3章 悲劇を終わらせるもの

3-1 カッサンドラー

 八丈野やえのの成績は、決して悪い方ではなかった。

 予言の力は八丈野に甘えを許してくれないのか、勉強に関して味方してくれることはない。テストのプリントが配られる未来が見えても、その表面に載っているはずの問題文までは見えないのだ。見えたら見えたで、人生を踏み外してしまいそうなので、それでよかったとは思っている。

 とにかく今の成績はすべて八丈野の努力――あるいは怠慢――の結果なのだが、二年生になって少し順位を落としていた。難関校を目指しているわけではないにしろ、悪くなっていく数字は心臓に悪い。

 それ以上にショックなのは、永井が意外にも成績優良者だったということだ。勉強が嫌いという点で話の合う友人だと思っていたのに、彼の学習成績を聞いたときは手ひどい裏切りを受けた気分だった。俺は一夜漬けの天才なんだ、と意味のわからない自慢をしていたのも腹が立つ。八丈野は、わりと負けず嫌いだった。

 そういうわけで八丈野の学習意欲は、二学期の中間考査を終えた直後にも関わらず高いモチベーションを維持していた。ふと顔を上げて時計を見れば、まさに授業の終わる時間が示されようとしている。ほとんど集中を切らさずに一時間の学習をこなせるようになったのは、八丈野自身が一番驚いていることだった。

 間もなく鐘が授業の終わりを告げる。係りの生徒の号令に従い、疲弊した身体を伸ばすようにして起立、礼をして、ぐったりとまた席に腰を下ろした。クラスメイト達は、めいめい放課後の活動のために行動を始める。八丈野の第六感がもっとも多くの情報を捉えるのは、この混沌とした瞬間だった。そこかしこで些細な、それこそ数秒で本人達も忘れてしまう程度のトラブルが発生する――その未来を察知する。いくつかは手の届くところで展開されていたが、面倒だったので見過ごすことにした。


「奇行をする元気もないのか?」


 そのとき、後ろの席から軽口が飛んできた。首だけで振り返ると、机に頬杖をつく永井が目の前にいた。その寝惚けた面を見なくても、先の授業を居眠りしていたことがわかる。こんなのに先のテストも、とても僅差とはいえない点数で負けたのだと思うと、尚更腹立たしい。その苛立ちが視線にも混ざっていたのか腑抜けた面の永井はぎょっとして怯んだ。


「なんだよ」

「別に」


 まだ怒ってるのか、とぼやく声が聞こえた気がする。だが、これはもはや永井への怒りというよりは、不甲斐ない自分への怒りだ。やるせない感情の吹き溜まりだ。怠け者仲間と認定していた相手が実は秀才だったという恥ずかしさの裏返しだ。永井も八丈野の気持ちはわかっていて、かつて八丈野に対してぶつけた怒りに通じるところがあるのだと感じていたので、文句を言えないでいる。

 いつまでも怒っていても仕方がないので、八丈野は気を取り直して勉強道具を片づける。永井を振り返って、帰ろう、と呼びかける。八丈野が機嫌を直したことに胸を撫で下ろし、永井はそっと吐息をついた。


 二学期が始まり、思いの丈をぶつけ合った日から、二人の関係性は元に戻ったように思えた。変わってしまった関係が同じ形に戻ることはありえないので、どこかしら変質してしまったことは確かだ。しかし、それはきっと悪いことではなかった。

 確実に変化があったと言えるのは、永井の方だ。

 八丈野が奇行に走ったあとリカバリーするのは以前と変わりないが、そのあとに未来視の内容を聞いてくるようになった。そこにどういう意図があるのかはわからないし、聞いたところでどうせ、なんとなく、としか言わないだろうから、八丈野も尋ねないでいる。それにその距離感は変わらず心地よく、少し楽しくさえあった。


「そういえば、最近は未来を見るのを控えてるのか?」


 帰り支度をしていると、何気なく永井が声をかけてくる。

 その言葉は、ことのほか八丈野を驚かせた。まさか気づかれるとは思いもしなかったのだ。


「なんでわかったの?」

「時々、我慢してるような気がした」


 永井自身も確証があったわけではなかったらしく、八丈野の過敏な反応に戸惑っていた。そしてその表情は憂慮へと変わる。


「もしかして、それは俺が原因なのか」

「きっかけでは、あったのかもしれない。でも前から思ってたの。いつか、どこかで折り合いをつけなきゃいけないって」


 背もたれに身体を預け、華奢な身体をぐっと仰け反らせる。ばきばきと関節の音を聞きながら、八丈野は漠然と考えていたことを頭の中で成形していく。こういうとき、永井は急かさないで待っていてくれる。口下手な八丈野には、永井のそういうところがありがたかった。


「好き放題にしていられるのって、まだ私が高校生だからでしょ。でも大人になると、色々背負い込んじゃうから」

「世間体とか?」

「そうそう。身体も重くなって、怪我することも増えちゃう。いつまでも今と同じ感覚で奇行に走ってられないってこと」


 高校生は、まだ守られている。立場という意味でも、身体能力という意味でも、動きやすい。子供だからということで許されている側面もある。社会に出てから同じことをしたら大変なことになってしまうだろう。下手を打てば警察沙汰にもなりかねない。

 感覚的にはつらいけれど、この目はいずれ閉ざさなければならない。あるいは、見て見ぬ振りをすることを覚えなければならない。高校卒業は来年度の話だが、そこが節目となることは強く意識していた。だから今から少しずつ身体を慣らしていこうと思っていたのだった。

 そういったことを話すと、永井は理解を示して頷いてくれた。しかしどこか心の晴れない面持ちをしており、ぽつりと、躊躇いがちな一言が零れ落ちた。


「なんだか、らしくないな」


 八丈野は苦笑いで答えた。まさに、自分でも同じことを感じていたからだ。


 別に喫緊きっきんの問題でもないので、まぁいいか、と話に区切りをつける。高校生二年の秋を迎えた彼らには、そんなことよりも大事なものが二つの目に映っている。

 まさに二人が帰宅の途につこうとしたとき、こんこん、と軽快なノックの音がする。教室の扉を叩く生徒などまずいないので、残っていたクラスメイトらは一斉にそちらの方へ目を向けた。そろそろ肌寒さを感じるようになる季節、閉ざされていることの多くなった引き戸が開かれ、失礼しまーす、と間延びした声が飛び込んでくる。

 現われたのは二人の男子と一人の女子で、いずれも同学年で別クラスの生徒のようだった。なぜそれがわかったかといえば、そのうちの二人が八丈野には見覚えがあったからだ。

 その女子は、以前にも永井を訪ねてきたことがある。熊倉に追いやられるようにして永井とは会えずじまいだった、セミロングの黒髪を靡かせた人だ。彼女は永井の姿を認めると、にっこりと相好を崩した。


「お、いるじゃん、諒」


 先頭を進んできたのは闊達かったつそうな人で、こちらは八丈野の知らない生徒だ。着崩した制服と茶髪が軽薄な印象を与えるが、笑い顔は無邪気で、根は悪くなさそうだと思わせる。果たして、その印象が正しいのかはわからないけれど。彼は迷いなく永井の元へと向かってくると、彼の肩を軽く小突いてけらけらと笑った。


「おい、そんな嫌そうな顔するなよ。俺とお前の仲だろ?」

「嫌な予感しかしねぇんだから、嫌な顔にもなるわ」


 永井の態度は、熊倉に対するものとも、八丈野に対するものとも違うが、確かな親しさを感じさせた。しかしなんとなく警戒しているように見えるのは、言葉にしたとおり嫌な予感を覚えているからなのだろう。

 彼の口振りからすると、はじめから永井に会うためにここを訪ねたようだ。それは八丈野にとって――永井に失礼な表現だと申し訳なく思うが――晴天の霹靂へきれきだった。彼にだって熊倉以外に友人がいるという事実が、八丈野には衝撃的だ。

 彼はしばらく永井と悪戯っ子同士がふざけあうようにしていたが、ふと視線を別の場所に向けた。こちらに向かってくる別の人影を見つけたのだ。見つけたとはいっても、否が応でも目に入る巨躯だ。


「遠藤じゃん。珍しい」

「あれ、クマ? お前ら同じクラスだったのか」

「まぁな」


 肩を竦めるようにして熊倉が応じた。彼も永井と同じように親愛の表情を浮かべていて、三人が古い付き合いだったのだということがわかる。

 だが、熊倉の真意が別のところにあることを八丈野は察していた。あのとき、まるで冬眠中の熊が牙を剥くようにして追い払った彼女が、ついに永井と対面しているのだ。ちらりと彼女を横目にする熊倉の目には紛れもない敵愾心てきがいしんが瞬いていた。それにしては彼女も永井も平然として、特別なやり取りを交わしてはいないが――と八丈野が不思議がっていると、彼女は面白がるように、男三人の輪にぽんと言葉を投げ入れる。


「ねぇ、まだ本題に入らないの?」

「そうだった、そうだった。まったく、頼むぜ、諒」


 遠藤と呼ばれた彼は、芝居がかった台詞を言ってからまた永井を小突いた。やっぱり悪い人ではなさそうだが、でも時々鬱陶しいな、と八丈野は思った。面倒くさそうな顔をしている永井と熊倉の表情から、たぶんそれが一般的な遠藤への評価なのだろう。しかし仕事はきちんとこなすタイプなのか、遠藤はにやけ面を引き締めた。


「来月、文化祭があるだろ。俺、実行委員長なんだ」

「そういえば、そんなのあったな」


 やる気なさそうに永井が応じるが、実のところ最近の学校中の浮かれた雰囲気は、テストが終わった解放感以上に文化祭への期待感があった。なんにせよ若者は祭りが好きなのだ。

 もっとも、それは活発な生徒に限られることで、八丈野などはそれを聞いてすっかり気落ちした。昨年は本当にひどい目に遭った。普段は腫れ物に触れるように扱われている八丈野だが、とにかく目立つということで、飲食店の呼び込みで一日中校内を駆けずり回る羽目になった。今年のクラスは、なぜだかそういうことに消極的な生徒が集まってしまっているようなので、楽な展開を期待している。

 その文化祭の実行委員は各クラスから二人が選出されているが、それは永井ではないはずだった。怪訝そうにしている永井に、遠藤は続けて言う。


「先輩から聞いたんだけど、毎年のように人手不足で最後にはカツカツのスケジュールになってるらしい。規模を縮小することは考えてないから、今年も同じことになりそうなんだ。だから先に委員とは別枠で、力仕事を手伝ってくれる人を集めてるんだよ」

「へぇ、意外に考えてやってるんだなぁ」

「偉いだろ?」


 前例を踏まえて対策を考え実行に移すという、初見の印象からは意外なほどの殊勝さに、八丈野も口には出さずに感心した。しかし、得意げに胸を張る遠藤の背後で苦笑が漏れる。


「なに自分の手柄みたいに言ってるんだ。それを提案したのはいずみさんだろ」


 そう言ったのは、遠藤らと共にここを訪れた、もう一人の男子だ。永井と熊倉は初対面だったが、彼の名前が芳田よしだということを八丈野は知っていた。

 芳田に種明かしをされて、ばらすなよ、としょげる遠藤を尻目に、泉という名らしい女子が進み出た。そこには以前と同じ人好きのする微笑みがあり、永井を穏やかに見つめている。


「まだ勧誘を始めたばっかりなんだけど、とりあえずは引き受けてくれそうな人から順に声をかけてるの。諒君は、断りそうにないと思ってさ」

「確かに」


 思わず同意の言葉が八丈野の口をついて出た。すると泉がにっこりと笑みを寄こし、八丈野もつい笑い返す。和やかな笑顔の応酬に恨みがましい視線を投げつけながら、永井は観念したように溜息を吐いた。


「やるのか?」


 否定的なニュアンスで聞いたのは、熊倉だった。お人好しの友人を心配しているように思えるが、彼の表情は切実なほどの感情に揺れている。

 永井は、熊倉に向けて苦笑いをした。そして、意外なほど穏やかに、言う。


「俺なら大丈夫だから。ありがとう」


 返答は要領を得ないように思われた。しかし熊倉は、はっと息を呑んで押し黙る。

 永井は、もう誤魔化さなかった。そこには熊倉の真意を汲んで正しく答える、真摯しんしさがあった。

 そのやり取りを不思議そうに見ていた彼らに向き直り、永井は頷く。


「それ、やるよ。香奈かなも実行委員なのか?」


 永井が女子をファーストネームで呼び捨てにするのが珍しくて、八丈野は人知れず驚いていた。だがよくよく考えてみれば、熊倉と知己ということで、泉も永井とは小学校か中学校からの付き合いなのだろうから、それもおかしくはない。


「うん、副委員長。芳田君もね」

「もしよかったらだけど、つぐみちゃんも手伝ってくれないかな。少しなら、お礼もするからさ」


 気安い調子で話す芳田に、永井と熊倉もまた非常に驚いたようで目を丸くした。八丈野に対してそういう風に話す生徒を見たことがなかったのだ。

 芳田は八丈野と同じ中学校出身の、この学校では唯一の生徒だ。そういうわけで、応対する八丈野も多少子供っぽい雰囲気になる。


「大変そうだから、やだ」

「えぇ、もうちょっと悩んでよ」


 芳田の声には、なんとなく甘えるような調子があった。女子と親密になるための態度を心得ているような気安さは八丈野には鼻につき、彼への態度は駄々っ子のように頑ななものになる。幸いにも遠藤が早々にスカウトを受けてくれそうな人が他にいないと判断したらしく、不毛なやり取りはそこで強制的に終えられる。


「じゃあ、諒。事前の準備と、本番もなんか頼むかもしれないけど、よろしく」

「わかったよ。手続きはあるのか?」

「担任に言っておけば、それでいいってさ。芳田、お前もついていって話通しておいてよ」

「しょうがねぇな」


 八丈野との会話を邪魔されてやや不服そうだったが、芳田は不承不承ふしょうぶしょう頷いた。

 永井は芳田について教室を出る前に、ふと八丈野を振り返る。そして、なにか躊躇うように、ぼそりと言った。


「遅くなるみたいだから……」

「うん。先に帰ってるよ」


 歯切れの悪い言葉を引き継ぐように八丈野は言うと、永井はほっとしたように頷く。その様子に驚愕を露わにしたのは、泉と芳田だった。それはほんの一瞬のことで、当人達以外には誰も気づかない。


 永井が去ったあとで、八丈野は鞄を担ぎ上げる。前はそこに怪我の応急処置の道具などを入れていて重くなっていたものだが、未来視は控えると決めてからは持ち歩くのをやめていた。おかげで幾分か身体も軽い。


「悪いな。俺も、手伝えたらいいんだけど」

「馬鹿、お前はいいんだよ。千佳ちかの具合は、どうなんだ?」

「今、すごく調子が良いんだ。この間の精密検査で、なんかわかったらしい」

「マジで? よかったじゃん!」


 残された熊倉と遠藤が満面の笑顔で語り合っている。どうやら遠藤も千佳のことは知っているらしく、彼らの交友がずっと続いていたことを思わせた。

 だが、熊倉の表情に陰りがあるように思えるのは気のせいだろうかと、八丈野は首を傾げる。それは燃え尽きた怒りの残滓のようでもあり、枯れ果てた悲しみの痕跡のようでもあった。どこかで覚えがある表情だと思えば、夏休みの前、彼が泉と対峙したときと同じ類のものだ。そう思って泉の方を見ると、黒目がちな瞳と真っ向から出会った。

 それはおそろしく濃密な視線だった。なにか強い決意を秘めたようなそれは穏やかに見えるけれど、じっと向かっていると、奥底にひどく必死ななにかがあるような気がする。八丈野と目が合ったことに気づくと、泉香奈は微笑んだ。それはまるで、八丈野に深奥まで見透かされることを嫌ったように思えた。



 ◇ ◆ ◇ 



 教務室の一角に、永井と芳田の姿があった。二人と対面しているのは、永井のクラスの担任教師である通称ガマという高齢の女教師だ。

 文化祭実行委員として芳田から説明があり、永井がそれを引き受けるという報告をしている。報告といっても、やろうと思います、と伝えるだけだ。


「構わないけど、クラスの出し物の方も頑張るのよ」

「わかりました」


 やる気のないあのクラスでどれだけの仕事があるかといえば疑問だが、ここでそれを言う必要もないので、永井はただ承諾した。

 そのまますぐに退室しようと思うが、なにやらガマは永井の顔を覗き込んでうんうんと頷いている。


「憑き物が落ちたような顔してるわね」


 笑い皺をぎゅっと寄せて、ガマは言った。永井は、それに驚かない。ガマならば、自分の数分の一しか齢を重ねていない小僧の心の動きなど、一目瞭然だと思っていたからだ。

 人の目は同じものを見ているようで、その実、見えている範囲はまるで違う。どこか特定の場所に鋭かったり、バイアスがかかって見えなかったりする。人と違うものが見えることなんて大したことではないのかとさえ思う。そしておそらく八丈野にそのことを話したら、そんなことも知らなかったのかと、小馬鹿にするように肯定するのだろう。永井は、そんなことを思った。


 教務室を出て、自分の教室に戻る。道すがら芳田と話をして、本格的に仕事を頼むようになるのはもう少し先になるだろうということを聞いた。金勘定などは委員が受け持つということで、やはり主だった仕事の内容は身体を使うことになりそうだ。どちらかというと得意分野であったので、永井は快諾した。

 ここで解散かと思ったそのとき、先を歩いていた芳田が不意に振り返った。その唐突な動きに驚いていると、彼は周囲を見渡して誰も近くにいないことを確認し、身体をぐっとよせてくる。


「お前、つぐみちゃんと付き合ってんの?」


 ほとんど初対面でお前呼ばわりはどうなんだろう、と思いつつ、永井は呆れて目をすがめた。大方、先程の会話で普段一緒に下校していることを察してのことなのだろう、とあたりをつける。


「いや、付き合ってない」

「本当だな?」

「本当だって。悪いけど、そういう話は苦手なんだ」


 距離を詰めてくる芳田を押し退ける永井の顔は赤らんでいる。こういう話が苦手だというのは真実なのだが、それを更に邪推して芳田は尚更不愉快そうな顔をした。


「まぁ、それならいいけど。つぐみちゃんは、その……特別なんだ。中途半端な気持ちで一緒にいても、傷つけるだけだ」


 こいつ、なにを言ってるんだろう、と永井は思ったが、その芝居がかったような台詞にも心当たりがあった。口振りからすると彼は八丈野と古い付き合いで、だとするなら、永井と同じことを知っていてもおかしくはない。


「それは、八丈野が未来を見られるけど信じてもらえないっていうのと関係ある話か?」

「なんだ、知ってるんじゃないか」


 芳田は大きな舌打ちをして憤慨した。相手の知らないことを知っているということで優越感を得たかったのかもしれない。ここまで素直な反応をされると逆に憎めなくなってくるが、それにしても根性が良いとはとてもいえなかった。


「つぐみちゃんは、カサンドラなんだよ」


 どうやって話を切り上げようかと思案していた永井は、聞き慣れない単語に気を引かれる。それが、八丈野を形容するものだったというのも理由の一つだ。


「ゲームか漫画のキャラクターか?」

「神話だよ。ギリシャ神話。そんなことも知らないのか?」

「で、そのカサンドラがなんなんだよ」

「未来を予言する力と、人に信じてもらえない呪いっていうの、カサンドラそのものなんだ。ひょっとしたら、前世がカサンドラとかなのかもしれない。外見もギリシャ人っぽいし」


 その推論は、八丈野本人が聞いたら嫌がるだろうな、と永井は思った。ただ彼女の能力への既視感は、そこからきたものなのだろうと確信する。比較的有名なギリシャ神話は多くの創作物に影響を与えており、その中にカサンドラに関わるものがあったのかもしれない。

 永井はカサンドラにまつわるエピソードを知らないが芳田はなにかを知っているようで、沈痛な顔で続けた。


「ひどい話だろ。つぐみちゃんは善意でやってるのに、周りはそれを馬鹿にするんだ。高校に入る前は、それでも付き合いの長い奴が多かったから、まだよかった。でも今じゃ陰口を叩かれてる」

「まぁ、見た目も目立つしな」

「そうなんだよ」


 永井の相槌は投げやりだったが芳田には関係ないらしく、彼はヒートアップしたように永井の肩を掴んだ。こういうストレートな感情表現をする友人は長らく近くにいなかったので、永井は少し気圧される。


「だから、俺はもう、つぐみちゃんに未来を見てほしくないんだ。傷つくくらいなら、人助けなんかしなくていい。お前もつぐみちゃんと友達なら、そう思うだろ」


 芳田の言い分はまごかたなき正論で、一つの正解ですらあったが、隠しようもないほどにひとがりだった。彼の思いには、八丈野自身がまるで介在していない。

 そもそも芳田に言われるまでもなく、八丈野は自分の未来を見る力と折り合いをつけようと苦心しているところだ。もしかしたらそれは芳田の望むとおりの決着を見るのかもしれないが、それは自分が彼に明かすべきことではないと思っていたので、永井は芳田の腕を軽く振り払い、素っ気なく言い放った。


「思わなくもないけど、それは他人がどうこういうことじゃないだろ」


 そう言って、芳田の傍らをすれ違っていく。いい加減早く帰りたかったというのが本音だ。大股に歩くその後ろで、ぽつりと不満げな呟きが零れる。


「お前、冷たいやつだな」


 別に自分が人情味の溢れる男だとは思っていなかった。それに、芳田とはわかりあえないということを、わかっていた。だから永井はなにも答えなかった。



 ◇ ◆ ◇ 



 その日の夜、永井は学校での出来事を思い出してパソコンに向かっていた。

 検索ワードはカサンドラだ。日本語の表記では長母音が省略されることが多いが、カッサンドラーという方が本来の発音に近いらしい。その途中、ついでにギリシャ人の容姿についても調べてみると、黒や栗色の髪をした人の方が多いらしかった。八丈野の外見とは似ても似つかない。芳田の言うことを真に受けなくてよかったと心底思った。

 細かな境遇は異なっているものの、確かにカッサンドラーが受けた祝福と呪詛の内容は八丈野のそれと酷似している。カッサンドラーがギリシャ神話で大きな役割を果たすのは、トロイア戦争の末期のことだ。肝要の物語はといえば、とても八丈野に教える気にはなれないようなものだ。彼女も生まれる時代を間違えればこんな目に遭ってしまったのだろうかと陰鬱な気分になった。

 カッサンドラーの物語は文学や芸術の題材となることが多いようだった。オペラから現代文学まで、その分野は多岐にわたる。

 人々の耳目を集める典型的な悲劇。永井は自分でも不思議なほど、その物語には惹かれなかった。それよりも心を捉えて離さない大きな関心事がある。


 その目は全てを見通し、その声は誰にも届かない。終焉の到来を知りながら、ただ一人の信頼すらも得られない。誰一人救えず、何一つ変えられず、残酷な未来を迎えてしまった預言者。彼女の生涯は万人が悲劇だと感じる凄惨なものであった。

 しかし、彼女の心はどうであっただろう。


 神を拒んだことを後悔したか。

 ――――気紛れな愛などいらぬと、その潔さを誇ったか。

 迫りくる破滅を諦観のままに受け入れたか。

 ――――最期まで足を引きずり、声を張り上げ抗ったか。


 今際のとき、なにを思っていたのだろう。


 数奇な人生を歩んだ彼女を想像し、涙することはできても、その境遇を経験して理解できた者は、誰もいないはずだった。


 彼女と同じ宿命を持って生きる少女が現れるまでは。


 現代に蘇った、カッサンドラーは語らない。どうせ信頼を得られぬのならばと、その口は噤んだまま、細い両の手を小さな悲劇に差し伸べるだけ。

 その物語は悲劇となるのだろうか。彼女と同じ舞台に立ってしまっている自分は、一体どうするべきなのか。

 永井は、既に答えを持っていた。

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