4.
「オリアス」
微睡に差す、清くあたたかな呼び声。
瞼を持ち上げると、ほの青く染まった薄暗い部屋の中、隣に転げたユラがじっとオリアスを見つめていた。
セーレと別れてから宿泊しているホテルに帰り、ユラとともにベッドに横になった。そのうちにオリアスも眠ってしまっていたらしい。
「おはよう、ユラ。体調は」
「大丈夫だ。弔いにいつもより時間がかからなかったから、思ったよりも体力が持っていかれなかったのかもしれない」
「それはよかった」
ユラの頬をさらりと撫で、それから唇を寄せる。ユラがオリアスの首に腕を回すから、それに唆られるままに、口付けを深くしていく。
「ん……っ、ふ……」
歯列を撫で、舌を絡ませ、互いの唾液が入り乱れる。ほうっと蕩けた瞳のユラを見て、腹の底がどんどん熱くなる。
オリアスがユラのズボンから抜き出したシャツの裾の下に手を滑り込ませ、腹に触れようとしたとき。ユラが、は、と目を開けた。
「花送り。花送りがもうすぐはじまる」
「あ? ああ……もうそんな時間か。ランタンと風船はもらったぞ」
「ありがとう。外に行って組み立てよう」
ユラが体を起こし、オリアスが引き出したばかりの裾をしっかりとズボンにしまう。燻ぶりはあるが、これこそがふたりがこの街に来た目的だ。オリアスも体を起こすとぐっと伸びをし、腹の熱を宥めるようにさすりながら、ベッドを降りた。
それからベッド脇の机に置いていた猫の反面を手に取り、ユラに被せる。ついでに、ユラの頭でひょっこり跳ねている寝癖も直す。
「ついでに夕飯もどこかで食べるか。なにが食べたい?」
「クッキー」
「それは夕飯じゃねぇ。が、あいつやっちまったから、明日屋台でまた買うか」
「うん。じゃあ、オリアスが好きなもの」
「シチューとか」
「うん」
「ドリアもいいな」
「うん」
「ラザニアとか」
「いいな」
「どれも、お前も好きだもんな」
「好き。オリアスが作ってくれるやつが、一番好きだけど」
しれっと、ユラはオリアスの胸を矢で射抜く。
「……時間、掛かってもいいなら。このホテルはキッチンついていたと思うから」
オリアスがそう言うと、ユラの瞳がぱぁっと煌めいた。
「じゃあ、花送りが終わったら食材を買いにいくか」
「ああ」
トランクと一緒に置いていた、セーレからもらった紙袋を手に取る。
ホテルの部屋のドアを開ける間際。ユラがつま先立ちをし、背伸びをして、オリアスの唇に口付けた。ちゅ、と可愛らしい音が鳴る。
「行こう、オリアス」
「……ご主人は意地が悪い」
「帰ったら覚えておけよ」と言えば、ユラは少し悪戯っぽく瞳を細めた。
ホテルのエントランスに支配人の姿を見つけ、出かける前にキッチンの使用確認をした。その許可ついでに、支配人は「花送り。ホテルの屋上でやっても構わないよ」と言った。
「お祭り雰囲気を楽しみたいなら街中がいいだろうけれどね。中には静かに弔いたい人もいるだろうから」
ユラが希望したこともあり、ふたりは花送りは屋上で行うことにした。
最上階である十階、廊下の突き当りから伸びている短い階段を行けば、屋上に出られた。
濃紺の空。煌めくのは星々だけではない。空には既にいくつものランタンが、天に向かってふわりふわりと飛んでいた。そして時折破裂音が響いては、空に大輪の火の花があちらこちらに咲く。その壮観に、オリアスは足を止め見惚れた。
「綺麗だろ」
「ああ」
ユラはオリアスの手から紙袋を取ると、その中から竹、固形燃料、紙袋を出す。そしてその一式をオリアスに差し出した。
「オリアスの分」
「は? 俺?」
「二組入っていたから」
「別に俺は弔うような相手は——」
ふいに、故郷での古い思い出が脳裏に過った。
これまでもたまに思い馳せたり、夢に見ることはあったが、セーレとの再会で、いつになくその回顧は色濃く現れた。
過去に強い未練や執着があるわけではない。不可逆を嘆く必要もなければ、是が非でも断ち切る必要もない。古びたアルバムの一ページに過ぎない。
それでも、かつていた世界で過ごした日々は、乱世を共に潜り抜け訪れた平和にあくびを交わした旧き友たちとの時間は、もう二度と戻らない。彼らと酒を酌み交わすことはもう二度と、ないのだ。そう思うと、花弁一枚程度の寂しさは覚える。
オリアスとユラはそれぞれ竹の土台を組み立ててから、紙袋に一筆したためた。オリアスは少し悩んで、感謝と別れの言葉を。ユラはきっと、養父への思いを。
竹の土台に紙袋を被せ、内側の固形燃料にオリアスの魔法で火を灯す。そうして空に放れば、ランタンは天に向かってふよふよと浮かび上がっていった。
やわらかな火の光を孕みながらそれを、ふたりで仰いでいていた。
「もし、いつか」
ぽつりと、ユラが言う。
「俺の旅が終わって、あんたに命を渡すときが来たら。一度だけでいいから、俺に花を手向けてくれないか」
「……あと七年は先の話を、今からすんのか」
「俺は、思ったときに言わないと忘れる。あんたは俺より物覚えがいいから。一度言ったら忘れずにいてくれるだろ」
「別に、良くはない。お前の言った言葉だから、覚えていたいと思うだけだ」
ユラが、オリアスを見る。あたりに浮かぶランタンの光で煌めく黒い瞳が、やわく、細む。
「時々、思う。俺たちの間に契約がなかったら。きっと、七年後も、十年後も、五十年後も、一緒にいられるんだろう。でも、百年後は。どちらにしても俺はあんたを置いていくことになる。あんたと俺の命の長さは、違うから」
「……」
「俺は、ジジイの旅程を辿れれば、それで後悔なく死ねると思っていた。けれど、ルーマリの夢想を見て、思った。俺は。なにひとつの悔いなくあんたを置いていけるか。まぁ、そのときになってみないと分からないけれど——ん」
オリアスは、ユラの胸ぐらを掴み、互いの唇を重ねた。
何度も角度を変えて、空気を奪って、皮肉の柔らかさをたしかめて、熱を味わって、オリアスはユラを抱きしめた。
「お前に置いていかれたら。俺は、寂しいよ」
「でも、そういう運命だ」
「運命だとしても。死ぬほど、寂しい」
「そう言われると、今から心配になる」
「ああ」
「心配なままだと、不完全な死の状態の魂になってしまう。墓守なのに」
そうなってしまったら。オリアスは、墓守を探しユラを弔ってもらうことができるだろうか。想像しようとして、やめた。
「寂しい話は、今はまだしたくないって言ったら。情けないって、笑うか」
出会った頃よりも肉付きがよくなって、それでもどうしたってオリアスよりも華奢なユラの体を、噛みしめるように、壊さないように、ぎゅうっと抱きしめる。
「お腹が空いたな」
ユラがオリアスの背に手を回す。あやすような緩やかな手つきで、オリアスの背を叩く。
「もう少ししたら、食材を買いに行こう」
「ああ」
「オリアス」
「ん」
「俺も、あんたがいなくなったら寂しいから」
「……」
三年。
オリアスとユラが縁を持って、三年の歳月が過ぎた。
出会ってすぐに、契約を交わすくらいにはユラを気に入った。それからユラと親密になるまでは、そう時間がかからなかった。思いを寄せ合うほどに、命懸けの主従契約がオリアスの心臓を締め付けるようになった。
オリアスとて、この三年間で何度も考えた。そしてこれからも何度も思い悩むのだろう。
悪魔と墓守——魔法使いと、魔法のない世界の人間。生まれ育った世界が異なる故に、命のデザインもまるで異なる、ふたりの旅と契約の結末を。
そのときのユラが、オリアスが、一体どんな考えを持ち、どんな選択をするのか。ユラの言う通り、そのときになってみないと分からない。
ただ、今のところ、オリアスは思っている。
たったひとりの主人に花を手向けることになるのは、寂しい。死ぬほど、寂しい——だから自分はきっと、ユラが旅程を完遂する、その直前までしか見届けてやれないだろう、と。
それはユラをひどく悲しませるに違いない。ユラのことが心配すぎて、自分は不完全な死の状態の魂になるに違いない。それでも。ユラの命を礎に生きるくらいなら。
まだ一度も口にはしたことはない思いを胸に秘め、オリアスはユラの愛おしい呪いに、「ああ」と頷く。
空高くに、またいくつもの花火が弾けては散っていく。
有限の輝きに溢れた、とても明るく、切ないほどに眩しい、夜だった。
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