2-4 待ち受ける未来
永井の元に熊倉から連絡があったのは、夏休みに入って一週間が経った頃だった。
彼の妹、熊倉
永井は熊倉と駅で落ち合い、通学に使っているのと同じ路線の電車に乗る。八丈野に乗っている車両の場所を伝えたので、学校の最寄駅で合流できるはずだった。彼女への連絡にはメールを使っている。彼女はスマートフォンではなくフィーチャーフォンを使っており、ソーシャル・ネットワーキング・サービスにも登録していなかった。なぜかと聞けば渋い顔で、スマートフォンは脆そうなイメージがあるし、なくしたときに備えて可能な限り個人情報を持ち歩きたくない、と言った。あまりに八丈野らしい意見を思い出して、永井はボックス席に身体を沈めたままで少しだけ口の端を緩めた。
「諒、悪かったな」
向かいの席で身体を窮屈そうに縮こまらせている熊倉が、痛みをこらえるように言う。そちらの方を見やれば、彼は
「俺が休みの日に大して予定を入れないの、知ってるだろ。別にいいよ」
永井は、そんな彼のことを軽く笑い飛ばした。感情の抜け殻を過去から引きずり出してきたような、無惨なまでに空虚な笑い声だった。熊倉はそれになにも返さない。謝罪の意味が間違って伝わっているわけではなく、永井がはぐらかしているだけだと気づいているからだ。
あの日、噂が生まれた二年前から、永井が他人を避けてきたことを熊倉は知っていた。そして永井自身、熊倉がそれを察していると気づいている。
避けてきた、というのは実際の距離でもなく、人間関係のことでもない。入学してから一年と数ヶ月、噂のことなど気にせずに仲良くしてくれたクラスメイトが皆無なわけではなったし、永井も彼らを邪険には扱わなかった。ただ価値観の深いところに打ち込まれた黒い
永井は、もう諦めてしまっているのだ。
熊倉はそれを知りながらも、八丈野との橋渡しのために永井を必要としていた。彼女の呪いのことを永井に聞き、二人きりで冷静なまま妹の行く末を聞く自信がなかったのだ。一時的な頑固ではなく、自分の人生の
「そんな顔するなよ。まだ八丈野がどんな予言をするか聞く前だぞ」
意図して見当違いな慰めをする永井の声には、欠片ほどの嘲りがあった。熊倉に向いたものではない。自嘲、だった。
それから数分が経ち、電車がおもむろに停車する。平日の真昼、がらがらの電車の中に、ひどく目立つ一人の女子高生が乗り込んできた。八丈野は夏の日差しに頬を紅潮させているが、以前のように倒れそうなほどの儚さはない。永井が手を挙げて彼女を呼ぶ。熊倉の隣は狭く、もうそこに二人の荷物を置いてあるので、彼女は永井の隣に座る。
「そんなに詰めなくてもいいよ。私、コンパクトだから」
ぎゅうぎゅうと窓際に身体を寄せようとする永井に妙な言い回しで告げ、すとんと軽い身体を椅子に預けた。かと思えば小さな口を目いっぱい開けて大欠伸し、滲んだ涙を指で拭っている。これからどういう要件でどこへ向かうのか、まるでわかっていないのではないかと疑ってしまうほどの自然体だ。
思わず熊倉と二人で彼女を見つめたまま
「なにを着てもコスプレみたいになるのは自覚してるんだけど、そんなに見られると、さすがに傷つく……」
西洋人形のような色彩を持つがゆえの悩みのようだった。その浮世離れした言動は
◇ ◆ ◇
電車に一時間ほど揺られ、終点の駅に着く。辿り着いた街は県内で最も栄えているが、テレビで見かける首都圏の光景と比べれば幾分みすぼらしい。それでも未だ大都会を詳しく知らない三人にとっては知りうる限りの大都市だった。
駅の構内をバス乗り場の方へ進む。目的の病院は徒歩でも行ける距離だが、炎天下をあえて歩く必要もない。財布の中を確認し、両替機で足りない小銭を準備して少し待つ。利用者の少ない路線のようで、永井らの他に待つ人影もなく、やがて到着したバスの最後部を確保することができた。
「その予言っていうのは、どこまでわかるんだ?」
少しずつ埋まっていく座席を眺めながら、熊倉が問いかけた。それはただの雑談でもあり、彼が自分の中の葛藤と折り合いをつけるための儀式でもあった。熊倉は極度の緊張状態にあり、先程から何度も深呼吸をしたり、反射運動で空気を呑み込んだりしている。
八丈野は少し考え込んだあと、あっさりと簡潔に言う。
「見ようと思えば、どこまでも」
いつも遠くまで見ていても仕方がないから普段はこんな感じ、と彼女は顔を手で覆い、指の隙間から細めた灰色の視線をのぞかせた。その手を下ろし、目を凝らせば、いったいどこまで見通せるのだろう。普段の彼女の様子を思い出し、その言葉のおそろしさがぶり返すようにして浸透してくる。
八丈野は言葉を失う二人の様子を歯牙にもかけず、ひどく真面目な顔で言い含めた。
「私の予言は、人には信じられない。それでもいいんだよね?」
「その話は諒に聞いてる。でも、まったく信じられないわけじゃないんだろ」
「そうだな。半信半疑くらいには、できるかもしれない」
永井はスポーツテストのことを思い出して言った。あのとき永井は彼女の予言を信じられず転倒したが、それを警戒することはできた。今回に限れば、たとえ未来を信じられたとしても変えることなどできないだろう。それでも、半分でいい、心の準備をするだけの情報がほしいのだと熊倉は言う。
頷き合う二人と裏腹に、永井だけは別の期待を持ってここにいる。
あれから永井は、何度か八丈野の予言を聞いた上で行動する実験をした。結局はどうしても運命から逃れることはできなかったのだが、あと少しで、という手応えのようなものをいつも感じていた。もっとも、八丈野に言わせれば、最後の油断さえなければ覆せたかもしれない――などというのは都合のいい想像でしかなく、過程がどうあれ、最終的には予言を聞いてしまった人間は自力でそれを逃れることができないのだという。
しかし八丈野自身、自分の未来視を解明することにはそれほど積極的ではなかったようなので、こうした実験でなにかがわかるかもしれないと永井は思っている。当事者である熊倉に黙っているわけにはいかないので、そういう意図もあるのだということは既に伝えていた。そのときの熊倉は、なにか驚いていた様子だったが、妹のことを見てくれるのならばなんでもいい、と了承したのだった。
バスは十分ほどで目的のバス停に着く。永井ら三人は連れ立って降り、疲れた身体を各々ほぐした。頭を巡らせれば病院らしき施設が目につく。ここまでくれば、この土地に馴染みのない永井や八丈野も迷うことはないだろう。
うだるような暑さに息を切らしながら黙々と行進し、病院に向かう。入り口の自動ドアをくぐるとひんやり冷たい空気に包まれる。その涼しさは気温のことでもあり、雰囲気のことでもあった。永井は病院が苦手だ。昔から身体が頑丈で、病院の世話になるのは余程ひどい怪我か病気をしたときだけだった。自分が健康であることは知っているはずだが、この苦手意識はどうしようもない。
熊倉に先導されてナースステーションに寄り、名簿に名前を記入する。今日は友達連れなんだね、と看護師が熊倉に笑いかけた。病院関係者と顔馴染みになってしまうほど頻繁に熊倉はここを訪れているのだ。
長い廊下を行く途中、永井はふと八丈野を横目にする。まさか緊張でもしてはいないだろうかと心配したのだが、彼女は驚くほどいつもと変わらず、そのグレーの瞳で前を見すえていた。あまりに目立つ外見が患者や見舞い客の視線を否応なく集めていても、その自覚があるのかどうかすら永井にはわからない。
しばらく歩いたあと、熊倉は一つのドアの前で立ち止まった。ネームプレートには熊倉千佳と、彼の妹の名前が書かれている。
振り返る熊倉に永井と八丈野が頷き返すと、彼の大きな手が少し震えながら扉の取っ手を掴み、ドアを横にスライドさせた。
目に飛び込んでくるのは、白を基調とした柔らかな色合いの世界。個室だ。特別に裕福ではない熊倉の両親が、娘のためにできる限りのことをしてやろうと思ったことが、感じ取れた。
ベッドの上で退屈そうにスマートフォンを操作しているのは、永井の記憶にある姿よりも成長し、そして痩せ細ってしまった少女の姿だった。くりくりと愛らしい双眸は落ち窪み、触れれば吸いつくように瑞々しかった頬はこけてしまっている。その姿は甘い覚悟の壁を貫いて、永井の胸に刺すような痛みをもたらした。永井は沈みそうになる気持ちを無理矢理に浮上させて口の端を上げる。彼女や熊倉を差し置いて、勝手に悲愴感を抱くわけにはいかなかった。
来客の気配に顔を上げた熊倉千佳は兄の後ろに永井の姿を見て、暗い表情を満面の笑みに変える。色褪せていた部屋の中が、パステルカラーで塗り潰されるようにして一斉に華やいだ。子供が外界へ発散するエネルギーのすさまじさに、彼女と対面するたび永井は圧倒される。それでも以前より齢を重ね、内面の成長のために費やさなければならない分、それは抑えられてきたけれど。
「諒ちゃんだ!」
「久しぶり。具合は大丈夫か?」
熊倉と八つ歳の離れた千佳とは、彼女が赤ん坊の頃からの付き合いだ。昔は毎日のように熊倉の家へ遊びに行き、千佳と熊倉と過ごしたものだった。彼女が入院してからは遠慮をして会っていなかったので、今日ここを訪れた目的も今は忘れ、永井は懐かしい思いに浸った。
懐かしい遊び友達を見つけて興奮した千佳だったが、最後に現れた見慣れない来客に唖然として硬直する。子供特有の豊かな感情表現に、永井と熊倉は思わず噴き出した。
「はじめまして。こんにちは」
八丈野は普段よりも柔らかく穏やかに語りかける。ベッドの脇に椅子を引いて腰かけ、千佳と目線を合わせる。まさかあの八丈野が、と思うほどの慈しみに満ちた仕草だった。彼女は自身のクリーム色の髪を千佳が見つめているのに気づくと、それを一房すくい上げ、悪戯っぽく笑いかける。
「珍しいでしょ。この色」
「染めてるの? 目が青いのは、カラコン?」
子供っぽくもあり、大人びてもいる質問攻めは、八丈野を苦笑させる。実のところ八丈野は、お人形さんみたい、という反応を少しだけ期待していた。大人の期待する子供っぽい子供など、この世のどこにもいないのだと、普段子供と触れ合う機会のない八丈野は新鮮な心地だ。
八丈野の奇抜な容姿は関心を集め、微笑みと語り口は意外なほど明るさに満ちている。千佳は、すぐ彼女に懐いた。長い時間を共に過ごした永井よりも気に入ったのではないかと思うほどで、永井は八丈野に嫉妬と、そしてそれよりも大きい尊敬の念を抱く。ふと隣を見れば、熊倉が形容しがたい複雑な表情で八丈野の横顔を見つめていた。どうやら思いは同じだったらしい。
長い入院生活で余程
「飲み物でも買ってくるか」
取り残された男二人で目配せをして、どちらともなく呟いた。すると、それを
「私、いちごミルクがいい。パックの」
「自販機に売ってないんだよなぁ、あれ」
「売店で買ってきて」
千佳の命令は容赦がなかった。兄であるところの熊倉は千佳に対して非常に弱く、少し苦笑いをして、わかったよ、と呟くしかなかった。
「諒ちゃん」
熊倉兄妹の様子を微笑ましく見守っていた永井は、おもむろにかけられた声に、腹立たしいようなむずがゆいような、とにかく硬い表情で八丈野を睨みつけた。彼女はいつもと変わらない表情のまま、淡々と告げる。
「私、緑茶」
「わかったよ」
その答えが熊倉の千佳へのものとまったく同じ言葉で、まったく同じ響きであることに気づき、永井は眉に刻まれた皺を更に深くした。
八丈野は病室を出ようとする永井を呼び止めると、なにかに気づいたように飾り気のない自分のポーチを手に取った。永井を見上げる目には後ろめたさを感じているような気配がする。
「お金、払うって言ったら、受け取ってくれる?」
「受け取らない」
たかだか飲み物一本のことだと思って即答すると、八丈野は声を上げて笑った。
「そう言うと思った」
何気ない友人同士の会話だが、その八丈野の一言は永井の心の奥底に傷口が
永井には、彼女の考えがわからない。こうして妙な人助けめいたことをしている理由も、自分のことを――その噂のことをどう思っているのかも。
人間関係は難しい。難しさの根本的な原因は、わからないことにあると永井は思っていた。相手のことも、自分のことも、わかることなど大海の孤島程度に過ぎない。それが、たまらなくおそろしい。だから永井は、とうにそれを諦めていた。
熊倉と連れ立って病室をあとにする。扉を閉めると、どっと疲労感が押し寄せた。永井は久しぶりに会う友人の妹の状態がずっと気がかりだったし、熊倉は千佳と八丈野のファーストコンタクトがどういう風になるのかを心配していた。千佳の未来を八丈野に見てもらうという本来の目的が控えているとわかっていても、わずかな息抜きができたのは幸運だった。
「八丈野さんは、良いやつだな」
道すがら、熊倉はぽつりと呟いた。
「もっと変なやつだと思ってた」
「十分すぎるくらい、変人だろ」
「そういう意味じゃない」
永井のからかいに、熊倉は神妙だった。ではどういう意味なのかと、永井は尋ねない。それが、まるで興味もない話題に繋がることを、察していたからだ。そして熊倉も、その話を続けようとはしなかった。
「千佳が懐いたのには、驚いた。八丈野さんは無表情なことが多いと思ってたけど、そうでもないんだな」
「学校で無愛想なのは、喋る相手がいないからじゃないか。一人で百面相してたら、そっちの方が噂になる」
そういうと、熊倉は大きな口を開けて笑った。ずっと塞ぎ込んでいた熊倉は、ようやく少しの元気を取り戻したのだ。
彼はひとしきり笑ったあと、目尻に滲んだ涙を無骨な指で拭い、どこか真面目くさった声で呟いた。
「諒と八丈野さんって、ちょっと似てるかもな」
「お前、それを褒め言葉だと思ってるなら、大間違いだからな」
永井の力いっぱい睨みつけての抗議も、熊倉は笑って受け流すだけだった。
◇ ◆ ◇
三人は予定していたよりも早く病院を後にすることとなった。時刻が夕方に差しかかった頃、千佳の具合が急激に悪化したのだ。少し元気がなくなってきたな、と思った瞬間から、顔色が蒼白になっていく様が目に見えるようだった。慌ててナースコールを鳴らし、駆けつけてきた看護師と入れ違いに帰宅することとなる。
「もう帰っちゃうの……?」
懇願するような震える声に、永井と熊倉は胸を締めつけられたように言葉を失った。今の彼女を慰める
八丈野は白い手で千佳の顔を両側から優しく挟み込み、不安に揺れる瞳をまっすぐに見つめる。
そしてその瞬間、病室の空気が変質したような感覚に襲われた。
看護師すらもなにかの異常を感じたように病室を何気なく見回している。永井は直感する。それが、八丈野が千佳の遠い未来を覗き込もうとしている気配の発現だということを。
時間にして数秒に満たなかっただろう。八丈野は真剣な表情を不意に和らげ、微笑んだ。
「また、くるね。約束だよ」
千佳がぐずりながらも頷いたのを見て、熊倉は驚きを隠せない。いつも彼や両親が帰るときになると、千佳はベッドで暴れるようにしてごねるのだ。八丈野の約束に、誤魔化しやその場しのぎではない、確かな
すっかり人気のなくなった廊下を三人はひたすら無言で歩いた。昼間は、空気を粒子となって漂う活気のような気配があった。それが今は沈殿しきったように静かだ。見通しのいい清流は、むしろ底知れない寒々しさと不安をかき立てる。
「具合が良いときは、入院してるとは思えないくらい元気なんだけどな」
不揃いな足音に紛れ込むようにして、弱々しい声が漏れた。普段の熊倉からは想像もできないほど、か細く小さい響きだ。その面は蝋のように白かった。
「日に日に、悪化したときの症状がひどくなってるんだ……」
「熊倉君」
偶然なのか――彼女が身にまとう運命じみた力が、そうさせたのか。見渡す限り、見舞いの人も看護師も、誰もいない。永井と熊倉、そして八丈野以外が世界から消え失せてしまったようだった。
八丈野は、熊倉を見上げていた。先程まで柔和な笑みを浮かべていた人物とは思えない、厳しい表情で。
二人は、彼女がなにをするつもりなのかを直感した。反射的に、やめてくれ、と叫びそうになる。だがそれを望んでここに連れてきたのだという事実が喉を詰まらせた。そうして生まれた間隙に、八丈野の細く、しかしどこまでも深く突き刺さるような声が響く。
「三ヶ月」
咄嗟に、それがなにを意味しているのかがわからない。理解することを拒否しているのだと自覚することすらできなかった。
呼吸の仕方すら忘れて凍りつく二人に、八丈野は改めて口を開く。栄華を誇る王国に、終焉を告げるように。
「三ヵ月後に、あの子は亡くなる」
どさ、と重い音がする。熊倉が膝から崩れ落ち、彼の荷物が放り出された音だった。そこで永井は初めて、自分が壁に手をついていることに気づく。それを離せば床を這ってしまいそうだった。八丈野だけが、そこに立っていた。なにかに縋ることもせず、その両脚で。
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