第3話
荀家の二人のことは、兄の
荀家は漢王朝の古い名門で、一族から重鎮を何人も輩出している。
曹魏で特に名高いのが
そういうことは知っていたので最初は瑠璃も緊張していたのだが、荀攸は、国を担う役職についている彼からするとさぞや退屈に違いない瑠璃の話を、穏やかな表情で聞いてくれた。
郭嘉が
幼いころから戦場についていったというのは本当らしく、血腥い話は御令嬢には相応しくないのですがと彼は言ってくれたが、瑠璃は首を振った。
どんな話であれ、郭嘉の小さいころの話を聞けるのは嬉しかった。
厳格な家柄だと聞いていたが荀攸の話し方は、瑠璃を緊張させないような穏やかなもので、気を使ってそうしてくれていることが分かった。
自分からすると雲の上のような地位の人なのに、荀攸がそういう風に接してくれるのは、兄の郭嘉の為なのだろう。
その荀攸の心遣いに瑠璃は深く感謝した。
少し陽が傾いて来たので、一度曹植殿の様子を見に帰ってみますと荀攸が言った。
「長話をしてしまって、申し訳ない」
瑠璃は首を大きく振る。
「そんなことはありません。本当に初めて聞く郭嘉様の話ばかりで……なんだか胸がいっぱいです」
荀攸が少し声を出して笑った。
「郭嘉様はお役目の話はなさらないので……でも……
幼くとも陛下や荀攸様達が、郭嘉様の才を認めて下さって子供扱いせず同僚のように付き合ってくださった。
若くとも郭嘉様は曹操様の側近のお一人だったのですね。
だから共に戦った記憶が、支えになってくれたのだと思います」
荀攸は頷いた。
「確かに殿は、郭嘉殿をあまり子供扱いしていませんでしたね。傍で見ているとそれが心配な時もありましたが――
「私などに大切な時間を使ってくださって、本当にありがとうございました」
確かに瑠璃は少しこちらへ、目を輝かせて視線を向ける表情が郭嘉に似ていた。
「……とんでもない。
瑠璃殿、貴方は
兄上が不在でもし何か困るようなことがあったら、いつでも兄上の同僚として私にご相談下さい。
私も郭嘉殿には親しくしていただき、深い恩がある。
大切な同僚の妹君として貴方のことは扱うよう、妻にも話しておきますので」
「ありがとうございます」
荀攸との会話は温かな空気のまま終わった。
丁度二人で、部屋を出ようとした時だった。
扉が激しく叩かれたので、瑠璃は驚いて少し肩が跳ねた。
荀攸も目を瞬かせたが、さすがに冷静なまま扉を開いた。
呼びに来たのは女官だった。
「なにか?」
「荀攸さま、どうか今すぐ庭園にいらっしゃってくださいませ、曹植殿と……
「何があったのですか」
「それが……、」
何かを言おうとして、女官は言葉を詰まらせた。
「と、とにかくどうか一刻も早くお越し下さい!」
「……分かりました。行きましょう」
「
後ろにいた瑠璃が心配そうに声をかける。
荀攸は振り返った。
「すぐに行きます」
女官に声をかけて、荀攸は一度部屋の中に戻った。
「何か問題が起きたようです。瑠璃殿。私はこれから庭に行きますが……貴方は離宮に私室が?」
「はい。用意していただいています」
「そうですか。では私がここを出たら貴方はすぐにご自分の部屋に戻り、あとは外には出ないように」
荀攸は声を落とした。
「……庭の方で良からぬことが起きたようですが、宮廷の問題に貴方が少しでも関わるようなことがあれば、郭嘉殿が悲しみます。貴方はそちらには行かないようになさって下さい。問題はこちらで対処しますので貴方は部屋に戻って、心配せず
荀攸は重ねて言った。
「どうか郭嘉殿の為だと思い、部屋を出ないようになさってください」
荀攸の顔を見上げてから、瑠璃はしっかりと頷いた。
「分かりました。公達様の仰る通りにします。部屋に戻り、決して外を出歩きません」
瑠璃がそう言うと荀攸は少し表情を和らげて、頷いた。
「では私は先に失礼します」
一礼をしてから、荀攸は部屋を出ていく。
女官の様子からして、相当良からぬことが起きたことが分かった。
「
歩き出した荀攸は振り返った。
瑠璃が扉のところまで出て来ている。
「郭嘉様のために、私のことも気にかけてくださって。
……深く感謝いたします。ありがとうございます」
彼女は一礼した。
今の両親に引き取られるまで瑠璃は不遇な少女時代を過ごしたと、荀攸は、荀彧から話を聞いている。
今の瑠璃からはその少女時代の傷のようなものは何一つ見えない。
郭嘉が重病に倒れた時も、少しでも力になりたいと郭家に行ったというが、縁を切った娘に郭嘉の父は冷淡で、どうしても家に上がりたいのなら娘ではなく下働きの娘として入れと要求したという。
彼女にとって大切だったのは実の父からの愛情ではなく、片方の血が流れただけでも、自分の存在を気にかけてくれた兄の病が快癒することだったからだ。
郭嘉も、実の父の愛情を全く求めない少年時代を送っていた。
普通の子供が親や大人の庇護を必要とするような少年時代、郭嘉はたった一人で様々な土地へ赴いていた。
彼がそうして何を見ていたのかなど、荀攸は実のところ何も知らない。
荀彧も詳しくは知らないと言っていた。
恐らく知っているのは曹操だけだろう。
身内の情に自分自身は縋らなくても、
郭嘉は異母妹を気にかけていた。
(郭嘉殿には、そういう所がある)
例え自分がそうでなくとも、人には身内や親の情が大切であることが分かる。
「心配せず、部屋に戻られるように」
優しい声で荀攸が告げると、瑠璃は「はい」としっかり頷いた。
荀攸は頷いてから歩き出す。
――ふと。
急いで向かおうとした前方から、人がやって来るのが見えた。
足早に歩き出した荀攸は無意識にすれ違っていたが、不意に何かが香ったことで意識がそちらに向いたのだ。
すれ違ったのは老人だった。
ここに来る時、見かけた者と同じだった。
みすぼらしいと形容していいような、少なくとも次期皇帝が滞在している王家の離宮を歩き回るような格好ではなかったので、荀攸は急いで
振り返ると丁度、まだそこで荀攸を見送っていた瑠璃もその老人に気づいたらしく、彼女が疑問も持たずに、丁重に老人に深く頭を下げて礼をする姿が見えた。
肩越しにそれを見た時、今度は侍女ではなく衛兵の声で「荀攸殿!」と危機感のある声が聞こえたので、そちらへと改めて駆け出す。
走って行くと池の側に、侍女や衛兵たちが集まっていた。
「
曹植が悲鳴に近い声で呼んでいる。
甄宓が倒れているのが見えた。
池のほとりで、意識はすでに失っているらしく呼びかけにも答えていない。
彼女の長い黒髪が半分ほど、池に浮かんで揺れていた。
向こうから医者たちがようやくやって来る。
荀攸は回廊から庭園の方へ、飛び降りた。
「
振り返った曹娟は、冷静な女官で常に表情が乏しい印象の女だったが、彼女の頬が涙で濡れていた。
「荀攸殿……」
「一体何が、」
医師の一人が荀攸に近づいて来て、声を落とした。
短いその単語を聞いた瞬間、荀攸は目を大きく見開いて、すかさず駆け出していた。
「今すぐ離宮の門を閉じろ!」
衛兵! と冷静な彼には珍しく、怒声を上げる。
「誰一人外に出すな!」
荀攸は回廊に戻り、直ちにやってきた衛兵達に指示を出す。
「市中の警邏も呼んで離宮の周囲を固めろ! 私が全ての責任を負う!
急げ! 一刻を争う! これ以降宮廷内での単独行動を禁じる!
一人で行動している者は全て拘束して大庭に連行しろ!
私があとで全員に取り調べを行う!
身重の体に何かが起こったわけではなかった。
医師は「何か良からぬものを口にした恐れがある」とはっきり言った。
毒。
曹植がいる。
意外なほどに、穏便に進もうとしていた王位継承の儀。
衛兵たちに命令を出し、彼らが動き出したのを見届けてから自分は、と考えた時に荀攸は思わずよろめいて回廊の柱に手をついていた。
これから起こるかもしれないことを波のように捉えた時、体がよろめいた。
……この世の、色んな苦しみを見て来た。
自分自身の中にも、
他人の中にも。
確かに、曹操が自分の意志で曹丕を後継と決めたことで魏の大勢は決した。
曹操のその決定を重んじ、腹心の郭嘉は曹丕の許へ行き、
荀攸にとって心密かに一番危惧していた
何もかも昔と同じではないけれど、
自分の心の根元にはいつもあの暗く、冷たい死の牢獄がある。
董卓の時代が過ぎ、
曹操の時代が過ぎ、曹丕に受け継がれて行く。
どこかで心に油断があったのだ。
戦乱の世である限り、人の人生には安息の約束など決してされないということを。
(私は忘れてしまっていた)
これは曹魏の命の灯を、大きく揺るがすことになるかもしれない。
柱にもたれかかり一度自分の手で額を押さえ俯いたが、荀攸は強く、顔を上げた。
(いや、そんなことにさせてはいけない!)
彼は悪しき想像を振り払うと、急いで身を翻した。
【終】
花天月地【第105話 黄昏の二人】 七海ポルカ @reeeeeen13
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