2-6 少年の決心

 久方ぶりに手を通す制服は随分と窮屈に感じられた。もう身体が急成長する年頃ではないはずなので、それは気のせいか、二学期が始まるという憂鬱からくる不快感に違いなかった。

 一つ一つ確かめるようにして支度を済ませ、家を出る。今年は残暑がしつこく、夏の残滓が粘つくように街を漂っていた。見上げれば遠くまで鱗雲が続いている。かすかな秋の気配が、開けた襟元をすり抜けていく。

 駅へ着くと、既に熊倉がホームで待っていた。田舎の小さな駅で彼の巨体はひどく目立ち、遠くからでも一目でわかるほどだ。そちらの方へ向かうと、熊倉は餌を嗅ぎつけた熊のようにのっそりと永井を視界に収め、寝惚けた面を苦笑いに歪めた。


「ひどい顔してるな」

「知ってるよ」


 答える声は永井が自分で思っていたよりも暗く疲れた響きとなった。尋常でない様子に熊倉は眉をひそめるが、夜更かしをして残っていた宿題を終わらせたのだと言えば、とりあえずは納得したようだった。

 電車に乗り込み、吊革に掴まる。ぼんやりとしていたスーツの人が、ぞろぞろと乗り込んでくる学生服の集団をちらりと見て、あぁ、夏休みが終わったんだな、と感慨深そうに目を細めていた。十分ほど揺られて、駅に降りる。話し声と足音に包まれながら構内を進み、昨年ようやく設置された自動改札を抜ける。駅を外に出れば、電車通学と徒歩通学の生徒が合流する道路が見えた。その流れに加わろうと進んでいく途中、異質な色彩が曲がり角から現れ、永井らとばったり出くわす。


「おはよう」


 突然の邂逅に驚く二人と対照的に、どこまでも落ち着き払って八丈野やえのは言った。まるでそこに永井と熊倉がいることをあらかじめ知っているかのようだった。本当にあらかじめ知っていたのだろう。そのことを思うと、永井の胸は軋んだ。

 永井が八丈野と顔を合わせるのは、あの日以来だった。連絡先は交換していたが、用事もないのにコンタクトを取る間柄ではないし、互いにそういう性格でもない。

 千佳の見舞いのために何度か訪れた病院でも鉢合わせることはなかった。意図的に避けていたのだから、当然だ。部外者が一人で見舞いに行くわけにはいかないので、熊倉に伴われる形にしていたが、同じ日に八丈野も見舞いに行く予定だということがあった。急用ができたと嘘をついて、その日はやめた。八丈野と顔を合わせて冷静でいられる自信がなかったのだ。それは、今日に至るまで変わってはいない。その覚悟ができないまま、成り行きで永井は八丈野と並んで登校する羽目になっている。


「そういえば、今月は体育祭があるけど」


 口数の少ない三人はしばらく無言だったが、ふと思い出したように熊倉が口火を切った。

 そこには緊張した風な響きはあれど、後悔や罪の意識は存在しない。あの日、恥も外聞もなく泣き喚いていた八丈野のことを、熊倉は知らないのだ。まったく理不尽なことだと自覚はしつつも、その暢気な熊倉に永井は苛立っていた。


「八丈野さんは、大丈夫なのか? あぁいう行事だと……未来を変えなきゃいけないことが多そうだけど」


 熊倉のぎこちない態度は彼女の予言への畏怖いふの表れだった。以前は半信半疑だったが今は確かに信じており、だからこそ彼女のことを案じている。そして八丈野は熊倉の危惧きぐを正しく理解しているようで、神妙な表情をしていた。


「体育祭中は見るのをやめる。去年もそうしてたよ。身が持たないのは、わかりきってるから」

「まったく見ないようにすることも、できるのか?」


 八丈野は当然のことを答えるように頷いた。その答えは熊倉を更に驚かせ、そして永井に苛立ちと葛藤を与える。


「できるよ」

「意外に自由自在なんだなぁ……」

「なら、ずっと見ないようにしていればいいんじゃないのか」


 永井の口から声が零れ出る。ひどく平坦で無機質な響きになってしまったのは、棘が出ないように感情を殺した結果だ。それはむしろ、かすかな不穏さを漂わせる原因となった。熊倉は先程から様子のおかしい永井に怪訝そうな表情をしているが、八丈野はそれを歯牙にもかけていないのか、鼻をつまむようなポーズを取ってしかめ面をする。


「肥料を撒いた田んぼの近くを通るとき、鼻をつまんで我慢することはできても、ずっとそうしてるわけにはいかないでしょ?」

「俺には未来は見えないから、そんなことわからない」


 今度は少しの感情が混ざった。欠片ほどの皮肉と、怒気だ。

 そう、怒りだ。永井はそこで改めて、自分の中で渦を巻いている感情の正体を自覚した。

 痛みをひた隠して平然としている八丈野に――彼女の悲痛な姿を目の当たりにするまで気がつくことのできなかった自分に、怒っていたのだ。

 しかし、だからといって、どうすればいいというのか。散々その予言を面白がっていたくせに、どの面を下げて彼女を哀れめばいいというのだろう。どこまでも自分の意思で動いている彼女に、なにを働きかけられることがあるだろう。

 あれから幾度となく生まれた自問に、ついぞ答えられたことはなかった。その無力感は行き場のないもどかしさとなり、八つ当たりじみた苛立ちへと変わっていく。身勝手だとわかっていた。それでも、止められるものではなかった。

 いっそ、責めてくれればよかったのだ。そうすれば、謝ることができた。あんな重い役割を負わせるなと怒ってくれれば、その拳を何度でも受け止められた。どうして、この浅慮せんりょ糾弾きゅうだんしてくれないのか。悔悟かいごする機会を、なぜ与えてくれないのか。

 そう考えて、永井は愕然とした。

 こういうことだったのだ。

 あがなうことすら許されない罪というのは、これほどまでに残酷なものだったのだ。

 、永井は戦慄した。


「永井君」


 思考に没入していた永井は近づいてくる八丈野の気配に気づかない。彼女がそっと肩に触れた瞬間、永井の全身を電流のような衝撃が突き抜けた。


「見るな!」


 反射的に叫び、八丈野の手を振り払う。強い語気に、何事かと通学中の周囲の生徒が視線を向けてきた。しかし今の永井には、それを恥ずかしく思うほどの余裕はない。

 理不尽な仕打ちを受けてなお、八丈野は唖然としているだけだった。ただただ不思議そうに、様子のおかしい永井を案じてさえいる。灰色に透き通った視線で、永井を捉えている。


「ごめん」


 なんだかよくわからないけど、と思っていそうな彼女の手には、永井の肩からつまみあげた赤い糸くずが挟まれていた。ぞんざいに、ぽい、とそれを放り投げる。微風にさらわれて、塵のような赤色の欠片はどこかへと流されていった。まるでどこかの誰かのような頼りなさだと、永井は思った。


「悪い、俺、先に行く」


 辛うじてそれだけ言い残し、永井は独りで歩調を速めた。他の学生が慌てて道を空ける姿さえ、永井の中で燃え盛る炎に風を送り込んだ。

 行き場もない熱は、いつまでも永井を苛み続ける。それが時間の経過と共に収まることを願っていた。炎は燃えるものがなくなるまで燃え続けるのだと、本当は知っていた。



 ◇ ◆ ◇ 



 二学期の始業式のあと、すぐに普段通りの授業が始まる。

 永井の学習は今までにないほど捗った。考えたくないことがあるときほど、そういった作業は結果を出すものだ。なんなら永遠にこの瞬間を繰り返してしまえばいいとさえ思うが、無情にも時は過ぎ、熊倉と八丈野との間に緊迫した雰囲気を残したまま、最後のチャイムが鳴り響いていた。

 永井は以前と同じで早々に帰り支度を済ます。少し逡巡するのは、先に帰ると八丈野に声をかけていくかどうかを迷ったからだ。だが示し合わせて下校を共にしていたわけでもないと思い直し、すぐに教室を立ち去った。振り返る気にはならなかった。そこになにが見えたとしても、この気持ちが軽くなるわけがないとわかっていた。

 もはや彼女と並んで歩くことはできなかった。苦痛を伴って未来を見る彼女のことを、とがめないわけにはいかない。だが彼女を阻む権利が自分にないことも理解している。

 だから永井は逃げ出した。それがどれほど卑怯で情けないことだったとしても、それ以外にどうすればいいのかがわからなかった。


 独りで帰路につく。電車が来るまでの時間をどう潰すか考えながら、鞄の中からイヤホンを取り出した。去年までは登下校に音楽を聞いていたものだが、熊倉や八丈野と一緒に歩くようになってからすっかりご無沙汰だった。埃のついたオーディオプレーヤーのボタンを押し込むと、少し待ってから、寝惚け眼を擦るように液晶の画面が点灯する。幸いにしてバッテリーには余裕がある。適当な曲を選んで、再生ボタンを押す。やけくそ気味に音量を上げていく。鋭いドラムの音が鼓膜に突き刺さって痛いくらいだ。それがどこか心地良い。それがなければ後悔の重さに潰れてしまいそうだった。

 爆音に霞む思考の内容は、これからどうなってしまうのだろうということと、どうにでもなってしまえ、ということだった。

 人間関係とは、築くのは難しいくせに壊れるときは一瞬で、そして二度と元には戻らない。

 八丈野は今日のようなことではまるで動じないかもしれないけれど、永井は八丈野を知ってしまった。知った以上、今までと同じではいられない。同じでいる振りはできても、同じではいられない。

 それが、永井にはおそろしかった。

 そう、八丈野のことが気になっていたのだ。

 高校生の少年に相応の青い色は、薄かったかもしれないけれど。

 いつかと同じ切なさが胸に込み上げた。それは震える吐息となって足元に漂って落ちる。情けなさと苦しさが気を急かせ、ろくに前も見ていないのに歩調を速くさせた。


「永井君!」


 聞いたことのない声が響いてきた気がするが、痺れたように鈍った脳は咄嗟に肉体を反応させることができない。その代わりとでもいうように、首元を起点とした急制動が永井を襲った。身体が大きく仰け反り、危うく引っくり返るというところでなんとか持ち直す。耳からすっぽ抜けたイヤホンが小さな音を立ててアスファルトに落下した。

 背後から襟首を掴んで力いっぱい引き下げるという暴挙に永井は、しかし憤ることもできず驚愕に声を失っていた。慌てて振り返ったところに見えた光景が、理不尽な仕打ちに対する怒りを静めてしまったのだ。

 白昼夢のように儚げな女子が、そこにいる。

 透明感――というより、希薄さを思わせる。瞬きをすれば、次の瞬間には消えてしまいそうだった。しかし、怒りに紅潮した顔と、少し潤んだ灰色の強い瞳が、自分は確かに存在するのだと力強く主張していた。

 なにをするんだ、と言いかけて、どこかから振動を伴う重い音が轟いていることに気づく。慌ててそちらの方を見れば、今まさに通ろうとしていた十字路を、巨大なトラックが猛然と駆け抜けていくところだった。見通しが悪く危険だと再三教師から注意を受けている道に差しかかっていたのだ。足元には一時停止の白線、こんなものさえ目に入らない状態だったのかと、永井は慄然りつぜんとした。


「今のは、未来なんか見なくてもわかったからね」


 八丈野は噛んで含めるように言うと、騒がしい音を垂れ流しているイヤホンを拾い上げ、永井に差し出した。


「音量、大きすぎない? 危ないし、耳が悪くなるよ」

「……ごめん」


 悄然とした様子の永井に八丈野は、わかればよろしい、とでも言うように頷いた。

 今度はきちんと一時停止をして、左右を確認して注意深く道を渡る。先程の反動のように永井の足取りは重かった。その隣をのんびりと八丈野が歩く。ペースを合わせてくれているのだと、聞くまでもなくわかった。気を遣われているのが肌で感じられて、永井は途方もなく惨めな気分になる。八丈野より先に教室を出て、かなり早足でここまできたのに、なぜ追いつかれてしまっているのか、そのことにさえ考えが至らずにいる。

 八丈野は、永井になにも聞かなかった。彼がひどく理不尽な態度を取っていることに気づいていながら問いかけることもなく、穏やかな表情でただまっすぐ前を向いている。

 すべてに無関心なのだろうという悪意を持った解釈はできなかった。彼女が今どういう気持ちでいるのか、それは永井にもわかっている。人に受け入れられることを諦めた、どこまでも受身な人間関係へのスタンスは、人の話を聞き出すという方向へ中々動き出せないのだ。

 だから永井は、決心する。

 彼女の背負っている宿命を知ってしまった、あの日。また人と深く関わり合うことが怖くてつぐみ続けてきた口を開く。そうしなければならないと、強く感じていた。


「千佳の見舞いに行った日の帰りに、八丈野を見かけた」


 独白のような小さい声。八丈野は、そうなんだ、と頷いて、記憶を辿って空を仰いだ。

 そして、すぐに大きく目を見開く。白い肌に血の色が差し、その吐息は悪い予感に震えた。


「どこで?」

「川原で」


 永井が答えると、今度は明確なリアクションが返ってきた。八丈野は、信じられない、というように手で顔を覆い、痛恨の呻き声を上げる。さらさらと流れる透明な髪の中に、鮮やかな赤色に染まった形の良い耳が垣間見える。八丈野は意外に感情表現が豊かだとは思っていたが、それにしても大仰な反応だった。


「なんであんなところにいたの……」

「バスに乗り損ねたんだ」

「次のバスが来るまで待っていればよかったのに」

「じっとしていられなかったんだ。八丈野も、そうだったんだろ」


 永井の声は、徐々に激情を帯びた。その強い響きに、八丈野は顔を隠していた手を躊躇いがちに下ろす。そこにあったのはやはり赤い顔と、その中心で輝き、永井の感情を受け止めようとする真剣な瞳だった。


「千佳の亡くなるところを、見たんだろ。そういう、人が悲しんだり痛がったりする未来を見るのがつらいくせに、でもそれを現実にしたくなくて、見るのを止められないんだろ。なにが、落し物を拾うようなものだ。全然違うじゃないか。なんで嘘をついたんだ」


 せきを切ったように溢れ出す言葉に、やはり八丈野は目を逸らさなかった。今まで直視してきたものの過酷さに比べれば、この程度は痛くも痒くもないのだろうと思うと、尚更永井の感情はエスカレートする。

 まくし立てようとする永井の気勢を殺ぐように、だって、と八丈野は言葉を差し挟んだ。そして、なぜか少し照れたように、恥ずかしそうに呟く。


「本当のことを言ったら、私のこと、自己犠牲精神に溢れた、優しくて健気な良い子だって思うでしょ?」

「……まぁ、うん。そう……かな」


 永井は躊躇に躊躇を重ねて、辛うじて肯定を返した。八丈野の言っていることは間違っていないのだが、それを素直に認めるのは正直、しゃくだった。その煮え切らない反応にぎろりと一瞥をくれたあと、八丈野は一言一言、砂粒の中から拾い上げるようにして言葉を選ぶ。


「確かに、落し物を拾うよりは、もっと面倒なことをしてるかもしれない。人が嫌な目にあったりする未来を見るのは時々つらいし、それが現実になるのも同じくらいつらい。だから私は、人に変な目で見られるのもわかってて、そういうことをしてる。だけど、それが特別なことだとは、私は思ってない。私は私なんかより、たとえば世界の裏側にいる貧しい人のために寄付したりボランティアしたりする人の方が、奇特で立派な人だと思う」


 ぽつり、ぽつりと思いが零れ落ちるような語りだった。時間がかかることはあっても、いつも最後には簡潔明瞭な答えを出す八丈野にしては珍しい語調だ。永井の感情もゆっくりとした声に流されて沈静化しつつあるが、それでも生え出た棘は引っ込んではくれない。


「どっちにしても、自己満足だ。そのために自分から傷つきにいくなんて、馬鹿げてる」

「自己満足もできないなんて、そっちの方がつらいよ」


 やはり苛立った様子もない八丈野はからかう調子で応じたあとで、なにかを思い出したように空を仰いだ。訝しげに視線を送ってくる永井を見つめ返すと、八丈野は晴れ晴れとした様子で言う。


「ちょっと私の家に寄ってくれないかな。時間は取らせないから」


 妙案が閃いたと瞳を輝かせる八丈野に、永井は多少の嫌な予感を覚えながら、頷いた。

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