命絶の山
藍沢真啓
第1話
高いところから落ちる人間は惨めだ。しかし、高いところまで登れない人間はもっと惨めだ──(中島正広『完結された青春』より引用)
俺は昔斜め読みした著名な登山家の格言を思い出した。
だが、さっきから日頃の運動不足でブルブル震えて限界を訴えるふくらはぎの筋肉や、煙草の吸いすぎでぜいぜいと悲鳴する肺の気持ちを考えれば、惨めになろうが山頂になんて到達しなくてもいい。
というか、何故俺たちがこんな楽しいと思えない山登りをしているというのに、言い出した当の本人が旅館で寛いでいるっていうのはおかしいだろう!
叫びそうになるも、尽きかけた体力では息を咳くのが精一杯で、このまま下りてしまおうかなんて狡い考えさえ頭をよぎる。
(アキ、ファイトっ)
さっきからこうして脳内で応援してくれるもう一人の自分──カエデに苦笑しつつ、こんなしょうもない企画をくわだてた会社の社長に対して心の中で恨み節を吐き続ける。
(あぁ、さっさと帰って、旅館の露天風呂に入って酒飲みたい……)
きっと、前後で疲弊した体に鞭打ちながらも、山道をひたすら登り続ける同僚たちも同じ気持ちではないだろうか。
今回俺たちは、入社して数年経つ会社の社員旅行で、ここF県に来ていた。
荒々しい海と、自然溢れるいにしえの街からほど近い観光地へは、経費削減のためか社用車とレンタルしたマイクロバスの二台を男性社員が交代で運転し、旅館に到着する頃にはぐったりとなっていた。それなのに旅行の計画が決まった時、なにを考えてそう至ったのか、旅館から車で二十分ほどの小高い山がトップページに飾られたPC画面を指差しこう言ったのだ。
「普段運動不足しているだろうから、ここに登って健康的な旅行にしようじゃないか」と。
滅茶苦茶な提案に対し、しん、とオフィスが静まり返った後、皆一様に「はぁ?」と声を揃えて不満を漏らしていた。
そりゃそうだ。慰安の為の旅行で誰が楽しくて山登りなんて……。
確かに昔やってたバンドのライブに比べたら、緩やかな山登りのほうが楽かもしれない。だが引退してから既に何年も経ってるわけで、動かす機会なんてめっきり減った体ではただ疲れるだけなのは想像よりも堅かった。
それに──PC画面に映った山を見た瞬間、胸の中に嫌なものが広がっていくのを感じた。
クールビズの世の中を逆らうかの如く凍え切ったオフィスのデスクの下で、こっそりスマホを取り出した俺は画面の上で指を滑らせ山の名前を検索にかける。
(……やっぱり)
検索結果画面のトップには、今社長が揚々と計画を話している公式サイトが載っていたが、指を下へとスクロールさせると予感的中。
案の定そこには地元では有名な心霊スポットであり、同じくらい有名な自殺の名所だとも、某大型掲示板のスレッドのひとつに記されていた。
画面に視線を落としたまま、重い息が漏れてしまう。
霊という狼の中に、誰が好きこのんで飛び込むなんて羽目をしなくてはいけないんだ。
俺はスマホ画面を社長に見せ、そこは本当にマズイから止めようと提言した。だが逆効果だったようだ。
追加された情報を得て面白味を見出した社長は、登山決行の旨を告げたのだった。
流石に社員のほとんどが
俺は運転で疲れ果てた足を山道の途中で止め、移ろいだした初秋の光景を仰ぐ。まだ夏の名残が残っているせいか、木々を纏う葉は濃い緑色だったが、時折額に浮かんだ汗を冷やす風は心地よく、空は高く澄んでいた。
「まあ……、これだけなら登る意味もあったって納得できるんだけどな……」
それにこれだけ体を動かしたのなら、露天風呂を堪能したら気持ち良いだろうし、地元の食材をふんだんに使用された料理や地酒も美味しいに決まってる。あと、疲れで深く休めるしな。
葉擦れを作った微風が頬を撫で、山登り後のお楽しみに思い馳せていると、不意に俺の目の端で何かが音もなくよぎる。
チラリと視線を巡らせある方向へ移すと、人の形を残したものや、完全な影となってしまったモノが木々の合間を彷徨っているのが見える。
あちらも俺の中のカエデに気づいたのか、腐り落ちた眼窩でこちらを窺っていた。
(やっぱり景色だけを楽しむってワケにもいかないか。自殺の名所だしな)
自分の目を通してヤツらを観察していたカエデに愚痴を零す。
今己の足を痙攣させながら登っているM山は、昼間は本格的な登山ができるルートもあれば、ここのように子供向けの緩やかな傾斜のコースもある。しかも、山の至るところには天然記念物になるような獣や、珍しい植物も群生しているようで、昼間は割と人で賑わっているのを先ほどから幾度も目にしてきた。
だが、ひととび夜の帳が降り辺りが闇に包まれると、今度は人とは違う存在で溢れ出す。それは絶望し命を絶ったモノや、彼岸に行けず彷徨う魍魎だったり。はたまた興味本位か度胸試しで訪れた底の浅い連中か。
(何が楽しくてこんな場所で死にたいと思ったのだろうか)
(うん、でもアキは僕が護るから心配しないで山登りを楽しんで)
脳を擽るようにカエデはクスクス笑い、俺の意識を霊から逸らそうとしていた。
会社の仲間や友人たちは俺に強い霊感があると信じている。
それは半分当たりであり、半分は違うとも言える。
本当に強い霊能を持っているのは、カエデという存在。もうひとりの俺──
もし規定の病名をつけるのなら、解離性同一障害になるのだろうが、果たして二重人格と安易に呼称しても良いのかと疑問に首を傾げることがままある。
基本的な嗜好は同じ。しかし俺が辛党に対しカエデはスイーツなどが好きな甘党だ。以前もクリスマスだからと俺が仕事明けで死んでいる間に実質一人だというのにケーキをワンホール買ってきて、それをカエデ一人がペロリと平らげてくれたおかげで、翌日俺が胸焼けに悶絶させられる事態になったエピソードもある。
そして俺とカエデが別の人間だと言わしめる最たるものが、彼だけに持つ特異な霊能力だった。
正直に言おう。俺には霊感なんてひとつもない。
カエデが深層で眠ってる間は、全く存在すら感知すらできないし、観るなんて事もできない。
周りには奇異な目で見られるのも勘弁だから俺自身に霊感があると認知させているが、本当の霊能力を持っているのはカエデである。しかも類まれなるほどの強い力を持っている。
おかげで何度か命の危機を感じた体験をしてきたが、いつも寸手のところでカエデに助けられてきた。
以前「それって二重人格とかじゃなくて守護霊って言うんじゃないのか?」と疑問を口にしたこともあるが、カエデは「違うよ」と否定したきり現在も真相は闇の中だった。
多分、問い質してもカエデは答える気持ちはないだろう。幼く素直なのに、時折頑なになってしまうのだ。
でもまぁ、カエデのおかげで心強い味方が常に傍にいるし、騒がしいのは玉に瑕だけど、これはこれで楽しいから構わない。
ただ難があるとすれば──
俺が風が奏でる葉音に耳を傾けながら回想に耽っていると、背後から「アキさん」と吐息混じりの声が聞こえ、現実に意識を引き戻される。振り返るとそこには、ふらつきながら俺の方へと向かってくる若い男の姿があり、無意識に口を開いていた。
「どうしたヒロキ」
ヒロキは俺が働く会社の後輩で、見た目は軽そうだが仕事は的確で、だが怪異に興味があるのか、自ら首を突っ込みたがるのが問題ありといえばアリなんだけど、それでも割と可愛がってるヤツだ。
「あの……。何か聞こえませんか?」
「何か、って?」
そりゃ外にいるから、同僚たちの賑やかな声や、木々の葉がさざめく音、遠くからは鳥の鳴く声も聞こえてどこにも不自然と感じる部分はない。
ヒロキの様子のおかしさが分からず首をかしげていると、ヒロキは顔を青ざめさせ、目はギョロギョロと忙しなく動かしてるのが見て取れる。
「こう……お経のような……、声というか、音っていうか……」
「お経?」と首を傾げたまま、俺は周囲に耳を澄まして聞いてみる。しかし聴こえてくるのは勘違いだとしても、お経とは程遠いものばかりだった。
(カエデ何か聞こえるか?)
もしかして自分では感知できない音でもカエデなら、と思い尋ねてみると、返ってきたのは冷淡な言葉だった。
(……アキには影響ないから、気にしなくてもいいよ)
「──!!」
非情とも思えるカエデの一言に、全身の血が滾る。
なんだよ、それ。俺に霊的影響がなければ、他がどうなっても良いっていうのか?
そうじゃないだろう!?
(いい加減にしろよ!!)
怒りの限界を超え心の中で叫んでいた。
カエデは俺が本気で怒ってるのに気づいたのか、ビクリと空気を震わせた後、ごめん、と小さな声で呟いた。
俺に危害が及ばない限り、カエデは他人がどうなろうとも関与してこない。自分と主人格の俺さえ無事なら、カエデにとって重大として捉えない。
他人に無関心。そんな人間が多いのは知ってるし、わざわざトラブルに突っ込んでいくほど、俺もお人好しではない。
でも、身近な仲間や友人が霊によって辛い思い、または体を壊してしまったのなら、少しでも力になりたいし、苦痛を除いてあげたいと思うのは偽善なのだろうか。
別に全世界の人を助けたいとか、救世主として呼ばれたい訳ではなく、自分の周りの小さな世界を護るなんておこがましいのかな。
過去にも何度かカエデと意見の食い違いで言い争った事もある。
カエデの言いたいことも理解できない訳ではないけど、一度は縁を結んだ人がいつも笑顔でいてくれれば良いと願ってはいけないのか。
自分にとっては最強のヒーローでも、他人にとっては非情な
(でも、それって哀しくないか……カエデ)
すっかりヒロキは自立すらも困難になったのか、舗装された地面に座り込んでしまった。
流石に置いて行くこともできず、どうしたもんかと悩んでいると。
「おい、ヒロキ調子でも悪いのか?」
のんびりした歩調で現れたのは、同僚のタイジだった。って、俺よりも先に出発したはずなのに、何で俺よりも後ろにいるんだよ。
ツッコミたいのを抑え、ヒロキを車で休ませたいから社用車の鍵を貸してくれと告げると、タイジは特に疑問を持たずに「了解、車の鍵はこれな」と、俺の手に鍵を落とし立ち去る。
タイジの後ろ姿を見送ると、今度はヒロキを肩にかつぎ、駐車場のある方へと下っていった。
坂を下りてく最中も、鬱蒼と乱立する木々の隙間から彷徨う亡者たちの視線を感じ、背筋に冷たいものが這うのを感じる。しかも隣ではヒロキが意味不明な何かを呟き、余計に暗澹たる気持ちになってしまった。
(カエデ。おい、カエデ)
カエデの冷淡さについ激昂してしまったが、霊感のない自分では本当にヒロキが霊に憑かれたのか判断できないし、もし憑かれてたとしても対処方法も知らない。
わだかまる怒りを無理やり抑えつけ、何度もカエデを呼び続けていたものの、完全にへそを曲げてしまったのか、俺からの呼びかけに返事が返ってくる事はなかった。
駐車場に着いてから、後部座席にヒロキを寝かせつつ、俺はしつこくカエデに声を送り続けた。
(怒ってるのは俺もだっての)
そう悪態を零したくなるが、明らかに様子のおかしいヒロキをこのままにはできず、車外で煙草をふかしながら再度呼びかけていると。
「おぉい、アキ」
「タイジ?」
長身の体躯を揺らし、タイジが息を弾ませながら、さっき自分たちが通った石段を駆け下りてくるのを認めた。
「どうしたんだ、こんな早く」
鍵を受け取った時のペース配分を考えれば、まだ山頂にすら到着していないと思われるタイジが突然現れ、疑問を口にする。
「ヒロキが心配で下りてきた。もし体調が酷いようなら、病院に連れて行こうって思うんだけど」
タイジが眉根を寄せ、車中で横になるヒロキへ声をかけるも、ヒロキはブツブツ意味不明な言葉を呟くだけで、こちらには一切反応しない。
その様子に怒るどころか、更に不安を増したようで、俺に大丈夫なのか、と目で問いかける。俺は首を傾げるだけで曖昧にしか返すことが出来なかった。
正直俺ではお手上げ状態だった。
霊的な興味が多少あったため、知識がない訳ではないが、いくら見識があったとしても、体験するのとは大違いだ。いつもはあっさりとカエデが処理してしまうのもあって、ヒロキのような状況の際、どうすればいいのか……
とはいえ、過去に見舞われた経験をひっくり返し出した答えは。
「多分、旅館で休ませれば大丈夫だと……思う」
何とも歯切れの悪い、俺らしくない言い方しか出来なかった。
とりあえず旅館に向かおうか、とタイジの提案に頷き、タイジの運転で宿になっている旅館へと戻る事にした。
発車してまもなく、後部座席でぐったりとシートに体を預けていたヒロキの隣に座っていた俺の耳に、ずっと聞き取れなかった呟きがすっと入ってくる。
(これは……お経か……?)
真っ青な顔で、意識も朦朧な状態で唇から紡がれる経文に、なぜか背中に冷たい汗が伝っていき、全身が凍っていった。
そして確信する。ヒロキは霊に取り憑かれたのだ──と。
「ぴ、ヒロキはさっきから何をブツブツ言ってるんだ? 気味悪いから止めてほしいんだけど」
タイジが訴えてくる。
だが、ヒロキには聞こえていないのか、または霊が拒否しているのか、呟きはやむことなく車内に染みのように広がっていき、俺たちは不安に包まれる。
「ヒロ……」
「危ないから運転に集中してくれないか、タイジ」
言い募ろうとするタイジを嗜め、振り返ろうとする顔を前に向かせる。バックミラー越しに見えたタイジの表情は怯えが滲み、口は何かを言いたげに開閉を繰り返していた。
きっとヒロキから霊的な匂いを嗅ぎとったのであろう。
俺はといえば、内心不安でいっぱいだった。
何とかできるなら、今すぐなんとかしたい。だけど霊能力を持っていない俺ではどうしようもなく、ずっとカエデに呼びかけているものの返事すらしない。
どんどんおかしくなっていくヒロキに、霊的な事が苦手なタイジはヒロキに怯えている。
(どうしたらいいんだよ)
袋小路に追い込まれた俺は、無力な自分の唇を強く噛み締めた。
もう、車窓から流れる景色を楽しむ余裕すらない──
(だからあの山に行くのは反対だったんだ。それを……)
いや、何がなんでも企画が出た時に止めておくべきだった。強く言っていれば、社長でも計画を中止にしていたかもしれない。
(違う。俺がカエデがいるからと過信していたせいだ……)
後悔が溢れ、苦渋に眉根を寄せ強く強くカエデを呼ぶ。
(頼むカエデ。さっきのことは謝るから返事をしてくれ。俺は……俺はどうしたらいい)
(……アキ。僕はアキだけのために存在するんだ。だからどれだけ懇願されても、僕にはどうしようもできないよ)
今度はすんなりと返ってきた言葉は、俺の祈りとは違い、突き放されたものだった。
交わることのない俺とカエデの考えの違いに、再燃しそうになる怒りを必死で押さえ込む。これ以上争っても状況は変わらないし、カエデとも険悪になったままなのは嫌だった。
(でも、ヒロキは俺にとっては大事な後輩で友人なんだ。こいつが苦しんでいるのに俺が辛く思わない筈はないだろう?)
ヒロキに視線を落としたまま訴え続ける。
(だから教えてくれカエデ。俺はこいつのために何ができる?)
ヒロキを救わないと俺が苦しむ、と自分を盾にしてカエデからのアドバイスを引き出そうとする。今やってることが姑息な手段というのは十分分かっている。それでも俺にはこれ以外の手は思い浮かばなかった。
カエデはしばらく思案に口を閉ざしていたが、俺という存在を取引に使ったのが功を奏したのか、諦めにも似た溜め息を漏らすと。
(とりあえず旅館に帰るのなら休ませれば? 僕もお腹空いちゃったし)
おざなりながらも言葉を引き出す事に成功した俺は、小さく安堵の吐息を落とし、心の中でカエデに感謝を零す。
ありがとう、と言った途端、カエデはふいっと顔を背ける。照れているのだろうか、耳にほんのりと赤味が差している。
(アキにありがとうって言われるとこそばゆいんだけど)
案外まんざらでもないのか、悪態をつきながらもその言葉には棘はなく、険悪な空気が雪のように溶けていくのを感じた。
旅館は荷物を置きに来た数時間前と変わらず、重厚な佇まいで俺たちを出迎えた。
車を立派な書院造りの玄関の前に停めると、中からチェックインに遅れた客と勘違いした仲居が数人、同じ紺色の色無地の着物に臙脂の帯を締めた姿で出てきた。
一番に車から降りた俺が手で制した後、依然呟き続けるヒロキをかかえ、先に旅館に中へと入る。
ヒロキのぐったりした様子に、医者を呼んだ方がと言ってくれたが、曖昧に疲れていると説明し、駐車場から戻ってきたタイジと一緒に、そそくさと部屋のある別館へと続く通路へと向かった。
(例え医者を呼んでも、匙を投げるに違いないだろうし……)
(こうなったら、明日全快したヒロキに名物の海鮮を奢らせるしかないな)
カエデの言葉を信じるなら、明日にはヒロキは元気になってるはず。だからヒロキに、早く回復しろよ、と言い、タイジと二人ヒロキを引きずりながら部屋へと向かっていった。
割り当てられた部屋の前に到着すると、格子戸を横に引き、続いて襖を開くと、家族向けの小ぢんまりとした和室が目に飛び込む。
雪崩込むように入ると、ヒロキを座椅子に座らせ、俺は畳の上に突っ伏した。
(つかれた……)
微かに香る
まさか一泊二日の旅行の初日で、こんなにも疲れるとは思わなかった。山登りさえクリアできたら、後は食って飲んで日頃の疲労を労おうと思ってたのに……
流石にこの状況では口に出さなかったけど。
俺は体を反転させ仰向けになると、これからの事を考える。
カエデから引っ張り出したアドバイスを元にヒロキを休ませて、霊障を除かせる。山から離したし、後は時間が解決してくれるだろう。
次に、と思考を回転させるも、心身共に疲れがあるからか、上手くまとまってくれない。
タイジが開けてくれたのか、窓から入ってくる温んだ風が髪を優しく撫でる。畳の心地よさと相まって、休息を求めているのか瞼がトロンと重くなってくる。
このまま眠りに落ちたら気持ち良さそうと思いながらも、山登りで汗をかいてるし、髪も埃っぽくて先に一風呂浴びてリセットしたい。
「タイジ、ヒロキ、風呂、行く?」
「おお、いいな」
のしかかってくる眠気を追い払うように伸びをしながら細切れに提案すると、すぐさまタイジから弾んだ返答が返ってくる。しかし、ヒロキは座椅子に足を投げ出した姿勢のまま俯き、呟きは収まったものの反応すらしない。
山から離して休ませれば自然と霊がいなくなると予測していただけに、虚ろな目でぼんやりと虚空を見ているヒロキの姿は、俺の中に芽生えた心地よさを塗り潰すように、不安が広がっていく。
(本当に大丈夫なんだろうか)
俺は頭を緩く振って無理やり不安を追い払う。
「ヒロキ、俺たち風呂に行くけど、お前も行かないか? 色々あって疲れただろう」
ヒロキにそう声をかけるも、半分瞼が下ろされた濁った瞳孔はゆらぎ一つもなく、生きた人形のように反応がなかった。
「なぁ、ヒロキ行こうぜ」
薄気味悪いと言いたげな表情をタイジは浮かべながらも果敢にヒロキの肩に手を置こうとする。
だが──
突然乾いた音が部屋に響く。
俺は臥せてた体を起こし瞠目する。ヒロキが、先輩であるタイジの手を振り払う音だったからだ。
緊迫した室内。
突然の事に呆然とするタイジと、あれだけ素早い動きをしたとは思えない、ぼんやりしたヒロキと、目の当たりにしたにも拘らず異様な状況を把握したくない俺。
まるで時が止まったかのように誰も動かなかったが。
「一体どうしたんだよ」
震えた声に視線を向けると、今にも泣きそうな、また怒りそうな複雑な表情を浮かべたタイジが誰に向けるでもなく呟き、そのまま弾けるように部屋を飛び出していった。
「タイジ!!」
慌てて飛び起き、すぐにタイジの後を追って廊下まで出たものの、趣味がトレッキング(マイペースだが)というタイジの姿はなく、足音が遠ざかる音だけが静かな廊下に吸い込まれていった。
曲りなりとも、タイジはヒロキにとっては会社の先輩だ。普段はヒロキ自身そういったスタンスでタイジに接してきたし、タイジも慕ってくる後輩を可愛がってきた
だけど今のヒロキはヒロキであって別の存在だ。
霊現象とか、怖い話を苦手としてるタイジには説明しなかったけど、ヒロキは霊に憑かれて通常の彼ではない。
それを説明する前にタイジは耳を塞いでしまうだろう。そして、今回の件が発端で二人が仲違いする懸念が否めなかった。
諦めの息を一つ落として踵を返した俺は、ヒロキのいる室内へと足を踏み入れる。
もう緊迫した空気はないけど、ヒロキの体を纏う怪異の空気に一瞬たじろぐ。
だがすぐに首を振って怯えを払い、自分を叱咤するとヒロキに近づき口を開く。
「しんどい時に無理やり連れて行こうとしたタイジにも否があるかもしれないが、お前にも悪い部分はあった。だから一緒に行ってタイジに謝ろう」
歩み寄りの姿勢で伸ばした手を空虚は双眸で一べつしたヒロキは、力なくうなだれ
「……行きたくないです」
明確な拒否をのろりと呟いた。
「そうは言っても、お前ひとりにしていく訳にもいかないだろう? 疲れてるだろうし、気分を変えるためにも……」
「ほっといてください」
いつもは鬱陶しいくらいに絡んでくる後輩の確かな拒絶の言葉と、おろされた髪の隙間から見えた濁った目が睨んでくる様子に、冷たい汗が一筋流れていく。
ヒロキはこんな目で俺たちを見ない。
(カエデ……休ませれば何とかなるんじゃなかったのか?)
脳裏で佇んでいるカエデに問う。当のカエデは振り返ると肩を竦ませて。
(僕は”休ませれば?”って言っただけ。彼が良くなるとも悪くなるとも言った憶えはないよ。何度も言うようだけど、僕はアキだけを護る存在。……アキも十分分かってると思ってたんだけど)
首をコトリと傾け、俺と同じ姿のカエデが告げたのは酷薄な宣言。
カエデは正論を言ってるだけ。もう何度も聞かされて理解ってる。だけど受け入れる事はできなくて、こんな時カエデと俺は別の存在だと思い知らされる。
俺だって、全世界の人が苦しんでるのを助けたいとか考えてる訳じゃない。せめて自分の周りの小さな世界を護りたいと願うのさえ、傲慢なのだろうか。
カエデが言いたい事が分かってるだけに、反論できない俺は悔しさに唇を噛み締める。口腔に血の味を感じながら部屋を飛び出していたのだ。
ヒロキの変容を心配していたにも拘らず──
ぽちゃん、と濡れた髪から水滴が湯船に落ち、なめらかな波紋を作る。
先ほどまでの怒りや疲れも効能豊かな温水に溶け、思わず深い溜め息が自然と零れる。
旅館名物の露天風呂は開放感に溢れ、眼前には広大な海が一望できる。荒々しい波が次から次へと前の波を削っていく様子を、ぼうっと眺めていると「貸し切りみたいだな」と、部屋を飛び出したタイジの声が聞こえ振り返る。
ひょろ長い体躯を滑るようにこちらへ近づき隣に来た途端、はぁ、と疲れを吐き出すような溜め息が漏れ聞こえた。
時間が早いからか、タイジが言ったように俺たち以外に人がいないのは幸いした。
正直、湯に浸かりながら、ヒロキの事を考えたかったから。
「あのさ、アキ。ヒロキの事だけど、今夜どうする?」
「どうする……って」
考える事に集中していたせいか、タイジの質問が脳を巡り終えるまで数刻の時間を要し、俺は大げさに反応してしまう。
身じろぎした水面が、パシャンと大きく波打ち、会話を遮った。
つかの間、揺らぐ波が小さくなり、遠くからこんこんと湧いた湯が湯船に落ちる音色に代わる頃、タイジが重々しく口を開いた。
「アイツ明らかに様子がおかしいし、正直、ヒロキと同じ部屋で寝るのは勘弁したい」
控えめながら、タイジがヒロキを拒否しているのに気づく。
俺は一瞬薄らいだ悩みが再度浮上し、頭を抱えたくなった。
ヒロキに憑いた霊のことや、カエデの意固地なまでの俺以外に対する放置主義。
ヒロキの様子は──霊感のない俺では断言できないが──霊障なのだと思う。あれは俺が知ってるヒロキではない。あいつはあんな目で俺を見ないはずだ。
何とかしたい。いや、何とかしないとヒロキの命にまで関わってきそうな気がする。そのためにはカエデの力がどうしても必要となるのだが、俺が頼んだからといって祓うなんて、カエデの性格からして無理な相談かもしれない。
(八方塞がりってこういうことなのか)
両手ですくった温水を顔にぶつけていると、カエデが囁く言葉に慌てて露天風呂から立ち上がると、タイジの手を引き急いで着替えるように促す。
説明らしい説明をされず、タイジは戸惑いながら着替えている横で、俺は濡れた髪を乾かす時間すら惜しくてTシャツに袖を通していた。
まだ頭の中で警鐘が止まらない。
(アキ、ヒロキが心配なら今すぐ戻ったほうがいいよ)
カエデの忠告が本当なら急がなくては。
脱いだ服を丸めて持ち、俺たちは部屋へと急いだ。
瀟洒な旅館の廊下を、俺を先頭にドタドタと走り続ける。
せっかく汗を流したというのに、額には濡れた髪の雫か、焦りによる汗なのか、分からないものが浮かんでいる。
「お、おい。アキ。一体どうしたんだ」
後ろから現状が理解できないタイジが追いかけてくるも、説明する余裕なんてなく、顎でついてこいと示すに至った。
露天風呂のある本館から、宿泊する部屋までは時間にして五分程度だというのに、走っても走っても、心が逸ってるせいか妙に遠く、たどり着かないのではないかって気になる。
心ばかりが前を走り、運動不足の体は追いつかず、苛立ちばかりが募っていった。
それにしても、と先刻前のカエデの行動を思い出す。なぜ急にカエデは態度を変えたのだろうか。なぜヒロキの危機を俺に教えたのだろうか。
疑問ばかりが頭を占めていくが、酸素が足りない頭では結論までには至らず、なかなかクリアできないゲームのように焦燥感に包まれていた。
でも、これだけは理解る。ヒロキに何かが起こっているのは間違いない。
「ヒロキ!!」
長いと感じた廊下を抜け、格子戸と襖を続けて開き、俺はヒロキの名を叫ぶ。
非常識かもしれないが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
滑らかに開かれた間口から転がるようにして中に入ると、あれだけ部屋から出たがらなかったヒロキの姿は、影も形もなくなっていた。
「……ヒロキ……?」
「あれ? ヒロキがいない?」
立ち尽くす俺の後ろから覗き込んでいたタイジが、周囲を見渡しながら怪訝な声をあげる。
俺は高鳴る鼓動がうるさくて、タイジの声が全く届いてなかった。
(一体……どこに)
水面に不安の黒がポタリと落ち、心の中に広がっていく。
(カエデ。ヒロキはどこに行った!?)
後輩の不在を確認してから、何度もカエデに問いかけるものの、警告を促してきた筈なのに反応が一切返ってこない。
(……カエデ……カエデ!!)
口から迸りそうになる叫びを飲み込み、俺はもうひとりの自分に助けを求める。しかし、焦る俺とは裏腹に、カエデは闇に溶けてしまったように何も言ってはこなかった。
「アイツ、あの状態でどこに出て行ったんだろう」
濡れた髪を掻きながら、困った表情で周囲を見渡すタイジ。
俺たちは広縁、布団が収納されている押入れなど、広くなく収納も少ない室内の隅々を執拗に調べたものの、探し人の姿はなく焦燥が更に募る。
これ以上は調べる場所なんてない、という所まで調べ終えると、タイジがふと呟いた。
「もしかして、退屈になったから、隣の社長の部屋に冷やかしに行ったかも」
「まさか」
まさか、と訝る。
霊に浸蝕されたヒロキが、自分の意思で部屋を出る事があるのだろうか。
万が一そうだとしても、目的もなく社長の部屋を訪れるなんてあるのだろうか。
しかし、他に案も見つからず
「もしかしたら、ってのもあるだろうし、行ってみようか」
俺は振り返りタイジに告げると、戻ってきて間もない部屋を後にした。
廊下から数歩、隣の部屋に着く。
先頭に立った俺が襖を開くと、畳の上には無数のビールの空き缶が散乱し、テーブルには中身の入ってるらしいビールが、赤ら顔の社長に飲まれるのを待っていた。
「あの……ヒロキは」
「ヒロキ? っていうか、お前らいつ戻ってきたんだ?」
尋ねた言葉を塞ぐようにして問われた社長からの疑問で、ここにヒロキが来ていない事を知る。
一瞬、ヒロキのイタズラに社長が参加してるのか、とも考えが掠めたが、あんな霊に憑かれた状態で、イタズラなんて普通ないだろう。
(──となると、ヒロキはどこに)
再び襲う不安の発露。
いい歳の男が一人、急に姿を消したからといって、ここまで騒ぐ自体過保護に見えないだろう。
でも、まだ俺の中では警鐘は鳴り止まない。それどころかカエデが勧告したことにより、警告音は加速を続けている。
不安が増し、自分の胸を掴んだ俺を、状況が分かっていない社長と、俺からの指示を待つタイジの視線が突き刺さる。
(頼む、カエデ。ヒロキを助けたいんだ。俺に力を貸してくれ!!)
祈りに近い懇願を砕くように、俺の胸元から規則的な震えが伝わり、はっと我に返る。止まらない震えに視線を落とすと、手の中にあった携帯電話の振動が、胸を震わせていたようだ。
「……!」
画面に浮かび上がる相手の名前を、溢れそうなほど見開いたが、すぐさま着信アイコンをスワイプさせて耳に充てると、声を張り上げていた。
「ヒロキ!?」
受話口から戸惑ったような呼吸が鼓膜を撫でる。そして次に聞こえたのは弱々しいヒロキが告げた信じられない現実だった──
『アキさん……、俺、なんで山にいるんですか……?』
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