2-2 解れる心と赤い糸
ぼうっとしているうちに午後の授業が終わる。内容はいっかな頭に入ってくることはなく、そしてそれが記録的な暑さのせいでないことを永井は知っていた。
これから部活やバイトに向かう生徒が口々に愚痴を言うのに混じり、永井を呼ぶ声がする。今の授業を教えていたガマが、いつの間にか目の前にいた。
「あなた、もう帰るんでしょう。つぐみちゃんの荷物を持って保健室に行ってくれる?」
「わかりました」
永井は殊勝な返事をした。たぶんこうなるだろうと予想していたし、言われなかったとしても、そうするべきなのだろうと思っていた。
妙に重い八丈野の鞄を持ち、永井は教室を後にする。他人事のような喧騒を背に受けて、なにかを引きずるような足取りだった。
数時間前に訪れた保健室の扉をノックすれば、今度は軽快な返事があった。失礼します、と声をかけて戸を引くと、奥の机に座っている養護教諭と、ソファでこぢんまりとする八丈野が目に入る。あれから数時間が経って八丈野の顔色は随分と良くなっていた。
彼女は永井の姿を認め、その手に見覚えのある鞄を見つけると、あっと声を上げた。驚いているのは担任のガマが鞄を持ってくると思っていたからなのだろう。八丈野は養護教諭と一言二言交わし、気をつけて帰ること、体調に異変を感じたら病院に行くようにと念を押され、永井の元へ小走りで寄ってきた。
永井は一礼をして保健室を出た。その後ろを八丈野が続き、未だ永井の手の中にある鞄を横目にする。なにか言いたげに口を開き、また閉じるのを何度か繰り返し、玄関に着いた辺りでようやくそれは言葉の像を結んだ。
「ありがとう」
「いいよ」
応じる声のぶっきらぼうさは照れなどという可愛らしいものではなく、大部分が罪悪感からくるものだった。体育の時間の出来事は永井の胸の奥に大きなしこりを残したままだ。
靴を履き替えて二人分の鞄を担ぎ上げ、永井は平坦な口調で言った。
「本当はクマに代わってもらおうと思ってたんだけど、あいつ、今日は用事があるから」
「うん。……うん?」
反射的に頷いた様子の八丈野は、その言葉の意味がわからなかったのか首を傾げていた。わからないなら別にいいと、永井は彼女を先導するように歩き出す。
西に
そのとき、ふと八丈野が目を鋭くし、身体を強張らせた気配がする。今日はやめておけ、と釘を刺すと彼女は目尻を下げ、小さく頷いた。
それから二人は少し無言になる。なにか話した方がいいのかとも感じながら、永井には彼女にどういう言葉をかけるべきなのかわからなかった。ちらりと横目にして見えた彼女は、
やがて、二人は岐路に着く。帰り道の分かれるところで、八丈野が永井を見上げて口を開きかけるが、永井はそれを遮るように言った。
「八丈野の家は、ここからどれくらいなんだ」
八丈野は今しがた言おうとした言葉を呑み込み、永井に答える。
「のんびり歩いて十分くらい」
「だったら、送ってく。……嫌じゃなければ」
塀や道路が喋っているのではないかというくらい無機質な声だ。何重にも張った、自分の感情と心を守るための予防線を、永井は自分のことながら無様だと思う。
しかし、八丈野は永井が想定していたどの反応でもないものを返した。
小鳥の
軽く握った手を口に当て、意外なほど上品な笑みだった。そこには隠れた意図もなく、ただおかしいから笑っているという明るさに満ちている。ただそれだけのことが、どんな罵声や嘲弄よりも、なぜか永井を打ちのめした。
「ここから遠いって言っても、永井君は同じこと言いそうだね」
分かれ道を八丈野の帰り道の方へ曲がり、歩調はそのままに、表情は対照的な変化をした。幾分柔らかい雰囲気をまとった八丈野の横で、永井は仏頂面で口を引き結んでいる。
この苦虫を噛み潰したような心地はなんなのだろうと永井は誰かに問いかけたい気分だった。自分は彼女にどういう反応を期待していたのだろう。引きつった顔、震える声、拒絶の言葉――それこそが望んでいたものだったのだろうか。どうして跳ね除けてくれなかったのかと思ってしまうのは、彼女の帰宅に付き添うのが煩わしいという安易な理由ではないのだと、永井は自分の心を知りつつも直視できないでいた。
隣を歩く男の胸のうちで黒くややこしい感情が渦巻いていることを知る
「そういえば、五十メートル走は良い記録を出せた?」
「それなりに。七秒切った」
「それは……すごいね。ちょっと無理した甲斐があったな」
八丈野は最後の部分を独り言のように呟いた。何気ない言葉だったのだろうが、それが永井には引っかかる。結果的に信じることはできなかったが、彼女が忠告してくれていたおかげで走れなくなるほどの大怪我は免れ、その後の速やかな手当てですぐに復帰できた。
だが、そのせいで自分が倒れる羽目になるとわかっていたら、彼女はあそこまで無茶をしていただろうか。今までの印象では彼女は自分を犠牲にしてまで誰かを救おうとはしていないはずだったのだ。
「自分の未来は見えないのか」
前に椅子から落ちたことも含めて問いかけると、八丈野は少し考え込むような仕草をしたあと、言葉を選ぶようにゆっくりと言う。
「見えにくいけど、見えないわけじゃない。でも、自分の未来を見ちゃうと、なにをしたらいいかわからなくなって、なにもできなくなるから。自分に関わることは見ないようにしてる」
「わりと融通が利くんだな。望んでなくても見える感じだと思ってた」
「目を塞げば物は見えないし、耳を塞げば音は聞こえないでしょ」
永井の疑問に対する八丈野の回答は明瞭だった。どうやら彼女にとって予言の力は五感と同じレベルにあるらしい。
隠しているわけじゃない、と言っていたのは真実のようで、彼女は雑談のトーンで過去に見てきたものや体験してきたことを語った。始業式では被害者となるはずだった女子を永井の鞄で足止めして、そのうちに変質者の出る場所へ防犯ブザーを準備しながら先回りしていたらしい。危ないだろうと永井が
「あっ」
話の途中、八丈野は急に調子はずれな声を上げた。それは永井の噂のことを今になって思い出し、学校の玄関で彼が口走ったのがそのことへの配慮だったのだと気づいたからなのだが、別に大したことでもなかったので八丈野はそれを永井に告げたくはなかった。
そのとき誤魔化すのに都合よく、道の先からこちらに向かってくる人影が見える。自転車を立ちこぎにする、中学生くらいの少年だ。彼の背後にある未来の光景に目を見張ると、八丈野は両手を広げて声を張った。
「ストップ!」
八丈野の唐突な行動に永井は驚愕した。今日は無理をしないと思っていたので呆気に取られたというのもあるし、そもそも八丈野がこうして声をかけるところを見るのが初めてだったのだ。
あの少年もさぞ不審がるだろうと思えば、呼びかけに答えて大人しく速度を落とし、自転車を降りた。彼は永井に向けて少し頭を下げ、不機嫌そうに八丈野の方を向き直る。それは他人に対する態度ではなく、二人の間に面識があることが見て取れた。
八丈野は少年の姿をじっと見つめ、しばらく動かない。いつも迷いなく奇行をやってのける彼女にしては珍しい逡巡だ。やがて永井の持つ鞄に手を伸ばすと、八丈野はそこからハンカチを取り出して彼に手渡した。
「これ、持って行きな」
「なんだよ、また汚れるような目に遭うってこと?」
「いいから。しっかりね」
八丈野は彼の肩をぽんと叩いて、さっさと行くように促す。少年は
「知り合いか?」
「弟」
思わず、きた道を振り返る。先程の少年は角を曲がったのか既に姿はなく、じろじろ見るのも悪いと思って顔もあまりおぼえていない。それでも確実にいえるのは、姉である八丈野つぐみほど特徴的な外見をしていない普通の少年だったということだ。
似ていないと、わざわざ言うことはしなかった。それは
「ハンカチを渡してたけど、絆創膏とか包帯とかじゃなくてよかったのか」
「怪我するわけじゃないから。道に迷って泣いてる女の子に会うってだけ」
「なるほど……」
「ちなみに、その子はひょっとしたら未来の奥さんになる」
「そんなことまで見えるのか?」
思いがけない予言に、素っ頓狂な声が出た。やや恥ずかしい気分になる永井だが八丈野にそれを馬鹿にする様子はなく、それどころか、なにやら失態を悔いるように渋い顔をしている。それはまるで、言う気がなかったことを口走ってしまったような反応だった。
彼女は言葉にならない呻き声を上げ、しばらく考え込んだかと思うと、意を決したように言う。
「未来とは別のものが見えることもある」
「別のもの?」
これほど八丈野が苦しげにするのは初めてなので聞き返すのは気が引けたが、残念ながら好奇心が勝った。八丈野は深い溜息をつくと真面目くさった表情を作り、ぴんと立てた小指を見せた。
「よくある赤いやつ」
永井はしばらく無言になったあと、そうか、と短く答えた。それ以外に答えようがなかった。
「そんなことより、私も永井君に聞きたいことがあったんだけど。どうして最近、一緒に帰ってくれないの?」
余程答えにくいことだったのか、顔を少し赤らめながら、八丈野は言った。それはもしかしたら照れ隠しのための方便だったのかもしれないが、永井にとっては今日一番の衝撃だ。
思い出すのは、あの後悔と
「いや、だって、この間……」
「この間?」
要領を得ない言葉を羅列する永井を訝しむように、八丈野は首を捻った。そこにはあのときと同じ、ただそれを不思議がっているだけという気配しかない。
「私が放り出した鞄を拾ってくれて嬉しかったし、知り合いが近くにいるって思うと無茶なことしないように自分で歯止めをかけられるから、助かってたんだけど……」
永井は呆けたように口を開きっぱなしにしていることにも気づかず、しばらく硬直する。
つまり自意識過剰なだけだったのだと理解するまでに数秒を要した。なぜ下校についてくるのかと彼女が聞いたのは、本当に裏も表もない、ただの疑問だったのだと。
「なんとなく、かな……」
「そう?」
前とまったく同じやり取りを交わした頃、ふと八丈野は白く細い指をタクトのように振った。その指し示す方には小さな庭のあるこぎれいな住宅がある。どうやら、ここが八丈野家であるようだった。
永井は持っていた鞄を八丈野に手渡し、しかつめらしい顔をした。説教くさい雰囲気に、八丈野は嫌そうな顔をして一歩だけ身を引く。
「人にお節介を焼くのはいいけど、程々にしろよ。自分が倒れるまでやるのは、やりすぎだ」
「うん、わかってる。今日は……ちょっと見誤っただけだから」
八丈野は言葉を選ぶように間を空けて言った。それははぐらかそうとしているのではなく、適切な言葉が上手く出てこないもどかしさによるもののようだ。その少し回りくどい言い回しもしっくりこないのか、どこか歯がゆそうな顔をしている。
じゃあ、と呟いて身を翻すと、八丈野は白い指を揃えて控え目に手を振った。永井はそれを見て、言おうかどうか悩んだ末に、ごく小さな声で言う。
「今日は、ありがとう」
八丈野は、それがいたく意外だったようで、しばらく声を詰まらせる。そして永井が家までの見送りを申し出たときのように破顔一笑し、こちらこそ、と言った。
永井は途方もない疲労感を自覚しながら改めて帰路についた。今日のことが走馬灯のように繰り返し脳裏を過ぎり、それが煩わしくて頭を振る。
八丈野にまつわる記憶を払拭して、思い出したかのように湧き上がってくるのは、一つの懸念だった。
未来が見られる――そう八丈野が明らかにしたときの、熊倉の顔。日に日にやつれていく幼馴染の目に過ぎった悲痛な感情。それが形を取って現実に影響するのが遠い未来のことではないと、予言の力を持たない永井にも、それだけはわかっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます