(二十二)

渋谷区:初台:朝


 修学旅行バス殺人およびアスカ号強奪・殺人未遂事件は、ハッカー集団「ブロウメン」のリーダー・砂堀恭治が誘拐容疑にて現行犯逮捕され、メンバーの一人である甲斐原豪、および盗難の主犯と目される十和田美鶴が自供を始めたことで解決へと向かった。警視庁は顛末の一部をマスコミに公表、事態が収束しつつあると宣言したが、一方で安全保障上の理由により「Nシステムの破綻」、「公安総務課十二係の創設」と「同・解体」の経緯、および「警視庁公安部から除名された或る潜入捜査官」について表沙汰にはしなかった。


 誘拐事件から一週間が過ぎた頃。

 真宮ナナは——UNKNOWNこと、紫暮阿武は——真新しい電網庁初台庁舎を訪れていた。

 公安部を辞めたといっても、そこは蛇の道。諜報インテリジェンス業界にはよくあることで、組織図から消えても実情に変化なし。紫暮は警視庁上層部の密命を帯びたまま、「真宮ナナ」としての対面を保ちつつ、この初台に足繁く通っている。

 霞ヶ関に比べてセキュリティの質が格段に上がった初台庁舎は、出入り業者がうろつけるエリアが共用部に限定された。玄関ホール、食堂、売店。しかし、それはそれでやりようはあるというものだ。

 ナナは玄関ホールとエレベーターホールの端境に立ち、足下にスーツケースを広げ、出勤途中の公務員たちに挨拶をしながら、新作の事務用品サンプルを笑顔と一緒にばらまいていた。もちろん隣りには百円菓子のサンプルを抱えたアラサー美女・ゆりっしーを従えている。

「お、ナナさぁん。今日はいつもより、お化粧気合い入ってない?」

 保全本部の山根という中年男が声をかけてきた。ゆりっしーによれば、自分に気があるらしい。

「バレちゃう? やっぱバレバレぇ?」

 ナナが明るく返答してやると、ゆりっしーが横槍を入れた。「山根さん、ダメ。それセクハラ」

「ええっ……嘘ぉ。セクハラ上等だったんじゃないの」

「私たちがシモネタ言うのはOKだけど、逆はダメなのよん」

「よくいうよ。ゆりっしーのダイナマイト・ボディの方が、よっぽどハラスメントでしょうが」中年男は目尻を下げつつ、何食わぬ顔で立ち去った。

「もぉ、注意してください先輩」ゆりっしーは真剣だ。「あのヤロ、甘やかしちゃダメ。最近ね、女子職員が敵に回りつつあるんですよぅ」

「……んなの無理、無理」ナナは笑う。「出入りギョーシャの分際で、セクハラ止めろとは言えないって」

 そんなこんなで——朝の恒例事をこなしていたところへ、こざっぱりした細身の青年が通りがかった。香坂一希だ。彼は軽く会釈しただけで、エレベーターへ真っ直ぐ歩いていく。

 しかし途中で立ち止まった。

 わざわざ女二人の前まで戻って来る。「あのう……ナナさん?」

「おはよー」ナナは香坂の手を取り、新作のボールペンと消しゴムを握らせた。「今日もイケメンだね、決まっとるよキツネ君」

 いつものように軽い会話を心がける。

 ところが。

 香坂は神妙な顔で、こう続けたのである。

「例の電子メール……組織に尽くせるか? っていう質問への返答なんですが」

 ナナは顔色一つ変えず、無言で首をかしげた。「?」

 隣にいたゆりっしーが不思議そうな顔をしている。「何ソレ。何の話?」

「………………自分が一員である以上、僕は組織を引っ張っていこうと思います。それが尽くすということなら、尽くせると思います。これじゃあダメですか」

 ナナはきょとんとした。してみせた。

「ねぇ、何の話なのよぅ」ゆりっしーはふてくされている。

「確かに僕は、会社を辞めてここへ来た人間です……」香坂は畳みかけた。「……組織に対して忠誠心を持つタイプだとは自分でも思えない。ですが、僕は無責任に辞めたわけじゃない。ここへ来るために、希望を叶えるために仕方なく辞めたんです。仕事が続かなくてギブアップ気味に辞めた人間とは違う。そういう自負があります。だから自分に失望もしていない」

「なんで私に、そんな話をするの?」ナナは言葉を慎重に選んだ。

 香坂は落胆し、頭を搔く。

「…………ハズレですか。でしょうね、すいません」そう言って携帯電話を出し、液晶画面をこちらへ見せる。

 ゆりっしーが目を凝らした。

「組織に尽くせるか? ……あんのうん? 何これ」

「誰からもらったメールか、さっぱりわからなくて」香坂は苦笑する。「誰に、何を、どう答えるべきか。そこまで試されてるっぽいんですよね」

「そうなの……で」ナナは微笑んだ。「そのメールを出したのが、どうして私だと思ったわけ?」

「…………最初は垂水さんだと思いました。次に岩戸さんを疑った。いかにも、僕を雇い入れた側の人たちだ。組織への忠誠を確認しそうな立場にある。でも違った。だから考えました。この調子だと、永久に正しい相手にたどり着けない。きっとUNKNOWNは僕を試している。誰に回答するかこそが問題である。むしろ本文はヒント……そう考えることにしました」

「パズルっぽく考えたわけね」

「それが……パズルのようなものと考えて、ナゾナゾじみた解読にもチャレンジしましたが、それも違う気がする。思ったんです。こういうものを暗号と考えてしまう自分はハッカーというレッテルに毒されていないか。先入観に囚われている。だから罠にはまっているんじゃないか。そっちが、それこそが問題なのではないか」

「先入観?」

「ご存知でしょう……香坂一希は中途退社を経験した人間です。もしかしたらコイツ、電網庁も辞めてしまうんじゃないか? 雇う側ならそう考える。そんな目で見られたら、僕も自分をそういう目で見ざるをえない。続けられるかどうか自信がなくなって……下手をすれば辞める。負のスパイラルに陥る。つまり、UNKNOWNなる人物からの『組織に尽くせるか?』というフレーズには、『香坂一希は中途退社の典型から抜け出せるのか』という隠された問いがある。お前はお前自身の先入観を捨てて、自ら例外になり得るのか? ……たぶん、暗号やパズルでもない。むしろ教育的な意図が込められている」

「え? え?」ゆりっしーが早口で差し挟む。「何。なんか難しーぞ、言ってることが」

「…………それで?」ナナは急かさず、ゆっくりと尋ね返す。

 香坂は訥々とつとつと考えを語った。

「プロトタイプ理論ってご存知ですか。認知科学の分野なんですが……人間は鳥と聞いたら、まず鳩なりカラスを連想する。ダチョウやペンギンは連想しない」

「…………うん」

「人は誰しもキーワードと平均的な存在を対で記憶する癖がある。例えば、中途退社した経験のある人材は組織に馴染まない性格で当たり前。雇用する側からもアウトサイダーだと思われるのが当たり前……あるいは、ハッカーなら組織を疎ましく思うのが当たり前。そういう風に類型化したイメージを、自分にも他人にもあてはめる。そうやって、典型事例プロトタイプで世界を認識しようとする。無意識に。でも、それだけじゃダメだ。時には、自分は他人と違う、例外なんだと信じてやることも必要。それができなければ……僕のような存在は、きっと、組織に尽くせない」

「…………」

「『組織に尽くせるか』……この問いに僕が返答すべき相手は、先入観で行き当たる人物ではなく、実はもっともふさわしくなさそうな人物だ……そんな発想がお前にできるか? お前の頭に柔軟性はあるか? それが、問いの本質ではないかと勘ぐるようになりました。つまり電網庁や総務省に所属せず、僕の進退には一切影響を及ぼしそうにない誰か……真っ先に思いついたのが、ナナさんです」

 ナナは言った。「私で何人目の候補者なの?」

「垂水さんと岩戸さんを除けば、一人目になります」

「……それってさ、ゆりっしーでもよくない?」

 ナナはわざと突き放した。

 当のゆりっしーはちんぷんかんぷんという面持ちである。

「それはないですよ」香坂は笑う。「お二人の会話を聞いていればわかります」

「そう?」

「ナナさんが無茶を言ってボケ、ゆりっしーさんはフォローやツッコミ。その関係をいつも保っている。……積極的に会話の流れを操っているのはいつもナナさんだ」

 筋が通っている。ナナはそう考えつつも、首をかしげてみせた。「いつもそうだっけ、ホントに?」

 ゆりっしーが頷く。「そうですよぉ先輩ぃ」

「顕著だったのは例の、ピザ食いながら聞かされた合コン話です。男性に時計を貢いだ話、あったでしょう」

「言ったかも。けど酔っぱらってたぞ?」

「ゆりっしーさんは話題のチョイスを間違えてると言ってました。僕もそう思った。しかし、ナナさんはノリノリ。あの段階で僕はゆりっしーさんを候補から外した。そして疑うことにしました。あなたが時計を貢いだという事実そのものを」

「…………どういう意味?」

「あなたがUNKNOWNなら、僕との会話で選ぶ話題すべてに意味がある」

「…………それで?」

「アラフォーの独身女性は金銭的に余裕がある……それが類型的な認識です。だからナナさんはイケメンに高級時計を貢ぐ。しかも男性関係に苦労している。そういうプロフィールをナナさんは身に纏っている。しかし……それもまたプロトタイプな発想だ。先入観の罠にはまっている。むしろナナさんは例外。というより」香坂は照れくさそうに言った。「……貴方に時計をプレゼントされたりすれば、男ぶりが上がったと、僕なら勘違いするかもしれない。そっちが真相じゃないだろうか……なぁんて」

「……褒められてる?」

「はは。根拠薄いんです。単に僕が若造で、女性を見る目がないだけかも」

 ナナは黙っていた。


 香坂が何を調べ、どう考えたか手にとるようにわかる。


 岩戸が誘拐されたあの夜——香坂はこの新庁舎にいた。そして岩戸紗英の電網免許証反応、それも試作品である腕時計型の探知機能付きウェアラブル・コンピューター#03が拾った信号を、探知システムで受信できる立場にあった。香坂は反応があった旨を、緒方を通じ警察に連絡している。

 そして翌朝、警察が砂堀恭治を逮捕した事実を知った。ところが香坂は、捜査がどのように進展し、どうやって砂堀が検挙されたのか知り得る立場にない。推測する他はない。

 タイミングからみて「砂堀の自宅から岩戸の免許証が発見された」と考えるのが筋だろう。ということは、三つしかない試作品の一つが砂堀の手元にあったということになる。あの夜#01は岩戸の首に、#02は緒方の手に、#03だけが行方知れずだった。管理者はUNKOWN。UNKNOWNから砂堀の手に渡ったのか? UNKNOWNイコール砂堀、という線も考えられる。でもNOだ。自分が管理する探知機の反応で自分が逮捕されるなどというヘマを踏むだろうか? 砂堀は#03が探知機だと気づかず、UNKNOWNから受け取ったのだ。さて、ここにUNKNOWNが誰かというヒントは含まれているだろうか。あるいはUNKNOWN候補の最右翼たるナナと、砂堀の接点は。

 香坂は考えに考え——そして思いつく。そうだ。砂堀の免許証反応を追ってみよう。銅箔でカードを覆うような用心深い奴でも、提示を求められる時に免許証は晒す。履歴を調べてみると、勤務先である警視庁は当然ながら、隣の合同庁舎二号館の中でも砂堀の免許証はセンサーを掠めていた。二階のあたりで反応が顕著。なるほど、警察庁に用事があったということなら頷ける。そして、この探知結果は面白い。二号館の一階ロビーあたりで愛想をふりまく出入り業者の女たちと、砂堀が顔見知りであってもおかしくないという結果だ。

 さらに香坂は、砂堀の所属部署に注目するだろう。彼が率いるハッカー部隊「公安総務課十二係」は、電網庁にとってのライバル。つまり岩戸や垂水にとってスパイする価値のある人間だ。もしも。もしもナナがUNKNOWNであり、電網庁と深く通じた人間、たとえば諜報部員的な人物だとしたら、砂堀をつけ狙い、調べつくすに違いない。わざと近づき意図的に合コンへと誘う。そこで貢ぐと称し、高級時計を押しつけるかもしれない。それが、例の試作品#03だったとしたら。

 全て——全ての説明がつく。


 二人の間隙を沈黙が埋めていった。


 ほどなくして香坂はあきらめ、深々と頭を下げた。「ごめんなさい。見当違いだ。もう行きます」

 踵を返した背中に、ナナは手を振った。

「香坂くぅん! なんか、よくわかんないけど、がむばれー」

「あはは」青年は弱々しく手を振った。「ありがとうございます」

 それから、セキュリティゾーンの方へ歩き去った。

「なんか変な子ですよね。イケメンだけど……癖があるっつーかぁ」ゆりっしーは淡々と評する。「でもいいなぁ先輩。魅力的とか言われてるしぃ!」

「見る目があるってことッしょ」ナナはむん、と胸を張った。

「合格っすか? 新人君。もうカレコレ一ヶ月だけどぉ」

「合格じゃないのォ、もっちろん!」

 それからUNKNOWNとして、呟いた。「お試し期間…………満了」


 紫暮阿武は結論する。

 香坂一希。柔軟な発想と何事もあきらめない粘り強さを合わせ持つ、希有な才能。そこに清廉を好む気性、つまり自己批評性という——ハッカーとしてはまことにイレギュラーな感性を——偶然にも兼ね備えている。

 電網庁が絶対に手放してはいけない男。

 典型事例プロトタイプを、破る男だ。



 




 常代有華は緊張の面持ちで、保全本部・総務課の課長と対峙していた。

「ロータスっていえば、僕の時代はロータス・ヨーロッパですよ。乗ったことないけども、プラモデルとか作ったなぁ。知ってる?」

 課長は噂通りのクルマ好きであった。

「知ってますよぉ……うちの親爺、乗ってましたもん」話が合いそうで有華は安堵した。「下っ腹を擦って、しょっちゅうスタビ壊してましたけどね」

「スタビ?」

「スタビライザー。わかります? ロータス・ヨーロッパの、足回りの部品」

「そうなんだ。へぇー。……ま、頑張って。萎縮せず、堂々とね」

 白髪交じりのナイスミドルで物腰も柔らかい。彼が新しい上司という事実に、少しホッとさせられる。

「はい、頑張りますっ」

 一礼して頭を上げた途端、ガラス越しに、廊下を歩く青年の横顔が視界に飛び込んでくる。出勤するスタッフが大勢通る中、目立って姿勢が良く、出で立ちが洗練されたそれは、明らかに香坂一希その人だ。

 香坂も有華の視線に気づいて、ぴたりと立ち止まり——「(髪、切ったね)」と唇を動かし、親指をグッと立てて微笑んだ。

 有華は周囲に気づかれない程度の少年のごときガッツポーズを取り、しかし香坂には目を合わさず、課長の後をついて歩いた。

 保全本部・総務課は女性だらけの職場である。課長の席から最も遠い末席へ案内されると、太った中年女性が隣りにでんと座り、けたたましくPCのキーボードを叩いていた。女は新人の到来を見初めて、身体全体で向き直り、丸眼鏡を直した上で鼻を一発ふんと鳴らした。

「よろしく、常代さん」

 有華は目を丸くする。見覚えのある顔だった。

「わ!」

 胸のネームプレートには三枝とある。「ささ、三枝さん……ですよねぇ」

「ここはロックミュージック、流れませんからね」

 三枝典子はニッ、と笑う。「ヘッドフォンステレオも、禁止。指示が聞こえないから。総務課はチームワーク。いいわね?」

 その胸には一種免許のカードホルダが誇らしげに輝いている。

「はは……よ、よろしくお願いします」

「で……常代さん、一点お願い」三枝が言う。「電網免許証、いつも見える感じで提げておいてね。あなたのネームプレートが用意できるのは、早くて半年先。正式な配属の辞令が降りてから……それまではインターン扱い、つまりアルバイトみたいなものだから、あくまで準関係者。それを誰から見てもわかるようにしてほしいの」

 有華はしぶしぶ胸ポケットからカードホルダを取りだし、首からぶら提げた。他のスタッフと色艶が違うことを意識しながら。

「これで、いいスか」三種の、例外女の恥ずかしさに耐える。

「いいスか? ……いいですか、でしょう」

 三枝は言葉使いまで指導するつもりらしい。有華はえへへ、と頭を搔いた。

 しかし相手の、眼鏡の底に光る瞳は一切笑っていない。「保全本部総務課は、お客様にお茶を出すといった業務もあり得ます。心得ておいてね。あと……これ」

 三枝は有華の机に置かれている、封が切られていない段ボール箱を指差した。

(う……うそでしょ)

 教材一式、と書かれている。

 三枝はひょいと眉を上げ、さらりと言った。「電網二種、一種、そして公務員試験。パスできなくても、相応の知識は身につけて貰います」

 有華は下唇を突き出し、横目で課長をにらみつけた。

 しかしクルマ好きナイスミドルは「頼みますよ、三枝女史」とだけ告げ、お局様の肩をポンと叩き、ずらりと机が並ぶ川の、遥か彼方、上流へと昇っていった。

(あんたが上司じゃないのかよぅ!)

 有華は軽い詐欺にかかった気分であった。

 念願叶って電網庁の一員となった——そんな気分も、つかの間。

(……ずっとこの調子じゃ、キツいなぁ)

 有華は椅子に腰掛け、机の整理を始めつつ、三枝「女史」が自分から目を離す隙を見計らった。

 カードホルダの先端を、胸ポケットへ戻すタイミングを探した。



 朝の十時。電網庁の全体朝礼が始まろうとする中、広大なカンファレンス・ルームの様子は雑然としていた。全員が集合させられたものの、まるで統率が取れていない。ある者はパイプ椅子を勝手に並べて座り、しかしある者は立っている。朝礼自体が初の試みらしい。民間企業の合併で発足したばかりの電網庁。関わる総務官僚たちも方々の通信局の寄せ集め。未だに上下関係も曖昧。そんな経緯がありありと見て取れる。

 総務課のメンバーは末席でタチンボとなり、常代有華も壁の花となっていた。

(あちゃー、カオスだなこりゃ……)

 ほどなくして混沌は収束へと向かう。制服の一団がぞろぞろと入ってきたからだ。明らかに警察官僚。一人が壇上のマイクを取り、椅子を全部片付けて、立って整列するよう発令した。上下関係など関係ないぞ、俺の言うことを聞けという迫力がある。

 総務課は成り行きで最後列に並んだが、有華は興味本位で何列か前に陣取った。制服の一団に馴染みの顔を見かけた気がしたのである。

(おっちゃん、来てるんじゃないの……?)

 背伸びしつつ、叔父の高柳泰平——警視総監の顔を探す。

 演壇の傍には垂水や岩戸といった顔ぶれが見えていた。しかし、まるで豆粒。

 警察幹部たちは椅子に座ってしまったらしく、帽子ぐらいしか見えない。

 ならば香坂を探してみようと思い、有華は背伸びしたままその場をくるくると回転、電網庁のスタッフ数百名の面構えを一人一人チェックした。

(どちらさんも、賢そうっスなぁ)

 誰も彼もが誇らしげにカードホルダを首から提げていた。見渡す限り——一種、一種、一種。

 もちろん自分の三種は、とっくの昔に胸ポケットの中。

 有華は背伸びを止め、小さくなり、ふぅと溜息をついた。ここにいるのは日本が誇る英知ばかり。才能も資格もあるエリート集団。その最中に、何故か潜り込んだ高卒娘、例外が一人。

 小さい。自分がとても、とても小さく思えてくる。

「……おはようございます。各部局とも、新庁舎での業務がようやく軌道にのったというところだと思いますが……えー、本日お集まりいただいたのは……」

 お偉方の挨拶が始まった。トップバッターは畑山電網庁長官。「公安局の正式な発足と、その活動について簡単にご紹介しつつ……」

 有華は足下に視線を落とした。知っていることばかりで、退屈。ゴルフ焼けした脂ギッシュな中年男にも興味なし。岩戸紗英が喋るというのならば、話は別だけれど。そうだ、今日の岩戸ファッションをチェックしてなかったぞ。どれどれ——うん。やっぱり魔女のスタイルはキマっている。怪我も治ってキレイ。本当のところ遠すぎてよくわからない。けど、でも、たぶんキレイ。好き。

 やがて電網庁長官の話が終わり、職員は好き放題にざわついたが、壇上に制服姿の紳士が登った途端、会場は水を打ったように静まりかえった。

 自分たちの長官と「警察庁」の長官とでは、格が違って感じられるのだろうか。

「……ご紹介にあずかりました阿川です。本日は非常に重要な決定を、是非みなさまの前でご報告したいと考え、貴重な機会をいただくこととなりました」

 警察庁長官はノーマルな制服ではなく、冠婚葬祭用の礼服を着ていた。どうやらこれは記念式典の類らしい。誰か表彰でもされるんだろうか。

 有華はうつむいたまま耳をそばだてた。

「……日本の治安を担う新たな公安組織……電網庁公安局の発足、および電網公安官の誕生に際し、われわれ警察も人材を拠出することを正式決定いたしました。これは、いわゆる派遣や出張ベースではなく、警察庁および全国都道府県警察と総務省電網庁が、サイバー空間の治安維持を目的とした唯一無二の組織を共同で立ち上げるということを意味します。

 本決定に至る道程はまことに長く、苦難の連続でありました。サイバー空間の治安維持には最新のネットワーク技術を有する人材を常に育成・維持せねばならず、と同時にハイレベルな潜入捜査を遂行する人材も必要となります。警察や総務省といった従来の枠組みを超えて、協力体制が必要であることはいうまでもない。しかしながら、警察単体で独自にエンジニアを採用し、あくまで警察内部のスペシャリストとして育成し、総務省とは別組織でサイバー治安に務めるべきだという意見も根強くありました。麻薬取締における厚労省麻薬取締部との協力体制を踏襲する考え方であります。

 しかし我々は二つの理由で、警察独自のサイバー捜査には限界があることを見極め、本決定に至りました。

 一つ目。警察は伝統ある組織です。それ故に警察官を志す人材には、ある種の偏りが生じる。よい偏りとは限らない。腕っ節には自信があっても、中には拳銃を撃ちたいだけ、あるいは白バイに乗ってスピードを出したいだけの乱暴者がごろごろといる。その偏った人材に対し、警察学校は厳しい訓練を課し、倫理的に不純な動機を持つ者を篩いにかけて落とす。だがその上で、更にネットワーク技術を兼ね備えた人材を選び抜くことは至難の業だ。篩いの上に一人でも残ればよいのですが、残らなければアウト。無論、電網庁にも同じ事情がある。全国のISPを統合した電網庁には高いスキルを持つハッカーたちの、膨大な英知が集っている。この中から、国を憂いで公安活動を志すコンピューターオタクを選ぶことはできる。しかし柔道有段者はどれだけいるでしょうか。命がけの場面で勇気が試されるとき、足が硬直するかもしれない。警察と総務省が武と知を以て、お互いを補完しあうしかないのは明々白々たる事実です。

 二つ目。サイバー犯罪、あるいはサイバーテロといった危機に立ち向かう際、組織内のセキュリティは強固に守らねばなりません。いってみれば一つ屋根の下で、常に同じ釜の飯を食うということが非常に重要である。知の担い手と武の担い手が、同時に、すみやかに、機密性の高い情報を共有し、一致団結して行動すれば、とても大きな力が得られる。よりクリティカルな危機をも回避しうる。しかもこれは最早、仮定の話ではないと諸君に申し上げたい。修学旅行バス事故を皮切りに明るみになった犯人グループの悪辣きわまりない策謀、いわゆる車載ECUハッキング事件が、双方の協力の下に解決をみた瞬間、合流の意義は明白になったといえるでしょう。新時代の幕開けを諸君と一緒に祝えることを誇りに思います。…………以上」

 カンファレンスルームを割れんばかりの拍手が覆う。

 有華も一応背筋を伸ばし、ぺちぺちと手を合わせた。そして次の登壇者を視界に収め、目を丸くする。

「警視総監の、高柳です……」スピーカーを通じ、馴染みのある声が響く。

 有華は微笑んだ。制服ではなく礼服姿の叔父を初めて見たからだ。格好良い立ち姿だと、素直に喜んだ。

 ところが——高柳のスピーチはそこで止まってしまう。

(えー? 嘘でしょぉ)

 内容が飛んでしまったのだろうか。遠目に見ても顔面蒼白だ。有華は小さくガッツポーズを取り、心の中で励ました。

(がんばれ、おっちゃん。どーした、挨拶とか得意でしょっ)

 応援が通じたのか、高柳は威勢良く咳払いをして、それからはすらすらと語り出した。

「……えー、一連の車載ECUハッキング事件において、一人の若手総務技官と、一人の若手警察官が、組織を横断する象徴的な活躍を見せたことは、まことに素晴らしい、記憶に留めておくべき結果であったと思います。そして、彼らのような新しい人材に活躍の場を与えたいというのが、今回の決断に踏み切った、我々の率直な思いであります。今日という記念すべきこの日、この場を借りて、新時代の幕開けにあらん限りの期待をこめ、合同組織発足の功労者である一人の女性に、えー、警視庁より、か、感謝状を贈らせて……いただきたい……」

 高柳がまた言葉を詰まらせる。今度は声が震えていた。

 感極まっているという様子が伝わってくる。

 だから。

 だから有華は勘づいた。今から何が起こるのかを。

「……か、彼女は、総務官僚と警察官……二人の若い精鋭を束ね、その上自らも危険を顧みず果敢に行動し、車載ECUハッキング事件を解決に導くのみならず、人命救助に多大な貢献を成し……遂げ…………」

 泣いている。壇上で、あの高柳泰平が泣いていた。もうスピーチが続けられそうにない。

 すると女性が一人駆け寄り、横からマイクに叫んだ。

「ここにいるはずです。常代さん!」それも涙声だった。「常代有華さん、前に……ほら、こっちっ!」

 私だ。

 感謝状って私のことなんだ。

 だから呼ばれてる。あの岩戸紗英に。

 じゃあ行かなきゃ。おっちゃんが待ってる、あの壇上へ上がらねば。

 わかる。

 それはわかってる。でも。

 有華はうつむいていた。両手で顔を覆っていた。一歩も動けるはずがない。両目からとんでもなく涙が吹き出してくるのだ。叔父が自分を待っている。自分に感謝状を渡すために。警察官僚を志していた、今は亡き弟と同じ顔をした自分に。そう思うと泣けた。泣けてしょうがなかった。だから前が見えない。声まで出そうになる。それを、それを我慢するのに必死で。

 動けるはずがない、と思った。

 そのときだ。背中を誰かの手が押す。行きましょう、ほら! と押してくる。三枝女史だ。有華は頷いた。しかし涙は止まらない。三枝が手にハンカチを握らせてくる。がんばんなさい、例外さん。そう声をかけてくる。何度も身体を揺すられ、励まされて、ようやく有華は歩き出した。一歩、また一歩。拍手が会場を覆う。割れんばかりに響いている。その隙間を縫って、走れ! という声が聞こえた。

 爽やかな、凜とした、聞き覚えのある青年の声だ。


 有華、走れ!


 その声に弾かれて、有華は勢いよくスタートした。人の波を縫いながら、ハンカチを手に。三種の入ったカードホルダが揺れて、揺れ放題で——けれど。

 両手を大きく、大きく振りながら、前へ、前へと駆けていった。















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