冬に溶けて
悠犬
冬に溶けて
ごうごうと吹雪く十九時の路地裏。鼠色のマフラーを口元までぎゅっと上げて進んでいく。左手にはビニール傘。少し心許ない。
真っ白な視界の先に、おぼろな光。暖かな光。僕は虫のように、その光に吸い寄せられていく。
光の先は、うるさかった。
ガチャガチャとグラスのぶつかる音。楽しげな笑い声。あちこちから漂う揚げ物の匂い。
ひらひらと僕を呼ぶ白い手がひとつ。雪のような手。
手招くその人の向かいに腰を下ろす。
「ごめん、待った?」
「全然」
彼女は微笑んで首を振る。喧騒に似つかわしくない、静かな声だった。
「ほら、飲もうよ」
そう言って、グラスをひとつ、僕に渡す。
それを受け取って、乾杯。
談笑は続いた。くすくすと笑う白い顔に、ほんのり赤が差している。
僕もつい頬を綻ばせる。けれども、胸の奥が何だかざわめく。
話の終わり際、不意に彼女が口を開く。
「ねぇ、もう諦めた?」
一瞬、時が止まったように感じた。言葉が胸の中で引っかかる。
僕は氷だけになったグラスを弄んでいた。
「その様子だと、諦められてないみたいだね」
僕は微苦笑を浮かべた。それしかできなかった。
「……ねぇ、その人のどこがそんなに良かったの?」
俯いたまま、僕は答えなかった。
重たい沈黙が僕らを包み込む。
あちこちから聞こえる笑い声。それが一層、僕らを浮き彫りにしていく。
彼女が、くいっと残りのお酒を飲み干した。
「……ごめんね、変なこと聞いちゃって。そろそろ出よっか」
腕時計に目をやると、針は二十一時を指していた。
僕はコートに袖を通す。溶けた雪が染み込んで重かった。
会計を済ませて外に出る。先ほどと変わらず吹雪いていた。
僕たちは横並びになって駅まで歩く。道中、一言も喋らず、ただ道を進んだ。
聞こえるのは吹雪の音だけ。足音すら掻き消された。
駅前まで来た途端、彼女がそっと僕のコートの裾を引っ張った。
振り向くと、そこには小さなビジネスホテルがあった。
「少し、話さない?」
*
ドアを開けると、彼女はベッドへ向かい、端に座った。ぎし、と軋む音が静かに響く。
真っ白になったコートをハンガーに掛けて、僕もベッドに腰掛ける。
暖房のおかげで冷えた身体が暖まっていく。けれども、胸の奥はずっと、外にいた時のままだ。
「……私から誘っておいてあれだけど、付いてきてよかったの? いつもならあそこでお開きなのに」
微笑むその顔には、どこか悲しげな雰囲気がある。
「今日は、ゆっくり話したかった。……僕のことを、きちんと」
「そう……」
僕は大きく息を吐く。それから、独り言のように呟く。
「なんだろうね……そう、僕は怖いんだ。君と一緒になるのが……」
床をじっと見つめる。僕は次の言葉を探す。
「君とひとつになった時、今あの人に抱いている気持ちが消えてしまうんじゃないかって。そしたら、もしそうなったら……僕があの人へ向けていた愛情は、簡単に上書きできるほど安っぽいものだったのかなって……」
声が震える。秒針の音が、僕を急かす。
「さっき、あの人のどこが良かったのかって聞いてたね。……実は、わからないんだ。いつの間にか好きになってた。好きなところをうまく言えないのに、本当に好きだったのか……いや、僕が愛情だと思っていたものはただの情欲かもしれない……。でも、きっと好きだったんだ……。きっと……」
僕は頭を抱えて唸った。
「雪みたいだ……。冷たいものがずっと、ずっと降り積もって……」
彼女は黙って僕の手を取った。それから、両の手で僕の右手を包み込むように握った。
「それでいいんじゃないかな」
優しい声だった。
「私、ずっとあなたのことが好きだったよ。でも、私だってどうして好きになったのかとか、よくわからない。ただあなたが欲しい。そういうものなんだよ、愛情って」
「でも……」
「いちいち理屈をこねまわしてちゃ、つまらないよ。あなたは綺麗でいようとしすぎ。もっと直感でいいんだよ」
言葉がゆっくりと胸の中に染み込んでいく。その言葉を聞いた時、何か許されたような気がした。
涙が溢れた。嗚咽が漏れ、時計の音と重なる。
彼女はずっと手を握っていてくれた。
「あ、見て」
彼女が窓の外を指す。
風は弱まって、雪ははらはらと優しく降っていた。
「私、雪って好きじゃない。冷たくて、真っ白で、綺麗で……」
彼女は顔を近づけ、そっと耳元で囁いた。
「ねぇ、溶かしちゃおっか」
冬に溶けて 悠犬 @Mahmud
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