中
一番最初に起こった不思議なこと。それは、人気者の彼の急逝、つまりは、おじさんの家で飼われていたゴールデンレトリバーが急死したことだった。彼を可愛がっていた妹や友人たちは泣いていた。その親御さんたちも、悲しそうな顔をしていた。しかし、一番悲しんで然るべき人物であるおじさんは、一滴も涙をこぼさないどころか、全く悲しそうにしていなかった。悲しみを通り越して、茫然としているだろうか。そう考える私の頬にも、涙は伝っていなかった。
……彼が急死する数日前のこと。おじさんの家に招かれて以後、初めて雨が降ったその日、私はおじさんの家を訪れていた。
「いらっしゃい。来てくれて嬉しいよ」
私は傘を畳み、傘立ての横に傘を置き、おじさんの後に続いて廊下を歩く。
「楽しい話でも嬉しい話でも良いし、悲しい話でも腹が立った話でも良いから、何でも聞かせてあげて。それじゃ、おじさんは居間にいるから、何かあったら呼んでね」
あの水槽の前に辿り着き、フロアライトを点けてくれたおじさんは、私に向かって説明のような、お願いのようなことを言うと、その場に私だけを残し、襖を閉めて居間に向かってしまった。暗室に閉じ込められた私は、足元に置かれている座布団に正座し、フロアライトがぼんやりと照らし出している水槽を眺める。その中では、「新しい友達」がゆったりと泳いでいた。私はそれを目で追いながら話し始める。
「こんにちは。わたし、ゆい」
私が自己紹介を終えると、水槽の中の友達はクルクルと無限を描く。
「あなたにお話を聞かせてあげてって言われたけど、あなたはどんなお話が好きなの? 楽しいお話? うれしいお話?」
そう問い掛けると、友達は無限を描くことを止め、ゆったり泳ぎに戻ってしまった。この二つはお気に召さなかったのかもしれない。
「それじゃあ、悲しいお話? 腹が立ったお話?」
まさかとは思いつつも念のために問い掛けてみると、友達は再びクルクルと無限を描き始めた。
「……分かった。じゃあ、最近少しムッとした話をするね。あなたが知ってるかは分からないけど、あなたのお家には、あなたとおじさん以外に大きなわんちゃんがいるの。そのわんちゃんはね、私から友達を奪ったの。生きてるだけで愛されて、走ってるだけで注目を集めて、ズルいよね? 私だって一緒に遊びたいのに、誰も私と遊んでくれない。あの子がいるから」
話すことに集中していたせいで気付かなかったが、話を終えた今、ようやく気付いた。水槽内の緑色の友達が、真っすぐにじっとこちらを見つめていたことに。それに気付いた私が、ハッ。と少し息を呑むと、友達は生き生きと、三度、無限を描き始めた。
「はぁ……。こ、こないだね、小テストがあったの。私、そのテストで百点を取ってね……」
こちらを見つめる瞳に恐怖を覚えた私は、詰まっていた呼吸をなるべく自然に再開させると、楽しい話や嬉しい話を続けて気持ちを誤魔化した。私の問い掛けに応えて泳いでいるように見えたのも、こちらをじっと見つめていたのも、きっと偶然のことだったのだ、私の勘違いだったのだと言い聞かせるように。するとその後、新しい友達は二度とこちらを見て来ることも無ければ、無限を描くことも無かった。
それから二日雨が続き、ようやく晴れた三日後、彼の訃報を耳にした……。
彼がいなくなって二、三日程、友人たちは気落ちしていた。しかしそれも一陣の風、時は瞬く間に、ほとんど全てを元の状態に戻した。まるで、あの家には最初からゴールデンレトリバーなんかいなかったかのように、あの日友人たちが流した涙も、彼の死がもたらした悲しみも、全て、何もかも存在しなかったかのように、元の生活が戻って来た。無論、私と友人たちの関係も元に戻った。前みたいに登下校を共にして、前みたいに公園で遊ぶ。本当に、何事も無かったかのように……。しかし、全部が全部元通りというわけにはいかなかった。私の傷付いた心と、雨の日の習慣だけは、元に戻ることは無かった。
雨が降ると、私は決まっておじさんの家を訪れた。そしてその度、緑色の友達とお話をした。と言っても、こちらが一方的に話し掛けているだけなのだが……。その際私は、悲しい話や腹が立った話など、暗い話はしないように心掛けた。何故なら、初めて話し掛けたあの日の、こちらをじっと見つめていた友達の虚ろな視線が思い出されて、怖かったからである。しかし私の思いとは裏腹に、友達は、暗い話を望んでいたような気がする。その証拠になるかは分からないが、私がいくら楽しい話を、嬉しい話をしても、友達は一切こちらを見てくれず、お得意の泳ぎも見せてくれなかったからである。
そんな調子で半年が経ち、私は六年生になった。この頃から、些細だが、私に対してのみ、不思議なことが起こるようになった。例えば、私が利用した蛇口だけ水が出なかったり、掃除中にホースが外れて水浸しになったり、雨の日に帰ろうとしたら私の傘だけ壊れていたり。等々。水回りのアクシデントが、週に複数回、私の身に降りかかった。初めは私も、ついてないな。程度に考え、あまり気にしていなかったのだが、それが一か月も続くと流石に気味が悪くなり、私は一度両親に相談した。しかし両親は取り合ってくれず、私は渋々、湧き上がってくる様々な言葉と思いを勘違いの一言で包み、飲み込むことにした。
その数日後。晴天の日にも関わらず、私はおじさんの家を訪ねていた。今日は友達に会いに来たわけではない。最近あった出来事を、おじさんに話してみようと思って訪ねたのである。幼年期の第六感というか、想像力というか、とにかく、何となくの直感で、緑色の友達が原因のような気がした私は、その飼い主であるおじさんの意見を聞いてみたかったのである。
「うーん、そうか。そんなことがあったのか……」
居間に通された私は、ちゃぶ台を挟んでおじさんの対面に座ると、早速、最近起きた不思議な出来事を話した。するとおじさんは、話を遮ることなく、最後まで話を聞いてくれた。その上で、腕を組み、顔を皺くちゃにして、真剣に考え込んでくれた。そして、
「それは全部、アイツのイタズラかもな。お嬢ちゃんが自分好みの話をしてくれないから、ちょこっとイタズラしてるのかもしらん」
と言った。やっぱりそうなんだ。私の勘は正しかったんだ。私は心の中で呟く。しかし程なくして、
「なんてな。きっと、お嬢ちゃんの運気が下がっているだけで、じきに良くなるよ」
と、結局、両親と同じようなことを言った。それを聞いた私は、何故かガッカリした。私は新しい友達に対して恐怖を抱いているはずで、その新しい友達が元凶かも知れない、もしそうだとしたら、縁を切らなければならない。そう思っておじさんに相談したはずなのに、私はおじさんの答えに満足できなかった。私は心のどこかで、今私の身の回りで起きている不思議な出来事は、全て友達の仕業であって欲しいと願っていたのである。私の中で蠢いていた恐怖は、いつしか代えがたい甘美に、乃至は期待に、変貌していたのである。
ここに望む答えはないと判じた私は、傍らに置いていたランドセルを持ち、座布団から立ち上がる。そして何も言わず、おじさんの家から退散しようと玄関へ向かい、靴を履き、ドアを開く。後は外へ飛び出すのみ。だったのだが、私はその場に立ち止まった。何故なら、外は大雨になっていたからである。つい先ほどまで晴天だったはずの空は、いつの間にか大量の暗雲を拵え、大量の雨を降らせていたのである。
「ところでお嬢ちゃん」
立ち尽くす私の背中におじさんの声が届く。
「不思議なことが起こった時、周りの子たちは君を助けてくれたのかい?」
おじさんの言葉が私の核心を突く。すると次の瞬間、大雨で出来たスクリーンに私の心が映し出される。蛇口から水が出なかった時、私のために水を出してくれる子はいなかった。ホースが外れて水浸しになった時、私は一人で後片付けをした。昇降口で壊れた傘を持って雨を眺めていた時、私を傘に入れてくれる子はいなかった。そう、私はいつも孤独だった。目を向けないようにしていた事実を無理やり見せつけられた私は、踵を返し、靴を脱ぎ、廊下を進み、居間を抜け、あの部屋に入った。そして小一時間、私は友達に話した。本当に恐怖すべき対象は、不思議なことが起きている私に誰も手を差し伸べてくれない残酷な世界なのだと……。
あの日。心の赴くままに話をしてしまったせいか、私はほとんど話した内容を記憶していなかった。しかし覚えておく必要などなかった。友達に話をした数日後、私に手を差し伸べてくれなかった友人たちに、いや、他人たちに、不思議なことが連続して起こったからである。蛇口から水が出ない私を笑った子は、謎の腹痛に数日間悩まされた。水浸しになった私一人を置いて先に帰った同じ掃除の班の子たちは、皆漏れなく、高熱を出して一週間ほど学校を休んだ。誰も傘に入れてくれなかったことに関しては、名指しで話したわけではなかったようで、特定の誰かが不思議なことに見舞われることはなかった。しかしだからと言って何も起きなかったわけではない。数日間、学校のさまざまな教室で物が壊れたのである。恐らくこれは、必要な物が壊れて困っている私を助けなかった学校に対して力が働いたのだろうと私は解釈した。その他にも、様々なことが起きた。私はその度に、小気味よい感じを覚えた。特別な力を得たような気がして。しかし、その小気味よさも長くは続かなかった。腹痛に苦しむ子の周りにはたくさんの人が集まり、熱に倒れた子たちの家には同級生たちが駆け付け、物が壊れた教室では、生徒たちに危害が及ばないようにと、わざわざ数人もの教師が出て来て後片付けを行う。そんな姿を毎日見ていると、私の中に芽生えていた小気味よさは瞬く間に萎んだ。
(私には誰も手を差し伸べてくれなかったのに……)
この一件で私の心に芽生えたのは、苛立ちと孤独感だけであった。
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