3-2 過去からの足音

 文化祭に向けた熱は日ごとに高まっていくようだった。学年ごとに一クラスにしか認められていない飲食店の出店権利を取り合ったり、クラスと部活動の出し物の兼ね合いで揉めたり、そこかしこで諍いが発生している。それもひとえに皆の情熱によるものなので、教師や実行委員はそれらをないがしろにすることなく一つずつ丁寧に処理している。

 そんな中、永井らのクラスの打ち出した出し物とは休憩所だった。癒しを提供するなどというご立派なコンセプトによるものではなく、文字通り休憩をするための場所だ。文化祭の間ずっと教室に暗幕を張り、B級から大人気の話題作まで、色々な映画を上映する。教室の机と椅子は取っ払い、格技場から借りてきた畳を敷く計画になっている。クラスの中の数人が交代しつつ常駐して、映画の上映やトラブルへの対処――そんなものがあればの話だが――をする手筈てはずだ。

 本校の文化祭史上、最も意欲のないクラスに違いないと、十年以上この高校で教鞭を取っている化学の教師が太鼓判を押していた。さしものガマも呆れ果てていたが、生徒の主体性を重んじるということで、渋々ながら許可を出していた。どの学年どのクラスにも一定数存在するだろう、文化祭に居場所がない生徒の受け皿になるという期待を込めて、生徒間での評判はすこぶる良い。

 他のクラスが慌しく準備を進めていく中で、永井のクラスはすぐにやることがなくなった。暇を持て余すくらいなら他のクラスか実行委員を手伝えとガマから指令が下り、大半の生徒は友人達を手伝いに出張している。もちろん目立たない場所に逃げて遊び呆けている連中もいるが、永井はむしろ逆で、誰よりも精力的に働いている。クラス外に親しい知り合いの一人もいない八丈野やえのは、そんな彼の奮闘をぼんやりと眺めていた。


 その日の午後は全校で文化祭の準備をすることになった。実行委員から配布されたというプリントを広げ、永井と熊倉が顔を突き合わせている。結局、熊倉も実行委員の仕事を少し手伝うことになった。放課後の手伝いは遠藤の配慮もあって免除されているが、授業の時間を使った準備と、文化祭当日はその限りではなく、永井共々大忙しだ。

 二人は今、各クラスの進捗状況について確認をしている。全部が全部、準備に力仕事を伴う出し物というわけではないので、永井と熊倉が行くべき場所は大体決まっているようだった。

 また永井と熊倉は秘密裏に、安全対策に目を光らせるよう遠藤から指示を受けていた。文化祭実行委員が相手では生徒達は巧みに誤魔化し、あるいは仲の良い委員に便宜を図ってもらったりして、万が一の事故に備えるような部分を手抜きするおそれがある。その点、ボランティアとしてふらふらしている上に根が真面目な彼らは監視役として有用だった。なぜだか段々と仕事が増えていくような流れに二人は辟易へきえきとしていたが、それでも楽しそうに見える。

 退屈していた八丈野は、真剣に話し込む二人の横から文化祭のタイムスケジュールを覗き見た。その横に二色の蛍光ペンで線が引かれ、永井と熊倉が手伝いをするところを表している。八丈野はその線の、熊倉のスケジュールを見て心配げに眉をひそめた。


「これ、熊倉君、大変だね。お昼の前の、体育館の椅子出しのあと……すぐに出て行っても厳しいんじゃない」


 そう言うと、二人は思案顔で押し黙った。八丈野の言っている意味がわからず、なにか忘れているんじゃないかと記憶を引っくり返しているのだ。その間がもどかしくて、八丈野は気恥ずかしいのを我慢して言った。


「途中で抜け出して、彼女さんの学校に行くんでしょ?」


 はぁ? と熊倉の大音声だいおんじょうが轟き、教室に残っていた少数のクラスメイト達が何事かと目を向けてくる。その過敏な反応に八丈野も面食らった。


「あれ? もしかして、内緒だったの?」

「なんで、それを」

「この間、千佳ちかちゃんの病室で会ったから」

「当分くるなって言ってたのに!」


 熊倉は吼えるようにして憤慨した。

 八丈野は何度か病室に通っているうち、少し歳の離れた千佳の友人ということで熊倉の両親から信用を得て、途中からは熊倉を抜きにして見舞いに行っていた。熊倉の交際相手を自称する女子と出会ったのは、そのときのことだ。髪を茶に染めた明るく元気な娘で、正直なところ熊倉と付き合っているというのは意外だった。しかし、熊倉が千佳の病状を気にして断っていたところを根気強くアプローチし続け、最近になってようやく交際にこぎつけたのだと本人から聞き、その一途さに他人事ながらときめいた。千佳も懐いていたし両親も認めている仲らしかった。

 彼女は永井らの高校から電車で二駅の距離にある他校の生徒で、同じ日に文化祭を行う。文化祭中の二校の行き来は、両校とも暗黙の了解で認めているらしい。熊倉の彼女はそちらの学校で学園祭バンドをやるということで、熊倉が見にきてくれるのだから頑張らなくてはと張り切っていたのだった。

 熊倉の珍しい狼狽に永井も、へぇ、と愉快そうに頬を緩めている。熊倉は交際相手の存在を永井にすら秘密にしていたのだと気づき、八丈野は意外に思った。二人は仲が良いし、永井は人の色恋事を茶化すような人間でもないと知っていたからだ。熊倉の顔は茹蛸のように赤く、額にはいつの間にか汗すら滲んでいる。それだけなら極度に照れているのだと思えたが、彼の永井を見る目には焦りと、なぜか罪悪感があった。


「俺のことは、気にするなって。お前は良いやつだから、もてるんだと思ってたよ」


 そう永井が言うと熊倉は感極まって目を潤ませる。それは学園祭の手伝いを永井が了承したときのやり取りと似ていた。どうやら彼は永井の噂を気にして、そのことを黙っていたようだった。

 永井は、変わった。いつから、どこがどう、と言われると八丈野には答えが出せないけれど、それは確かなことだった。まるで深い傷口の中に残されていた黒いくさびが取り除かれたような清々しさを感じている。

 そして八丈野が思うのは、永井の噂は払拭されるのではないか、という期待だった。

 永井について回っているのは、好きな女子に振られて腹いせに陰口を言いふらした、という噂だったはずだ。熊倉の反応からすると永井が告白したという女子は泉のことなのだろう。その当事者同士が友好的に接しているところも周りに見られているだろうし、噂が自然消滅する日も遠くないのかもしれない。


 それから間を置かず、八丈野らの教室を泉が訪れた。彼女は現場の監督や進捗の管理、ボランティア組への指示を主な仕事としているらしい。

 泉は永井と熊倉の様子を見て、訝しげに眉根を寄せている。


「どうかしたの? クマ君、顔が真っ赤だよ」

「なんでもない」

「それならいいけど」


 永井に促され、彼女は気を取り直して今日の予定を話した。文化祭当日、交代をしながら委員やボランティアで校内の見回りとトラブルの対応を行うことになっている。その打ち合わせをするということだった。


「それじゃあ、頑張ってきてね」

「おい、香奈は?」

「ちょっと休憩」


 さぼりだ、という男二人の非難をさらりと流し、彼女は永井の席に腰を下ろして、手の動きで急かした。

 休憩したいというのは本当のことらしく、二人が去った後、泉は口を手で隠して大きく欠伸をした。涙に潤んだ黒瞳は、自分をぼんやりと眺めている灰色の視線に気づくと、友好の意を示すようににっこりと細められる。


「つぐみちゃんは、もう仕事終わったの?」

「終わったというか、ない。うちのクラス、やる気ないから」


 泉は各クラスの出し物一覧表を取り出すと、永井らのクラスのところを確認し、小さく吹き出した。よく担任の先生が許してくれたね、と笑い出す。確かに、やる気に満ちた体育の先生などが担任だったら怒り出していただろう。

 会話はそこで途切れ、気の抜けたように緩やかな沈黙が訪れる。もとより交流がある二人ではなく、共通の話題を探るほどの積極性もないのだから、こうなるのは目に見えていた。どうせ休憩をするなら仲の良い友人のクラスにでも入り浸ればいいのに、と泉の方を見てみると、彼女は永井の机に突っ伏して八丈野の顔を見上げている。なんとなく、一つ一つの所作が、永井に似ているかもしれないと八丈野は思った。


「ねぇ、未来が見られるっていう話、本当なの?」


 そのとき、おもむろに泉が言った。それはあまりに意外な質問で、八丈野はしばらく目を丸くする。しかし、その質問が生まれるまでの経緯はすぐに想像できた。思い出されるのは中学校時代、お調子者として知られていた同級生の顔だ。


「それ、芳田よしだに聞いたの?」

「そうそう。よくわかったね」

「相変わらず口の軽い……」


 八丈野は苦虫を噛んだような心地だった。芳田は悪い人間ではないが、時々ひどく不愉快なことをしでかす傾向がある。それでいて本人に悪気もないのだから性質が悪かった。

 とにかく聞かれれば答えないわけにはいかないので、八丈野は頷くことで肯定を示す。


「その話なら、本当。この学校に限れば、芳田と、永井君と熊倉君しか知らないと思う。他に気づいてる人がいなければ」

「諒君も知ってるんだ?」

「成り行きで」


 二人の名前を挙げたのに、なぜ殊更ことさらに永井の名を出すのだろうと思ったが、そういえばはじめて会ったときの永井はかたくなで生気のない顔をしていた気がする。もし彼女の知っているのがあのときの永井なら、それは意外なことなのかもしれなかった。泉はそのことを追究する気はないのか、八丈野を下から覗き込むようにして尋ねてくる。


「未来が見えるのって、どんな感じなの?」

「どうだろう。未来が見えないっていうのがわからないから、なんともいえない」


 泉は興味津々といった感じで、次々と質問を投じてくる。それは懐かしい反応だった。小学生くらいのときは、このことを打ち明けると皆こういう反応をしたものだ。泉には以前の熊倉のように半信半疑だという様子もなく、はじめからそれを当然のこととして受け入れているようにも見える。その素直さは、やはり永井と通じるところがあった。

 芳田からかなり詳しいところまで聞いていたらしく、人に信じられない呪いのこと、つい人助けをしては奇行を咎められていることなども知っているようで、中々踏み込んだところまで話すことになる。もちろん、永井にだけ知られてしまっている本心は黙っている。

 話せば話すほど、彼女が熊倉の敵視する悪辣あくらつな人間には思えない。などと考えていると、ふと泉は自分の腕に顔を埋める格好で目を伏せた。長い睫毛まつげが下り、その奥に瞳を隠す。まるでなにかを拒絶しているようにも見えた。


「未来が見えていたなら、後悔することもないのかな」


 それは八丈野に対する羨望や揶揄ではなく、ただの感想という調子だ。同時に、それにしては感傷的すぎる響きもある。


「そういうこともないよ。未来を変えたところで、良い方向に転ぶとも限らなかったし」

「すごいね、そういうの。誰にも知られない人助けなんて、ヒーローみたい」


 泉の言葉に悪気がないことはわかっていた。それでも八丈野には、そこに多少の不快感があった。好きでやっていることに外から勝手に意味づけられる、まさに永井に語ったとおり、それが八丈野には煩わしい。


「つぐみちゃん、諒君の噂を知っているでしょう」


 またしても唐突に泉は言う。あまりにも脈絡がなく、そして様変わりした声音に八丈野はしばらく言葉を失ってしまう。噂の当事者である彼女が、まさか自分からそのことに触れてくるとは想像だにしなかったのだ。

 伏せった姿勢のままで泉は八丈野を見上げてきた。思わずたじろぐ八丈野を貫くようにして黒い瞳がほの暗く輝いている。


「諒君と仲良くなる前から知ってたのか、違うのかわからないけど、どっちにしても、それを知ったなら普通は距離を置くものじゃない。でも、つぐみちゃんはそうしなかった。つぐみちゃんは、俗なものに惑わされてない感じがする。それも未来が見えるからなのかな?」


 やや気圧けおされながらも、八丈野は記憶を手繰たぐり寄せる。永井の噂のことを知ったのは、確か夏頃だったはずだ。そのときには、もう永井とは多少の会話をしていたので、彼が女子に告白したり、振られたことを逆恨みする感情的な人だと考えていなかった。実際は、そうでもなかったのだけど。

 もっとも、八丈野が永井の噂を歯牙にもかけなかったのは、また別の理由からだった。


「噂を信じてたわけじゃないけど、嘘だと思ってたわけでもないよ。もしかしたら永井君は本当に人の悪い噂を流すような人かも、って考えたこともあった」

「そうなの? じゃあ、どうして」

「永井君が悪い人だったとしても、今更、私に悪い噂の一つや二つ増えたところで、なにも変わらないってだけ」


 元々奇行のことで悪目立ちしていた。守るようなものがないから頓着とんちゃくしなかったというのが実際のところだった。だから八丈野は、どこまでも自分の価値観で人の好き嫌いを判断して関わっていける。

 そう言うと、泉はきょとんと目を見開いてから、急に笑い始めた。上品に口を覆う手の隙間から、愉快そうな声が溢れ出していく。特に面白いことを言ったつもりのない八丈野には不可解な反応だ。なにより、笑っているはずなのに、八丈野には彼女がなにかを楽しんでいるようには見えない。なにかをいたむようにして笑う、そんなところまで永井に似ているのかと感心するほどだった。

 泉はひとしきり笑ったあと、すっくと立ち上がった。艶やかな黒髪がひらりと翻り、細く白い喉元を撫でるように躍った。


「変なこと聞いて、ごめんね。私、そろそろ行かなきゃ」

「そう? 行ってらっしゃい」


 投げやりな八丈野の言葉に可愛らしく手を振って、泉は颯爽と教室を後にした。大人しげに見えて、嵐のような女子だった。


 八丈野は先程の泉のように突っ伏して、青い目を閉じた。真っ暗闇の視界に想像の世界が色をつける。

 未来が見えるということを差し引いても、八丈野は勘が良い方だった。その勘は、すべてが順調には行かないだろう、という憂慮で胸を締めつけてくる。

 気になるのは、永井のことだった。

 彼自身は、最近になってなにか清々しい気配を見せているけれど、つきまとってくる黒い影とは、決着がついていないのだろうと思われた。その未来を見たくなる。しかし、ぎゅっと瞼に力を入れて、その欲求を押し潰した。それを見たところでなにかを変えられるわけでもないし、介入する義理もないと知っていた。

 未来を見たところで、できることなど本当は限られている。流されるしかないのだ。だから待ち構えて迎え撃つ気持ちで立っているしかない。八丈野は、自分の懸念がすぐに形を取ってやってくると予感していた。

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