1-3 素直の功罪
重い荷物の落ちる音を置き去りに、ぐんぐんと軽い身体が前に伸びていく。スニーカーの底が規則正しく路面を叩き、軽快な音を鳴らす。しかしトップスピードに乗るかどうかというところで彼女は突然立ち止まった。あまりに激しい意味不明な行動に周囲の通行人が視線を寄越し、路地から現れた猫が頭を巡らせた姿勢のまま固まっている。
いつもの奇行にしては、目に見える迷惑をかけていない分、大人しいものだった。息を整える八丈野に追いつき、永井は呆れた風に言う。
「猫の未来も見えるのか?」
しばらく彼女の奇行に付き合ってきた永井は、八丈野の見ただろう未来の内容を推理できるまでになっていた。
「猫の……というか、そういう見え方じゃないかな、今のは。そもそも、見るっていうのとは違うかもしれない。言葉にするのは難しいんだけど」
彼女は言葉を選ぶのが苦手そうだった。人付き合いが少なかったというのも要因かもしれないが、感覚で行動する彼女の性質によるものなのだろうと永井は確信している。
八丈野は永井から自分の鞄を手渡されると律儀に礼を言い、もう彼に一顧だにすることなく、また前を向いて歩き出す。永井はそんな八丈野の後ろを少し離れて追いかける。
八丈野と永井のこうした下校風景は、未来が見えると八丈野が打ち明けた日から始まっていた。
あの日、互いに任されていた作業を同時に終えたので教室を出るのも一緒だった。もちろん永井は自意識過剰を自覚しながらも、帰り支度に手間取るふりをしてタイミングをずらそうと試みたのだが、帰らないの、という八丈野の問いを上手く誤魔化せず、結局は二人で学校を出たのだった。
寄り道をして八丈野と別れるつもりだった永井の目論見が外れたのは、八丈野が奇行を始めたときだ。彼女は鞄を放り捨てたかと思うと、突然に目の前の交差点を目がけて走り出したのだ。それは、携帯電話を操作しながら自転車に乗っていた男性が、横断歩道に差しかかる直前になって信号の赤色に気づき、慌てて急停止して携帯電話を取り落とす、という事態を防ぐための行為であった。八丈野の急接近に驚いた彼は、結局のところ慌てて転びかけたのだが、それはたぶん彼の大事な携帯電話を落とさなかっただけましなことなのだろう。その出来事を目の当たりにして呆気に取られていた永井は、八丈野の落とした鞄を拾ってその背を追いかけたのだ。
一歩間違えれば怪我をするか、怪我をさせるか、相手が気性の荒い
独りぼっちにありがちな早足ではなく、意外にのんびりと歩く彼女の少し後ろにつきながら、永井は暇を持て余すように言った。
「行動に移す前に、声をかけるのは駄目なのか。未来が見えることは黙っておけば、誤解されることもないだろ」
「それは無理」
にべもない回答に永井は押し黙った。考えてみれば確かに、余計なお世話だと言われているのが目に見えているし、もしかしたら八丈野は既にそれを試みたのかもしれない。
「悪い、適当なこと言った。先に説明したところで、結局は変人扱いされるのは同じか」
永井の独り言のような呟きに、八丈野はそれが癖なのか、首を傾げた。
「ううん、無理っていうのは、そういう意味じゃない」
「……信じてもらえないってことじゃないのか」
「そうだけど、そうじゃなくて」
要領を得ない言葉に永井は怪訝な顔を隠せない。八丈野は人と対話する機会が滅多にないため、自分の語彙に適切な言葉を捜すのが難しいようだった。
唸りながら悩んでいたところ、ぴったりな単語が天啓のように降りてきたらしく、八丈野は手を打った。清々しい表情で、珍しく声が高揚している。
「私は未来を見られるけれど、その予言は決して人に信じてもらえないの。まるで呪いみたいに」
その内容と晴れ晴れした表情の落差に
「予言の次は呪いか……なんだかファンタジーの登場人物みたいだな」
八丈野はいまいちファンタジーという言葉が腑に落ちない様子だった。それもそのはずで、考えてみれば八丈野にとっては紛れもない現実なのだ。そして彼女が特異な性質を自覚するまでの過程に、疎まれ続けてきた過去があるはずだった。そういった良くも悪くも強烈な体験を幻想と一緒くたにされることが、彼女は嫌なのかもしれない。
「疑わないんだね」
少しの逡巡のあと、八丈野は足を止めないままでぽつりと呟く。
「実は嘘だった、とか言うなよ。俺が馬鹿みたいだ」
「嘘じゃないけど、普通は信じないんじゃないかな。根が素直なの?」
根が素直、なんて日常会話に出てきた場合ほとんどが揶揄だ。これが別の他人ならば少しは気を害したかもしれないが、永井は八丈野に悪気がないことを察して苦笑いをした。
永井は、一度も八丈野に猜疑の眼を向けなかった。かといって興味なさげに聞き流しているわけでもなく、妄想に話を合わせているようないい加減さもない。八丈野の声を確かに受け止めていた。未来を見られるなどと打ち明けてられてしまってからも、呪いの話を聞いた今も、なにも変わらない。
永井には、昔からそういうところがあった。とりあえず相手の言葉はすべて受け止めて、それから交流と体験の中で精査していくのだ。疑うことを知らないといえば、そういう見方もあるだろう。それは八丈野にとって意外なことなのかもしれなかった。
素直――――その何気ない単語が、永井の記憶を不意に手繰り寄せた。
目は遠いどこかに焦点を合わせ、なにかを笑うように鼻が鳴る。無理に吊り上げた口の端が神経質そうに震えていた。
「そんなんだから――」
それは、自嘲だった。どこか達観している風な態度の永井が八丈野に初めて見せる、静かで激しい感情の発露。ほんの一瞬のことだった。知らず息を殺してしまっていた八丈野の視線に気づき、永井は何度か瞬きをする。
次の瞬間には、永井は普段の調子を取り戻していた。自嘲の笑みはなくならないが、そこにはおどけたような雰囲気がある。
「そんなんだから、引っかけ問題に引っかかる」
「あぁ……」
春も過ぎ、初夏の足音が聞こえる時節、彼らは中間試験の勉強に追われていた。数学の時間の小テストの、良くも悪くもない点数が頭を過ぎり、二人は嘆息する。
今日は猫の件以外は奇行がなく、永井は少し安心していた。そうこうしているうち、分かれ道に差しかかる。片方は電車の駅に向かう道で、永井の帰り道。もう片方は八丈野の帰り道だ。いつもは、じゃあ、おう、などと挨拶らしい挨拶もなく分かれる二人だったが、先を歩いていた八丈野が今日は振り返った。
「どうした?」
永井が問いかけると、八丈野は見たことのない物体に出会った小鳥のような面持ちで、言った。
「永井君は、どうして最近、私と一緒に帰ってくれるの?」
その一言は永井にとって大きな衝撃だった。そして自分で思っていた以上に衝撃を受けたという事実に、また別の衝撃を受けている。
「なんとなく、かな……」
「そう?」
なんとなく口をついて出ただけの質問だったようで、回答らしい回答が得られていないことを気にした様子もなく、八丈野はいつものように姿を消した。永井もまた、そんな彼女の背を見送ると自分の帰り道につく。
駅へと向かう途中、永井は通りかかった電柱に額を叩きつけたい心地だった。先程の八丈野の問いが繰り返し反響し、気持ちがどんどん後ろ向きになっていく。
いくら人間関係が希薄でも、いや希薄だからこそ、独りに慣れた者は周囲の感情に敏感になるものだ。八丈野は、その詳細を知らなくとも、永井にも噂の陰がつきまとっていることに気づいているはずだった。
そんな相手に頼んでもいないのについてこられて、不愉快でないはずがなかったのだ。ただ彼女の感情の表し方がわかりづらく、自分がそれに気づかなかっただけで。
無意識のうちに彼女を同類と見なしていた傲慢。また同類を近くに見出したいほど、まだ人の好意を諦められていないのだという事実をまざまざと見せつけられた。それが永井には耐え難いほどの苦痛を伴った。
結局、翌日から二人の下校風景は、妙な邂逅を果たす以前のものに戻った。八丈野は永井が下校を共にし始めたときと同じく、永井が後ろをついてこなくなったことに疑問を抱いている様子もない。今度こそ、この関係性が変わることはないだろうと永井は思っていた。やはり、このときまでは、そうだったのだ。
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