2-3 依頼

 あれっ、と永井が間の抜けた声を上げたのは、理科室から教室に戻る途中のことだった。

 廊下の真ん中で立ち尽くし、自分の手に持っているものを呆然と見つめている。後ろを歩いていた生徒達は往来を妨害する永井の横を怪訝そうな面持ちで追い越していった。


「どうした?」

「筆箱がない」


 隣を歩いていた熊倉が問いかけると、永井は口早に言った。滅多にない移動教室で気を抜いていたのか、筆記用具を落としたか、置き忘れてきてしまったらしかった。


「一緒に探そうか?」


 どれほど衝撃的だったのか、永井は後ろに八丈野やえのがいたことにすら気づいていないようだった。手伝いを申し出た八丈野を振り返る彼の表情には、驚愕がありありと表れている。

 未来を見ることはできても、それが探し物に役立つかは微妙なところだ。それでも人手があった方がいいだろうと思って八丈野は声をかけたのだが、永井は少し悩んだ末に首を横に振った。


「いや、あるとしたら理科室か廊下だから、大丈夫」


 そう言い残して、きた道を引き返す。幸いにして今は昼休みで、次の授業に遅れてしまうということもない。廊下を舐めるように眺めながら立ち去る永井を見送り、八丈野と熊倉は教室へと歩き出した。

 珍しい取り合わせだと他人事のように考えながら、八丈野は熊倉を盗み見る。永井の方は見上げるという風だが、熊倉ほどの巨躯になると仰ぎ見るといった感じだ。その迫力に思わず圧倒されてしまうが、スローで朴訥ぼくとつとした動きを見ていると、怖がるのも馬鹿らしくなってくる、というのが熊倉に対するおおよその評価だった。人見知りで話すのが苦手な様子はむしろ親しみやすさをかもし出し、妙な噂を引き連れている永井と仲が良いということを差し引いても周囲の熊倉への好感度は高い。彼自身は、そんなことはまるで気づいていないようだが。

 そんな熊倉と八丈野の接点は無きに等しかった。永井という共通の友人を持って数ヶ月も経っているというのに、面と向かって会話を交わしたことなど数えるほどだ。その永井が熊倉とさえ最低限の会話しかしようとしないので、それも仕方のないことだった。

 きっと永井は、誰かに話しかけられなければ、誰にも関わることもなく平然と高校生活をこなしてしまうのだろう。まるで、それが作業のように。


 ぼんやり考え事をしていた八丈野は、息を吸い込んでは言葉にならない声を吐く、そんな気配に隣を見上げる。熊倉は人見知りな上に女子が苦手らしく、挙動不審だった。しかし八丈野が気になっているのは、最近の彼の表情に苦手意識だけではなく、躊躇いや後ろめたさ、罪悪感すら垣間見えることだ。

 熊倉の様子がおかしいことには、少し前から気づいていた。いつの頃からだったか、熊倉の視線を感じることが度々あったのだ。気になって彼を見てみれば、すぐに目を逸らされる。かといって因縁をつける気もないのでほったらかし、用事があるならそのうちコンタクトがあるだろう、と思っていた。そしてどうやら、そのときは今のようだ。しかし一向に熊倉から言葉は出てこず、気づけば二人は教室に帰ってきていた。

 他の生徒は既に購買や別のクラスの友人のところへ向かっているらしく、中はくたびれた生温い空気が沈殿している。自分の席に向かう途中、八丈野は滅多に見ない光景があることに気づいた。

 永井の席に女子が座っている。

 独りでぽつんと腰かけ、頬杖をついて、なにをするでもなく、物憂ものうげな視線をまっさらの黒板に投げかけている。目立つ風貌ではないものの均整の取れた美しさがあり、一目見れば瞳に焼きつくだろう静かな存在感を放つ女子だった。

 休み時間などに人の席を借りる生徒は大勢いるが、永井の席は別段快適な位置にないので、あえてそこを使う生徒は少ない。彼が戻ってきたらさぞ困るだろうな、と思っていると、熊倉が彼女の方へ向かっていった。


「なんで、ここにいるんだ」


 八丈野は目を見張った。敵意、悪意、害意……ありとあらゆる攻撃的な感情の込められたその声が、熊倉のものだと信じられなかったからだ。そのたった一言で教室の空気は一変し、わずかに残っていた生徒達が何事かと色めき立つ。


「クマ君だ。久しぶりだね」


 はるか頭上から見下ろされたその女子は熊倉を認め、唇で緩やかな孤を作った。絵に描いたような微笑み、耳をくすぐる細い声、親愛の込められた言葉。だが八丈野は、それがどこか空恐そらおそろしかった。彼女も熊倉のあからさまな悪感情に気づいていないはずはないのだ。

 熊倉と面識のあるらしい彼女は、机に預けていた身体をゆっくりと起こした。艶やかな黒髪が音も立てず流れ落ち、ほっそりとした顎のラインが露わになる。しかし熊倉はその洗練されてすらいる所作ではなく、彼女の身体の影に隠れていたものに目を向けていた。


「お前、それ……」

「廊下で拾ったの」


 彼女は永井の筆箱を指でつまんで持ち上げる。彼の性格や容姿からすれば子供っぽいそれを見つめる黒い眼差しは、なにかを懐かしんでいるようだった。


「これ、まだ使ってるんだね。相変わらず物持ちがいいんだから」

「用事が済んだら、出て行けよ」


 彼の実直さが悪い方向に発揮された直接的な拒絶感は、しかし彼女の余裕を崩すには足りていないようだった。怒気を押し殺した熊倉の声を受けて、それでも彼女は親しい友人と語らっているときのように柔和な微笑みを浮かべている。大の男すら怯えさせかねない熊倉の怒髪天を衝く形相を前に、まるで揺るがない笑顔を浮かべる姿は、凄みすら感じさせた。

 どこまでも不思議な女子だった。なにかを企んでいる胡散臭さも、腹に黒いものを抱えている意地悪さも、なにもない。悪意に対して弁明することもなく、まるでそれを当然のものだと受け入れているように見える。彼女の姿だけを切り取れば、まさかトラブルの最中にいる人物になど見えまい。

 熊倉の言葉に反感や恐怖を覚えた様子もなく、満ち足りたような笑顔のままで彼女は素直に席を立った。


「諒君に、よろしくね」


 手を控え目に振って、なんら痛痒を感じた様子もなく教室を後にする。その後姿が消えた瞬間、張り詰められていた糸が切れたように空気が弛緩した。あとには興奮に息を荒くする熊倉と、身を強張らせているクラスメイト達、そして妙な出来事に目を白黒とさせる八丈野だけが残される。

 熊倉は手近な席にどっかりと座り込むと、机に体重をかけてむっつりと押し黙った。それは胸の奥でくすぶる怒りを押さえ込もうとしているようだ。我が身の焼かれる痛みを感じているかのように、熊倉は痛切な顔をしていた。


「大丈夫?」


 見かねて八丈野が声をかけると、熊倉は意外な人物に離しかけられた驚きに目を見張ったあと、力なく頷いた。

 別に彼らの事情に興味はないけれど、なんとなしに八丈野は思いを馳せる。熊倉の態度には憤怒と嫌悪があからさまに現れていたが、同時に焦りがあったように見えた。出て行け、と言ったのは、彼女に会わせたくない人がいたのだろう。だとするならば、その答えは状況と、彼女が残していった言葉にあるように思えた。


「さっきのこと、諒には黙っててくれ」


 熊倉は、それを隠す気はないようだった。それどころか八丈野を見るつぶらな目には、なにかを期待しているような光すらある。もっとも、八丈野には熊倉が自分になにを期待しているのか検討もつかないので、わかった、と頷くしかない。


「あいつを諒に会わせたくないんだ」

「振られた相手だから、ってこと?」


 永井に対して特別な意味を持つというのなら、あの妙な噂に関係するのだろうと思って聞くと、熊倉は愕然とした顔で絶句した。見当違いのことを言ってしまったかと心配になるが、八丈野は続く熊倉の言葉でそれが間違いでなかったことを知る。


「知ってたのか? あの、噂のこと」

「うん。ついこの間だけど」

「信じてないのか」


 八丈野には、その問いに対する答えより前に、疑問の方が先に思い起こされた。噂と、その当事者達のことを知っているのなら、熊倉は事の顛末てんまつを知っているのだろう。ならば、そんなことを尋ねる前に、それを説けばいいのではないだろうか。


「あれって、本当なの?」


 逆に問い返されて、熊倉は押し黙る。それは不都合な事実を口にするのを拒絶しているというよりは、なにかを迷っているか、躊躇っているように思えた。


「……諒に聞いたら、否定しないと思う。たぶん」


 なんとも煮え切らない回答に、ふうん、と八丈野は気のない返事をした。そもそも興味が薄かったということもあるが、そこに彼らと自分が割り入るべきではない、なにかしらの事情があると察したのだ。そのあっさりとした態度に熊倉は不安そうな顔をしたものの、永井のことで自分が勝手に弁解するのは違うと思ったのか、煮え切らない思いを抱いたように口を閉じる。


 呆然としたまま、どれほど経っただろうか。長いようで短い時間のあとで、購買から戻ってきた生徒達は教室の中にわだかまっている剣呑な雰囲気の残滓に不思議そうな面持ちを見せている。そして、しばらくするとその中に永井の姿が見えた。

 筆箱が見つからなかったために意気消沈としていた彼は、自分の机の上を見てまた間の抜けた声を上げる。


「俺の筆箱! どこにあったんだ?」

「教務室に寄ったら、届けられてたぞ」


 熊倉の引きつった顔は嘘をついていますと声高に宣言しているようなもので、しかしそんな嘘をつく理由に見当がつくはずもなく、永井は首を捻っていた。どこまでも正直な熊倉はちらりと八丈野を振り返り、先程の出来事を口にするなと念を押してくる。

 永井は彼の不審な様子に目をすがめていたが、やがてなにかを納得したように小さく頷いた。


「八丈野に相談したのか?」


 しかし、その言葉は大きく的を外している。どうやら永井は誤解をしているようだったが、それはむしろ熊倉を動揺させた。思いがけず自分の名前が出てきたことに、二人の様子をうかがっていた八丈野は目を丸くする。


「いや……これから聞こうと思ってた」


 やがて熊倉は、今にも泣き出しそうな面持ちで八丈野に向き直った。周りは険悪な空気を避けているのか、人の気配が少ない。声を殺して、あまり聞かれたくない話をするのに、うってつけだった。


「未来が見えるって言ってたのは、本当なのか」


 あらかじめ永井から話を聞いていたのか、彼の声には疑問というよりは確認の響きがあった。八丈野は彼の問いかけに短く首肯しゅこうすることで答える。

 熊倉は長い逡巡を経たのち、疲れ切った老人のように口を開いた。


「妹を……見てほしい。病気なんだ」


 苦渋に満ちた言葉は八丈野を困惑させる。頼む相手を間違っているし、熊倉も永井も、それがわからないような人間には思えなかったからだ。


「病気を診るなら、医者にかかるべきだと思うけど……」

「二年前から入院してる。詳しいことは聞かされてないけど、原因がわからない病気で、安静にしてるしかないらしいんだ」


 おそらく医者と彼の両親の間では専門的な話が交わされているだろうが、それは子供でしかない彼には知らされていないようだった。仕方がないことだと理解しつつも拭いきれない無力感が、彼の悲しい表情に表れている。

 熊倉の様子から、病状はあまりよくないということが察せられた。そうでなければ未来視などという眉唾物に縋ろうとは思えないはずだからだ。思い返されるのは、クラスメイトになってから見てきた彼の、前触れもなく倒れ伏してしまうのではないだろうかというほど憔悴した姿。近しい人以外には明かしたりせず、その不安を抱えてきたのだろう。


「話の腰を折って悪いけど、それを八丈野以外の誰かに頼んだりしてないだろうな。その……」

 

 永井が言いにくそうに割って入ってくる。それは、一種の優しさだった。今まさに八丈野が尋ねようとしたことを、状況によっては熊倉への叱責になるだろうことを肩代わりしてくれたのだ。

 だが熊倉も、その質問は想定内のようだった。軽く頭を振ると、苦虫を噛み潰したような顔で言う。


「親が、はまりかけた。祈祷師きとうしだの占い師だの。……そういう連中の関わった詐欺や殺人事件の資料を片っ端から集めて、叩きつけてやった。今は大丈夫、たぶん」

「そうか。変なことを聞いて、悪かった」


 妙な疑いをしてしまったことに対する謝罪には少なからず安堵があった。八丈野は、永井と熊倉が幼馴染であることを本人達から聞いたことがあった。永井は熊倉の妹は当然として、その家族への心配もしていたのだろう。

 熊倉は耐え切れない打撃を受けたように手近な席に座ると、大きな手で半面を覆って小さく呻いた。


「でも、俺も、もう限界だ。なんでもいい……なにかに縋りたいんだ。このまま、なにもわからないのはつらい。だめだっていうなら、それでもいい。諦めがつくし、残りの時間を大切にしようと思える」

「…………」

「楽になりたいんだ……」


 その打ちのめされた姿に、永井は筆舌に尽くし難い表情で黙り込んでいた。八丈野の呪いを差し引いたとしても、未来視などという不確かなもので事態が好転するとはとても思えない。しかし熊倉の、なんでもいいから縋りたい、という切実な気持ちにも同情できる。未来が見られると八丈野が熊倉に告げてしまったとき、永井がうろたえて見えたのは、いずれこうなってしまうということがわかっていたからだった。

 そして、まるで無関係な八丈野に背負う必要もない重荷を与えることになる。断っても構わないと念を押そうとする永井だが、その前に八丈野は結論を出してしまっていた。


「いいよ。いつにする?」


 あまりにもあっさりとした承諾の言葉は、熊倉をしばらく硬直させた。

 やがて、彼は老人のようにしわがれた声で、ありがとう、と呟く。そして、今は妹の調子が悪く面会謝絶であること、おそらく病院から許可が下りるのは夏休み中になるだろうということを八丈野に告げた。


 教室から出て行く熊倉を見送り、八丈野と永井は憂いの乗った溜息を吐く。心配であとを追いたくなるが、彼はきっと今は一人になりたいのだろう。


「八丈野。……ありがとう」


 礼と謝罪のどちらを言うか迷ったように、永井は掠れた声で言った。

 八丈野はやはり頷いてそれに答えると、永井の顔を見上げる。そこには今にも泣き出しそうに歪んだ表情があった。

 永井君も、人のことでそんな顔をするんだね、という言葉を八丈野は呑み込んだ。というより、吐き出す気力がなかったという方が正しいのかもしれない。その程度には八丈野も気持ちが沈み込んでいたのだ。

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