第15話 追試(午後の部)

「ではこれより、午後の追試の説明をおこなう」


 学園の地下。


 人工迷宮の扉の前で、リヴェータが仁王立ちをしながら言う。


「内容は例年通り、迷宮の攻略だ。難度は三十。怪我で保健室に転送されても時間内であれば再挑戦を受け付ける。実力だけには自信がある赤点共なら簡単すぎる試験だな」


 ジロリと挑発するように、五人の生徒を見る。


 午前のペーパーテストではサービス問題しか解かない、そもそも受けにすら来ないなどと、散々舐め腐ってくれた赤点集団を威圧するように見渡し、


「ハッキリ言うが、この演習で失敗すれば即退学の状態だ。難度も去年より上がっている。これ以上舐めてかかると後悔することになるぞ?」


 その言葉にさえ、これといった反応をする者はいない。


 よほど自信があるのか。


 人の話を聞く気がないのか。


 なんにせよ、これ以上言っても意味はなさそうだ。


 リヴェータは諦めたように嘆息し、


「制限時間は二時間。点数は攻略への貢献度で採点し、ボスの撃破時点で攻略完了とみなす。説明は以上だが、なにか質問はあるか?」


 見渡しても全員無言だ。


 それが精神統一であればまだいいが……


 リヴェータは面倒そうに眉をひそめ、気持ちを切り替えるように息を吐く。


 そして、


「では、攻略開始だ!」


 言うと同時に扉が開き――赤点五人は中へ消えた。




 ◆◆◆




 そこは閑散とした場所だった。


 どことなく寂寥感のある、深い青色をした世界。


 多少暗い気がするが、視界はそこまで悪くない。


 走っても問題はないだろう。


 難度三十なら罠の心配もない。


 そう考えながら、周囲に立ち並ぶボロボロの廃墟を眺め……


「姿はよく見るが、話すのは初めましてだな」


 不意に聞こえた声に振り向くと、女がいた。


 かんざしで留められた青色のロングポニーに、芯の通った茶色の瞳。


 眉毛の太さも相まって、キリッと勇ましい雰囲気をしている。


 そんな女はふわりと、友好を示すように微笑を浮かべ、


「わたしは……あー、っと、だな…………」


 突然表情が曇った。


 何事か考え込むように眉根を寄せて、


「おい眼鏡、わたしの名前はなんだった?」


「は?」


 タクトはなに言ってんだこいつと言いたげな表情をする。


 女は顔だけで振り向き、背後の男を見ていた。


 それに男――ヘアピンで留められたアシンメトリーな黒髪に、眼鏡越しに理知的な金の瞳を宿した男、ルーベル=マルトフは、呆れたように額に手をやり、


「まったく、ど忘れもいい加減にしてください。ソフィアでしょう? ソ・フィ・ア」


「ああそうそう、ソフィアだソフィア。思い出した。というわけで、わたしの名はソフィア……あー…………」


「ブルメル」


「そう、ソフィア=ブルメル。そこの眼鏡と同じ派閥の者だ。よろしく頼む」


 なんて、精悍な顔つきで言ってきて……


 タクトはポリポリと頭を掻いて、


「えっと……俺はタクト=カミシロです。こちらこそよろしく」


「ああ、もちろんだ。おたがい退学にならないよう頑張ろう」


「そうですね」


「む? おいおい、わたしは同級生だぞ? 別に敬語じゃなくていいさ。まぁ、無理にとは言わないがな」


「んじゃあ遠慮なく」


「そうしてくれ。……ああそれと、頑張ろうとは言っても、気張りすぎてボスまで倒すなんてことはしないで欲しい」


「ん? なんで?」


「あー……いや、まぁ、なんだ。そうすると、わたしが退学になってしまうんでな」


「退学?」


 ボスを倒すだけで?


 こてんと首をかしげるタクトに愛想笑い、ソフィアは横に手を出しながら言う。


「さて、じゃあ眼鏡。アレを貸してくれ」


「はいはい、わかってますよ。【レイオグリフ】」


 途端、ルーベルの手元が光り、一冊の本が現れる。


 茶色の装丁をした、事典のように分厚い本。


 ルーベルはそれをソフィアに手渡し、


「ん。終わったら返す」


 ソフィアは受け取ったモノを一瞥し、スタスタと迷宮の入り口のほうへと歩いて行って……


「さぁ、僕らは僕らで始めましょうか。というか、あっちはもう始めてますし」


 ルーベルに釣られて見てみると、テルンとリンダはすでに前方遠くまで歩を進めていた。


 一緒に勉強会を受けた同士だというのに、なんとも薄情なことだ。


 タクトはへらりと覇気の欠片もない笑顔を浮かべ、


「残りの赤点がきみだとは思わなかったよ」


「はっは。眼鏡だからって頭がいいとは限らないのですよ」


「あっちの子も真面目そうな顔してるのにね」


「ええ。彼女は真面目にバカですよ。自分の名前を忘れるくらいですし、テストの点はいつも最下位ですよ、まったく」


 やれやれと首を振るルーベルだが、同じ赤点仲間だというのは気づいているのだろうか。


 おそらく気づいてないんだろう。


 だって赤点野郎だし。


 タクトはぽけっと天井を見上げる。


 ルーベルは肩をすくめて、


「さて、そろそろ僕らも行きましょうか。あまり時間もないですし」


「ん? 制限時間は二時間だよね? このっていうか、追試の迷宮ってかなり深い感じ?」


「ああ、そうですよね。タクトくんは初めてですし、知らないのも無理はありませんか」


 ルーベルはクイッと眼鏡を押し上げ、


「単刀直入に言うと、この攻略は十分でケリがつきます」


 そんなことを、パトリシアも言っていたような気がする。


 追試にはあの二人も来る、今回も十分で終わらせるつもりなら……とか、そんな感じのことを言っていたはずだ。


「なので、それまでに僕らは雑魚を倒してポイントを稼ぐ必要があるわけです」


「ふーん。よくわかんないけど、そういうルールってか、やり方をしてるわけだ」


 なにがどうなってそうなるのかはわからないが、いままでそうやってきているのなら、新参者は合わせるだけだ。


 様子見の時間もなさそうだし、さっさと進んだほうがいいだろう。


 タクトはぼんやりと、姿も見えなくなってしまった同士たちの方向を眺め……


「お、もう始まってる」


 遠くで爆発が見えた。


 おそらくリンダだろう。


 爆属性は魔法の中でも威力が高い。


 瞬間火力はトップクラスだ。


 あまり暴れられるとこちらのポイントまで獲られてしまうかもしれない。


 タクトは踏み込む足にチカラを入れ……


「ん?」


 眉をひそめた。


 なにか、来る。


 なにかが、とんでもない速度で向かってくる。


 即座に腰を落とし、なにが来ても対応できるように構え――その横を、テルンが飛んでいった。


「ぶっへぇぇぇぇぇ!」


 テルンはビターンと盛大な音を立てて、顔から地面に叩きつけられていて……


「え、なに? あの距離吹っ飛んできたの?」


 だとすれば相当強力な一撃だ。


 なにより受け身を取れていない。


 テルンの技量なら難度三十相手でも充分やりあえるだろうし、受け身どころかわざと攻撃を食らっていなし、バランスを崩させるぐらいのことはできるはずだ。


 タクトは訝しむようにテルンを見やり……


「あんのクッソ野郎がァッ!」


 ガバッと、テルンが勢いよく起き上がった。


 ダメージはそこまで酷くなさそうだ。


「【ハルゼクス壱式*断砕だんさい】!」


 テルンの手元が閃き、銀の戦斧ハルバードが現れる。


 それを両手に構え、


「舐めんじゃねぇぜクソ女ァッ!」


 踏み込み、加速。


 あっという間に姿が小さくなっていき、


「ぶっへぇぇぇぇぇ!」


 またも飛んできた。


 なにが起こっているのだろうか。


「なにこれ? この先なんかあんの?」


「バカ女がいやがるぜ」


 テルンは拭うように口元を擦り、プッと地面に赤い唾を吐く。


「バカ女? って、あのリンダって人のこと?」


「ああ。あの野郎、いきなしオレに魔法撃ってきやがったぜ。いくら保健室行きで死なねぇったって、マジでやるヤツがどこにいんだぜ」


 前科があるからなんとも言えないが、喧嘩を売ったわけでもなく、おたがい退学がかかっている状況でやることじゃない。


 とすると……


「操作系の敵ってことかな?」


 あるいは寄生か幻術か。


 なんにせよ、リンダがとらわれたとなれば気を引き締める必要がある。


 彼女はあれで実力が高い。


 戦闘勘もいい。


 そんなヤツがやられたならば、自分たちだって危険かもしれない。


 タクトは黒銃を呼び出し、


「《急泣きゅうきゅう》」


 視界にスコープが現れる。


 その色で、数で、敵を識る。


 弱点を、大きさを、脅威度を。


「炎に水に風に雷……なんだ、弱点だらけじゃん」


 だからといってそこを攻められるわけでもないけれど。


 純無魔導師バハムートは無属性しか使えない。


 けれど、風と雷が効くならテルンがいるし、炎はリンダが持っている。


 急所を教えてやればすぐに終わるだろうし、自分もそこを狙い続ければ仕留めることはできるだろう。


 と、考えていたのだけれど……


「タクトくん」


 ルーベルが、どことなく真剣な声音で言う。


 タクトもすこし真面目に、


「なに?」


「この追試にあたって、悪い話と悪い話があるのですが……どっちから聞きます?」


「どっちも同じでしょうよ」


 タクトはげんなりと肩を落とす。


 彼相手には真面目になるだけ無駄だったようだ。


 ルーベルは得心がいったように頷き、


「そうですね。ではまず……リンダさんの秘宝、【エスキール】は、自身の身体能力を強化するサーベルです」


「へぇ」


「そしてサーベルの副作用として、自身の感じている心、すなわち感情を昂らせる効果があります」


「ほーん」


 ペーパーテスト後に「集中が必要」と言っていたのはそれが理由かもしれない。


 無理やり感度を上げられた情動のコントロールはなかなかに難しいだろう。


 タクトは納得したように宙を眺め、ルーベルはなんとなく気まずげに、


「それで、ですね。普段はカームキャンディ、通称カムキャンという、鎮静作用のある子供向けの飴で抑えているんですが……」


「そうだね。くわえてないね」


 姿が見え始めたリンダの口にはなにもない。


 あの状態では操られても仕方ないだろう。


「これがまず悪い話です。そしてもうひとつの悪い話なんですが……彼女は、猫派です」


「猫派?」


 それがどうしたというのだろうか。


 首をかしげるタクトだったが、すぐにその意味を理解した。


「おネコ様に手ぇだすヤツぁ、このあたしが許さねぇッ!」


 一斉掃射。


 そう感じるほどの絨毯爆撃。


 荒れ狂う爆風と熱波に揉まれつつ、なんとか廃墟に避難する。


 怒りに身を任せるリンダの背後には、大量の白いモフモフ。


 猫だ。


 通常よりもいくらか大きいが、間違いなく猫だ。


「猫派って、これいま迷宮だよ? しかも追試なんだけど」


「感情に呑まれた彼女に、そんなものは関係ありません」


「なるほど、悪い話だ」


 へらりと笑うタクトだが、内心すこし焦っていた。


 リンダは強い。


 それはある程度知っていた。


 だが、今回の動きは明らかに予想を超えている。


 サーベルの効果なのか、技の威力も反応速度も、なにもかもが桁違いだ。


 現にテルンが吹っ飛ばされている。


 それでも負けずに立ち向かうガッツは認めてあげてもいいかもしれない。


 しかし、このままでは攻略はおろか、追試にすら受からない危険性がある。


「タクトくん」


「なに?」


 ルーベルのほうを見れば、なにやら棒付きの飴を差し出してきていて……


「……まぁ、言いたいことはなんとなくわかるけどさ、本気?」


「これ以外に方法がありますか?」


「んー……三人がかりで取り押さえるとかは?」


「残念ながら、僕は近づく前に黒コゲになる自信があります」


「じゃあ、向こうは……」


 とテルンを見てみると、


「このクソアマぁ……いい加減にしやがれってんだぜ……」


 何度も吹っ飛ばされて突っ込んでを繰り返して、身体中ボロボロになっていた。


 あの状態では共闘は厳しいだろう。


 タクトは諦めたようにため息をつき、


「やるしかないっぽいね」


 ルーベルの差し出す飴を受け取り、廃墟から出る。


「《瞬刹しゅんせつ》」


 全身が煌めく。


 チカラが漲る。


 そのまま強く踏み込んで、


「おネコ様に近づくな!」


「うおっと」


 サーベルの軌道に迷いも容赦もない。


 首に触れてみると、赤い液体が手に付いた。


「はは。マジでヤバイわ」


 まさか瞬刹の動きを完全に見切られるとは。


 なんなら速度で負けてる可能性すらある。


「これは、本気でいかなきゃダメかな」


 そう考えて、深く深く、地につきそうなほど深く、身体を沈め……


「おいクソ純無魔導師」


「ん?」


「これはオレが売られた喧嘩だぜ。邪魔すんじゃねぇぜ」


「いや、さっきから吹っ飛ばされまくってるじゃない」


「あれは様子見てただけだぜ。本番はこっからだぜ」


「無理しないほうがいいんじゃない? そろそろ保健室に送られちゃうよ?」


「ハッ。舐めんじゃねぇぜ。オレは強ぇ。その証拠を見せてやるぜ。【ハルゼクス弐式*繋蛇けいだ】!」


 戦斧が輝き、姿を変える。


 現れたのは……


「剣?」


 だが、なんとなくイビツな気がする。


 トゲというか、段々に膨らんでいるというか……


「覚悟しやがれクソ女ァ!」


 テルンが突っ込んだ。


 これではさっきまでと同じ、また吹っ飛ばされて終わりに……


「舐めんじゃねぇって、言ったはずだぜ?」


 テルンがニヤリと不敵に笑う。


 周囲に現れた桜色の光を一瞥し、剣を振るった。


 その動きだけで、光が斬れる。


 前も横も上も下も、後ろの光すらも、すべてが一刀のもとに斬り捨てられた。


「連接剣……」


 タクトは呆然と呟く。


 剣だと思っていた刃の部分が、紐状のなにかで繋がったまま分裂し、鞭のように伸びている。


 剣と鞭のハイブリッド武器――連接剣。


 だが、これは……


 タクトはテルンの動きをみる。


 突っ込み、振るい、ときには横に後ろにステップして、すべての光を対処している。


 先程までとは比べ物にならない。


 様子見というのは本当だったようだ。


 なによりあの武器、伸長と収縮を繰り返すあの武器は、あまりにも高度な技術が必要とされる代物だ。


 異物が挟まらないように調整したり、狙った部分に刃を立てる必要がある。


 それを完璧に操るとなれば、刃の一つひとつを完全に把握、制御しなければならない。 


 しかも、連接剣は純粋な剣ほどの強度がなく、鞭の形状ではさらに威力が下がるため、扱う者はほとんどいない。


 つまり、誰からもならうことのできない武器。


 完全な独学でしか操れないロマン武器だ。


 それを手足のように自在に操作し、ついにはリンダを射程圏内にまで収めている。


 強い。


 ここまで強い男だとは思っていなかった。


 だが……


「邪魔だァ!」


 接近戦となれば、あまりに不利だ。


 剣自体の強さであればサーベルのほうが上。


 連接剣の強みを生かせない。


 それはテルンもわかっているようで、


「ハッ。だから舐めんじゃねぇって言ってんだぜ」


 ニヤリと、不敵な笑みを崩さずに、


「【ハルゼクス壱式*断砕】!」


 連接剣が閃き、戦斧に変わる。


 金属音が鳴り響く。


「邪魔だっつってんだろうがァッ!」


「ハッ。ならどかせばいいぜ。できたらの話だけどなぁ!」


 火花が散るほど激しい攻防。


 序盤は互角かに見えたが、徐々にテルンが押され始めている。


 当然だ。


 テルンはすでにボロボロで、リンダはサーベルで身体能力が強化されている。


 ついにはリンダの蹴りが腹に突き刺さり、えずきと共に吹っ飛ばされた。


「ぐ……くっそ、あんのクソアマぁ……」


 それでもまだ起き上がる。


 闘志は微塵も消えていない。


 それは称賛に値するが、だからといってこれ以上は危険だ。


「もうやめたほうがいいって」


「うっせぇ……オレは、強ぇんだぜ……」


 もはや足取りもおぼつかない。


 そんな状態では挑むだけ無駄だ。


「タクトくん」


 ルーベルが廃墟から出てきた。


 タクトは振り向かないまま、


「なに? いま結構ヤバイ状況なんだけど」


「いえ、ひとつ聞きたいことがありましてね。その銃、散弾って使えます?」


「散弾?」


「ええ。もし散弾が使えるのなら、彼女の魔法は防げますよね」


 それは思いつかなかった。


 考えたことすらなかった。


 業喰ごうしょくは圧縮しないと使えない。


 だから、分割しようだなんて発想がなかった。


 でも、一度圧縮した後であれば、もしかしたら……


「そして、彼女の魔法が防げるのなら、あとはテルンくんが抑え、その隙に飴を口に入れることができれば」


「なるほど。それであの子は我に返る。けど……」


「あ? 舐めんじゃねぇぜ。オレは強ぇんだぜ。まだまだやれるぜ」


「そう。なら、やってみようかね」


 タクトはへらりと笑い黒銃を構え、テルンは戦斧を担いで駆け出して、


「おネコ様に手ぇ出すなっつってんだろうがァッ!」


 いくつもの桜色が世界を染める。


「《業喰*フェローチェ》」


 漆黒の弾丸が分裂し、炸裂し、光のすべてを喰らい尽くす。


「死にさらせやクソ女ァッ!」


 戦斧が振り下ろされ、甲高い音が響き渡る。


 一撃の重さは戦斧のが上。


 いくら身体能力が上がっていようと、そう簡単には押し返せない。


「邪魔だって、言ってんだろうがァッ!」


 リンダが吠える。


 肩を入れるようにサーベルを傾けて戦斧を滑らせ、肘鉄でテルンの顔面を打つ。


 仰け反ったところをさらに蹴りで追撃し、テルンは大きく吹っ飛ばされ……


「その状態じゃ、これ以上の迎撃は無理だよね~」


 すでにタクトはリンダの懐。


 目を見張るリンダの口へと、腕を伸ばす。


「《爆炎胡蝶ばくえんこちょう》!」


 途端、桜色の蝶が周囲を羽ばたく。


 自爆覚悟の迎撃だ。


 避ければテルンの頑張りを無駄にしてしまう。


 かといって受ければ熱波で飴が溶ける。


 どうする?


 答えは決まってる。


「《業喰*散》」


 周囲すべてを喰らえばいい。


 見る必要も、狙う必要もない。


 蝶はあっという間に喰い尽くされ、漆黒が世界を塗り潰す。


「勝負あったね」


 猛るリンダの口へと飴を突っ込み、タクトはわらう。


 リンダはもごもごと口を動かし……


「…………悪ぃ。助かった」


 どうやら正気に戻ったようだ。


 気まずそうに視線を他所へやっている。


「大成功でしたね。作戦と、その作戦を考えた参謀が素晴らしかったからでしょう」


「ハッ。援護すらしなかった寄生虫がなに言ってんだぜ」


 これでひとまずの危険は去った。


 タクトは切り替えるようにへらりと笑い、


「さて、んじゃあ仕切り直して――」


 そこで、空間が震えた。


 声だ。


 なにかが叫んでいる。


 低くしゃがれたような、威圧的な咆哮。


「あら、ここってワンフロアな感じ?」


 タクトはへらへらと笑って言う。


 迷宮内がワンフロアとなれば、そこにボスもいるということで。


 なんなら徘徊とかもしていたりしちゃうわけで。


 つまり、いまの鳴き声は……


「ン゙ニ゙ャ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙」


 猫だ。


 それも、見上げるほどにデカイ猫だ。


 そこらの廃墟よりもデカイ。


 二本脚で立てば、余裕で成人男性五人分は超えるだろう。


 そんな巨大な化け猫を見上げ、


「うわぁ……なに食ったらあんななんのかな」


「それはオレも知りたいぜ」


「知ったところでニンゲンに適用できるとは限りませんよ」


「ヤバいめっちゃかわいいモフりたい」


「え?」


「あ?」


 ひとまず感情は抑えられてるようだ。


 興奮してても暴れる様子はない。


「で、アレどうすんの?」


「どうするって、どうもしねぇよ」


「いやいや、アレってボスでしょ。倒さないとダメでしょ」


「あ? あー、テメェあれか、聞いてねぇのか」


「聞いて……ああ、そういえばなんか、ボスは倒すなって言われてたかな」


「んだよ、知ってんじゃねぇか。忘れてんじゃねぇよ」


「いやいや、ちょっと色々あったからさ。すっかり抜け落ちちゃってたよね」


「んな間抜け面で退学にされちゃあ、たまったモンじゃねぇな」


 リンダは呆れたように舌打ちする。


「ひとまず雑魚を狩りまくるぞ。……だいぶ、心苦しいけどよ」


「あ、その辺の区切りはついてるんだね」


 てっきり猫派だから猫は傷つけられないとか言い出すと思っていた。


「そりゃそうだろ。迷宮攻略は半端な気持ちでやれるモンじゃねぇからな」


 それをわかってても感情に呑み込まれるとああなるのか。


 危険な秘宝もあるもんだ。


 ぼへ~っと考えてるんだか考えてないんだかよくわからない表情で考えていると、そこら中の廃墟の屋根に、大量の猫が集結し始めた。


 ボスの声に反応したのかもしれない。


 なんにせよ好都合だ。


「そんじゃ、ちゃちゃっとやっちゃおうか」


 眼だけは鋭くへらりと笑い――地面に、壁に、天井に、幾筋かの線が奔った。


 青、緑、紫、茶、空、紺、竜胆りんどう


 様々な色の線が刻まれていき……


「なッ!? おいこれ!」


「まさかもう十分経って……!」


「クソッ! 急いで倒すぞ!」


「急ぐって誰のせいでこうなったと思ってんだぜ!」


「僕のせいではないですよ!」


「とっとと止めねぇほうも悪ぃだろ雑魚が!」


「ああん!? 助けてやったのになんだぜその言い草はァ!」


「ちょっと、仲間内で争っている場合じゃ――!」


 線はどんどんと数を増していき、そのすべてから斬撃が飛び出した。


 縦横無尽。


 千万無量。


 圧倒的な斬撃の嵐は、ボスを瞬く間に斬り刻んで……






 ――ボスの討伐を確認。転送を開始します。





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神に捧げるレクイエム 水沢洸 @mizusawa

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