第2話

 車内は緊張に包まれながらも、僅かに安堵する空気に包まれている。

 忽然と旅館から消えたヒロキが告げたのは、昼間訪れたM山の登ったルートではなく、反対側にある、車道が緩やかなカーブを連ねる途中との話だった。

「しかし、なんだってそんな場所に」

 タイジがポツリと零した疑問に、俺も小さく頷き返す。

 頭の中では別の事に考えを巡らせていたが……。

 俺とタイジがヒロキを部屋に置いて本館にある露天風呂に向かってから、カエデの助言を受けて部屋に戻るまで三十分も経っていない。

 捜索を含めても一時間も満たない状況で、ヒロキはどうやってM山まで移動したのだろう。

 駐車場には、今俺たちが乗っている社用車も、レンタルしたマイクロバスも、使われた形跡もなく鎮座していたというのに。

 ではタクシーかバスの公共交通機関を利用したのかと思い、旅館付近で待機していたタクシー運転手にそれとなく話を尋ねてみたが、どうやらあの近辺は運転手の間では有名なようで、日暮れ以降に進んで行く事は絶対ないとのことだった。

(それに、ヒロキの財布は部屋に残されていた)

 見知った土地で、早足で迷わず歩けば可能かもしれないが、土地勘もなければ、金銭も持たず、10km先のあの山まで行けるのだろうか。

 俺は乗る前の買った缶コーヒーのプルタブを開け、苦味のある液体を喉に流し込む。風呂から上がってから現在まで水分を補給してなかったせいか、冷たいコーヒーが喉に染みて思わず息が漏れる。

(なぁ、カエデ。霊って生きた人間を、瞬間的に別の場所に移動させる事って可能なのか?)

 少し余裕が戻った俺は目を閉じ、カエデに問いかける。

 瞼の裏で、振り返ったカエデは、晩メシにありつけなかった不機嫌からか、口を曲げていたのを解く。どうやら無視するつもりはないようだ。

(できるんじゃない? 僕は疲れるからやらないけど)

(……ということは、ヒロキに憑いてる霊が強力ってことなのか?)

(ちゃんと視た訳じゃないから、はっきりそうとは言えないけどね。対象を瞬間移動させるなんてワザ、そこらへんの低俗霊にはまずできないから)

 非協力的だと思っていたカエデから、すんなりと応えが返ってきて、戸惑いが生じる。

(もしかして、カエデ自身、こんなにおおごとになると思ってなかった……?)

 あれだけ執拗に問い質しても、はぐらかしたり、スルーしたりしていたカエデが、協力姿勢を見せた事により、俺は一層緊張を高める。

 これは一筋縄ではいかない。

 自分では霊に対処なんてできないのは、十分分かってる。ここはカエデに一任してみようか。

 飲みかけの缶を両手で包んだ俺は、フロントガラスの向こう、ヘッドライトに浮かぶ人の姿を見て声を張り上げた。

「ヒロキ!!」


 慌てすぎて足をもつれさせながら車を降り、ヒロキの元へと掛ける。

「大丈夫か?」

 周りは街灯もなく、ヘッドライトの明かりを頼りに立ち尽くすヒロキの全身を確かめる。疲れた顔をしているが、どこにも怪我があるようには見えず、遅れてやってきたタイジと二人、ほっと安心する吐息が零れていた。

「アキさん……オレ……なんでここにいるんですか?」

 不可解な状況に巻き込まれたヒロキは、怯えた目を右に左にと動かしている。

「憶えてないのか?」

「はい。昼に気分が悪くなって、山から下りるところまでは記憶あるんですが、それ以降は……」

 となると、あの奇妙な読経も、旅館での激しい拒絶もヒロキの意思でないと知り、安堵が広がりかけたが、裏を返せば霊がヒロキの意識までも乗っ取った証でもある。

 まだ緊張は解けないが、今眼前にいるのは、俺が知っているヒロキだ。もしかしたら、カエデに慄いて、解放するつもりでこの場所に来たのだろうか。

(しばらくは、霊に憑かれた後遺症があるかもしれない。だが、注意深く見守っていけば快方に向かうだろう)

「ま、いつまでもこんな場所にいても腹減るだけだし、さっさと旅館に帰って飯食おうぜ」

 な、とヒロキの背中を軽く叩いて行動を促し、戸惑ったヒロキを後部座席に押し込むように乗せる。俺は来た時と同じように助手席へと乗り込んだ。

 車内が静寂に満ちているせいか、エンジンの稼働する音と、下り坂を滑るタイヤの軋む音だけが包む。

「それにしても、急に部屋からいなくなって心配したんだぞ。でも怪我とかなくてよかったよ」

 空気を砕くように、タイジの明るい声が響く。ヒロキは「すみません」と蚊の鳴くような声で言い、またすぐに沈黙が流れる。

 緩やかな山道ではあるものの、所々整備されてないせいか、街灯の明かりが消えていた。

 静かすぎる車の中、不気味さが増し、怖がりなタイジは話を途切れさせたくないようで、しきりに喋り続ける。だが、俺は疲れで相槌を打つだけしかできず、後部座席のヒロキはさっきの呟き以降、口を閉ざしていた。

 バックミラー越しにヒロキの様子を覗う。

 後部座席の中央に深く腰掛け、がっくりと項垂れた姿は不気味で、嫌な予感が全身に駆け巡った。

(まさか……)

 安堵に包まれた体に冷水を浴びせられたかのように、全身が一気に冷たくなる。

 ヒロキが反応してくれたから、自然と霊が抜けたと信じていた。だが、それは俺の勘違いだったとしたら……

「タイジ。悪いけど車を停めてくれないか」

 まだもヒロキに対し、言い募るタイジの言葉を切り、俺は静かに言葉を放つ。

「え……でも……」

「いいから今すぐ停めろ」

 声のトーンを落とし、低く唸るように告げると、ビクリと肩を震わせ、タイジはブレーキを踏んだ。

 甲高いブレーキ音が、静寂しじまに広がり闇に吸い込まれていく。

 すぐさま降りて、後部座席で微動だにしないヒロキを外へと引きずり出す。

 脱力状態の成人男性を降ろすのは容易ではない。それでも力を振り絞り、投げるような形で地面へヒロキを座らせた。

「ちょ……アキくん」

 あわてふためきながら、車窓を開いたタイジの声が俺を呼ぶ。それでも降りてこないのは、怖い気持ちが勝ったからかもしれない。

「タイジ、先に旅館に帰ってくれていいから」

「……は?」

「少しヒロキと二人で話したいし、ビクビクしたお前の運転で帰る方が、よっぽど危険だから」

 言葉尻に嫌味を含ませ、きっぱりと告げる。

 タイジは一瞬口をぎゅっと曲げ、投げてきた反抗的な視線をこちらにが、俺が睨み返すとすぐに弱気なモノへと転じる。

 同期とはいえ、営業成績に雲泥の差があるタイジは、俺が強く出ると考える事なく飲み込んでしまう。

 現に今のタイジの浮かべる表情は、何か言い返したいのに言えないもどかしさを含んだ、苦いものだったから。

「それに、タイジにとってもこの方がいいだろう?」

 嫌味を重ねると、ふいと視線を外し「わかった」とふてくされた声が車内から聞こえる。

 俺は言葉にせずに肯首するにとどまり、次第に遠ざかっていくテールランプを見送ると、重い溜め息が自然と落ちた。

 ここからが、本当の意味での戦いになると、分かっていたからだ。

 俺はゆっくりと振り返る。

 車のライトが照らしていた周囲は、今は街灯の弱い光がぼんやりと地面を滲むように照らす。

 山の周りに回らされた、細い道路から見える街の光はとても綺麗で、こんな時じゃなければロマンティックだったろうな、とか思ってしまう。

 しかしそんな場合でないと思い直すと、地面に座り込むヒロキへと視線を移し、静かに口を開いた。

「さて、邪魔な者もいなくなったことだ。ゆっくりと話をしようじゃないか」

 俺の声とは違う濁った声が、鷹揚な口調で切り出す。声はヒロキのものだったが、口調は全く別人のようだった。

 周囲の空気がヒヤリと肌を舐める。

 これまでも霊に憑依されてきた人を幾度か見てきたことがある。その度にこの世は生きている人間以外にも存在があり、俺の日常を浸蝕するのだと知る。

 カエデが俺の中に居るが故に、怪異の深淵を覗き込む頻度が高いのは分かっている。しかし、何も力を持たない俺には、カエデの存在は必要でありながらも、その世界は恐怖以外なにものでもなかった。

「話……」

(アキ、僕に任せて)

 え、と問いかける間もなく、労わるようなカエデの声がし、続いて自分の口から発せられたのは、自分の声であって自分の意思で発した声ではなかった。

「話……ね。何かあるなら言ったら?」

 冷ややかな声音。組まれた両腕も俺の意識で結ばれたものではなく、明らかにカエデが自分の体を借りてやっているのだろう。

 何度も俺の体を使って何かをしていたのは知っている。だが、それは俺の意識がない状態──例えば寝ている時などに限っての事だ。

 でも今は違う。俺が覚醒状態で、カエデが強引に人格を替えるなんて初めてだった。

 一抹の不安がよぎる。

 もし、表に出る快感を憶えたカエデが、このまま体を乗っ取ってしまったら。

 もし、俺が俺でなくなってしまったなら……。

 長い付き合いのカエデという人間を、この時初めて怖いと思った。

 きっとカエデは「そんな事しないよ」って笑って言うだろう。

 でも内心、言葉と違う想いがあるとしたら?

 俺は、別人格であるカエデの本心が分からない。アイツは俺よりも博識で、俺よりも狡猾だったから。

「……それで?」

 突き放すようなカエデの放つ声に、俺ははっと我に返る。

 重たげに落ちる瞼の間から見えたのは、視点の定まらぬ濁った目に、半開きの口はだらけた笑みを浮かべるヒロキの姿があった。

 どうやら、俺が考えに耽ってる間に、二人の会話は進んでいたようだ。

 ヒロキの肉体と精神を乗っ取ったらしい霊は、カエデが続きを促してきたことに、ニィと唇を歪め、いかに自分の生前が苦労に満ちたもので、それゆえに周囲に認められず、最期は自殺の道を選んだのだと、論理的かつ、どこか自己中心的な都合の良い言い回しを、俺とカエデはただ聴いているだけだった。

 苦労しても認められない──

 俺はその気持ちが痛いほど解ってた。

 過去、バンドでヴォーカルをしていた時、初めは家族にもメンバーにも認められなくて、砂を噛むような想いをしたことがある。

 夜の仕事をしていても、バンド中心の生活は日々食うにも窮する時もあり、時々、自分が選んだ道が本当に正しかったのかと悩んだ事もあるし、ネット等で批判されたりすると、自分の存在は周りには不要なのでは、と自虐めいた考えにも囚われたりした。

 それでも死ぬという最悪の道を選ばなかったのは、俺を応援してくれる友人やファン、努力した分だけ応えてくれる仲間がいてくれたからだ。

 俺の唄で救われた、って文字を目にした時には、あいつらを遺して、自分だけ楽になるなんて──逃げるようでできなかった。

 だからこそ、カエデが俺の人格を乗っ取り、表に出る事など賛成できない。

 この体は俺自身のものだ。

 いくらカエデが何度も命を救ってくれたとしても、到底譲れる話ではなかった。


 俺が別事に思考を支配されてる間も話は続いていたらしい。カエデが問いただすまで感情のないヒロキの顔色は今では上気し、瞳は爛々と恍惚な色を浮かべ怪しげに光っていた。

 黒に塗りつぶされた夜の山。

 遠くから街灯の光が、薄ぼんやり俺たちの姿の輪郭を照らすものの、普通なら人の表情まではっきりと読めない。

 それなのに、明確にヒロキの表情が分かるのは、カエデの視点を通して目視しているからだろうか。

 ゾワリと肌を冷たい何かが走る。

(アキ、心配しなくても大丈夫だよ)

 脳内に直接響く声は、何を意図しているのか。

 俺が霊に対して臆してると思っているのか。それとも、カエデに対して恐怖心を抱いている事についてなのか──

 多分、カエデは後者の意味で言ったのだろう。

 俺にはカエデの心を読むことはできないが、カエデは俺の心情すべてを知っている節がある。

 別の人格という存在であるはずのカエデが、主人格の俺よりも、高みで全てを知っているというのは、不快を超えただただ怖いとさえ思う。

 カエデは俺が自分に対して慄いていると気づいているだろう。おくびにも出さない所に苛立ちを隠せない。

 深い闇の中、一人憤慨していてると。

「話は分かった。それで結局どうしたいの?」

 ヒロキの中の霊に告げているのか、淡々とした口調でカエデが問う。

「死んだ今では、世間の名声を得るのも無理な話だし、かといって、輪廻転生の輪から外れたままこの場に留まるのも構わないけど。僕、無条件でそういった奴ら消すけど……いいの?」

 冷ややかなカエデの言葉を受け、ヒロキの恍惚な表情が強張り、ビクリと全身を震わせる。

 きっとカエデが消すというのが、冗談ではないと気づいたからだろう。

 カエデには子供のような実直さがあり、大人の駆け引きができるようなタマではない。精神年齢は子供のようで、でも達観した老齢のようで。でも、見た目的な姿は、俺よりも若干若い位なのだが。

 ヒロキは驚愕の眼差しで俺(正確にはカエデ)を見上げ、いやだ、と激しく首を左右に振る。

「じゃあ、その体から離れてくれない? そしたら今回だけは見逃してあげる」

「……いやだ」

 今度は弱々しく首を揺らしたヒロキに、カエデは呆れたような溜め息を零す。

「そう……それなら仕方ないよね」

 すう、と右手(俺の利き手は左だが、カエデの利き手は右手なのだ)を暗闇の中で掲げ、開かれた掌をヒロキへと向ける。

(ま、待てカエデ! そんなことをしたらヒロキが……!)

「大丈夫」

 慌てて引きとめようとする俺に、カエデはやけに落ち着いた声で応える。

 どこが、なにが大丈夫なんだ。自分の霊力が桁外れなのは知ってるはずなのに。生身のヒロキの体がソレに耐えきれない。

(カエデ!!)

 刹那。ヒロキの体が物凄い光に包まれた。

 これまで暗闇に慣れ、開ききった瞳孔が、あまりにも眩しい光を浴び、加速的に収斂するのが分かる。

 眼球を焼く光が痛くて固く両目を結んでみると、太陽光を見た時に感じる瞼の裏の点滅はなく、さっきまでの凪いだ闇が世界を包む。

 もしかして、カエデが放った光は現実的なものではない?

 恐る恐る閉じた目を開くと、光はなりをひそめ、眼前では、アスファルトに横たわるヒロキの姿が飛び込んできた。

(ヒロキ……!)

 急いでヒロキの元へ駆け寄りたいが、肉体の主導権をカエデが握っている現状では、心ばかりが逸る。

「大丈夫だよ、アキ。彼の体から霊が離れて、意識をなくしただけだから」

 俺は意識をヒロキへと向け、先ほどまでの薄気味悪い表情は消え、アスファルトの上だというのに眠る姿が安らかに見え、ほう、と安心の吐息が零れた。

 しかし、完全に安心するのは早い。

 ヒロキから霊が抜けたということは、取り憑いた霊をなんとかしない限り、再びヒロキの体を乗っ取る可能性だってあるのだ。

 もうカエデに人格を奪われるなんて懸念している場合ではない。一刻も早くカエデに浄霊なりしてもらわないと……

 俺はカエデに「早く何とかしないと」と、他力本願も良いところだが、それ以外の言葉は見つからず声をかける。

 カエデは人差し指を唇に充て、思案しているように闇の中で煌く街の灯りをぼんやりとした視線で眺めている。

 しばらく沈黙が辺りを包み、俺のほうが不安になっていると。

「ねえ、アキ」

 カエデが俺の名を呼ぶ。

(なんだよ)

「あのね、ヒロキが起きたら、今回のお礼にここの名物である海鮮モノが食べたいな、って言ってくれる?」

(……は?)

 緊迫感を砕くカエデからの伝言を聞き、俺は虚を掴んだかのような声が出ていた。

(こんな状況で、ふざけてる場合じゃないだろ!)

 あまりにも空気にそぐわないカエデの発言。飲み込んだ途端、カッと熱が脳天まで昇り、思わず叫んでしまう。

「ふざけてないよ。アキが望むような結果にするには、僕でも力が必要なんだ。だから、ご褒美があれば頑張れるかな、って」

 くすっ、と零れた苦い笑い声は、山からの風によってさらわれる。

 さやさや凪ぐ葉擦れの音が、俺たちの間を抜け、まるで街の灯に呼ばれたように消えていく。

 突然の訪問者が舞台から消え去ると、カエデは右手をヒロキの近くにある虚空へと向ける。黒い七分丈の袖から延びた白い腕が、何かを描くように動く。

 ふと、さっきまで頬を撫でる程度だった風が強くなっていたのを感じる。それはカエデの動きに合わせて渦巻いているようだった。

 だけどカエデの視界を通して見ていた俺は気づいていた。

 縦横無尽に動く手は、彼独特の印を結んでいる、と。

 カエデの除霊は独特だ。

 修行したわけではないから当たり前なのだが、だからといって勉強したわけでもないのに、カエデはいつも迷うことない手つきで文字を刻む。

 さながら高名な指揮者のようで、俺は言葉を忘れただ眺めているだけだった。

 しばらく見つめていると、空を動く手が不意にピタリと止まる。

「今、道を作ったから」

 人差し指が静かに天を指し、カエデが何もない闇に向けて告げている。

 だが、カエデの視界を通して観てる俺にははっきりと認識できた。

 カエデの示した先には、星がささやかに瞬く夜空に、淡く光る道が長く続いていた。

「僕がこんな温情をかけるなんて稀だからね。だから早く行かないと、気持ちが変わるかも」

 俺からは視認できないが、きっとカエデは酷薄な笑みを浮かべたのだろう。周囲の空気が怯えに震えているのを肌が感じ取った。

 本当にあれだけ抵抗し、ヒロキに憑いた霊が簡単に浄化の道を歩むのだろうか。

 しかし杞憂は杞憂で終わったらしい。

 まもなくのち、姿のない人物の気配が消えたのを、感覚で理解した。多分、カエデが怖くて、逃げるようにして浄化したんだろうな。

 ふ、と笑いが出そうになるも、自分の体がカエデの意思で動いていたのを思い出し、緊張の糸が脳裏で張り詰める。

 カエデはこのまま表に出たまま、元には戻らないのだろうか……。

 何度もカエデが俺の体を使って、自分の欲望を満たしたりしたのは知ってる。

 欲望といえばさも誇大したものになるけど、ほとんどが甘いものが苦手な俺に内緒で糖分たっぷりな菓子を買って食べたり、別アカウント作成してオンラインゲームに興じたり、と可愛らしいものだ。

 でも、今は違う。

 俺が覚醒している状況下で、カエデが自在に動いている。いつもと違うのが一番怖いのだ。

 次の出方をうかがっていると、カエデのクスクス笑う声が体内で反響する。

「アキ、何を心配してるか知らないけど、僕はこれまでの生活が気に入ってるんだ。だから、これ以上の変化を望むつもりはないから」

 安心して、と聞こえた途端、深い海の底から海面へと引っ張られる感覚が全身を襲う。

(うわぁぁぁ……!)

 急速に変化する圧力にもみくちゃにされる。

 まるで、洗濯機の中で回る洗濯物になった気分だ。上へ下へ、右へ左へ、天も地も次の瞬間にはまるっきり逆にいて、自分が正しい道に向かってるのかさえ判断できない。

 ──これ以上の変化を望むつもりはないから。

 逆らうに逆らえない状況の中、今しがたのカエデの声を思い出す。

 だが深く考える前に、再び大きな渦が俺の意識ごと飲み込んでどこかに連れていった。


(アキ)

 聞き憶えのある声に呼ばれ我に返ると、眼には、先ほどまで見ていた景色がクリアになって映る。

「……もどった……のか」

 パチパチとまばたきしても、景色は変わらない。そこでようやく現実に戻ってきた実感がゆっくりと実感できた。

「あ、そうだヒロキ」

 アスファルトに横になったままのヒロキに駆け寄り、そっと抱き起こすと、呑気にも軽いいびきをかいて熟睡していた。

「まったく、余計な心配かけてコレかよ」

 嘆息しつつ嫌味を吐露したけど、内心ではヒロキの無事に安堵していたのも事実だ。

 俺は携帯電話で検索した中から、ひとつのタクシー会社へと電話をかけ、車の手配をする。

 噂のせいか、何社か乗車拒否されたが、体調の悪い人間がいる事、少し色をつけると交渉を持ちかけたら、渋々ながら一社のタクシーがこれから向かうと言ってくれた。

 無駄な出費は、ヒロキに後から精算すれば良いだろう。人生勉強だと言えば、嫌と言わないはずだ。

 車が来るまでの間に煙草でも吸おうと、シャツの胸元を探る。

「ん?」

 秋とはいえ昼間は汗ばむほどだった山の気温は、夜ともなると少し肌寒いくらいだ。

 それなのに、着ていたシャツはじっとりと汗を吸い、それが山の冷気に冷やされつめたくなっていた。

 髪にも手をやると、こちらも水を浴びたように濡れている。

 もしかして、これだけ汗みずくになるくらい、あの霊を浄化するには集中力が必要だったってことなのか……?

「カエデ……、なんでこんなになるまで……」

 飄々としてたから気付かなかった。カエデが無理をしていた事に。

(気にしなくていいよアキ。アキの友達を助けたかっただけ。本当は粉砕するほうが加減しなくていいから楽なんだけど、それやると取り憑かれた本体にも影響でちゃうから)

 過去に俺に憑いた謎の霊を、カエデは躊躇なく、しかも拷問にも似た方法で消滅させたのを思い出した。

 一瞬、ヒロキに憑いた霊に対しても、同じやり方でくると予測していたが、カエデは最後まで傲慢ともいえる話を聞き、昇華する道までも用意した。にもかかわらず、俺はカエデに肉体の主導権を握られるのではないかと、そればかり考えていた。

「ごめん……カエデ」

(え? な、なんで急に謝るの?)

 自分の世界でゴロゴロしていたカエデが、俺からの謝罪を聞き、あわてふためく。

「俺、カエデが体を乗っ取る事ばっかり考えてて、カエデの優しさに気付けなかった。だから本当にごめん」

 ヒロキが起きてたら、俺の姿は滑稽に見えるかも知れない。

 でも、今は謝りたい。たとえ俺の自己満足だとしても。

 カエデはしばらく消沈している俺の様子をうかがってたものの、不意ににっこりと笑みを綻ばせ「気にしてないよ」と言う。

(普通に考えれば、そこに行き着いちゃうよね。でも、僕はアキが主人格でいてくれたほうがいい。僕はアキが幸せになるために存在するのだから)

「それはどういう……」

 ひっかかる部分が聞こえ、問いただそうとした時、麓から登ってきたらしい車のヘッドライトの煌々とした光が、俺とヒロキの姿を照らす。

(さ、帰ろう。疲れちゃったからお風呂に入って、早く寝ようね、アキ)

 結局、タクシーで旅館に帰り着くと、促されるまま二度目の露天風呂に浸かり、疲労した体は素直に布団へと沈んでいった。


 翌日、昨日に続き空は快晴で、小春日和と呼ぶには暑いくらいの天候だった。

「ご迷惑おかけしました!!」

 テーブルに置かれた味噌汁の椀が倒れそうな勢いで頭を下げるヒロキに、俺は苦笑しか出てこない。

「もういいよ。お前に何もなかったし」

 顔の前で手を振り、咥えていた煙草に火をつける。紫煙を深く吸い込んだところで、カエデた言ってた事を思い出す。

「あ、まあ悪いと思ってるなら、俺とタイジに、昼飯で海鮮丼とか奢るのはどうか?」

 言葉で言い含めても納得しないだろうヒロキは、俺が告げた提案に首が飛びそうなほど顔を上げ、次にブンブンと頷く。

 同じ歳の後輩の行動に眉根を寄せてしまうが、形にしたほうが本人も楽なのかもしれないと思い直した。

 簡単に食事を済ませると、チェックアウト時間まで食べる場所を決めたり、フロントの傍にあるみやげコーナーで、ありきたりな旅の思い出を買った。

 そして正午前に旅館を出た俺たちは一路、漁港近くにある食堂へ。

 別行動を取るため、男三人で電車とバスに乗っていくつもりが、話を聞きつけた社長含め、ほとんどの社員も一緒に来るというおまけもあるが……。

 色々盛り込まれた一泊二日の旅行。

 それももうじき終わりを迎える。

 俺は丼からはみ出た新鮮な海鮮を眺めながら感慨に耽けていると、

(アキ、早く食べよう!)

 と、カエデが表に出そうな勢いで叫ぶ。

 やれやれ、と割り箸を割り、艶のある刺身を口に運ぶ。

 海の近くで捕れたものだから、新鮮は新鮮。しかし、旬の魚は口の中でじわりと脂が滲んで、それだけで旨いと感じる。

 カエデも同じ気持ちだったようで、あっという間に海鮮丼を平らげると、まだ足りないと言っては、メニューから蟹やら海老やらの盛り合わせと勝手に注文する。

 さすがに高いものをアレもコレも、と注文する俺に、ヒロキは顔面蒼白になって固まってしまう。

 すぐに自腹で払うと告げると、あからさまに安心した顔をしてたけど。

 と、いった感じで、波乱万丈な社員旅行は、最後には食べ過ぎによる消化不良の腹痛で、俺が寝込むことで幕を迎える。

 そして後に、今回のことがきっかけで、ヒロキが怪異の世界に興味を持ち、コチラ側に足を踏み入れたのは、また別の話──だ。

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命絶の山 藍沢真啓 @bloody-cage

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