2-5 悲嘆

 時が巡ることを止めてしまったようだった。動いているのは自分の思考だけで、既に身体は石と化していて二度と動けないのではないかと思った。

 三ヶ月――。

 熊倉千佳ちかの余命を告げられて、永井は心臓の辺りから広がる寒気に凍えた。

 しん、とした空間に、気づけば音が生まれている。それは、嗚咽だ。熊倉は大きな身体を抱えて座り込み、声を押し殺して泣いていた。俯いた面を厚い掌で覆い、溢れる熱を零すまいとしている。胸を締めつけるように苦しげな声が無機質な床に吸い込まれていった。

 彼は歳の離れた妹を可愛がっていた。両親も彼女を溺愛し、しかし千佳は注ぎ込まれる愛情におごることなく、驚くほど素直で心根の優しい子に育った。誰からも好かれる子にならなくていい、ただ幸せでいてくれれば――いつの頃だったか、熊倉の両親の零した願いが、永井の中のどこかで反響した。

 しかし、そのとき、天啓を受けたように永井は疑問を抱く。

 弾かれたように面を上げると、そこには微動だにせず凛と立つ八丈野の姿があった。彼女は千佳の悲劇的な運命を予言したときのまま無表情を貫いているが、その視線だけが永井に向いている。まるで、なにかを待っているかのように。

 永井は信じがたい心地で、呆然と呟いた。


「その予言は……本当なのか?」


 八丈野は、その問いを聞いて表情を和らげる。まさしく、それが永井に期待していたものだったからだ。


「ううん、嘘」


 そして、あっけらかんと言い放った。友達同士で冗談を言い合うときのような軽々しさだった。

 永井は、やはり、と思っていた。彼女の予言にショックを受けていたこと自体が妙だったのだ。彼女の呪いが真実だとするならば、そんなものは嘘だと反発する感情が生まれなければいけなかった。

 音を立てそうな唐突さで熊倉が立ち上がる。激しい呼吸に肩が上下し、涙に濡れた目は赫怒かくどに赤く染まっている。地獄の番人かと見紛うほどの鬼面だった。


「お前、言って良い嘘と、悪い嘘が……!」

「楽になった?」


 肌に響いてくるような怒気をものともせず、八丈野は熊倉の咆哮を遮る。それほど大きな声でもなく、込められた感情も薄いというのに、熊倉はなぜか虚をつかれたように言葉を失った。


「千佳ちゃんの余命を聞いて、楽になった?」


 荒れ狂う怒りが凪いだその一瞬に、八丈野は更に言葉を投げかけた。熊倉は言葉を失い、血の昇っていた顔を急激に青くする。彼女に妹の未来を見てほしいと頼んだとき、自分が口走ったことを思い出したのだ。

 八丈野は冷静になった熊倉を説き伏せるように言葉を続けた。


「本心から楽になりたいと考えてるなら、私が見た未来のことを話そうと思ってた。でもその調子だと、千佳ちゃんとご両親を不安にさせるだけだから、教えない」


 詰責きっせきでもなければ諫言でもなく、慰めですらない。一切の感情を排除した響きは八丈野なりの配慮なのかもしれなかったが、それは十分すぎるほど激しく熊倉を打ちのめした。ちょっとやそっとではびくともしない巨躯が頼りなくふらつき、またどっかりと座り込む。そしてそれきり、静かになる。そのまま石像にでも変わってしまうのではないかというほど、静かに。

 八丈野は細めた目で熊倉を眺めていたかと思うと、おもむろに踵を返した。反射的に追いかけようとした永井を振り返り、掌を見せて制止する。声を出さずに唇の動きで、八丈野は言った。


「ついていてあげて」


 永井は足を杭で縫いつけられてしまったように、その場から動けなかった。いつもの緩やかな足取りで、つんと顎を上げて毅然と立ち去る彼女の姿を、ただ見送ることしかできなかった。


 しばらくして、そこを通りがかった看護師に何事かと尋ねられる。どう言い訳したものかと考えたが、どうやら彼も熊倉と千佳の事情を知っていたらしく、せめて椅子のあるところで休めと促され、二人はロビーに向かった。椅子に座り込んで数分も経つと、熊倉も少し落ち着いた。ただ目は赤く腫れ、罪悪感と悔恨に顔色は悪いままだ。

 熊倉は人気の少なくなったロビーで、そこになにかの印があるのだというように、自分の手を眺めている。小刻みに震えているのは、先程の恐怖が未だに残っているからだ。

 千佳の死。覚悟しているつもりでも、やはりそれは受け入れがたい悪夢だった。余命がわかれば、残りの時間を大切にできる――そんなはずはなかった。熊倉にできることは悲しみに暮れて泣き崩れることだけだった。その広い掌で顔を覆うと、彼は懺悔するように呻く。


「本当は、わかってたんだ。千佳の余命がわかったところで、できることなんかなにもないかもしれないって。でも理屈じゃなかったんだよ……」

「だから八丈野は、ここまでついてきてくれたんだろうな」


 永井は半ば確信を持って、熊倉の独白に答えた。

 彼が千佳の未来の予言を受け入れられないことに、おそらく彼女は気づいていた。それでも熊倉の願いを聞いたのは、彼女なりに伝えようとしていたのだろう。

 未来を知ることで、救われることなどなにもない、ということを。


「諒。悪いけど、先に帰ってくれ」


 永井は黙って立ち上がり、うなだれる熊倉の肩を軽く叩いた。覇気のない声に答えなかったのは、答えるべき言葉が見つからなかったからだ。


「もし、八丈野さんに会ったら……謝っておいてくれるか」

「俺は、俺の分を謝るので精一杯だ。お前の分は、お前で謝れ」


 そう言い残し、永井は軽く手を振ってその場をあとにした。熊倉の苦笑が永井の背を追いかけていた。



 ◇ ◆ ◇ 



 落ち込んでいるときは、なにもかもが上手くいかないものなのか、永井がバス停に着いたのは肝心のバスが出てしまった直後のことだった。

 深く溜息を吐き、そのままバス停を通り過ぎていく。大通りに出れば、あとはまっすぐ歩くだけで駅に辿り着けるはずだった。ぼんやりとバスを待っていてもよかったが、身体を動かしていなければ心の澱みが全身を毒してしまいそうだった。

 少し進むと、川沿いに出る。夕刻の空には霞のような雲が棚引いている。西日の照り、ひりつく暑さの中、一陣の風が涼やかな音を伴って突き抜けていく。通りかかる車もなく、人影もない。スニーカーのアスファルトを擦る音、呼吸の身体に染み渡る感覚、心臓の胸を打つ響きだけが永井の身体を支配していた。

 穏やかな風景とは相容れない、哀しみと怒りのない交ぜになった感情が心の奥に渦を巻いている。網膜に焼きついているのは熊倉に相対する八丈野の姿だ。目に見えるのではないかというほど濃密な怒気を圧倒した、小さな身体。なぜ、あれほど強くいられるのだろう。それほど交流があるわけでもない永井と熊倉のために、憎まれ役を引き受けられるのだろう。

 熊倉を諭すためだというのなら、もっと良い手段があったのではないか、なぜそれを探そうとしなかったのかと、憤る気持ちもある。それとも、彼女にとってはあれこそが最も適切なやり方だったのだろうか。熊倉の激怒など取るにも足らなかったのだろうか。


 空転し始めた思考に五感が狭窄きょうさくになっていることを自覚する。考えることをやめると、鬱血した身体に熱が行き渡るように、視界が急に広がる気がした。

 そして、遠くに見えた金の色彩に身体が跳ねる。

 直前まで考えていたことのせいで、彼女の持つ色に反射運動をしてしまっただけだと思ったが、それが正しい反応であることはすぐにわかった。川原と道路を隔てるガードレールの向こう、服が汚れることも気にせず、草むらに腰を下ろしている人影がある。色の乏しい髪は斜陽の光を浴びて輝くようだった。脳裏を過ぎるのは、彼女を知ってしまった日の光景だ。あのときも、夕方だった。

 膝を抱えている八丈野の顔は長い髪に覆われて、その表情は窺い知れない。しかし小さな身体は普段より更に頼りなく、もしかして彼女は落ち込んでいるのではないかと感じられた。病院では気丈に振る舞っていたものの、他人の怒りを真正面から受けて平常心でいられるほど人間は強くない。交流のないクラスメイトなどは八丈野を幽霊かなにかのように思っている節があるが、八丈野だって笑いもすれば怒りもするのだと永井は知っていた。

 永井は重い足取りで彼女に歩み寄る。彼女と熊倉の気持ちをまるで顧みず、ただ自分の好奇心のために行動していたことを、謝らなければならないと思っていた。そして熊倉のことを許してやってくれないかと頼むつもりでもあった。そんなことをしなくても、八丈野はまったく気にしていないだろうという確信はあったけれど。

 八丈野は流れる川の揺らぎを一心不乱に見つめていて、永井に気づく素振りもない。未来視を差し引いても妙に勘が鋭い八丈野にしては珍しいと思いつつ、永井はガードレールに手をかけた。腐食した塗装と錆のざらついた感触に、それを乗り越えることを反射的に躊躇した。


 そのとき、突然に風向きが変わる。

 水面を吹き抜けた風が川原を撫でていく。草の擦れ合う、さぁ、という響きが全身を包み込む。風に乗ってかすかに八丈野の声が届いた。彼女の髪は背に流れ、その表情は露わになっている。そして永井は、彼女が不規則に身体を震わせていたことを知る。

 八丈野は、泣いていた。

 滂沱ぼうだと涙を流し、声をはばかることもなく、幼い子供のようにしゃくりあげていた。

 濡れる頬を拭いもせず、しかし決して打ちひしがれずに決然と前を向いたまま、慟哭どうこくしていた。

 浮世離れした雰囲気は面影もない。そこにいるのは超然とした預言者でもなく、儚い幽霊でもなく、ただの少女でしかなかった。

 喉元に刃物を突きつけられたように息が止まる。音を立てそうなほどに血の気が引いていくのがわかる。熱の失われていく感覚と裏腹に、心臓は早鐘のように打った。永井は恐怖を感じたように後ずさると、もつれる足をもどかしく思う余裕もなく踵を返して路地へ駆け込んだ。叶うのならば、そのまま影に溶けて消えてしまいたかった。激しい慙愧ざんきに脳が焼けついていた。どうして、これほど簡単なことに気づかなかったのだろうと、それだけが思考を塗り潰す。

 八丈野は、見てしまったのだ。

 千佳の命が尽きる、その瞬間を。

 熊倉や彼の両親が、冷たくなってしまった彼女に縋り、悲嘆に暮れる光景を。

 誰とも共有することのできない絶望の未来を、ただ八丈野だけが、あのとき知ってしまったのだ。

 未来を見る力、信頼を得られない呪い、そして身勝手な人助けで疎まれている境遇。それらに意識を捕らわれて、未来を知るということ自体が途方もない苦痛を伴うのだと永井は気づかなかった。

 人の苦しみを先んじて知り、それを自分一人で抱え込まなければならないことが、なんとおそろしいことだろうか。しかも未来を変えるために力を尽くしたところで、与えられるのは奇異と忌避の視線だけ。なにもしなければ悲劇の未来は容赦なく訪れ、罪悪感という鞭で責め立ててくる。

 なにをしてもつらいのならば、その目を閉ざし、忘れてしまうべきだ。

 しかし、八丈野つぐみはそうしなかったのだ。


 八丈野と自分は、似ているはずだ。永井はそう思っていた。

 自分の力ではどうしようもないなにかによって悪意に晒され続けている。そして理解されるための努力をせず、独りでいることを受け入れている。

 しかし外から見て同じような立場だとしても、そこには決定的な違いがあった。八丈野は、拒絶されることはあっても、拒絶することはなかった。自分自身の力にも、奇行に映る言動を咎める視線にも、永井のように理解を示す気持ちにも、熊倉のように助けを求める声にも、彼女は青い目を逸らさなかった。

 どうして彼女は、まっすぐなままでいられたのだろう。人の悪意を一身に引き受けてきた者同士なのに、これほど違うのだろう。かつてない興味と疑問を八丈野に抱いている事実を、永井は否定する気はない。執着していると言っても過言ではなかった。

 彼女が予言や呪いと呼ぶ性質こそが、その超俗的な雰囲気を形作るものだと思っていた。それが失われたとき、彼女の中になにが残るのか知りたかった。そこにあるのが卑屈で臆病な人間であることを、自分と同じような人間であることを確認して、安心したかった。そうして弱い自分を正当化してやりたかったのだ。


 なんと浅ましい考えだったのだろう。鼻と目頭の辺りに熱が込み上げる感触に、永井は強く歯を食い縛る。

 彼女は自分の未来を見る力が制御できるものだと言っていた。だとすれば、すべて承知の上なのだ。嫌な未来を独りで直視しなければならない苦痛、未来を変えるために冒さなければならない危険、そしてそのために人から疎まれてしまう理不尽さえも。それでも目を逸らすことを良しとしなかったのだ。

 彼女に親近感を持つ権利などなかった。勝手に同類だと思う資格などなかった。

 そう、外から見て同じような立場だとしても、そこには決定的な違いがあった。永井は、もう諦めてしまっていたのだ。なにもかも受け入れず、拒絶していれば、その殻の中は平穏に満ちていた。傷つけられるたびに、これだから他人は嫌なのだと、斜に構えていられた。

 そうやってねていても、ただ無様なだけだとわかっていたのに。

 気がつけば永井は自分でも知らぬまま駆け出していた。そうすれば自分の情けなさから逃れられるのだと、信じているように。

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