第18話 夕と凪。
港町を渡る風は少し涼やかなものとなっていた。
石畳に夕陽の色が差し、学園の鐘がひとつ鳴る。
日は落ちた。なのに、オルトが迎えに来ない。
ルカは学園の屋根上で、足をふらふらさせながらオルトを待っている。
今日の迎え担当はオルトだ。来てくれなければ、帰れない。
日が暮れた後に教師達に送られるのは、避けたい事だった。
そうなると、明日には級友たちが、明るい内に私が送るなどと言い出し、途端に騒がしくなるからだ。
挙句にはキエッリーニの人手不足を疑われ、屋敷で働きたいなどと言う子たちまでいる。
気持ちは嬉しいが、勘弁して貰いたかった。
それは、彼女たちのためにならない。
貴族であるキエッリーニは、職能を学ぶ場所ではないからだ。
奥方様を見ていれば、嫌でも察する。
政治家や官僚なんて、生計のためにやる職じゃない。
多少の礼儀作法を学べても、将来に生計を立てるための助けとならない。
そんなのは、奥方様を見ているだけで充分だ。
風が少しだけ強くなる。
シシリア貴族に限らず、貴族に求められるのは武力だ。華やかな印象に惑わされ、力を忘れてしまえば、残るのは無惨なものばかりだ。
そもそも、貴人となるオルトの行儀もかなり悪かった。毎日の様に、喧嘩して帰って来るくらいには。
そんな姿を友達に晒すのも、躊躇いがあった。
地平線を見れば、降りてゆく太陽はまだ赤く輝いている。その眩しさに目を瞬かせて、ルカは思う。
貴族とは、重い荷物を背負っている。
背負うほどの力も知恵も持たなければ、簡単に潰される。
——だからこそルカは、友達に居候先を紹介する気にはなれない。
独特な、でも嫌いじゃない浜風の匂いが鼻腔をくすぐった。
ルカは膝を抱え、胸の奥の小さな不安を身体の中に押し込めた。
——奥方様のことを思い出す。
奥方様は、十日も空けずに疲れた顔で机に向かう。
そのたびに、ルカは寝室へ通っていた。
夜は、眠って貰ったために。
——大人は、想像よりもずっと重いものを背負っているんだ。
キエッリーニは「ただの家」じゃない。
皆が支えとする場所。街の誰もが頼りにしている。
だからこそ、逃げられない場所だ。
奥方様みたいに、心を削ってでも守らなきゃいけない何かがある。
それが貴族の務めだと、ルカも思う。
顔へ当たる風の流れが、僅かに変わった。
「悪い。待たせた」
そんなルカが目を細める。
大きな声。よく通り、よく響いた。
「遅い」
小さく声が漏れる。でも、視線は向かっている。
よたよたと、情けない足取りで学園へ向かってくる従兄弟の「お兄ちゃん」、オルトの姿に。
タンと音を立てて屋根から降りた。危険はない。強化を用いたルカの身体能力は「クマ」よりも高い。
軽やかに、仲間である「オルト」へと駆けてゆく。
——その足が、止まった。
歯を食いしばった「お兄ちゃん」の口元が、視えたからだった。
一瞬、足がすくむ。感じられる筋肉の僅かな萎縮。
それを振り切って、ルカは足を踏み込んだ。
「オルト!」
叫ぶルカ。
何のことはない。いつものことだ。最近では叱りつける事も増えている。
だが、ルカから見たオルトは、まったくいつも通りではなかった。
「オルト、遅い」
「悪いな。ちょいと遊んでたらよ」
苦笑いするオルトへ、ルカは短く「嘘つき」と返した。
みるみると、顔色を変えるオルト。
「奥方様に報告する」
「……いや、俺から言う。そんなに、おかしいか?」
オルトの疑問に、答える言葉は山程をも持っている。でも、口にはしない。ルカは「そんな顔、見たら一発だよ」と言って、俯いた。
「ちょい、やたら強い奴にやられてな。『親父達』程じゃねぇけど、俺だって考えるぜ」
「知らない癖に」
胸の奥がきゅっと縮まった。
そう返すしかなかった。
生温い風が頬を撫でる。
「親父達」は、二人にとっての父親達。一人はエーリチェ城主であるアントニオ。もう一人は、彼が勝った事のないというオルトの血縁上の父だった。
最強と、その上にあった者。
そんな二人と比べても。
「俺は、『兄貴』には遠く及ばねぇ。それを知っていても、負けたのはショックだったぜ」
「……オリヴェートリオ」
小さく呟いたルカだった。その名は国内どころか、大陸最強の名だ。
そして、その序列はそのままシシリア島内の力関係にも通じていた。
「領主はいい。言っちゃなんだが、あの人達は俺達の側だ。『協調しないと、成せない平和に意味はある? そう、平気で言ってくる、蛮族みたいな人らだよ」
オルトの声音は優しくなっている。
まるで、ルカは「大人の社会を知らない」と言いたげな口調だった。
「知ってるよ。あの人たちがいるから、仮初にでも平和が保たれているんだもん」
「よく、勉強してるな」
それは学園でも習う事だった。力持つ者が調停する事で、抑止力となっている。
だが、ルカには不安があった。
いつも真っ直ぐに目を見て話すオルトが、視線を合わさない。
「ねぇ、オルト。本気で負けた?」
オルトは顔を俯ける。
上には上がいる。本気でやっても、勝てる気がしないのがオルトだ。
そんな「お兄ちゃん」が負けを認める誰か。
恐ろしいのは、「お兄ちゃん」が闘う必要があると認めた相手がいる事だった。
「本気、を出させても貰えなかった。……いるもんだな。どこにでも」
風の音が、少し冷たく感じた。夏の熱風なのに。
——見たくなかった。「お兄ちゃん」が敵わない相手という現実を。
ルカにとっての「最強」は父ではなく、ずっと遊んでくれた従兄弟であった。
再び、身体へ無駄な力が籠る。僅かに指先が震え、拳を握っていた。
遠くで、風鈴の凛とした音が響く。我知らず、ルカは「強化」の術式を発動している。
「お前さ。熱くなるのはいいけど、力の使い方を間違えるんじゃねーぞ」
頬が凍ったのがわかった。
何処から何が視えている。それが、わからない。
「オルトじゃあるまいし、……考えて動いている」
強がりだった。
嗚呼。私はまだ弱い。
実力も、心も。
強者へ至るには、それぞれが備わらなければならない。
——落ち着け、落ち着け。
胸の奥から、ふと教えられた言葉が蘇る。
頭が、すっと冷めた。足元にだけ、熱がいく。浮かぶのは、簡単で難しいもの。
「心身一如。自然である事こそが、近道」
硬くなった唇を開いていた。刻みついた言葉が漏れ出る。それは、只の言葉に過ぎない。だが——
それこそが、強者へと至る道程だった。
「脅威へ抗うための心。野生の全てを奪われた、私達にとっての最後の力」
それは教えの中でも、耳が痛くなる程に聴かされ続ける言葉たち。
己の心さえ制御出来なければ、何者にもなれない。
それこそが、摂理、律。
人にこそ、大切なもの。
「お前さぁ……。小難しい事、考えすぎんなよ」
その言葉に、ルカの胸から深い吐息が漏れる。
そんな事を言いながら、オルトの拳は硬く握られたままなのが見えていた。
「私達は、まだ弱い。だから、努力する」
いつのまにか日は落ちている。二人の影は闇に飲まれていた。
「帰ろうぜ。弱いからって、急に強くはなれねぇよ」
笑った。不安を打ち払う、お日様みたいに。
格好の良い顔じゃない。でも、「お兄ちゃん」のその顔は、少しだけ身体の硬さを和らげてくれる。
「わかってるよ」
苦笑が耳に響いた。仕方なさそうにして、世間知らずの子供へと向けて。
それは大人っぽくて痛そうで、重そうで。半分は自分へ向けたもののようでもあった。
だから、怖くはない。
顔を上げなくてはならない。
ルカは空を見る。宵闇に、星明かりが散っていた。
所感を伝えれば、奥方様は間違えないだろう。言葉を選ぶ。
やがて、夜が来る。
フオリエ・ナスコシテ @kazuatto
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