 八丈野は永井の代わりにといわんばかりに不機嫌な顔をして、ぶっきらぼうに呟いた。


「いいように、こき使われてない?」

「まぁ……否定はできないかな」


 永井も自覚はあったらしく苦笑いをしている。はじめて彼と会ったときから感じていた、どうしようもない寛容さは、最近になって更に磨きがかかっている。しかし熊倉に聞くところによると高校以前の永井もこういう風に馬鹿がつくほどお人好しだったらしい。なにがあったのか知らないが、彼がかつての明るさを取り戻したのだとすれば、それは喜ばしいことなのだろう。ここのところずっと帰りが一人で寂しかったことは否めないものの、それもどうしたってすぐに終わる。


「そうだ、芳田よしだを見なかったか? 聞きたいことがあるんだけど、連絡もつかないんだ」

「いや、見てない。永井君みたいに、その辺を走り回ってるんじゃない?」

「なんだか避けられてる気がするんだよなぁ」


 永井は困ったように溜息を吐く。たぶん偶然だとは思うけれど、もしそれが事実だったとしても八丈野には理由がわかる気がした。芳田と永井は、根本的な部分で気が合わないような感じがする。永井は外から眺めて相手との距離を測るタイプだし、芳田はとりあえず懐に飛び込むタイプだ。


「見かけたら伝えておこうか?」

「そうしてくれると、すごく助かる。悪いな」

「いいよ。頑張ってね」


 忙しそうな彼を拘束しているのも悪いと思い、適当なところで話を切り上げて別れた。そのあとで、やることがないのなら永井についていけばよかったかと考えたが後の祭りだった。


 八丈野はそれからしばらく、なんとなく行きやすそうなところをぐるぐるとふらつきまわり、最後に立ち寄った保健室でも仕事がないことを言い渡される。ついに行き場所を失ったところで、そろそろ休憩所にも人が戻ってきている頃だと思いついた。先生に怒られたからといって怠けるのをやめるような根性では、文化祭を丸々さぼるような出し物を考えたりはしないのだ。

 とぼとぼと廊下を歩いていると、後ろから慌しい足音が近づいてくる。それがただ自分を追い越していくようには思えなくて、八丈野はふと背後を振り向いた。そこに必死な表情で迫っていたのは、芳田だった。


「つぐみちゃん、どこに行ってたの? 何度もメールしたのに」


 永井が呼んでいたと伝える前に、なにやら切迫した様子で責められる。言われて携帯電話を見てみれば、確かに通知が出ていた。


「ごめん、気づかなかったみたい」

「まぁ、いいや。こっちにきて。話があるんだ」


 そう言って、芳田は強引に八丈野の手を取って早足に進み始めた。咄嗟に反発心が湧き上がってくるが、力で振りほどけるとは思えないので、なすがまま引っ張られていく。しばらくして芳田が立ち止まったのは階段の陰だった。階段の手すりが陽の光を遮る、じめじめとした薄気味悪い世界だ。掃除用具を入れるロッカーの佇む様は墓碑ぼひを思わせた。八丈野は靴裏のべたつく感触が気になり、意味もなく足踏みをする。ぺたぺたと気の抜ける音がする。芳田は、そんなものは気にもならないようで、ぐっと八丈野に詰め寄った。


「永井には、もう関わらない方がいい」


 またその類の話かとうんざりするが、実のところ、それは想定外の言葉だった。それも、あまり良い意味ではない。八丈野は心底呆れ果てたという顔をして、溜息混じりに言った。


「それ、永井君が好きな女子に振られて陰口を言いふらしたっていう話?」

「えっ……知ってたのか?」

「芳田は知らなかったんだ」


 永井と同じ中学校出身の遠藤や泉と仲が良いようだから、そのくらいは知っていると思っていた。ただよくよく考えてみれば、それを知っていれば直情径行型の芳田が静かにしているとは思えない。こうして、それを知って騒ぎ立てているように。


「じゃあ、なんで一緒にいるんだ」

「その噂自体、本当かどうか怪しいでしょ」

「火のないところに煙は立たないって言うだろ」


 ひくり、と八丈野の頬が引きつる。八丈野も自分への陰口を気にしているわけではないが、おかしな言動が人の悪意を引き寄せるのは自業自得だ、と暗に言われているようで、多少は苛立つ。

 八丈野を怒らせたと気づいたのか、しまった、という顔で芳田はトーンダウンする。しかしそれでも彼は引き下がらなかった。そこには仲良くしていた相手が悪人だったという怒りと、その悪人から八丈野を守らなければならないという使命感があった。なにかを正しいと妄信した、手に負えない人間の気配が、今の芳田にはまとわりついていた。


「気になるなら熊倉君や遠藤君に聞いてみたら。本当のこと教えてくれるかもよ」

「あいつと仲の良いやつが言うことなんて信用できない。もし嘘をついて庇ってても、こっちは確認しようがないんだ」

「じゃあ、なんなら信用できるの。クラスメイトを陰に隠れて軽蔑するような人の、根拠もない噂の方が信じられるっていうの?」

「でも大勢の人が知ってた。もしかしたら、つぐみちゃんの陰口を広めたのも永井かもしれないよ。悪口を言うやつって、相手を選ばないから」


 噂の広がり方は節操がない。知ってる人が多いからなんだというのかと、八丈野は思わず額を押さえた。たとえば入学してすぐの頃などは、共通の気に入らない相手の悪口を言って暗い友情を深めるなんてことは珍しくもない。どうしようもなく目立ち、その標的にされ続けてきた八丈野には、それが嫌というほどわかる。

 第一、八丈野の奇行を最初に広めたのは芳田だ。同じクラスで一年間を過ごした昨年、その最初の日に、あいつが変なことをしても悪く思わないでやってくれ、なんてことを芳田が初対面にも等しいクラスメイト達に話したのが事の始まりだった。それのせいでしばらく八丈野は学校にいる間、誰かに見られているような不快感をずっと味わっていたし、それがなくなる頃には言動の変なやつというレッテルが完全にこびりついていた。その間、芳田は新しい環境が楽しくて仕方がなく、八丈野のことなどまるで気にした様子がなかったのだ。

 もちろん、芳田に悪気も自覚もなかったこと、彼がなにも言わなくてもそうなっていただろうということは、自分が一番よく理解している。だからと言って芳田に怒りを覚えないわけではない、ということだ。今更になって思い出したかのように、違いすぎる価値観を押しつけてくるのは、どこまでいっても迷惑でしかない。

 そこまで考えて、八丈野は脳裏を過ぎった考えに目を見張った。

 悪い予感に突き動かされ、幾分きつい声で芳田を問い詰める。


「それ、まさか人に話して回ってないよね? よそのクラスの人とか、永井君と関係ない人達に」

「いや、だって……」

「言いふらしたの? 信じられない!」


 自分の声がヒステリックな響きを帯びるのを自覚しながら、それでも八丈野は感情のうねりを止めることができない。

 今までも十分すぎるほど広まっていた永井の噂は、それでも近しい人の間で留まっていた。学年中というほどではなかったし、男子は知らない人の方が多いらしいと熊倉に聞いたことがある。

 永井がストーカーだって知ってる? なんて聞けば、永井はストーカーなのだと誰でも思うだろう。それが質問の形であったとしても関係はない。なんなら、真実か虚偽かということすら意味を持たない。噂とは、そういうものだ。それが無差別に広まったとしたら、止める術など、どこにもない。


「言いふらすっていっても、質問しただけだ。噂のこと知ってるかって。それだけだよ」

「そんなの、陰口を大袈裟に広めてるのと、同じことでしょ!」


 かび臭い空気が吹き飛ばされそうな怒気だった。眼窩がんかが奥に熱を持ち、溶けた鉄が血液に取って代わったのかと思うほどだった。これほど激昂したのはいつ以来だろうか。そんな暢気な思考さえ、跳ね上がる熱の強さに焼かれて消える。

 おそろしく硬い殻で身を守った、頑なで無機質な仮面を被った人。それが永井への第一印象だった。だが、その怯え切った姿は今はもうない。文化祭実行委員への協力は、まるで永井が自分の変化を試しているように八丈野には思えていた。その献身に報いるはずの委員からの仕打ちがこれなのだとしたら、あまりにもやりきれない。

 八丈野は、もう確信していた。永井の噂がすべて真実だなんて、とても思えない。どこかに歪められたものがあるはずだ。

 殊更ことさらに真実を暴き立てようとは思わない。ただ不本意な噂が払拭されるときがくればいいと密かに考えていたのだ。だが、そのささやかな願いは、もう叶うことはない。


「うわさ、うわさって、人伝ひとづての陰口を鵜呑うのみにして、今まで仲良くしてた人を急に邪険にするのは、どれほど高尚なの? もう高校生も半分終わってるのに、中学生の頃の噂をいつまで引きずってるの!」


 マグマのような激情が腹腔で煮え滾るのを感じている。言葉は段々早口に、語気は自分でも驚くほど強くなっていた。引きつった顔で後ずさる芳田を置き去りにするように八丈野の感情はエスカレートしていく。

 そのとき、たんたんと足音が聞こえてくる。軽やかな響きを伴って二人の間に割り入ってきたのは――泉だった。


「つぐみちゃん、落ち着いて。大丈夫?」


 彼女は猛る熊倉と対峙していたときのように落ち着き払っていて、まるで物怖じもせず八丈野をなだめた。そのときはじめて八丈野は、自分が芳田に詰め寄っていたことを知った。


「ちょうどいいから、泉さんに聞いてみれば?」


 感情を押し殺した静かな声のはずが、それは無様なほどに震えている。怒りのせいで声が震えるなんて、ほとんどはじめての経験に、八丈野は自分で戦慄わなないた。

 泉には言葉の意味がわからなかったようで、不安と疑念が半々という表情で立ち尽くしている。そこに、どこかおどおどとした感じで芳田が話しかける。耳の奥でどくどくと血の流れる音がして、八丈野には彼の声など聞こえはしない。おそらくは噂のことを泉に尋ねているのだろうということはわかった。

 泉はひどく驚いた様子で声を詰まらせた。そこにどういう事情があったのか八丈野にはわからないが、少なくとも泉にとって愉快な記憶ではないのだろう。しかし、それでも八丈野はそれを引っ張り出してほしかった。そして、永井が潔白であることを、あるいはそこに一言で語れない事情があるのだということを明かしてほしかったのだ。


「ごめん。私、詳しいことは言いたくない」


 八丈野は、絶句した。

 その期待と裏腹に、泉が見せたのは傷ついたような、躊躇うような、弱々しい表情。そして紛れもない拒絶だった。


「待ってよ。どうして? だって、熊倉君の話だと!」

「ごめんね」


 泉には、取りつく島もなかった。少し俯いた面には、それに関するあらゆる追及を拒む頑なさがあった。八丈野には、その意味がまるで理解できない。少し前に彼女と永井諒の噂について話を交わしたばかりだ。あのときの印象では、泉は別段永井を避けたり嫌ったりしていないはずだった。

 虚偽なら、虚偽だといえばいい。どこかに永井の過ちがあったなら、それを暴いて、すべて過ぎたことだと許せばいいのだ。当事者が解決したのだと言い切れば、もうそれ以上は外部に四の五の言わせずに済むだろう。なぜ、そうしないのか。

 そのとき、八丈野はようやく理解した。

 もしなにも知らない人が噂を信じ込み、この泉の姿を見たらどう思うのだろうか。きっと、忌々しい記憶を呼び覚ますのをいとっているように見えるだろう。そして変わらず永井と話している姿を見れば、優しい彼女が過ちを犯した彼を庇い、健気に耐えていると思うのだろう。現に芳田などは彼女のことを疑いもせず、責めるような視線を八丈野に向けている。

 誰がなにを庇い、守り、尊重しようとしているのか八丈野にはわからない。わかっているのは、永井にまつわる黒い影を払拭できる彼女こそが、こうして曖昧な態度のままでいるから、なにも変わらずにいるということだけだ。

 あのとき、熊倉がなぜ、あそこまで激怒していたのか。八丈野は今になって、そのことを理解した。


「よく、わかった」


 高まった熱が一気に下がっていく。ふっ、と身体の力が抜けるのを感じる。だが、それは決して許しや諦めなどではない。一変した雰囲気になにかを悟り、怒鳴り散らしていたときの方がまだましだったというように芳田も泉も身を強張らせた。そんな彼らに刃のような一瞥いちべつをくれ、八丈野はおもむろに踵を返す。


「ちょ、ちょっと待ってよ、つぐみちゃん」

「待たない」


 慌てて追い縋ってくる芳田ににべもなく言い放つ。無視してもよかったが、つい返事をしてしまったのは、永井の律儀さでも移ってしまったのかと思った。

 とにかくこの場を離れたかった。なにもないところで頭を冷やしたかったのだ。だが、最後の最後で、芳田が呟いた一言が、八丈野の感情をき止めていた最後の堤防を破壊した。


「つぐみちゃんのために、言ってるのに……」


 かっ、と灼熱が全身を巡る。八丈野は髪を振り乱して芳田を睨みつけ、叫んだ。


「お節介だ!」


 凝縮された熱が一気に噴出するようだった。あまりの大音声だいおんじょうに二人の身体が跳ね、ほの暗い闇の澱む場所を、びりびりと残響が跳ね回る。

 一瞬の恐怖が去った後、芳田が見せたのは失敗をとがめられた子供のような傷ついた表情だ。

 そのとき、八丈野の脳裏に過去の映像がフラッシュバックした。幼い芳田の姿と、現実の世界の映像が重なる。

 諫言が聞き入れられず、それどころか相手を怒らせてしまったことへの後悔と自責の表情――それは八丈野が最も嫌い、避けたいと思っていたものだった。


「私のことで勝手に傷つくくらいなら、最初から近寄らないでよ!」


 それはもはや怒声というより怒号だった。八丈野自身、自分の声だと信じられないような激しい叫びが、廊下を殷々いんいんと木霊していく。それを聞きつけた生徒らが何事かと顔をのぞかせるが、そのときには既に八丈野は跳ねるようにして走り去った後だった。

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