もう一歩踏み出す勇気

笹暮崔

もう一歩踏み出す勇気


 午前3時、熱帯夜。かつて日本一の高さを誇ったビルの屋上から見下ろす大阪平野は、こんな時間でも人工の明かりでうるさく輝く。地衡風ちこうふうのせいだろうか、風が私の髪を掻き乱した。Tシャツに張り付く汗も、夜風に引き剥がされていく。


 転落防止柵の外側で、私はシケモクを眼下に投げ捨てる。家族も職も、私は全てを失った。誰も私のことなど見ていない、必要としない。もう、この世に未練はなかった。

 空に一歩踏み出そうとした、そのとき。突然、私の脳内に直接何かが語りかけてきた。


「待ってください。考え直してはくれませんか?」


 それは私の目の前にいた。足場もない地上300メートルに静止している。ワイヤーで吊るされているわけでもなく、ただ宙に浮いていた。

 それに形はなかった。目にも見えない。それなのに、それがそこにいることを私は知覚できた。


「あなた、何? 死神?」


「そう呼ばれることもあります」


 釈然としない回答に私は苛立ちを覚えた。


「なら、一体あなたは何?」


「人間は、私のことを神や仏と呼んでいます」


 なるほど。神仏の類ならばと、私は納得した。


「私に何の用?」


「あなたに死なれては困るのです」


 神とやらの発言に私の眉間に皺がよる。


「随分と自分勝手ね。私に死なれて困るなら、なんで今なの? 私はね、もう死にたいの。死ぬって決めたの。わかる?」


「……」


「神様のくせにだんまり? 情けない。

 私が救いを求めたときに見放して、救いを求めてないときには助ける? バカ言わないで。

 私はもうこの世に未練はない。あんたみたいなクソ野郎がいるなら、あの世にだって興味はない」


「そこをなんとか。死なないでくれませんか?」


「神が人にへりくだるとは滑稽ね。最後にいいものを見れたわ。

 いい? 救いを求めない者を誰も救うことができない。覚えときなさい」


「ですが、あなたが生きなければ大変なことになるのです」


「大変なこと?」


「10年後。パンデミックが起きます。その特効薬をあなたが開発しなければ、人類は滅んでしまう」


「私が人類を救う特効薬を……?」


「そうです。あなたこそが人類の希望。ここで死なせるわけにはいかない」


「私が人類の希望……」


「その通り。森口博美もりぐちひろみ。あなたの豊富な知識で世界を導くのです」


「は? 私は森川博美もりかわひろみだけど?」


「はい? あなたは、森口博美。36歳、疫学者ではないと?」


「私は森川博美。36歳、フリーターだけど?」


「チッ、人違いか」


 そう言い残すと、先程までそこにいると認識できていた神は忽然と消えた。

 もうそれが、そこにいないということが知覚できた。


「え、ちょっと待って! 人類の希望は……」


 私の声は、無音の風に吸われて消えた。星のない都会の夜はさらに闇を濃くし、柵を握る指先が小刻みに震えた。


 ――結局、誰も私を見ていないんだ。


 私は、最後の一歩を踏み出した。

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もう一歩踏み出す勇気 笹暮崔 @sasakuresai

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