2章 預言者の心は
2-1 呪い
一学期の中間テストも終わり、なんとなく弛緩した空気の漂っている頃のことだ。
二年生になった彼らはテストの点数を人と比べたりして、進学を本気で考えている生徒と、そうでない生徒との学習への取り組み方の違いを、目に見える形で感じていた。進路を本気で考えるのはとてもおそろしくて、それを言葉にしようとする生徒は一人もいなかったけれど。
そんな暗さを払拭する狙いでもあるのか、この時期になると彼らの学校では体育の授業でスポーツテストが行われる。いくつかの種目で記録を取って点数をつける、全国の学校で行われているテストだ。
しかし折悪しく、その日、日本は全国的に初夏としては記録的な暑さを記録していた。
空は手を伸ばせば沈みそうな深き青、燦々と輝く太陽は加減を知らないように照る。昨晩の雨が影響して湿度も高く、不快指数は天井知らずだった。
苦行のような暑さの中、
彼らが連れ立つ姿は時々見かける。しかし、八丈野にはなぜか、彼らの間に人間関係の繋がりが築かれているようには思えなかった。独りと、一人が、並んでいると言うべきなのかもしれない。
その印象が真に正しく、そしてそこになにか原因があるとするなら、それはきっと永井なのだろうと八丈野は感じていた。他にも友人がいる熊倉とは違い、永井が自ら誰かと接触するところを見たことがなかったからだ。
誰かに手を差し伸べられなければ、ぼやけた六等星のように、いつまでも孤独なままで消えていきそうな、永井は見た目や体格と裏腹に誰よりもか弱く思える。人嫌いなのか、あるいは一人でいるのが好きなタイプなのかと思ったが、いや、違う、と八丈野は記憶を辿る。そういえば彼は誰に頼まれることもなく帰り道についてきてくれていたことがあったと思い出した。あれは、どういう意味があったのだろう。
疑問に答えを出す前に八丈野は二人に追いついてしまい、永井の肩をぽんと叩く。振り返った彼の、いつも固い表情は、驚きと憂慮に曇った。
「大丈夫か。顔が真っ白だぞ」
疑問より先に心配の言葉が出てくるとは、永井は中々お人好しなところがある。一緒に下校をしていたとき、自分の放り出した荷物を拾ってきていたり、怪我をしかけたときに声をかけてくれたりしていたから、そのことを八丈野はよく知っていた。
だが、今は自分が熱中症になりかけていることよりも大事なことがある。
「大丈夫。それより今日の五十メートル走だけど、一回目は最下位でもなんでもいいから適当に流して。本命は、二回目」
「……なんでだ?」
疑問を呈したのは永井ではなく、その隣で話を聞いていた熊倉だった。
「その方が良い記録を出せる」
「一回目を本気で走った方が、良い記録が出そうだけどなぁ」
八丈野は熊倉の反応を少し以外に思った。言葉の内容以上の否定や悪感情がそこにはなく、単なる疑問でしかなかったのだ。彼もまた、八丈野の奇行を知っているはずなのに、それを疎んじている様子がない。永井と熊倉、お人好し同士、類が友を呼んだのだろうか、とひたすら失礼なことを考えた。ともあれ、聞かれたからには答えないわけにはいかない。
「私、未来が見えるから」
「えっ」
その言葉に真っ先に反応したのは永井の方だった。ある意味、唖然として固まっている熊倉よりも驚いていて、八丈野はそれが不思議だった。
「永井君には前に言ったでしょ?」
「そうだけど、それ、そんな気軽に言ってもいいのか」
「別に隠してるわけじゃない。言いふらすようなことじゃないだけで」
永井は今まで八丈野が見たことがないほどにうろたえていた。なぜそんなにも、と思っていると、熊倉の様子が少しおかしいことに気づく。想像だにしないことを聞かされて驚いているというには、あまりにも大きな衝撃を受けているようだった。
八丈野は熊倉について気になっていることがあった。いつも疲れているような、暗い顔をしているということだ。そして永井が、彼を心配そうに見つめていることが多いのも気にかかる。
「どういう未来が見えたんだ?」
「でも」
「前に聞いたことは、おぼえてる。あくまで、参考だよ」
なにかを誤魔化すように永井が
「一回目を全力で走ると、途中で転んで怪我をするよ。二回目でも良い記録を出せなくなるだろうから、一回目は捨てた方がいい」
「……走って転ぶなんて、小学生以来だな」
案の定、永井は信じていないようだった。というよりも、濁すような言葉と裏腹に、欠片ほども信じていないはずだ。そうであることを八丈野は十七年の人生で学んでいた。
「話は、それだけ」
八丈野はあっさりと言い放ち、彼らと逆方向の女子更衣室に向かった。
自分の未来視について、ある程度は理解している。助言や指示を通した事態の回避は可能だが、未来視の内容自体は絶対に信用されることがない。そして経験上、その内容を打ち明けてしまったとき、未来を変える可能性は完全に断ち切られてしまうのだ。
つまり既に永井の転倒する未来は不可避なのだが、やれることはやったし、しょうがないか、と八丈野は考えている。八丈野は未来を変えるための行動を惜しまないものの、その結果については頓着しないところがあった。
更衣室へ向かう途中、八丈野は視線を感じる。そちらの方を見てみれば、同じクラスの女子達が自分を盗み見て何事かを囁き合っているようだった。人に見られるのは慣れているが、その様子が少しおかしい。
彼女らはなにか迷っている様子だったが、八丈野に見られていることに気づくと、その中の一人が躊躇いがちに進み出た。
「あの……八丈野さんって、永井が好きなの?」
思いがけない質問に、八丈野は目を見開いた。まさか他の生徒の色恋話に自分が介在するとは思っていなかったのだ。
しかし、そこに高校生らしい甘酸っぱさは欠片ほども存在せず、それどころか不穏さが漂っていた。彼女らの切羽詰ったような様子がまったく理解できず、八丈野はふるふると首を横に振る。
「いや、時々話すだけだけど……」
「だったら、永井と話すの、やめた方がいいよ」
その女子はきつく眉根を寄せ、嫌悪感を顔全体で表現していた。
「永井って中学のとき、好きな女子に振られた腹いせに、その子の変な噂を流そうとしたらしいから」
八丈野は彼女らと話したこともなく、接点は同じクラスということだけ。にもかかわらずこうして忠告してくれるのは、おそらく純粋な善意なのだろう。言葉の中には永井に対する純粋な悪意が溢れているが。
熱で思考能力が落ちている八丈野にも、言葉の意味はわかる。それほど難しいことではない。しかしそれを現実の世界に当てはめて、現在の人物に重ねるのは困難だった。彼が特定の人物に対して好意を抱いているのも、彼が特定の人物に対して害意を抱いているのも、想像するのが難しい。
だが、同時に納得するところもあった。八丈野は言動のせいで自分が他人に疎まれがちなことを知っているが、永井もまた、とりわけ女子に敵視されているような気がしていたのだ。同じクラスになって以来、永井が人の注目を浴びるようなことをしたおぼえがなかったので、それがいったいどういう出来事に由来しているのか、ずっと不思議だった。
思わず振り返ってみると、廊下の奥、その遠くで、永井もまたこちらを振り向いていることに気づく。
嫌悪感を丸出しにしている女子と一緒に話し込んでいる自分を見て、彼はどう思っているのだろう。まだ彼との付き合いが浅い八丈野には、それがわからない。だが、彼の表情がやはりぴくりとも動かず、怒りも哀しみも、諦観すらも映さないことが、ひどく痛ましく思えた。
◇ ◆ ◇
結局のところ、永井に八丈野の予言を信じることはできなかった。グラウンドで一切遮るもののない太陽光を浴び、ガタガタの白線で区切られたレーンに立って、永井は全力で走ることを決めている。とはいえ、迷いがなかったといえば嘘だ。彼女の予言を聞いてから、ここに至るまで、どうしようかずっと考えていた。
今更、八丈野の未来予知が嘘か妄想だと疑う気は永井にはない。世の中には理解できないことも、理解する必要がないことも溢れていると思っているからだ。だが誰にも信じられない呪いということだけは彼女の早合点なのではないかと思っていた。思いたかっただけかもしれない。もしそれが真実だとすれば、あまりに彼女が救われない。
ここで八丈野の予言を覆すことができれば、彼女が予言に振り回されることも減るのだろうか。
それが証明できたところで、自分がなにかを得ることもないというのに。
八丈野のことをお節介とは言えないなと、永井は虚しくなった。
「なぁ、永井。場所、代わってくれないか?」
益体もないことを考えていると、隣のレーンにいる男子に声をかけられる。どうやら陸上部やサッカー部など、身体能力に自身がある生徒の間で、このスポーツテストの点数で勝負するのが流行っているらしかった。自分のレーンのコンディションが悪いから、代わってほしい、とのことだ。確かに彼のレーンは、よくよく目を凝らせば遠くに小さな水溜りが見え、きらきらと太陽光を反射しているのがわかる。永井は別に好タイムを狙っているわけでもないので、快く頷いて場所を譲った。
男子の間では、永井の噂はそれほど大きな影響がないし、そもそも知らない者も多い。それもそのはずで、完全に他人事だからだ。多少の距離感は否めないが、こうして気さくに話しかけてくれる人もいるにはいる。しかし男子の分の悪意を引き受けたように、女子は永井を
八丈野は、おそらく永井が他の生徒から避けられていることに気づいていた。だがその原因となった噂の詳細を彼女が知っているかどうか、永井は確信を持てずにいた。だから接し方に少しの迷いがあったのだが、つい先程、八丈野が珍しく女子と連れ立って歩いてなにかを話しているのを永井は見た。そして彼女が驚愕と不審の目で自分を見つめていたことを、彼女が噂のことを知ったと、知ってしまった。
胸の奥が少し苦しい気がする。それは麻酔の効いた皮膚を裂かれるのに似ていた。確かに傷は受けたのだろうが、流れる血もそのままに放っておけるほど、永井は自分の状態について無関心になっていた。だから、これでよかったのだとも思う。むしろ熊倉とすら同じクラスになるべきではなかったのだ。独りでいることで、優越感にも浸れることだし。そう思ってしまえるほどには、永井は独りに慣れていた。
しばらくすると永井の走る番がやってきた。記録を測定する係の生徒がゴールの辺りで手を挙げ、次の走者に準備を促している。クラウチングスタートの構えを取り、後ろで控えている次の走者がスターティングブロックの代わりに足を差し込んでくれる。よーい、の合図で腰を上げ、どん、の声と共に蹴り出した。ざっ、と音を立てて湿った地面が抉れる。晴天に焼かれた体が、風を受けて心地いい。その涼しさも筋肉の生み出す熱がすぐに凌駕した。
鼓動と呼吸、運動靴の土を蹴る音しか聞こえない世界で、永井は隣のレーンの男子が徐々に前へ出て行くのを知る。俊足の運動部に勝てるなどとは思っていないので、これは想定の範囲内だ。むしろ、彼らにとっては永井にここまで食いつかれた方が驚きだろう。まったくもって目立つタイプでないので知っている生徒は少ないが、永井の身体能力は優れている方だった。
それよりも永井が気にしていたのは、地面のコンディションの方だ。永井は八丈野の予言を忘れたわけではなかった。おそらくは、少し先に見える水溜りこそが八丈野の見た未来の元凶なのだろう。あのぬかるみに足を取られれば、いくら運動神経が良くても転倒するのは免れない。
永井は少しだけ速度を落とし、レーンの狭い直線の中で孤を描くようにして水溜りを避け、細心の注意を払って駆け抜ける。タイムロスは大きいが、それでも自分の前を走るのはあの運動部の男子だけだ。これなら全力で好記録を目指しながらも転ばなかったといえるだろう――その油断が
足からすっぽ抜けた靴が宙を舞い、蹴り上げられた土くれが転倒した永井の上に降りかかる。咄嗟に地面についた手は小石が食い込んで痺れるように痛み、ひりひりとした感触の膝は出血しているかもしれなかった。
「くそ……」
思わず、溜息と一緒に悪態が漏れた。横倒しになった世界全体が自分を嘲笑っているような気がしていた。実際、そこまで皆が自分に関心を持っているとは思っていない。単なる被害妄想と自意識過剰だ。全力疾走に疲れた身体を起こし、土汚れのついた体操着を見てやるせない気分になる。小さい子供じゃあるまいしと、家族に笑われるのが目に見えた。
靴を履き直し、泥だらけの姿のまま、ひとまず完走する。計測係から一応タイムを告げられるが、とても参考にならない数字だった。これが永井でなければ周りにいる生徒もからかいの声くらいはかけたのかもしれないが、向けられるのは気まずそうな視線だけで、永井は惨めな気分になる。もっとも、今更そんなのは気にもならない。惨めなのは、二年前からずっと同じことだ。
「大丈夫?」
レーンを迂回してスタート地点に引き返す途中、永井は思いがけない声に目を見張った。それは、八丈野だった。
一歩進むたび、色素の薄い髪が陽光を絡め取るようにして煌めき、半袖の体操着から伸びる白く細い四肢は幻想の住人をすら思わせる。永井は現実離れしているほど儚い彼女の姿に見惚れたが、すぐ我に返って焦りを覚えた。救急箱を持った彼女の足取りはおぼつかなく、顔色は白を通り越して青ざめていたのだ。
「なにやってるんだ。大丈夫じゃないのは、八丈野の方だろ。早く保健室に行けよ」
「手当てが先。すぐに終わるから、そこに座って」
「いや、自分でできるから……」
「いいから」
地面の乾いているところを指差し、有無をも言わせない口調で八丈野は言った。永井は彼女の今までにない強気な態度に鼻白み、すごすごと腰を下ろす。
八丈野は永井の怪我が少ないことに驚いているようだった。転倒を警戒して減速していたこともあり、転ぶときに両手足から着地できていたからだ。勢い余って身体ごと倒れてしまったものの、足にも捻挫などはなく、傷は掌と膝の擦り傷程度だった。
「すごく丈夫なんだね。それとも運動神経がいいのかな」
独りごち、八丈野は痺れるように痛む永井の手に消毒液を垂らした。汚れを洗い流して清潔な布で軽く拭い、絆創膏で保護する。傷の大きい膝は包帯でぐるりと巻いた。その手際は熟練のものを思わせ、永井を驚かせる。
「慣れてるな」
「救急法クラブに入ってるから。資格も持ってるよ」
永井は自分の怪我と彼女の体調のことすら忘れて驚いた。この学校には救急法クラブがあり、時々資格を取得したことを表彰される生徒もいる。いつも朝会などでは居眠りしているから記憶にないが、彼女もそのために登壇したことがあるらしかった。
八丈野は永井の手当てをあっという間に終えると、救急箱を手に立ち上がった。その足元はやはり危うい。
「じゃあ、二回目の測定、頑張ってね」
「保健室に、行くんだよな?」
「そうする。さすがに、ちょっとしんどいから」
そう言い残し、八丈野はふらふらと立ち去っていく。本来ならば彼女に付き添って保健室まで送り届けるべきだった。彼女の背を見送りながら、永井の頭の中では数多の言い訳が生まれては消えていった。
自分の身が本当に危険だと察していたなら彼女はここにいなかったはずだ。一緒に連れ立ってこの場を去ることで、彼女に噂が立つかもしれない。そもそも、噂を知ってしまった彼女なら、付き添いを申し出たところで断っていたかもしれない――――。
そんなものが方便であることを永井は自覚していた。結局、自分がおそれているだけなのだ。なにをおそれているのか、というところまで永井は考えない。それを追究したところで得るものなどなにもなく、自分が傷つくだけだということを知っていた。
◇ ◆ ◇
入学以来、一度も入ったことのない扉を叩く。
引き戸を開くと、そこは永井の知る学校とは別世界のように穏やかで柔らかな空間だった。そう感じるのは、一つの調度から小物の色まで、養護教諭が細やかに気を配っているからなのだろう。部屋は半ばから戸棚で区切られており、奥にはベッドが並んでいるようだった。天井に張り巡らされたレールが色の褪せたカーテンを吊り下げている。すべてのカーテンがきちんと引かれているところを見ると、ベッドは一杯のようだ。
出入り口に近い側には、窓際に教諭の机と、中央にはパイプを天井に伸ばしたダルマストーブ、それを囲むように使い古されたソファが配置されている。憩いの場として理想的な箱庭の世界は、がらんとして静かだった。保健室は生徒の溜まり場という偏見があったので、その光景は永井にとって意外だ。開け放たれた窓から風が吹き込み、日除けのカーテンがひらりと翻る。ソファの近くに置かれた扇風機は天井に向かって首を振り、ぶーん、と低い音を立てて空気を攪拌し続けている。
永井は後ろ手に扉を閉じて踏み入れると、きょろきょろと周囲を見渡した。保健室の主は留守にしているらしく、人の動く気配は感じられない。どうしたものかと悩み、何気なく視線を下げて、そこに見えたものに息を呑んだ。入り口からは背もたれで死角になっていて気がつかなかったが、ソファに仰向けで眠る生徒がいる。ベッドが埋まっているため、こんなところに寝かされているのだろう。
脇の下に
横たわる八丈野の体操着姿は普段以上に華奢な印象で、永井はどうしようもなく不安になる。眠っている女子の姿など、まじまじと見るものではないとわかっているが、永井は魅入られたように童話の眠り姫を思わせる彼女から目を離せなかった。
人の気配を感じたのか、閉じていた瞼が震え、そしてゆっくりと開く。焦点のいまいち定まらない湖面の色の瞳は、なぜここに永井がいるのかと困惑しているようだった。
「落し物を拾うようなものじゃなかったのか」
永井は押し殺した声音で言った。
八丈野は意識がはっきりしてきた様子で、目を何度か瞬かせると、とぼけたように言った。
「なんの話?」
「未来を見て、頼まれてもないのに勝手な人助けするのを、落し物を拾うことに例えただろ」
永井が呆れて言うと、あぁ、と八丈野は合点が行ったように頷く。答える前に喉の渇きを覚えたのか、体を起こして床に転がしていたペットボトルを拾い上げる。反った生白い喉がごくりと動き、ぬるいスポーツドリンクを嚥下する。満足げに吐息をつくと、ようやく彼女は永井と目を合わせた。
そして、あえかに笑う。ほとんど初めて見る彼女の柔らかな表情に、永井は胸を打たれた。
「見ず知らずの他人だったら放っておいたかも。でも、そうじゃないから」
ぐっ、と拳に力がこもった。永井は、腹腔の奥に沈んでいた鉛のような重みの正体を理解する。
手当てのために八丈野が駆けつけた、そのタイミングが早すぎたことに永井は後から気づいた。永井がスタートを切る前には行動し始めていたに違いない。
自分の予言が信頼を得られないことを当然としている八丈野に、そしてその通り彼女を裏切った――ある意味では期待通りにした――自分自身に、永井は行き場のない激しい怒りと後悔を抱いていた。
「信じられなくて、ごめん……」
搾り出すような永井の懺悔に、八丈野は珍しく慌てたように手を振る。
「謝らなくていいよ。私のこれは、そういうものなんだから」
その言葉には負の感情もなければ、含むところもなにもなく、ただ事実を述べただけという響きがあった。その軽さが余計に重く永井にのしかかる。いったい、それがどれほど痛ましいことか、八丈野は知っているのだろうか。信頼を得ることを諦め、猜疑と奇異の感情を甘んじて受けることを、当然としてしまっていることが。
未来視に従って人を助けたところで、彼女は神話や聖書に現れる聖人にはなれない。彼女の行ったことを正しく伝え広める
言葉を失って立ち尽くす永井の都合を無視するように、ノックの音もなく出入り口の扉が開く。見れば、手に女子生徒の制服を持った養護教諭が現れていた。どうやら八丈野の制服を取りに女子更衣室へ行っていたらしい。永井はそこで初めて気づいたように、自分の持っていた救急箱を見下ろした。授業で使った救急箱を返却にきた、というのがここを訪れる本来の目的だったのだ。
永井は教諭に言われて救急箱を戸棚にしまうと、逃げ出すように保健室を後にした。
瞼の裏に焼きつくのは、弱々しく横たわる八丈野の身体と、儚い笑顔だ。
まるで聖者を裏切った
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