いくら丼を食べるだけ

テマキズシ

いくら丼を食べるだけ


 北海道。またの名を、食の楽園。


 ジンギスカンや札幌ラーメン。石狩鍋にちゃんちゃん焼き。スープカレーも最高だ。

 この寒さすらも美味しさを高める調味料。


 腹がぺこちゃんになった俺は北海道の町並みを探索し始めた。

 嫌な会社の出張も、北海道となる話は別。


 さて…どこかに俺の心に刺さる美味しそうなお店はないものか…?



 歩く事五分。俺は中年のサラリーマン二人がお店から出てくる所を発見した。

 見て分かる。俺と同じ仕事の昼休み。そして彼らの様子から察するに俺とは違いここの住人なのだろう。


 ……海鮮丼の専門店かぁ。……アリだな。


 値段は少し高め。だが中の人の楽しそうな話し声や先程出てきた人の様子を察するに、それでも入る価値のある店なのだろう。

 俺は店の中に入る。見た感じ内部はそれなりに広い。人もかなり居る。


 少し焦ったが、なんとか待つことなく席へ座る事ができた。

 メニューは大衆食堂らしく使い回されボロボロになっているが、それがこの店が美味しい店だと教えてくれる。


 念の為迷惑にならないように、バレないように…周囲を確認する。

 なるほど。テレビやラジオの類は無し。野球やサッカーの類も無し。

 店主は見た感じ必要最低限の会話しかしないタイプ。常連のみで盛り上がって生き残ってきたタイプの店では無いだろう。


 ……これは当たりだな。


 俺は内心のほくそ笑みを隠し、改めてメニューを確認する。

 代名詞である海鮮丼やシンプルイズサイキョウの鉄火丼。ウニ丼や穴子丼と言った当たり外れの多い丼もの。

 文字だけだから推測で判断するしかない。いや、一応他の人の料理を確認すればどんな物が出るかは分かる。


 だが食べている人をジロジロと見る行為はあまりしたくない…。

 ここは挑戦すべきか? いや、だがしかし。


 頭を振り絞っていると、メニューの中にある一つに目が止まった。


 いくら丼



 いくら丼……。いくら丼! やはり北海道といえばいくらは食べておくべきだ!


「すいません。いくら丼一つ。大盛りで」


「…分かりました。少々お待ち下さい」


 ……俺は何をしている? 今、俺は何を頼むか悩んでいたはずなのに、気づけばいくら丼を注文していた。

 まるでチョウチンアンコウの光に釣れられる深海魚のように、いくら丼に釣られたのだ。


 内心動揺はあった。だがこれは日頃色んな物を食べてきた俺の直感が輝いたのだと思い、心を落ち着かせる。

 いつの間にか置かれていたお茶を飲み、静かに時が来るのを待つ。


 この待ちの時間。これもまた食事の一部。

 一度だけスマホを確認し、何の連絡もないと分かると速やかにマナーモードに変え、バックの中へと仕舞う。

 そして中にしまっておいた本を取り出した。


 内心ではすぐに食べたい。お腹が空いたと、腹の中に眠る悪魔達が暴れ出そうとしている。

 本を読むことで悪魔達を抑え、また店主にそこまで急いでないのでゆっくりでも全然問題ないですよとアピール。


 この世に生まれ落ちて三十三年。

 最近になって編み出した俺の必殺技の一つだ。


「お待たせしました。いくら丼です」


 十分程しただろうか。ようやく待ちに待ったいくら丼が俺の目の前に到達する。その姿は俺の予想をはるかに超えるものだった。



 真っ先に目がいったのはその輝き。まるで宝石のような輝き。一粒一粒が光り、その存在感を表している。

 そしてその一粒一粒がとても大きいく、零れ落ちそうな程の数。


 目を見開き店主の方を一瞬見てしまう。

 店主は初めて人間らしくニッと笑ったが、すぐに元の仏頂面に戻った。

 俺はもう一度いくら丼へ視線を戻す。


 駄目だ…。何度見てもこのいくら丼の圧力に押されてしまう。

 蟻ん子が初めて人間を見た時のような…、富士山まで登っていない登山家が初めてK2を見た時のような…。

 そんな巨大な…恐るべき圧を感じる。


 横には味噌汁と漬物。とてもありがたい。丼だけ置くタイプではないとは…。

 これはテンションが跳ね上がる!!


 しかもこの味噌汁…。見た感じと匂いから察するにあら汁だ。

 流石は北海道。海産物の名門。

 これは味わって食さねば…無作法というもの。


 慌てる悪魔達を宥め、静かに手を合わせる。

 これは儀式。食材の感謝を告げ、美味しく頂くために編み出した日本人特有の儀式。


「いただきます」


 スプーンでご飯が見えないほどのいくらを掬っていく。ああ! なんという甘美な感触なのだろうか!!

 いくら丼を食べる時、最も幸せな瞬間はこの掬う瞬間なのだと、俺は断言できる。

 脳内が勝利のファンファーレを奏でる準備を始めた。


 ……さあ、いざ参らん!!


 一気に口の中へいくらをぶち込む!

 その瞬間、文字通りいくらがプチプチプチィと派手に爆発し、旨味がジュワジュワと口の中に広がっていく。

 私の体はファンファーレを吹く天使に引っ張られ、天へと舞っていくような感覚に陥った。



 モ〜! モ〜〜!! モ〜〜〜!!!


 ああなんてことだ。いくらの中に眠っていた北海道の魔力が私を誘い込み、牛の鳴き声のような声で唸るしかできない。

 これが北海道のいくら。なんとジューシーで…、濃厚で…、素晴らしいのだろうか。


 口の中でとろけていく。これはもはや噛むことはせずとも飲み込めるのではと、頭が勘違いしてしまうほどだ。

 だが私は噛む。このプチプチとした食感を味わう為に。包まれた旨味を解き放つ為に。


 俺は更にもう一発。口の中へいくら丼を叩き込む。米との相性が抜群すぎて体がブルリと震えてしまう。

 まるでアメリカの警官とドーナツ。ツンデレとエルフ。秘書とメガネ。

 これこそハーモニー。店主はいくら丼を芸術の域まで昇華している。



 そして食べた一瞬後、俺は気づいた。

 これはただの米ではない。何かしらのタレが付いていることに。


 本来であればいくら丼にタレは要らない。


 いや…確かにあったら美味しいが、元々いくらは作られる際に醤油や塩に浸けられる。

 そんな状態で更にタレをかけたら味が濃くなり、タレの味しか感じなくなってしまう可能性があるのだ。

 だが、このタレは何かが違う。今まで食べたタレとは…何かが。


 口の中を旨味の暴力が襲う。だが、それはくどすぎず、胃の中が重くなる事も無かった。

 理解ができない。理解することができない旨味が、私の舌を、脳を、胃の中すら満たしていく。


 ……ふぅ。一旦落ち着け。落ち着くんだ俺。


 こういう時はあら汁を飲もう。お味噌汁は日本人を優しさと温かさで包みこんでくれる。

 有名な告白セリフの一つに『一生君の味噌汁が飲みたい』などと言う有名な言葉があるほど、味噌汁は日本人の魂に染み込んでいるのだ。


 早速あら汁を啜る。

 魚の旨みが溶け出した、豊かで奥深い塩味仕立ての味わい。ぶつ切りにされた魚たちの食感。

 野菜の旨味も優しい…。幸せな気分だ。

 口や胃の中だけでなく、心すらも温めてくれる。


 ……いくらのクドさが新たな旨味へ変わる。

 間違い無い。このあら汁。いくら丼の旨味を増すために作られている!!


 驚き思わず周囲を見渡してしまう。本来であればあまりしたくない行為だが、今の俺にはそんな余裕は無かった。

 そして、私に電流が走る。別の丼を頼んでいる人はあら汁の中身が違っているのだ!


 なんという事だ…。丼もの一つ一つであら汁を変えているのか? なんという…、なんという店なのだ!

 当たりなんてそんな生易しい物じゃない。

 極大超超大当たり。語彙力が無くなってしまう程、最高の店だ。


 こだわりの強さに戦慄するが、あら汁を飲む手は止まらない。

 ようやく落ち着いた時には、何故かあら汁は半分近く減っている。いったい…何故なのだろうか?


 今度は戻っていくら丼を頂く。

 おおこれは! まだ口の中に残っているあら汁の旨味といくらの旨味がマッチして、新しい味へと進化している!


 二口目…三口目。

 ああ駄目だ! 食べる手が止まらない!


 だが次第にお腹と口の中に溜まっている濃いものを食べた時特有の重みが現れる。

 この重みはあら汁でも完全に消すことができない。ならあら汁以外で消せば良い。


 俺は漬物に手を伸ばす。

 シンプルなきゅうりの漬物。こういう時は案外シンプルな物がありがたい。


 一口食べるとこの通り。口もお腹もスッキリと。きちんと漬けているのが分かる、とてもおいしい漬物。

 さっぱりと、口の中の重みを洗い流してくれる。漬物の中の漬物。最早神の領域。


 漬物でリセットしたら再びいくら丼に戻る。

 ある程度食べたら今度はあら汁。もしくは漬物。そして再びいくら丼に戻る。


 ……無限ループ!? 私はいつの間にか抜け出せない時の牢獄にでも入っていたのか!?


 そんな事はあり得ない。料理は食べれば食べるほど確実にその量は減り、終わりの時が近づいてきている。

 だが今の私にはそんな事すら頭の中に入っていなかった。


 この幸せをただ噛み締めていたい。

 私はただ一心不乱にいくら丼を貪り続ける。



 いくら丼 最高すぎる いくら丼


 土方歳三が自身に匹敵する俳句力だと絶賛するレベルの俳句を心の中で思いながら、いくらの食感を楽しむ。


 ああ…。何故こんなにいくら丼は美味しいのだろうか?

 世界七不思議の一つに違いない。



 ……ん? まてよ?


 そう言えば卵とは生命が生まれる物。そしてこのいくら丼はそんな卵の塊だ。

 つまりいくら丼とは神秘の塊。

 まさか……これがいくら丼が最高に美味しい秘密なのか…?


 QED証明完了。

 今の私はきっと学者になれる。


 そんな下らないことを考えながら、私はいくら丼に残った小粒達をスプーンで掬っていた。



「…………ごちそうさまでした」


 空っぽになったいくら丼の器を見ると、何故だかとても楽しい気分になる。本来だったら悲しいはずなのに、何故なのだろうか?

 分からん…。だがその分からない気分ですら楽しい気分に変わる。


 まあ今はとにかく会計をしないと。

 金額はそれなりだったが最悪経費で落とせばいい。

 邪悪な笑みを内心で浮かべ、気楽な気分で店主にお金を渡し、そのまま店を出ようとして……足が止まる。


「あ、そうだ。美味しかったです。ごちそうさまでした」


 危ない…。言うのを忘れていた。


 なんという店だ。まさかこの俺が礼儀を忘れそうになるとは。

 いくら丼の美味しさに、脳みそが狂わされていたのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。


 俺は今度こそ店を出る。中々に…いや途轍もなく美味しい店だった。

 またいつか、必ず来たい。

 出張が終わっても、偶にこの店を訪れたいものだ。


 俺は必ずまた、ここに来る事を決め、店の名前をメモ帳に書き込む。

 いくら丼。最高だったなあ…。




 

 

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