プロフェッショナル

野梅惣作

プロフェッショナル

葬式の朝、予報外れの雨が弱く降っていた。

斎場の白い壁も、線香の煙も、どこか現実から切り離された映像のようにぼやけて見えた。

棺の中の顔は、少年の頃のまま真っ直ぐで、ただ少し痩せただけだった。


俺は心の中で呟いた。


「俺たちの勝負はどうなるんだ……」


勝っても、もう奴はいない。

勝利の意味は、永遠に失われてしまったのだ。


--------------------------------------------------------


俺と真斗(まさと)は、物心つく前から孤児院で育った幼馴染だった。


孤児院の裏庭に、古い工具と歪んだ木材が積まれていた。

俺とあいつはそれを見つけると、宝の山でも掘り当てたみたいに目を輝かせた。


「犬小屋つくろうぜ!」

「よし、勝負だ!」


釘を打つ音が裏庭に転がり、木屑の匂いが夕方の空気に混じる。


廃材で作られた犬小屋は、見た目は散々だった。

屋根には隙間があり、入口は歪み、三日もすればカビが生えた。

それでも俺たちは毎日廃材に向き合い、試行錯誤し、ひとつ作るたび次の目標を立てた。

その毎日がたまらなく楽しかった。


その夜、布団の中で真斗が言った。


「なあ、どっちがより“プロ”になれるか勝負しようぜ」


「いいぜ。絶対負けない」


真斗は真剣な顔で言い切った。


「俺はプロになって、最高の家を建てる」


俺も負けじと拳を握った。


「俺はプロになって、この街で一番多く家を建てる」


布団の中で小さく拳をぶつけ合った感触は、今でも鮮明に憶えている。

子供ながらに交わした最初の約束で、長い勝負の始まりだった。


--------------------------------------------------------


真斗と俺は、同じ高校を卒業し、同じ工務店に就職した。


同じ現場で見習いを始め、同じ怒鳴り声を浴び、同じ釘を曲げた。

違いが見えたのは、独り立ちして自分の名で契約を取り始めてからだ。


俺は数字を覚えた。

受注件数、工期の短縮、粗利、そして売上高。

見積書の桁が一つ増えるたび、心臓の鼓動が速くなった。


広告を出し、聞こえの良い言葉を並べ、印象をよく見せ、最新の機材を導入して工期を詰めた。

法も基準も守った。手抜きはしない――そこに線を引いた。

だが、その線ぎりぎりまでは寄ることを厭わなかった。


「数字は嘘をつかない。数字を積むのがプロだ」


自分にそう言いきかせ、“見せるための見積もり”を作った。

金の掛かるこだわりは、契約の邪魔にしかならなかった。


真斗は違った。

現場に入ると、まず風を読む。

敷地にしゃがみ込み、土を指で揉みほぐし、雨の溜まり方を見る。


図面を指で叩きながら、真斗は言う。

「この設計図では風の通りが悪い。玄関の位置を変え、塀には透かしを入れる。強度も心配だから桁を増やそう」


図面にないことを平然と口にし、施主の顔よりも先に、暮らしの質を思い浮かべる。


見積はいつも厚かった。

土台は深く、柱は太く、釘より仕口を増やし、壁の奥には筋交いを足した。

粗利が薄くなるのは分かっていても、それでも決して譲らなかった。


互いに、相手のやり方をわかろうとしなかった。


俺は心のどこかで真斗を“不器用”だと決めつけた。

真斗もまた、きっと俺に言いたいことがあった。けれど口にはしなかった。


--------------------------------------------------------


訃報は唐突で、突然で、信じがたかった。

電話口で淡々と告げられた事実を理解するまでに時間がかかった。


現場で倒れ、そのまま戻らなかった――過労と持病によるものらしい、と言われても、頭は空白のままだった。


耳に残ったのは「倒れた」という言葉だけで、死んだという実感はどこにもなかった。


葬式が終わり、片付けの最中に、若い職人から声をかけられた。


「真斗さんから預かりました。これをあなたに渡すように……と」


渡されたのは孤児院時代から使っていた古い工具箱だった。


蓋を開けると、封筒が一通入っていた。

中には便箋が1枚、少し震えた字でこう書かれていた。


――本当はこんな形で伝えたくなかったが、俺には時間が無いようだ。最期だから言いたいことを言わせて欲しい。


お前は数字に囚われすぎている。


 数字は約束だ。だから、それ自体は悪くない。

 でも、約束は、数字の外側にもある。


 仕事は、楽しいか?


 俺は夢中になりすぎて、無理をしすぎた。

 その点は、お前を見習うべきだったと思う。

 お前はどれだけ忙しくても、生活を犠牲にしなかった。当たり前のことなのに、俺にはできなかった。


 ……覚えてるか? 孤児院の裏庭で作った犬小屋。

 板は曲がってるし、屋根も傾いていたけど、あの時は本当に楽しかった。

 「どっちがよりプロになれるか」って言って、布団の中で拳を合わせた夜のことも。

 あれが、俺たちの最初の約束だった。


 俺は「最高の家」を建てたいと思った。

 お前は「この街で一番多く家を建てる」って言った。

 どちらも間違いじゃない。

 だから俺たちは、ずっと勝負を続けられたんだと思う。


 テレビのニュースでいつもやっているからお前も知ってると思うが、近いうちに大きな地震が来るらしい。

 その時、勝敗は分かる。

 けどな――勝ち負けなんて、本当はどうでもいい。

 俺は最後にただ、お前にもう一度問いたい。


 仕事は、今も楽しいか?


 これは、俺からの最後のアドバイスだ。

 俺たちの勝負の続きは、きっとお前が決めることになる。――


俺は封筒を折り畳み、胸ポケットにしまった。


(数字は俺を裏切らない)


何度も、心の中でそう言った。

そしてまた現場に戻り、契約書に印を押した。


--------------------------------------------------------


数年が過ぎた。

俺は社員を雇い、下請けを固めた。折れ線グラフはきれいに右肩に伸びた。


現場に出る時間は減り、机の前で段取りを指示する時間が増えた。

それでも夕方の木屑の匂いが恋しくなると、用もなく腰袋をぶら下げて見回りに行った。


真斗の建てた家の前を通るたび、玄関の軒が風をやさしく切っていくのを見た。

庭木の影は季節ごとに形を変え、玄関先は雨の後でも水溜まりはなかった。


冬の終わり、夜明け前。

緊急地震速報が鳴り、言葉より先に家全体が海のように揺れた。


壁の時計が落ち、食器棚の扉が跳ね、足元の床が遠くなったり近くなったりする。

長い横揺れ。

想像より長く、想定以上の被害を予感させた。


揺れが収まり、サイレンの音が夜明けの街に散っていった。

テレビは「人的被害は最小限に抑えられた」と繰り返した。


予想されていたから備えがあったのだ、と。


だがヘリの映像を見ると、見覚えのある屋根や外壁が、瓦礫の中で形を失っていた。

自分の建てた家は遠目にもわかる。

胸の鼓動は早くなるのに、体の芯は冷えていった。


車で現場を回った。

通りはあちこちで通行止めになり、人が列をつくって水や毛布を運んでいた。


一つ目の現場は、屋根が外れ、壁が崩れていた。

耐震金物は図面通りに入っていた。

入っていたのに、崩れていた。


揺れは想定の外側からやって来る。

法と基準は守った。手抜きはしなかった。

でも、守るべきものは、基準の外にもいた。


二つ目の角を曲がると、見覚えのある建物が目に入る。

黒い板壁の二階建て、玄関の庇が深く、間口が広い。

真斗が建てた家だった。


壁にはひびが走り、雨樋は外れ、地面には落ちてきた煉瓦が数枚転がっていた。

それでも家は立っていた。


玄関は開け放たれ、台所から湯気が漏れ、紙コップに温かいお茶が注がれていた。

老人が縁側に腰を下ろしている。


「この家、しっかりしてるな。揺れたけど、なんとかもってくれた」


避難してきた人が俺に向かって、何の皮肉もなく笑った。


地震で割れた地面から、深く打たれた基礎が覗いていた。

見積りに正直に載せれば嫌がられる深さだ。


木口には小さな印が残り、柱は通常より多く、窓の位置は風の道に沿っていた。

路地の幅、消防車の転回、夜の風の抜け、朝日の角度。

図面の外側にあるものが、家の骨格に縫い込まれていた。


俺はあの便箋を思い出していた。

便箋が、今の自分に言いたいことを読み上げているみたいだった。


――その時、勝敗は分かる。


簡単なはずの答えが、簡単ではなかった。

勝ちでも負けでも片付かないものが、胸の奥に引っかかった。


真斗がここにいないという事実。

復興がこれから始まるという現実。

数字も、約束も、人の暮らしも……

一枚の便箋が、心に張り付き剥がせなかった。


震災からしばらくして、街は少しずつ立ち直っていった。

倒壊した建物の跡に、新しい骨組みが立ち上がり、道端には瓦礫の山の代わりに仮設住宅が並んだ。

人々は疲れを顔に残しながらも、前を向いて動いていた。


--------------------------------------------------------


ある休日、俺は花を抱えて孤児院の隣にある共同墓地に向かった。

だんだんと春の色に染まりつつある丘の斜面に、真斗の眠る墓石が建っていた。

線香を立て、手を合わせる。


俺は心の中で呟く。


「真斗、確かにお前の建てた家は地震に負けなかった。暮らしの先を見つめていた。

 でもな、自分を犠牲にしちゃダメだ……これから復興が始まるのに、お前がいないじゃないか」


風が少し強く吹いた。


「……勝負は、引き分けだな」


声に出すと、胸の奥で何かがほどけるようだった。


勝ち負けではなく、俺もお前も曲げなかった芯があった。

だからこそ残ったものがある――そんな気がした。


墓前に腰を下ろし、工具箱から小さな釘抜きを取り出す。

孤児院の裏庭で拾った、錆びかけの釘抜き。

それを墓石の横にそっと置く。


「仕事は、楽しいよ。今もな」


風が吹き、木立を揺らした。

あの日、布団の中で合わせた拳の感触が甦る。


プロフェッショナルとは何か。


最高の一棟を目指すことも、町に一番多く家を建てることも、どちらも間違いじゃない。


けれど、そのどちらも、元にあるのは――裏庭で犬小屋を作って笑い転げた、あの時間だ。

好きだから始めた。

それを忘れたとき、肩書きの「プロ」は、ただの印字になる。


手を合わせ、目を閉じる。

まぶたの裏で、布団の中の小さな拳が、もう一度ぶつかった。


(次は――)


丘を降りる途中、スマホが震えた。新規の問い合わせだ。

画面の数字は冷たい。


でも、指先はもう、別の温度を知っている。


基礎は深く。柱は惜しまず。

図面の外にも、約束を足す。

見栄えの良い見積もりをやめ、長く住める工夫凝らす。

風の道を通し、土の声を聴く。


数字は約束の一部に戻し、俺は俺の仕事を取り戻す。


プロフェッショナルを名乗るのは簡単かもしれない。

プロフェッショナルであり続けるのは、きっと難しい。


それでも――好きで始めたこの仕事を、ずっと好きでいるために、

俺は歩き出す。


あいつの残した家を通り過ぎ、

これから自分が建てる家の方角へ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プロフェッショナル 野梅惣作 @Noume8083

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画