下
あれから時は流れ、私は高校二年生になった。六年生のあの一件で芽生えた苛立ちと孤独感は、高校生になっても消えていなかった。しかし大きくなったわけでもない。何故なら、私は考えを振り切ることにしたから。私が幸せになる道を探すのではなく、誰かの幸せを邪魔すれば良いのだと。だから、あの苛立ちと孤独感が大きく育つことは無かった。それこそ、晴天がしばらく続くと多少大きくなる時はあったけれど、雨というのはいつか降るものなのだ。
中学の三年間、そして高校の一年間、私は部活には入らず、友人も作らず、雨の日は欠かさずおじさんの家に通うという機械的な生活を送っていた。新学期が始まって最初の雨の日。今日も私はいつも通り、おじさんの家を訪ねる。
「いらっしゃい。どうぞ」
家を滅多に出なくなったおじさんは、いつしか地元の優しいおじさんではなく、地元の可哀想なおじさんになっていた。彼の死が、ゴールデンレトリバーの死がおじさんを狂わせてしまったと皆は言うが、私に言わせてみれば、おじさんを狂わせたのは彼ではなく、新しい友達だ。
「こんにちは。お邪魔します」
おじさんの付き添いが無くとも一人で暗室を進めるようになっていた私は、挨拶だけ済ませると、真っすぐあの部屋へ向かい、襖をピタリと閉め、暗闇の中を水槽の前まで移動し、フロアライトを点ける。
「今日も来たよ。随分大きくなったね」
大きな水槽の中を泳ぐ緑色の友達は、その水槽に見合う大きさまで成長していた。最初は十数センチほどのドジョウくらいの大きさしかなかった友達だが、今やその体躯は十倍の一メートルを超えている。例えるならその姿は、ウナギやウツボ、或いは蛇を想起させる。
「今日する話はね、最近学校で流行ってる化粧品の話。大丈夫。私もそれを買って嬉しいって話じゃないから。そんな流行りに踊らされてるお馬鹿さんたちのお話だよ」
悲しかった話、腹が立った話、他人を蔑む話、他人を嘲る話。私はこう言った類の、要は、暗く真っ黒い話を、約五年間友達に聞かせ続けた。すると必ず、話題に上がった相手に何かしら些細な不幸が起きた。私はそれを見て心を癒し、今日まで生き延びることが出来たのだった。
そんなある日、一つ下の妹に彼氏が出来た。他人からの愛の内、家族からでも友人からでもない愛。私がまだ知らない、異性からの愛を妹は得たのである。私の興味はすぐ、妹とその彼氏に向いた。しかしこの興味が、私の中の苛立ちと孤独感を大きく成長させてしまったのであった……。
妹に彼氏が出来たと知った私は、次に雨が降った日、早速友達にそのことを話した。と言っても、この時はまだ、妹と彼氏が一緒にいるところを見たことが無かったので、近況報告だけで話は終わった。それから一カ月が経過し、本当に彼氏は実在するのだろうかと私が疑い始めた頃。私たちは出会った。
「あの、すみません」
高校からの帰宅途中。公園の前でロードバイクを押している制服姿の青年に突然話し掛けられた。晴れた日で、おじさんの家に行く予定は無かったので、私はその声に足を止めた。
「はい、何ですか」
「佐藤さんの家を探していて」
佐藤という苗字は全国的に多いが、この地域では私の家以外に佐藤さんはいなかったので、すぐに私たちの家を探しているのだと分かった。
「なぜですか?」
「えっと、約束があって……」
歯切れの悪い答え方をしながら頬を赤らめている。その態度を見て、私はすぐに気付いた。妹の彼氏なのだと。私は迷わず、彼を案内することにした。
「こっちです」
「あ、ありがとうございます!」
会うことを待ち望んでいた存在が、実在するのか怪しんでいた存在が今目の前にいる。私はそれだけで少し興奮した。しかしそれと同時に、別の興奮も芽生えていた。私は妹の彼氏に一目惚れしてしまったのだ。
「ここです」
「ありがとうございました。本当、助かりました」
何度も頭を下げる青年を見て、私は数年ぶりに自然な笑みをこぼした気がした。しかしすぐに表情を引き締め、自宅の門扉を開く。
「え、あっ、ちょっと」
他人の家に勝手に侵入している。青年からしたらそう見えただろう。私は動揺している青年を揶揄うように、
「私の家」
と答えた。
「えっ、じゃあもしかして、お姉さん?」
「はい」
「そうだったんですね。すみません、気付かなくて」
「いえ、気にしないでください。私とあの子、あまり似ていないから」
私は少しも表情を変えずに答えると、門扉を抜け、自宅の玄関ドアを開く。すると丁度妹が二階から下りてきた。
「ウチ探してる子いたから、案内しといたよ。外で待ってる」
「マジ?」
妹は一言だけ答えると、笑顔の花を咲かせた。私はそれに頷いて応えると、妹とすれ違い、階段を上がった。この日から、私の心は壊れ始めた。
妹が彼氏の話をする度に、妹が彼氏と出かけて行く度に、家を訪ねてきた妹の彼氏が私に話しかけてくる度に、私の胸中では明るい感情と暗い感情が膨らんだ。聞けば聞くほど、会えば会うほど、妹の彼氏に対する明るい感情が膨らむ。しかし明るい感情が膨らむと、それに比例して、妹がいなくなればいいのに。という暗い感情も膨らむ。私はそのジレンマに苦しんだ。そこで私は、このジレンマから逃れるために、色々と自分に言い聞かせてみた。あの青年に惹かれているのは、きっと妹の彼氏だからであり、青年本人に惹かれているわけじゃない。身内にこんな感情を抱くのはおかしい、身内の幸せは祝うべきだ。行動を起こせば、最終的に地獄を見るのは自分なのだと……。私は何度も何度も自分に言い聞かせた。しかし私の中で膨らむ感情は止まらなかった。妹は毎日のように彼氏の話を私に聞かせ、訪ねてきた彼氏は毎度毎度、私に優しく話しかけ、笑顔を向ける。妹とその彼氏が良かれと思って私にしていた諸行為は、私の感情を刺激し、私の感情を膨らませ、私の苛立ちと孤独感に栄養を与え続けた。それでも私は耐えて耐えて耐え続けた。妹たちに標準が向かないよう、校内のありとあらゆる人物に標準を向けた。しかしそれでは足りなかった。標的があまりにも小さ過ぎて、私の心が壊れていく速度に対して、治癒の速度が追い付かなかったのである……。
そうして半年が経過し、私の心はついに限界を迎えた。膨らみ続けていた明るい感情と暗い感情は、同時に爆発した。私はまだ、自分の幸せを諦めきれなかった。
雨が今にも雪へと変わりそうなあの日。私はおじさんの家を訪ねた。そして友達に全てを話した。家族からも友人からも異性からも愛される妹が妬ましい。それでいて無神経に話し掛けてくる妹が忌まわしい。こちらを見てくれない青年が憎らしい。それなのに笑顔で話し掛けてくる青年が憤ろしい。と。私の心の割れた部分から、おどろおどろしい、暗く黒い感情が全て溢れ出た。
「それでね、私思ったの、全部壊れちゃえばいいのにって。私がイライラするのはあの二人のせいなの。だからね、あの二人が……」
いなくなればいいのに。私はその一言で話を結ぼうとしていたのだが、それより先は言葉が続かなかった。心のどこかに小さな善心のカケラが残っていたのだろうか? 私はそう考えながら、しばらくの間、水中でグルグルと無限の形を成して泳いでいる友達を見つめていた……。
それから数日が経ち、クリスマスイブ。何もかもを吐き出した私が自室のベッドで抜け殻のようになっていると、部屋に母が飛び込んで来た。
「お、落ちたって……。二人が階段から……!」
母の表情、様子、言葉、その全てから恐怖と不安が滲み出ていた。それを見聞きした私はすぐに悟った。その日デートに出掛けていた妹とその彼氏が事故に遭ったのだと……。
私たちは病院へ向かい、事故の詳細を聞いた。連日の雨と低気温で歩道橋の階段が凍結していたらしく、それで足を滑らせ、二人は階段から落下したらしい。幸い、命に別状はなかった。しかし先生が言うには、もう少し打ち所が悪ければ、二人とも死んでいたかもしれないということであった。その説明を聞いた私の脳裏には、数日前の自分の言葉が過る。
『それでね、私思ったの、全部壊れちゃえばいいのにって。私がイライラするのはあの二人のせいなの。だからね、あの二人が……』
いなくなればいいのに。そこまで言っていたら、この結果は変わっていたのだろうか……。そう考えると、私は怖くなった。今回の件を起こした友達が、或いは友達の力が怖くなったわけではない。友達はただの手段だから。私が真に恐怖したのは、その手段を行使した私本人、私の心である。
私はこの日を境に、友達に会いに行くことを止めた……。
長いこと門扉の前に立ち尽くしていた私は、全身からしとどに流れる汗にようやく気付いた。この暑さのせいなのか、今思い出した記憶のせいなのか、私は卒倒しそうになった。そろそろ帰ろう。今ならまだ歩ける。そう思った私が身を翻そうとすると、冷たい雫が脳天に落ちて来た。そして次の瞬間、サーッと音を立て、雨が降って来た。
(友達が、呼んでいる……?)
私は心の中で疑問符を浮かべていたが、その足は既に、平屋に向かっていた。門扉を抜けて、庭を進み、平屋のインターホンを押す。反応はない。おじさんはもう亡くなってしまったのだろうか。となるともう、友達も……。私が諦めかけたその時、玄関ドアが開いた。
「いらっしゃい」
ドアの向こうには、杖を支えに立つおじさんの姿があった。
「友達が待ってるよ」
その言葉を聞いた私は、靴を脱ぎ棄て、早足で廊下を進み、友達がいる部屋に飛び込む。襖を閉め、暗闇を進み、フロアライトを点ける。するとそこには、九年前と何ら変わりない友達がいた。
「久し振り。今日はいっぱい話すことがあるんだ」
友達に話し掛ける私の口角は、無意識のうちに上がっていた。
一週間後。リビングでワイドショーを見ていると、とあるニュースが目に留まった。
「昨日午後五時頃。□□県の○○川の付近でキャンプをしていた男女六名が、大雨による○○川の急激な増水に巻き込まれ、行方不明になる事故が発生しました。行方不明になっている男女六名は未だ見つかっておらず……」
アナウンサーが原稿を読み上げている最中、画面には字幕で、行方不明になった男女六名の名前が表示される。私は並んでいる名前を見て、片方の口角が吊り上がるのを抑えることが出来なかった。この愉悦を味わうのは、実に久し振りのことである。高校二年時の私は、まだ心が完全に崩壊しておらず、微かに残っていた希望と善性に振り回され、最終的に、友達から離れる選択をしてしまったが、今、完全に心が砕け散った私には、この瞬間が最高の愉悦なのだとハッキリ分かった。やはり、自分が幸せの頂に至るために他人を蹴落とそうなんて考えは幼稚だったのだ。自分がどれだけ幸せになろうとしても、幸せの上には更なる幸せがある。この登山は無謀だ。だったら、登りに登った幸せ者を良きタイミングで叩き落とし、水底に沈んでいく絶望する姿を肴にした方が良い。そうすれば、私は無限に幸せを享受することができる。何故ならこの世には、山ほど幸福な人間がいるのだから。
ねじれた渦 玉樹詩之 @tamaki_shino
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