(同・都内某所)
飯島はポケットの煙草に手を忍ばせて、しかし吸うのを諦めた。オフィスのドアを開けて半歩も出た途端、ここがガソリンスタンド跡地だと思い出されたのだ。油の匂い、可燃性の気配。
背後をハッカー風情がふらふらと着いてくる。逃げる気配のない憔悴しきった足どり。ベテラン警視に散々脅かされたことが相当堪えたらしい。誘拐犯がどれほどに重い罪か。修学旅行バスの件を逃げおおせたとしても、貴様にまともな老後は来ない——そんな説明をされて震えがくるのは、砂堀恭治がまだ正気を保っているということだ。だからこそ扱いは容易い。
十一係のメンバーが待つ黒いミニバンに砂堀を乗せ、「捜査一課の末次と相談して拘留先を決める」ように指示を出し、夜のとばりへと送り出す。飯島自身は現場の維持をはかりながら、ここで刑事部の到着を待つと決めていた。
一人で、ではない。暗闇に身を隠す——あいつと一緒に。
「いるんだろう。出てこいよ」
街灯の真下に女の姿が現れた。ゆるくウェーブした茶系のロングヘア、銀縁で細身の眼鏡、白い開衿シャツに紺のパンツという誤魔化しの効かないシャープなスタイル、ロウヒール。事務用品販売の営業職で、サンプルの文具をぎっしり詰めたスーツケースを手に、霞ヶ関のビルからビルを渡り歩く。明るく奔放、ぱっと見はスレンダー美人だが、喋らせると下世話で残念。誰もが親しみを覚えるアラフォー女——そんな風に皆を信じ込ませている。
しかし。こいつは男だ。
「…………後は任せていいかな、ジマ」
真宮ナナを演じる格好のまま、紫暮阿武は男言葉を吐いた。声音には中性的な若々しさがある。
「不愉快だぜ」飯島は街灯の下へ歩み寄って、いきおい紫暮の胸ぐらを掴んだ。「心の底から不愉快なんだよ! UNKNOWNの……貴様の手伝いをさせられたかと思うとな」
「とんでもない。十一係のお手柄だ……表沙汰にはならないだろうが」口元は笑っている。だが眼鏡の奥の瞳は冷ややかだ。
飯島にはわかっていた。表向きには電網庁の手柄になる。砂堀は自首に応じなかった。結果、電網免許証が決め手になった。なってしまったのだ。
つまり俺は、はからずも魔女の手伝いをさせられた。
「貴様、最初っからこうなるとわかってて、砂堀を雇ったんじゃねぇだろうな!」飯島はシャツの衿を掴む右手に力を込めた。「Nシステムを餌にしたのかっ」
「……もちろん違うさ」
「ち!」飯島は衿から手を放した。「嘘くせぇ」
覚悟している。UNKNOWNの一挙手一頭足、その全てが詐欺まがいであると。被疑者の尋問より遥かに神経を使う相手だ。
その女紛いの、赤く塗られた唇が小さく開いた。
「……砂堀恭治。セキュリティ業界の大御所を引っぱり込んだのは、警察庁幹部の失敗だ。しかし一方で警視庁はうまくラインを引いた。公安部長殿が思案の末に、公安総務課十二係を創設。十一係の……飛びきり鼻の効く飯島警視の、目が行き届く範囲に奴を置いたのは正解だった」
「どうせなら、俺の部下にすべきだった!」
飯島は憤った。「十二係なんてものを作り、わざわざ紫暮阿武を……電網庁へ潜入捜査中の、留守がちなオカマ野郎を係長に選んだのは何故だっ」
真紅に塗られたナナの唇が薄く横に結ばれる。
飯島は続けた。「……砂堀チームが何かしでかした時、俺に、直に責任をとらせたくない。という……気遣い。そうなんだろ」
「…………」
「くそっ、貴様ごときに恩を着せられるなんざ、反吐がでるぜ!」
「……言い出しっぺは確かに俺だ。しかし決めたのは公安部長様だぜ? 喜べよ……飯島警視の腕は公安の宝なんだ」
「だが一方で、UNKNOWNは責任をとらされる。確実に島流しにあう。いや、違うな。お前は辞表を書くことを決めていた。砂堀の道連れになることを選んだ。そうだろっ」
「………………確かに、ある時点で覚悟はしたよ」
「何時だ」飯島は眉を吊り上げた。「何時からだっ」
答え方次第では殴り飛ばす。そういう気迫を込める。すると。
紫暮阿武は紫暮阿武として、捜査のあらましを淡々と述懐した。
半月ほど前。フィッシング詐欺騒動で電網庁を謹慎処分になった女、十和田美鶴。紫暮は彼女の電子メールや金回りを調べていた。背後関係を洗うために。
美鶴にはさまざまな副業が存在した。中には「砂堀恭治を誹謗中傷する」といった奇妙な動きも。趣味ならいざ知らず、そんなくだらない作業で報酬を得られるということは——砂堀を攻撃したい何者かが、スポンサーとして存在するということだ。
美鶴の行動履歴をつぶさに追うと、依頼主としてpack8back8の線が浮かんだ。なるほど、pack8back8が砂堀を中傷するのは頷ける話だ。ハッカー集団・ブロウメンの稼ぎは、自動車によって産み出される。セキュリティの権威・砂堀が当局に懐柔され、車を追尾するNシステムの堅牢性が高まることは、不利益になりそうだ。
しかし——
「とある掲示板で、砂堀恭治、
pack8back8、イコール砂堀恭治。紫暮はその可能性に注目したのである。
砂堀がわざわざ仲本繭を雇い入れたことも、大いにヒントとなった。pack8back8の子飼いたる十和田美鶴。その恋人に警察職員という立場を与える理由。それは「脱法ドラッグ常習者カップル」という金に飢えた身の上の二人に、「立場を悪用して情報漏洩で稼ぐ」というサイバー犯罪の妙味を覚え込ませるためだ。美鶴は電網庁。繭は警視庁。繭が警察の内部情報を美鶴にリークし、あるいは美鶴が繭に電網庁の情報をリークするという役目を果たしてくれるなら、pack8back8として目をかけやすい。いざとなれば繭は自分の隠れ蓑になる。そういう計略と考えれば合点がいく。
「とはいえ、俺には、砂堀がバス事件の本丸だという推論は成り立たなかった」紫暮は傲らずに言った。「俺に透けて見えたのは、美鶴を操って電網ゼロ種免許証を手に入れたいという、奴のハッカー心理だけだ。自宅かアジトに盗品の電網免許証がたんまり溜め込まれているかもしれない……そう踏んだ」
「なるほど。で、あの成金時計をプレゼントしてやろうと思ったわけだな。アジトで本人以外の免許証反応が出て、それが盗品だったりすりゃあ一発で縄にできる、と……しかし」
飯島は呆れ気味に言った。「今夜、この状況で、しかもほんの一瞬、岩戸紗英の免許証反応が出たなんてのはラッキーもいいところだぜ」
紫暮は肩をすくめる。
「ただのラッキーじゃないさ。俺とはまったく別口で、飯島警視は砂堀を臭いと思った。そしてアジトを突き止め、今夜もしっかり見張っていた。その上で、緒方隼人を介し、電網庁の香坂一希から、いの一番に……岩戸の免許証反応が出た旨を知らされた。その座標が目の前だったのは、お前さんの嗅覚を讃える結果でしかない」
飯島警視がいなければ、砂堀はまんまと逃げおおせただろう。おかげで警察が負った傷は最小限。紫暮阿武が一人、島流しにあうぐらいで済んだ。
そういいながらUNKNOWNは微笑んでいる。
飯島は解せなかった。反駁した。
「じゃあ聞くが、国交大臣の息子が殺されたのは何故だ。乗り合わせた子供達が巻き添えになったのはどうしてだ。残された遺族は命を落とした理由を……怒りの矛先を今も探している。ベガス社のバスに乗ったことを呪うべきなのか? 国交大臣の息子と、同級生になったから死ななくてはならなかったのか? あるいは」
一呼吸入れて、それから、こう続けた。「電網庁なんてものがあるから、こんな事態になっちまったんじゃねぇのか? 猪川と岩戸……二人が共有した思想、自動運転の実現という野心に、微塵の責任もないと言い切れるか?」
「……」紫暮は黙っている。
ならば、と飯島は畳みかけた。
「エリート官僚と政治家。二人は東大の同じゼミで箕輪浩一郎に師事した同窓の徒だ。それが規制論者として強権をふるう。日本を動かす。ところがアングラのブラックハットにはそれが面白くない。結託する。反政府勢力が盛る。つまりだ。岩戸がハッカー勢力をまとめあげる中で邪魔者を振り落とす結果、悪意が、陰謀の種が日本中にばらまかれてしまう。そんな状況を生み出した奴は魔女呼ばわりされて当然だろう。この混沌はあいつのせいだ。信じるに足る女か? あいつの師匠、箕輪浩一郎の規制経済論は本物か?」
飯島は思いつくまま、ひたすらに
「飯島充が、まさか箕輪浩一郎を読んでいるとはね」
紫暮はさらりと言った。「……だが人口減少に伴って日本の経済はこれから確実に縮小する。まさか右肩上がりの夢を見続け、公正なる自由競争の発展を願うわけにはいかないだろ?」
「馬鹿野郎。こっちが聞いてるんだよ。質問に質問を返すな」
「ベガス社の話をしようか………………一連のトラブルで、あの会社はお家存亡の窮地へと追い込まれた。しかし明日以降ぐっと持ち直せば……あのピンチを切り抜けた背景に、電網庁の活躍があったという評判になれば世論も変わってくる筈だ。いや、間違いなく変わる。ネッ禁法などと中傷する勢力にとって痛手になる」
紫暮はそう断じた。しかし。
飯島は返す刀で切りつける。
「お前、岩戸紗英と通じているだろう」
「………………」
「ほうらみろ」当てずっぽうが効いて、飯島は上機嫌になった。「ご高説を賜った俺が馬鹿だったぜ。潜入捜査が聞いて呆れる……二重スパイ野郎の持論なんざ、受け流すに限る」
「つれない奴だよ、ジマ。お前が手伝ってくれたら、電網庁も百人力なんだが」
「おい…………まさかとは思うが」飯島は真顔になった。「……十二係をわざわざ作って潰した目的は、サイバー犯罪に対する警察の無力ぶりを証明することじゃないだろうな……わざと砂堀のような人間を抱えて、わざと失敗して、オマエが辞表を書くまでが規定路線……」
サイバー犯罪の撲滅にむけ、警察と電網庁が合同組織を立ち上げるという噂話。
警察内部の反対意見が強く、一旦流れたアイデア。
それを復活させる——布石だとしたら。
「…………」
「だとしたら俺は」飯島は渾身の力で罵倒した。「お前を絶対に許さんぞ。そんなやり方は断じて許されんっ」
罵倒する一方、内心では祈っていた。
それだけは。そこまでは俺を騙してくれるな。
そこまでのダークサイドには堕ちてくれるな。頼む、と。
「ふふふ」紫暮の細い首筋から、肩へ向かうシャープな輪郭が小刻みに揺れる。「飯島充。まったく厄介な男だ」
「うるせぇぞ紫暮阿武! お前が俺を、厄介にさせるんだよ」
「岩戸紗英をどう思う?」
「……なんべん言わせやがる。クソめ。質問に質問を返すんじゃねぇ」
「ただ気が強いだけの野心に燃える魔女か、それとも……日本の将来を託すべき救世主の器か」
「…………もういい。はっきりする気がないなら、失せろ。その面見てるだけで吐き気がする」
紫暮は眼鏡のテンプルに指をかけた。引き脱いで素顔を見せる。誰もが女と見紛う容貌。ゆるやかな眉、涼しげな目元、歪みのない鼻筋。
「潜入捜査という仕事の最中は、どうしても脇が甘くなる…………今回は助けてもらった」凜とした唇が仲間への感謝を綴る。「いつものことだがお前さんの観察力と、しぶとさには感服する」
言葉遣い以外で男の存在は微塵も感じさせない。
徹夜明けで四時を回ったというのに、髯が生える様子もない。
「俺がしぶといんじゃないぜ。貴様がちゃらんぽらんなだけ。自惚れが過ぎる。何もかも手玉に取れると思えるんだからなぁ。本当に、おめでたい奴だ」妖魔のごとき男を前にして、飯島は気を張った。
「まったくだ。警視庁最後の仕事で、お前さんの世話になれたのは俺の誇りだよ」
「全然うれしかねぇ。薄気味悪いカマ野郎に褒められても」
「これだけは覚えておいてくれ」
紫暮は最後にこう付け加えた。「ジマ……俺はお前を、とても頼りにしている」
それから背を向け、暗闇へ向かって、歩みを進める。
闇に溶ける。溶けていく。
「おい、忘れるなっ」飯島は吼えた。「俺はな、好きで砂堀を縄にしたわけじゃない。胡散臭い輩には虫唾が走るってだけのことだ。その輩には電網庁の魔女も、潜り込んでる変態警官も含まれてる。覚えとけ!」
UNKNOWN。
紫暮阿武を名乗る存在が、真宮ナナを名乗る世界へと旅立つ。
組織を、戸籍を、性差を、ありとあらゆる自己同一性を手玉にとる怪物——潜入捜査官。
飯島はその後ろ姿から目を背けた。
あれは、あんなものは、人間の生き方じゃない。
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