Ⅶ.新たなる旅路

2.

 雨の音がして、目が覚めた。

 瞼を開ければ、端正な寝顔がすぐそばにあった。

 ユラがオリアスより先に目を覚ますことは、あまり多くない。日頃はオリアスに起こされるか、起きたらユラを眺めていたり料理をしていたりするオリアスと目が合う、というのがほとんどだ。

 ユラは人よりも睡眠を欲する体質をしているし、どうやら悪魔というのは本来寝食が要らないようだから。

 窓から注ぐ雨模様を帯びた淡い光に、オリアスの頬が滑らかに照る——これが、三百歳越え。

 白い肌に触れたくなったが、触れたら起こしてしまいそうで、ユラはじっと見つめた。

 悪魔。

 偶然に拾い胃に含んでいた召喚石から立派な体躯、黒い長髪、赤い瞳を持った、やけに整った面立ちの男が現れた。そんなことが起きれば、出会った瞬間こそ彼をただならぬ存在なのだと思った。

 だが知れば知るほどに、オリアスは善良で思慮深い者だった。それはもう、悪の名がちっとも似合わないほどに。たしかにこの世界には存在しない魔法は使えるけれど、しかしそれなら魔法使いと言われる方がまだしっくりとくる。

 でも、オリアスはあくまで自身を悪魔だと言うから。きっと、悪魔なのだろう。そうじゃなかったとしても、オリアスが何者であったとしても、ユラは彼のことが好きなのには変わりはない。

 ふいに、オリアスの長い睫毛がふるりと震えた。やがて瞼が持ち上がり、ユラと視線が絡んだ赤い瞳はまあるく見開かれる。

「おはよう、オリアス」

「おはよう、ユラ」

「ふ」

「なに笑ってんだ」

「オリアスの寝顔が見れて、楽しかったなと思って」

 そう言うと、オリアスは面映ゆそうな表情を浮かべ、それからユラに口づけをした。

 しばしキスを堪能してから、オリアスは体を起こす。ユラも起きようと思ったが、腰の怠さに諦めた。視線だけをオリアスに向け、窓辺を眺める彼を見る。

「夜明けまでは晴れてそうだったのに、なかなかの雨だな。橋の工事は今日までの予定だけど」

 別に、傘も、レインコートもあるけれど。履いている靴だって、雨ぐらいしのげるけれど。

「雨だと野宿の準備が大変だ」

 まぁ、その準備をするのもオリアスなのだが。しかしオリアスは責める言葉は一切口にせず、眦を綻ばせた。

「もう一泊だな」

「うん」

「飯は、昨日買っておいたパンでサンドイッチでいいか?」

「うん。オリアスのサンドイッチ、好き」

 オリアスはユラの頭をくしゃりと撫でると、紙袋からパンを、トランクから缶詰を取り出し、ベッドの縁に腰を下ろして早速準備をする。ユラはベッドをずりずりと這ってオリアスの背にぴとりとくっついた。

 寂寥と後悔と憧憬を持って旅立った当初は、一刻も早く養父の旅路を辿りたかった。そして、ひとつでも多くの不完全な死の状態の魂を弔う墓守になりたい、と思っていた。

 墓守に対する思いや使命感は今も変わりはないが、旅路を行く歩みはゆっくりでもいいかもしれない、と思うようになったのは、この悪魔に出会ったから。銀の羅針盤は今日も大人しく、ならばこの旅路において差し迫る行事はない。

 逞しい腰に額を重ね、脇腹に指を添わせる。オリアスは小さく笑いを零す。

「くすぐったい」

 やがてサンドイッチを仕上げたオリアスはユラの体を抱き上げると、枕で作った背もたれに寄りかからせるよう、ベッドに座らせた。そして手ずから、サンドイッチを食べさせてくれた。

「明日は、きっと、晴れる」

「お前が言うなら、そうなんだろうな」

 ユラの口元に着いたマヨネーズを拭って、オリアスがふっと笑む。

「お前は俺よりも天気を読むのが上手い」

 明日は、きっと、青々とした晴れ空の下。ユラとオリアスはともに地を踏みしめ、橋を渡り、次の目的地を目指すことになるだろう。

「俺は、あんたとする全部が好きだけど。あんたと道を歩くのが、一番好きかもしれない」

「俺も。ご主人の隣を歩くのは、好きだ」

 それが、いつか訪れる終わりに繋がっていたとしても。

 一度定めた旅路を辿るために。

 不完全な死を弔うために。

 命懸けの契約を胸に。

 墓守と悪魔は旅を続ける。



 Ⅶ.新たなる旅路

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アルカディアの逃避行 鈍野世海 @oishii_pantabetai

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