2-7 預言者の心は

 八丈野やえの家は住宅地の少し奥まった場所にある。土地勘のない人がよく迷い込んでくるのだと話すと、むっつりと押し黙りながらも永井は頷いた。気に食わないのなら無視すればいいのに、それでも相槌は打つあたり律儀な性格であることがうかがえる。

 永井の怒りは、結局のところ行き場を失った自責の念なのだと八丈野は察していた。千佳ちかの未来を見るとき確かに辛苦を感じたが、それを言わなかったのは他ならない自分なのだから、八丈野には永井を責める気はない。彼がこれほど苦悩するのならば事前に話しておけばよかったと申し訳なくすら思っている。だから八丈野は永井の理不尽な態度には、それほど思うところはなかった。そう言うと、また怒られそうなので、黙ったままでいる。

 やがて、ごく普通の中流家庭という感じの一軒家が見えてくる。弟の生まれる頃に両親が無理をして買ったという家は、もう随分と貫禄が出てきた。小さいが趣味の良い――と八丈野家の住人は信じている――庭にはトンボが飛び、秋の訪れが近いことを思わせる。

 その庭に以前永井を連れてきたときとは違って母の姿があった。土いじりの小休止を取っているらしく、幸いにも見苦しい格好ではない。


「ただいま」


 その声に母親はこちらを振り向き、おかえり、と言いかけて、信じがたいものを見たように目を見開いた。この場合、その信じがたいものとは永井と、彼を連れて帰ってきた娘のことだ。友人を連れてくることなど滅多にないにしろ、はなはだ失礼な反応だった。


「ほら、前に、熱中症になって家まで送ってもらったって話したでしょ。そのときの……」

「永井です。こんにちは」


 たどたどしい説明を引き継いで永井が挨拶をした。同級生の親を相手にした慇懃いんぎんな態度は、八丈野をひどく驚かせる。真面目で不器用な印象の永井が、そつのない対応を取ったのが意外だったのだ。

 八丈野の母親は永井の声で我に返ると、驚愕の表情を一転、にこにこと頬を綻ばせる。


「そうなの。あのときは、ありがとうね」

「あの卵、持っていってもらったら。お礼したいって言ってたし、ちょうどいいんじゃない」


 そう伝えると母は、その手があったか、という風に手を打った。

 慌しく去ろうとする母親――その姿に別の光景が重なって見えて、八丈野は慌てて彼女を呼び止めた。


「台所の上の棚、先に整理しておいて」


 いつもの癖でぞんざいに指図すると、母親は困り顔で嫌そうにしている。


「それ、さっきやったんだけど……」

「やり直して」


 永井がそこにいることをつい忘れ、有無をも言わせない語気で言う。わかった、わかった、と手をひらひら振りながら改めて玄関に向かう母親だが、あれはたぶんだめだろうなと、未来視とは違う、経験からくる予測を立てた。

 そそっかしい母を変に思っていないかと永井を見てみると、なぜか永井は母親の後姿ではなく、八丈野の方を見て目を丸くしている。

 永井は、八丈野の態度がどこか素っ気ないのは、他人に見られていることを意識して、親に普段の接し方をしづらいためだと察していた。どこか神秘的、悪く言えば得体の知れない八丈野も普通の女子である、という当たり前の事実が永井には衝撃的だったのだ。当の八丈野本人は永井の考えなど知る由もない。


「どうかした?」

「いや……卵って、なんの話だろうと思って」

「親戚のおじさんが時々くれるの。美味しいんだけど、うちの一家、少食だから食べ切れなくて。永井君はたくさん食べそうだし、持ってってくれるよね」


 本当に、心底困っていたので、つい強い口調で確認を取る。たぶん永井は、そのためにここまで連れてこられたのかと釈然としない心地でいるだろうが、とりあえず玄関に入るよう促す。中で待つかと聞けば頑なに固辞されたので、大して広くもない玄関に二人で突っ立って母を待つ。

 しばらくすると、金物が大量に落下する騒々しい音と、ひゃあ、と素っ頓狂な悲鳴が遠くに響いた。予想通りのことに呆れていると、とんとんと軽快な足音。弟が階上から現れ、永井に軽く頭を下げたあと、母親を手伝いに台所へ消えていった。


「八丈野は手伝いに行かなくていいのか」

「いいよ、別に」


 せっかく忠告してやったのに、と八丈野は少し不機嫌だった。永井は学校では見られない八丈野の様子に驚いたのか、曖昧な相槌で言葉を濁す。目のやり場に困った様子で所在無げに辺りを見回し、やがて靴箱の上に飾ってあるいくつかの写真に目を留めた。

 そのうちのほとんどは最近から数年前くらいまでに撮られたもので、八丈野家の人が仲睦まじく写っている。つい先程顔を合わせた母親に、弟、細身の男性は父親だ。家族写真をクラスメイトに見られるのは恥ずかしいが、話を切り出しやすくなってちょうどいいと八丈野は思う。


「家族とは仲が悪いと思ってた?」


 永井は心のうちを見透かされ、びくりと身体を震わせた。申し訳なさそうな顔を隠せていない様子が妙におかしくて、八丈野は苦笑いをしてしまう。

 事実、永井はお節介な危惧を抱いていた。八丈野の未来予知が生まれつきのものであったとするならば、それを彼女の家族が知らないはずがない。そして永井が小説や漫画で見てきた、日常の中に非日常が混在する物語では、そういう境遇の人物は家庭環境に問題を抱えていることが多い。偏見に過ぎないとはわかっていても、もしかしたら八丈野は親や兄弟と不仲であるかもしれないと思っていたのだ。


「親も弟も、私が未来を見られることと、予言を信じられないことは知ってる。昔からね」

「だから、指示だけ出してるのか」

「しょっちゅう面倒くさがって、あぁなってるんだけど」


 やかんか鍋が転がる騒々しい音が聞こえてくる。弟の悪態をつく声が聞こえてきて、なにやってるんだろう、と笑った。


「未来が見えるとか人に信じてもらえないとか、うちの家族はそれほど気にしてない。小中学生の頃なんて、同級生もそうだったよ。まだ考え方が柔軟だから、私の未来視に気づいたりする子もいたんだけど、別にそれがいじめや嫌がらせに繋がることもなかった。見た目も、こんなに目立つのに」


 永井は真偽を見抜こうというように探る目を向けてくる。だが、八丈野が語っているのは本当にただの事実に過ぎなかった。あのときよりも大人になった今ならば、それがどれほど奇跡的なことかがわかる。だから八丈野は自分自身を素直に誇ることができた。それは自分を育んできた環境への感謝と賞賛でもあるからだ。


「永井君は、もしかしたら未来が見えることで私が普通の人間じゃないように思えるかもしれない。でも私の周りには、未来が見えることで変な言動を取ったりしても、それを特別なことだと思う人がいなかった。だから私は、普通の人として育った、普通の人なんだと思う」

「普通の人は、泣き喚くような目に遭うのがわかってて人助けしたりしない」


 ねた調子の永井の言葉で、その場面を見られたことを思い出し、かっ、と顔に血が昇った。さすがに腹立たしく、永井の肩を軽くはたく。

 未来視の力はコントロールが利くけれど、感情が昂ぶるとすぐに暴走してしまう。あのときは完全に八丈野の制御を離れていて、永井が近くにくるかもしれないという未来を察知することができなかった。それがわかっていたら、もっと遠くに逃げていたに違いなかった。


「泣いてたのは、しょうがないでしょ。涙もろいのは生まれつきなんだから」

「涙もろいって、そういうときに使う言葉じゃないだろ……」

「大体、もし永井君も私と同じものが見えていたら、私よりもっと無謀なお人好しになってたと思うよ。私より身体が大きくて動ける分、余計にね」


 永井は反射的に否定の言葉を発しようと口を開いて、それから反論するのも馬鹿らしいと黙り込んだ。永井の自己分析と、八丈野の抱いた永井への印象の、どうしようもない水掛け論になるのは目に見えていた。だから八丈野はそれ以上追究したりはしない。

 そう、それに、八丈野が本当に話したかったことは、こんなことではなかったのだ。青い目を閉じて、言葉を練り上げる。そしてたどたどしくも、伝われと願いながら、八丈野は言葉を紡いだ。


「私は、私のやってることが、客観的に見たとき自己犠牲に映ることは知ってる。それくらいの自覚はある。でも私は、私の好きなことを、私の好きなようにしかやらない。私は、私のやってることに、外から勝手に意味づけられたくない」


 それはどこまでも突き抜けるように鋭い意思だった。異能力や呪詛とは無関係のところにある根源の、八丈野自身を形作るアイデンティティの片鱗だった。

 八丈野は、未来を見ること自体が時々つらい、ということだけは、実は今まで明かしたことはなかった。気づかれたこともなく、それを知っているのは地球上で自分自身と永井だけだ。未来視、そして人に信じてもらえない呪いというセンセーショナルな要素は、いつも八丈野の気持ちを周囲から隠してくれた。それは八丈野にとって都合のいいことだったのだ。

 同情されたくない。同調してほしくもない。目の前にあるものを感じて、思ったとおりに動いているだけ。見えているものが違うだけで、なにも変わったことなどしていない。それが嘘偽りのない八丈野自身の気持ちだった。

 それから、言うかどうか迷ったあと、八丈野は小さく付け足す。


「……特に、永井君には」

「俺には? なんで」


 衝撃を受けていた様子の永井は、今度は純粋な疑問に首を捻った。その理由に見当がつかなかったからだ。それもそのはずで、八丈野自身も上手く言語化できずにいた。

 わかっているのは、八丈野の未来視を知ったあとの永井の行動は、今まで関わってきた誰とも違うものだったということだ。八丈野の秘密を知った人々は例外なく、その自覚もないままに自分の価値観を強要してきた。危ないからやめろと言って実力行使してきた人もいたし、手伝ってやると言って八丈野の奇行に介入してきた人もいた。お節介で、余計なお世話だった。

 なにより彼らは長続きしなかった。八丈野と一緒にいることで同類に見られることを嫌がり、八丈野共々仲間外れにされてしまうことをおそれて、優しい人ほど早く八丈野の元を離れていった。八丈野は、だからと言って彼らを責める気はない。決して彼らは態度を豹変させて八丈野を攻撃したりはせず、単に距離を置いただけで済ませてくれたからだ。

 永井は、そんな彼らとはまるで違った。邪魔することもなく、手伝うこともなく、ただ後ろから見ていて、時々声をかけてくれた。

 それは八丈野が最も楽な距離感で、それが――そう、好ましかったのだ。

 ただ、それを口にするには八丈野に語彙と気持ちの整理が足りていなかった。だから八丈野は、少し迷ったあとで、ぽつりと呟いた。


「なんとなく、かな……」


 そういえば、こんなやり取りを前にしたことがある、と八丈野は思い出した。あのときは、そう言ったのは永井だったけれど。

 ひょっとしたら、あのときの永井も、こんな気持ちを味わっていたのだろうか。恥ずかしく、もどかしい、伝えたいけれど伝える術がわからない、そんな感覚を。


 不意に訪れた沈黙を割り開くように、ちょうど八丈野の母親が紙袋を手に持ってきた。受け取った永井はその中を見て、こんなにいいんですか、と遠慮したが、まだまだあるからいいの、と母が押しつけた。その目は必死だった。卵料理のレパートリーが尽きて困っていたのだ。

 永井を見送りに玄関から出る。彼は庭先で八丈野を振り返ると、少し躊躇いながら、しかしはっきりと言う。


「色々話は聞いたけど、熊倉のために八丈野がやったことは、どう考えても普通じゃない。あのあとで、自分は普通なんだって主張されても、正直、説得力がない」

「えぇ……?」


 徒労だったのかと八丈野は脱力するが、でも、と永井は言葉を続けた。


「八丈野の言いたいことは、わかった。だから、もう気にするのはやめる。……今日は態度が悪くて、ごめん」


 心から嫌そうに歪んでいた八丈野の表情は、一転して柔らかなものになる。

 永井は人間関係を憎んでいたように思えるけれど、元来懐の深い人間なのだろうと八丈野は思った。もっとも、そうでなければ齢十七にもなって未来視などというものを信じられるはずがない。


「それと、熊倉のこと、本当にありがとう。あんなことはあったけど、逆に吹っ切れて元気が出たみたいだ。熊倉の両親も安心してた」

「そう、よかった。わからないものとは、わからないなりの付き合い方があるから」


 それは大した考えもなく口をついて出た言葉だったが、永井は神妙に頷く。

 わからないものはおそろしい――そう思って永井が逃げ続けてきたことを、八丈野は知らない。知らないからこそ生まれる、自分の価値観の欠片をぶっきらぼうに投げて渡すような言葉は、永井の心の深奥に届いていた。


「永井君も、千佳ちゃんと会うときはもっと元気出した方がいいよ。皆が元気だと千佳ちゃんも嬉しいだろうし、病気も治るよ。病は気から、って言うし」

「……俺は聞き流すけど、そういう適当な慰めは、嫌がる人は本当に嫌がるから、程々にしろよ」


 永井は真面目くさった顔で釘を刺し、それじゃあ、と相変わらず挨拶らしい挨拶もなく立ち去っていった。


 彼の背を見送り、八丈野は鼻腔をつんとつく感触に目を潤ませる。

 実のところ、八丈野は自分の未来視について懐疑的になることが度々ある。それは超能力などという非日常的なものは現実にはないのだという常識の中で生きているためであり、齢を重ねるたびに頻度は高くなってきている。だから、人の反応を通して確かめることがあった。趣味が悪いということは、わかっている。

 今、

 それに対する永井の反応を八丈野は何度も思い返し、目頭を熱が伝うほどの幸福感に包まれる。


 八丈野は玄関に戻って靴を脱ぐ途中、ふと永井が見ていた家族写真を横目にする。

 おそらく永井も気づいていただろうが、その中に一枚だけ年代の違うものが混じっていた。カラー写真が世に現れたばかりという頃の写真だ。そこには、親戚一同が集まったような風情で大勢の人が写っている。随分と色褪せてしまっているが、それでもその老齢の男性は文字通り異彩を放っていた。

 驚くほど白い肌に、加齢によるものの不揃いさと無縁の鮮やかな白髪、人とは違うなにかを見通してきたかのように超俗的な佇まい。古い写真では判別できないが、彼と直接相対することができたなら、その瞳が老練した青灰色であることがわかっただろう。

 八丈野つぐみと同じ色彩を持つ彼は、母方の曽祖父だ。彼は二十年ほど前に亡くなっているため、直接会ったことはない。

 年嵩としかさの親戚などから聞くところによると、彼は八丈野のように不思議な言動を取ることがあったという。おそらく彼も未来を見られたのだろう、というのが八丈野家の見解だ。もしかしたら自分のルーツだったかもしれない人の面影を見つめ、八丈野は少し感傷的になる。

 両親や親戚は、いつも楽しそうに、あるいは嬉しそうに彼をしのんでいる。それだけで彼の人柄がよくわかった。自分も彼のように立派に生きていけるだろうか。自分に誇れる人生を送り続けていけるだろうか。若者特有の見通せない未来への不安は、いつでもそこにあった。

 ただ今のところ、この力を言い訳にしたくなる惨めな人生は送っていない。そして家族にすら話したことのない思いを吐露して、なお受け入れてくれる人がいる。そんな僥倖ぎょうこうに巡り合えた。

 そのとき八丈野ははじめて、その繋がりが損なわれずに済んだことに対して、ひどく安堵しているのだと知った。

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