加賀・最終話

 午後の診察が始まり、スリットランプの前に置かれた椅子に次々と患者が座る。


 目の痒み、ドライアイの継続治療、スクラブ入りの洗顔料で洗眼してから目が開けられない、白内障。様々な症状が、俺の前に流れて来ては去って行く。それらに普段と同じように対応しながら、俺は絵麻を感染させ続けるしかなかった。


 本日最後の患者のカルテを、パソコンのディスプレイに表示させる。先日うちで眼鏡を処方した患者だった。うちで眼鏡を作ったのは一度きりではないので、もちろんカルテ内容も多い。新しい眼鏡を作成する前は、花粉症用に抗アレルギー目薬の処方を希望して受診していた。


 今日の主訴は、黒いものが『ずっと』見える、だ。


 かつて俺は、吉山の紹介状を携えてきた患者には先に検査を済ませてから診察をしていた。だがここ最近は同じ主訴での受診患者が多過ぎて、検査することを諦めた。

 全員に同じ検査をしていては時間がどれだけあっても足りないし、そもそもその主訴の患者には何の検査をしても無駄だ。診察室に通して、話し、帰らせる。その繰り返しになっていた。


 もうそろそろ閉院時間だ。今から気まぐれに精査などしたら、時間を大幅に過ぎてしまう。診察時間は多忙な分、スタッフに無駄な残業というものをさせたくない。


「次、頼む」


 診察室の中にいる助手のスタッフに声をかけ、最後の患者を中に入れてもらう。二十代女性の患者が入室して来た。スリットランプ前に置かれた患者用の椅子を、スタッフが勧める。


「黒いものがずっと見えるということですが、最近急に増えましたか?」


 もうどれだけしたか分からないこの質問を、投げかける。

 答えは決まっている。


『最初はちらちら何か見えるくらいで』

「いえ、最初は何かが視界の端にちらつくくらいだったんですけど」


 俺が考えていたとおりだ。


『気がついたらずっと見えるようになっていて』

「そのうち、気がついたらなんだかずっと見えているような気がして……」


 この主訴については、俺の質問も、患者の返答も、判で押したように同じだ。


 皆に絵麻が感染している。だが絵麻は祝福なのだから、治しようがない。解呪できないかとあちこち尋ねては「呪いなんてかかっていない」と断られた俺が一番分かっている。

 祝福は広がり続ける。ひとりの少女が皆の水晶体に焼きついて、「自分は本当に綺麗なのか」と問い続けるのだ。


「何かに集中しているときも見えますか?」


 俺の質問に、患者は視線を斜め上に向けて少し考えた。


「うーん……。集中しているとあまり気にならないんですけど、ふとした拍子に見える感じです」


 そう語った患者に眼鏡を外してもらい、スリットランプに顔を載せるよう促す。


 角膜、正常。

 水晶体、正常。

 綺麗なものだ。


「顔、離していいですよ」


 俺の声に反応して、患者がスリットランプから顔を離した。


 俺は眼科医として診察をし、目の傷を治療し、異物を除去し、そうして眼球をなるべく正常な状態に戻そうとしている。


 だが俺が診察した結果起こるのは、患者の眼の異変だ。


 視界の明瞭さを保つ。眼球の健全さを保つ。それが眼科医として求められるものなのに、俺が医師としての職務を全うしようとすればするほど、感染は拡大していく。そして紹介状を書けば書くほど、その先でも絵麻は広がっていく。


「目の表面などに傷はないですし、おそらく飛蚊症でしょう」


 最近患者に言う機会が急増した文言を、俺は口にした。眼鏡を掛け直した患者が、俺を見る。


「これって、治るんですか?」

「治りはしないですね。急激に増えたわけでもなく、何か作業をしていても明らかに視界の妨げになるくらいでもないなら、特に治療方法はありません。たいだいの方に起こるものですから、あまり神経質にならないように過ごしてみてください」


 そう言って、俺は最後の診察を終えた。スタッフに促され、患者が診察室から出て行く。

 その間に俺がカルテに入力した文字は、「Clear」。何も医学的に異常がないのだから、他に書きようもない。


 患者には、絵麻がクリアに見えている。


 親父の背中を追いかけていたはずの俺が、掴み取ったもの。それは眼科医としてあってはならないものだ。その責任を取らなければいけない。

 眼鏡を外し、デスクに置く。どんな眼鏡も、もう俺が掛けることなどない。


 頼むから、俺をもう解放してくれ。俺は絵麻を傷つけたクラスメイトではない。絵麻のことなど、若苗眼鏡店の娘ということくらいしか知らない。俺なんかに絵麻の存在を刻みつけて、若苗眼鏡店に何の得があるのだ。それに俺のレンズから世間への感染拡大を狙ったとて、それが復讐の完遂に繋がるまでにはどれほどの時間がかかるのか。


 真実など知らなければよかった。知らなければ、永遠に親父には追いつけないという眼科医としての諦念も、絵麻を感染させるばかりの己への嫌悪も、それでもこの道を選ぶしかない無力さも、全てを知らずに済んだのに。


 俺に眼科医としての能力を求めないでくれ。


 祝福を授かった者としての役割を求めないでくれ。


 何の役にも立たない人間であることを詫びるから。その証として俺のこの一対の眼球を捧げるから、もう許してくれ。


 両手の人差し指、中指、薬指で瞼越しに眼球に触れる。ぶにゅりと弾性のある眼球の感触があった。


 もう、俺をこの渦から解放してくれ。


 俺は指を思い切り眼窩に押し込んだ。

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Lens, all cleaR. Akira Clementi @daybreak0224

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