第2話
奏楽や詩の話をしながら
甄宓は、連れて来た
いや本音を言えば甄宓が留まっていいのだと言ってくれるなら、留まりたかった。
今日一日、本当に曹植は楽しかった。
楽器を奏で、楽器の話をして、詩を即興で読むと甄宓が優しく微笑んで、目を輝かせてくれる……。
夢のような時間だった。
以前は世継ぎ争いの最中だったので、気安く兄の許を訪れられなかったが、曹丕が次期皇帝に決まれば、後継の座に収まった曹丕は、今は好きに曹植を排撃出来る立場になったのだから近づいては危険だなどと言う者たちがおり、今回も
兄の曹丕からは確かに時々、冷たい氷のような視線を向けられることがあった。
憎しみと言ってしまっていいと思う。
曹植はさほど兄を憎いと思ったことはないのだが、それは自分が父からの愛情を向けられているからそういう心持ちでいられるのだということは、よく分かっていた。
だから兄が自分を憎む気持ちも分かるのだ。
父の曹操が曹丕を嫌う理由も、曹植は理解出来る。
兄の曹丕は何か心の一番奥の場所で人を拒絶するようなところがあったから、広く人間を使っていかなければならない王の器量に、ある意味で欠けていた。
しかし曹丕がそういう人間になったことには、そもそもが幼いころより父親に愛されなかったという理由が関わっているため、救いのない冷たい
父の特に愛した子供たちが死んだから、残って全ての栄光を労なく長子故に手に入れようとしている曹丕をどうしても曹操が許せないのかもしれないが、だとしたら運命とは余程残酷なものだと曹植は思う。
確かに自分の詩を父は愛してくれた。大らかな人柄は、私にはないものだからとそういったものを評価してくれた。
しかし曹植が曹丕の兄で、曹丕が弟だったら今のように愛されたかどうかは分からない。
曹操が曹丕より運命を憎んでいるのなら自分もまた、兄だったら憎まれたということになる。
父に憎まれる。
憎まれたことのない
苦しみが。
それでも父に譲位を決められた、兄のことは本当に敬愛しているのだ。
自分の敬愛など曹丕は少しも望んでいないと思うから口には出さないが、心ではいつも思っている。
今日はそういう想いを込めながら曲を奏でて、詩を歌った。
すぐには無理でも曹丕が帝位についた後、自分も何か魏の為に兄弟で共に尽くせたらいいとは思っている。
貴方の敵ではないのだということを、この限りある許された時間で曹丕に伝えたかった。
そして
恋情は、まだある。
永遠に消えないかもしれない。
しかし人間の心に一度棲みついたものは、道義に反するからといって無かったことに出来ない類のものもある。
愛情はそれだ。
だが恥じる想いではないのだと思う。
ただこの人の美しさや優しさや、后妃になるべき才気に対して男として、敬服したいだけなのだ。
甄宓は兄弟の不和を知っていても、自分に優しい眼差しを送ってくれる。
彼女の優しさの影に、曹植は兄が、自分に冷淡に接しろなどと妻に言い含めていない、そういうものを感じる。
語れない自分の恋情もある。
だが、語れない兄への敬慕の念もそこにはある。
一番最初に甄宓が座って、奏でていた浮島へ戻って来た。
池の中央だ。
陽が傾き、燃えるような夕日が水面に映り込んでいる。
世界が輝いて見えた。
甄宓は輝く夕暮れの水面に立っている。
美しい彼女の長い黒髪が風に優しく揺れていた。
彼女も美しい夕暮れの景色を見ていて、
太陽に照らされているのに、月のように白い皮膚の色が透き通るように見えた。
この人の体には今、兄の子が宿っている。
父に憎まれて生きて来た
そうやって生きて来た兄は、生まれてくる自分の子供を愛するのだろうか?
……それは分からないけれど、
悲しい運命でこの地に辿り着き曹丕の妻になった甄宓は、何物にも曇らせることの出来ないその輝きで、生まれて来る子を守ってくれると思うのだ。
女神のような眼差しと柔らかな手で、生まれたばかりの無垢な魂を優しく撫でてくれるだろう。
そうすることで、きっと彼女は曹丕の孤独な魂も救ってくれる。
眩しいほどの西日の中で自分の頬を雫が伝ったことに気づいて、曹植は慌てて手で頬を押さえた。
兄弟の確執。
ずっと幼い頃から囚われて来た。
それから今ようやく解放されて、その心で、何かをこんなにも美しいと思える自分に、無性に幸せを感じ胸が何故か突かれたのだ。
この人と添い遂げられたらどんなに幸せかと、心の底から羨んだこともある。
だが今は兄との幸せを強く願った。
(どうか幸せになってください)
悲しくもないのに感情が込み上げて来る。
涙が伝ったが心はかつてないほど幸せで、美しい水辺で甄宓と語り合ったこの日のことを、きっと自分は生涯忘れないだろうと思った。
曹植は池の水鳥を眺めているらしい、甄宓の優雅な後姿を見つめていた。
不意に視界の中で一瞬、水辺の草花が風に揺れ、右から左へと流れて行く。
それは曹植の目には、急に何か、天から魂を抜き取られたような動きに見えた。
甄宓が何の前触れもなくその場に倒れこんだ。
悲鳴が聞こえた。回廊の侍女たちである。
「
曹植は甄宓が倒れたあとに、体がようやく動いた。
「義姉上! 甄宓さま!」
駆け寄り、助け起こす。
しかし甄宓は意識が無いようだった。
「誰か!」
曹植が声を上げる。
すでに遠巻きにこちらを見ながら待機していた侍女たちが、駆けて来る所だった。
「医師を! 早く!」
「甄宓様……」
曹植は頭が真っ白になった。
それでも一番に過ったのは彼女の体のことで、何か子供に起きたのではないかと血の気が引いた。
つ、と視界の中で何かが動いた。
甄宓の唇の端だ。
血が伝っていた。
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