懺悔の箱

川北 詩歩

後悔と罪

 愛美は薄暗いアパートの部屋で、ノートパソコンを膝に乗せていた。画面には「damason」と書かれた怪しげな通販サイトが映っている。けばけばしいデザイン、怪しい日本語の商品説明。どれも胡散臭さの極みだったが、愛美の目は一つの商品に釘付けだった。


「懺悔の箱」

 価格:10万円

 説明:やり直したい過去に一度だけ戻り、やり直せる。あなたの悔恨を解放します。ただし、選択は慎重に。愛美の指が震えた。


――10万円。こんな箱に、この値段?


 でも、彼女の心を蝕む後悔に比べれば安いものだ。彼女はマウスをクリックし、購入ボタンを押した。


 愛美の過去は暗い影に覆われていた。継父の暴力と凌辱。母の無関心。あの家で過ごした十代の時間は、愛美の心に深い傷を刻んだ。18歳で家を飛び出し、以来一度も実家には戻っていない。


 それでも、心のどこかで赦してしまった自分がいた。「家族だから」と自分に言い聞かせ、憎しみを抑え込んだあの瞬間を、愛美は何度も悔やんだ。

 何故、もっと強く抵抗しなかったのか。母を、継父を、自分は何故赦ゆるしてしまったのか。



 数日後、愛美の手元に小さな木箱が届いた。黒漆塗りの表面には奇妙な紋様が彫られ、触れるとひんやりとした冷たさが指に伝わった。説明書は簡単だった。


「箱を開け、やり直したい過去を心に思い浮かべる」


 ただし、警告が一つ。


「やり直した過去は、現在の全てを変える」


 愛美は迷わなかった。彼女がやり直したい過去は一つだけだった。継父が再び彼女の部屋に入ってきた夜。母が隣の部屋でテレビの音を大きくしていた夜。

 あの瞬間をやり直したかった。深夜、愛美は箱を膝に置き目を閉じる。心に浮かべたのは17歳の自分。記憶が鮮明に蘇る。


継父の荒い息遣い

母の無言の裏切り


 愛美は箱の蓋を開けた。瞬間、眩い光が部屋を包み、彼女の意識は過去へと引きずり込まれる。目を開けると、愛美は17歳の自分の部屋にいた。


ベッドの上で縮こまる自分

ドアの向こうから聞こえる継父の足音


…全てがあの夜と同じだった。


 だが、今の愛美は、あのときの怯えた少女ではない。彼女はベッドの下に隠していた果物ナイフを握りしめる。それと同時にドアが開き、継父が入ってきた。


 愛美は一瞬も迷わずナイフを振り上げる。男の驚愕の表情が暗闇の中で凍りついた。叫び声も上げられず、瞬時に彼は床に崩れ落ちた。愛美の手は血で濡れていたが、心は奇妙なほど冷静だった。


 次は母の番だ。隣の部屋でテレビの音に紛れて何も聞こえなかったふりをしていた母。愛美は静かにドアを開け、母の背中に勢いよくナイフを突き立てた。


「なんで、守ってくれなかったの?」


 その言葉だけを残し、愛美は母の無言の最期を見届けた。再び光が愛美を包んだ。目を開けると、彼女はアパートの部屋に戻っていた。懺悔の箱は消え、代わりに静寂が部屋を満たしている。愛美は自分の手をじっと見た。血の感触は消えていたが、心に刻まれた感触は消えない。



 翌日、愛美は実家に電話をかけた。誰も出ない…当然だ。あの夜、彼女が変えた過去は、現在の全てを変えたのだ。ニュースでは、10年前の未解決殺人事件が話題になっていた。被害者は愛美の継父と母、犯人は未だ不明。


 愛美は鏡に映る自分を見た。そこには怯えた少女の姿はなかった。だが、解放されたはずの心は、なぜか重いまま。彼女は二人を赦した自分を悔やみ、過去を変えた。だが、新たな後悔が彼女の胸に芽生えていた。


 あの夜、ナイフを握ったのは、本当に自分だったのか?赦さなかった自分は、本当に自由になれたのか?懺悔の箱はもう無い。やり直すチャンスも無い。愛美は静かに目を閉じ、過去と現在の狭間で、自分自身と向き合うしかなかった。



(終)

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