第17話 守るための足音。
陽射しが強い昼下がり、街を、港を駆け抜けていく青年がいる。
アウグスタの息子、オルトであった。
一糸纏わぬ上半身の姿も、夏の港では別に珍しくもない。海の男衆は大抵がそうなのだ。
潮風が胸に吹きつけ、汗が線を描いて流れている。
けれど、その走りには焦りがあった。
近頃の「母ちゃん」の表情が、どうにも頭から離れなかった。
胸の底にへばりつくそれを形に出来ず、ただ駆けていく。
理由は、はっきりしない。
ただ、賢い奴らの言うことに、どこか引っ掛かりがあった。
考えたところで、答えなんて出ない。
わかっている。だからこそ、走るしかなかった。
「おう、若! 今日も熱心だな!」
「頑張れよ! 小熊の坊主!」
港の男衆から声援が飛ぶ。
オルトは腕を上げ、振って応えた。吐く息が熱い。
それでも、足は止まらない。
やがて浜辺へと辿り着く。砂を蹴り、波打ち際を進んだ。
呼吸を整え、姿勢を崩さず、ただ前へ。その動きには、祈りともつかぬ熱が籠っていた。
——もっと、強くならなけりゃ。
耳の奥で、そんな言葉が何度も響く。
港の若い衆にとって、この砂浜は鍛錬場でもある。
けれどオルトにとって海辺を走ることは、それだけのものではなかった。
もう彼は、ただの若い衆ではない。
キエッリーニの「息子」としてでなく、冒険者たちの纏め役として、話を聞いている。
港では順調に統制が進んでいると、母ちゃんやフィオナは言っていた。
支部長にもお前たちが頑張っているおかげで、「ズル」をする奴がいないぞ。と、褒められてもいる。
けれど、三人とも何かを心配している。――オルトには、そう見えた。
何かを感じていて、それでも信じようとしている。——そんな、祈りにも似た何かが、あるような気がしていた。
俺じゃ、何の相談にもならないのかもしれない。けれど——。
仕事を任された。それに、上手くいっている。
この街の人達は皆、いい奴ばかりで、心配する事なんてない。
……そう言ってやりたかった。けれど、言えなかった。
だからこその、考えをまとめるための時間。
動いていれば、頭が冴える。じっとしていると、心のざわつきが抑えられなくなった。
そうすると、想ってしまう事がある。
——俺たちの街で、悪さをしようって奴らがいた。
——あの大海蛇みたいな災害だって。いつ、また何かが起きるかわからねぇ。
力が足りない。それは理屈でなく、身体でこそ知ること。——あの時も、鱗の一枚が精一杯だった。
もしもあれが、ただの獣じゃなく、人の悪意を宿した存在だったら——。
そんな考えまで浮かんでしまう。
絶え間なく押し寄せる波へと、視線が向かった。
瞼の裏へ浮かぶのは、力強くも流麗な一閃。
だけでなく、見せつけられた現実。それは大きな力量の差というものだ。
……俺たちは、いや俺はこのまま、「兄貴」に頼ってばかりでいいのか?
アントニオの背が幻影として浮かび上がるたび、その肩へ乗せられた重みが、思い起こされた。
彼が守るのはエーリチェと王都を結ぶ海路、それはトラーパニ港の命綱。
海に顕現する異界生物を狩ることで、人々の生活を支える経済、というものを守っている。……らしい。
ガキの頃、もっと「兄貴」に遊んで欲しい。と、癇癪を起こしたらしい「俺」に、「母ちゃん」が教えてくれたことだった。
オルトには、難しい話はわからない。しかし、わからないなりに考えることもある。
アントニオの兄貴は強い。常日頃から大型と呼ばれる、自然災害そのものの霊獣たちを狩っている。
心配はない。ここいらじゃ、最強と言ってもいい存在かもしれない。
けれど、兄貴の身体はひとつしかない。
もしものときに、俺たちが守れなきゃ——。
足が自然と速くなった。砂を蹴る音が重く響く。
海の匂いに、微かに油の臭いが混じる。
風が変わった。潮の香りが薄れ、鉄のような匂いが鼻を刺した。
視線の先、砂浜の果てに黒ずんだ船が乗り上げている。
古い。
塗装は剥げ、帆も裂けている。錆まで浮いていた。
古い小型船だった。周囲では、何人もの男たちが積荷を降ろしている。
男たちは鍛えられた良い筋肉をしていた。
甲板を行き来する足取りに迷いなく、熱暑の中でも働きは手慣れている。
海と港で日々働く水夫たち。そんな印象を受けた。
漂着船にしては、手際が良過ぎる。
「おーい。災難だな。手伝うか?」
かといって、放っておくことなど出来なかった。声をかけると、何人かが顔を上げる。
やはり疲労はあるのだろう。どこか、嬉しそうにする男達。
「助っ人か? ありがてぇ!」
返ってきた声は陽気で、笑みすら浮かんでいる。
そのとき、積荷の一つが崩れた。
空気が変わる。
何かが、静まった。
笑い声も、波の音さえも、どこか遠くに引いていく。
男たちが、一斉に視線を落とした。
誰も、動かない。
オルトも足を止める。
距離があっても、わかった。
崩れた木箱——違う。全ての積荷に施された封印を示す刻印。
その意匠は「赤い獅子」。
港や倉庫でもよく目にする、王国財務省の紋章。
ありふれたものだった。なのに、オルトはその名を思い出せないでいる。
ただ、胸の奥がざらついた。
箱の隙間から零れ落ちたのは、光を吸い、また吐き出すように瞬く、無数の小粒。
それは霊核だった。
ほんの少し前まで、値もつかず、誰も見向きもしなかったはずの「屑霊核」と呼ばれる代物だ。
だが、今は違う。陽光を受けたその輝きに、浜の熱気が一瞬、凍った。
浜風が、一瞬止んだ気がした。
オルトは思わず、指を指している。
霊核と赤い獅子。
この取り合わせを見た後に、大海蛇の顕現が起こっている。それは偶然に過ぎないのだろう。
だが、この組み合わせを見た後から、母ちゃんの様子がおかしいとオルトは感じている。
「おい、お前ら。それって……」
らしくもなく、声が掠れていた。
そうでなくとも、霊核はトラーパニ行政府による流通統制中なのだ。確かめねばならなかった。
「……霊核、だよな?——もしかして、密輸か?」
一言に、男たちの笑みが崩れる。
剣呑な、暴の気配。
彼らの視線がオルトを囲んだ。
ジャリと鳴る砂の音が、やけに耳に響いた。
オルトはその場に立ったまま、深く息を吸い込んだ。胸の奥に溜まった熱が、ゆっくりと静まり返っていく。
逃げる気はない。けれど、戦う気もなかった。
「今なら見逃してやる。密輸なんてやめて、帰れよ」
「坊主、密輸って言ったかよ?」
男たちの一人が問い返す。彼らの手には、凶々しく陽光を受ける白刃が握られていた。
「ああ、言ったぞ。霊核は行政府を通して下せ。議会が決めた法だ。……だから、この場は見逃してやる」
「見逃すってかよ? 裸の坊主が一人で? この人数相手にか?」
せせら笑う男たち。無謀への揶揄がある。だが。
実の所、オルトは人数も刃物も問題としていない。
気持ちとしては、叩きのめして官憲へ突き出してやりたい.しかし、そうしないのは教えがあるからだ。
「人が法を犯すのにも、それなりの事情がある」
母ちゃんは、いつもそう言っている。そうする必要がなくなるようにする事が、統治者の役目だとも。
だからこそ、穏便に済まそうとしている。
「俺も、五月蝿いことは言わねぇよ。けど、放っておく訳にもいかねぇんだ。出直せよ。今日は、見なかったことにしてやる」
悪戯に暴力を用いれば、火種を残す。人と人とが欲望のままに争えば、悲しむのは力無き人々だ。
それだけは、やっちゃならない。
力ではなく、相互理解での解決。母ちゃんに叩き込まれた理屈だ。
「おいおい。この紋章が見えねーのか、小僧。コイツぁ、王国財務省の荷物だぜ」
「トラーパニの霊核は統制中だと言っただろ。必要な場所に渡らないと、困る奴らがいるんだ」
「田舎者の小僧が、一端の口を利きやがる」
オルトは両手を軽く上げて、ゆっくりと首を振った。挑発ではなく、止めようとしたのだ。
なのに何も伝わっていないようで、男たちの口調には明らかな嘲りが含まれている。
すると段々と、腹が立ってきていた。
これでも、オルトは言葉を尽くしたつもりでいる。
だが、理屈の通じる場ではなかった。
大怪我をさせないようにすれば、問題ないだろう。そんな気持ちが強くなる。
「数と武器だけ揃えた雑魚どもが、上等じゃねぇか。かかってこいよ。『現実』ってヤツを見せてやんよ」
だからつい、言ってしまう。
男たちは視線を交わし、無言のまま動いた。
二人が笑いながら刃物を弄び、もう二人が背後に回る。残る六人は構えた。数は十。
だが、数だけだ。そうオルトは見切っている。
先に動いたのは、相手方だった。
前後左右、四人が同時に切り込んでくる。
考えるより先に、体が動いた。
真正面の男。剣を振り上げている。
踏み込む。足元で砂が爆ぜた。
顎へ拳を叩き込む。骨のぶつかりあう硬い音。
脳を揺らした。
一撃で膝は折れ、身体は沈んだ。
反転し、勢いのままに一人の背中へ回し蹴り。
体格は良い。が、ウシよりは軽い。
重い打撃音を伴い、もう一人諸共に吹き飛ばす。
ぶつかり合う二人。そのまま倒れ込んでいる。
背中側にいた男とは、まだ少し距離があった。
突きの構えのまま、突っ込んで来ている。
オルトの膝が沈み、足裏が砂浜を蹴った。
半身の捻りで切先を躱し、背後へと回り込む。
男の肩へと手を置き、押した。
鈍い音がして、落ちる剣。
絶叫が響いた。
「おいおい。肩が外れたくらいで、大袈裟だぜ。残りは六人か。……まだ、やるか?」
四人、倒れている。一人は気絶、二人は呻きながら立ち上がれもしない。残る一人は——オルトの言葉通りに、肩を押さえて転がっていた。
息も乱さず、余裕たっぷりのオルトであった。一瞬の出来事に、男たちは呆然としている。
「見逃してやるから、出直してこい」
「くそっ! ガキがっ! ぶっ殺してやる!」
だが、それもまた一瞬の事だった。
オルトの声に激昂し、一人が懐に手を入れる。他の者たちも弾かれたように、次々と動く。
懐から取り出されたのは拳銃だった。六挺の銃口がオルトへ向けられる。
「ちったぁやるようだが、鉛の弾に勝てるかな?」
形勢逆転を確信したらしい。倒れた仲間は放置され、男たちは嗜虐的な嘲笑を浮かべた。
——甘ぇよ。それに、救えねぇ。
脅しだと、すぐにわかった。
護身用の抜剣まではともかく、発砲は認められていない。
それに、銃の管理は国がしている。使えば、どうしたって足が付いた。流石に、そこまでバカではないだろうとオルトは思う。それに——
「そんなチャチな玩具で、やれると思ってんのか?」
これでもオルトは「鉄位階」の冒険者。
拳銃如きで傷付くようでは、一人前の冒険者だと認められる筈もなかった。
それでも発砲は阻止したい。官憲による追及も、目撃者としての面倒も避けたいからだ。
脅しは通じない。
男たちの動揺と焦燥が見て取れた。そして、カチリと安全装置を外した一人の姿も。
足指で砂を掴み、蹴り上げる。
砂粒が飛礫となって放たれ、発砲を試みた男の顔を叩いた。
砂煙が舞い上がり、一人が倒れ伏している。残るは五名。
しかし、男たちは恐怖にでも駆られたのか、慌ただしくも次々に安全装置を外していった。
そんな彼らに、オルトは冷たく告げる。
「撃ったら、『喧嘩』じゃ済まねぇぞ。——ま、暴発するだろうがな」
未だ大量の砂塵が舞っている。
男たちの持つ銃は都会向け、それも屋内向けの高価な拳銃だ。
護身用ながら、精度と速度、そして威力は狙撃銃にも匹敵する。
「なぁ。仲間を連れて一旦帰れよ。都会者には、島の自然はちっと荷が重い。ちゃんと港を通すなら、悪いようにはならないさ」
精巧に造られた火器は、性能こそ高くとも、過酷な環境下においての信頼性が低かった。
男たちもわかっているのだろう。苛立たしげに顔を歪めるが、次の一手、引き金を弾けないでいる。
こんなもんだろう。力の差は見せた。これ以上追い詰めても、良い事はない。
オルトはそんなことを考えている。
負傷者に肩を貸し、引き上げようと動き出した男たちを見ながら。
正直に言えば、彼も別に密輸が悪事とは思っていない。それを違法だと定めたのは、自分達の都合だ。
統制を敷く事で、無用の混乱を抑える。
それが母ちゃんの方針で、皆その為に動いていた。
それはいい。いいのだが、そういった物事を利用して儲けようとする者や、悪事を働こうとする者は存外に多かった。
だからこそ、力に訴えてでも、「割に合わない仕事だ」と、思わせねばならない。そう彼は考えている。
だからこそ、もっと強く——
「……いかんなぁ。仕事をせんと、飯が食えん」
思いかけた瞬間、悪寒が走った。船からゆらりと現れた声に、総毛立つ。
背は高くない。痩せている。
蒼白い肌、無精髭。
どこにでもいる、街の男——そう見えた。
「兄貴っ……!」
「す、すいやせん。俺ら……」
残った連中が、安堵とも恐怖ともつかぬ声を漏らす。
「騒ぎすぎだ。お前ら、魚みてぇに暴れるな。……こちとら、稼ぎに来てるんだ。遊んでんじゃねぇ」
男は静かに砂を踏みしめ、オルトの方へと向き直った。眩しいのか眉間に皺を寄せ、目を瞬いている。
「アンタが親玉か? 悪いが荷物は港を通してくれ」
オルトの声はデカい。それに、張りがある。
「……親玉? 親玉ねぇ……。んなご大層なもんじゃねぇよ。雇い主は、別にいる」
「そうか。だが、纏め役みたいなものだろう? 雇い主に伝えてくれ。積荷は港を通す。当たり前の法だ」
対して男の声は静かだが、よく通った。
ククッと笑い、首を軽く鳴らす。
「……法ねぇ。別に触れたつもりはないが」
「つい最近、定められた事なんだ」
男の痩躯はゆらゆらと揺れていた。まるで、誰も知らぬ火のように。
「まぁなんだ。若いの。ともかく、うちの碌でなしどもが世話になった。礼をしなくちゃならねぇな」
「……礼?」
問い返した瞬間、男の重心が一歩、滑るように前へ出た。
砂音はない。それは陽炎が揺らめくように。
——距離が、消える。
オルトは動きを目で追うが、捉えた瞬間には既に懐へ入られていた。
男の指先が、オルトの顎の下を探るように触れる。
冷たい指先。怜悧で、威嚇でも暴力でもない。
ただ、喉の奥を押し込まれた瞬間、息が詰まった。
オルトは拳を振る——おうとした。
が、視界が逆転する。
足元は空の青さへ、頭上は砂浜の白さへと。
反射的に背を丸め、顎を引く。
次の瞬間、背中へ重い衝撃。
それは、大地の重さだった。
「受け身を取れたか。感心なこった。お前さん、ただの脳筋じゃねぇなぁ。悪くねぇぜ」
またもや、ククッと笑う男。その足は、オルトの肩に当てられた。
ひどく息が詰まっている。投げられたときに、鳩尾を強く押され、肩の後ろを強く打たれていた。
男は軽い。だが、体勢は悪い。このままでは踏み抜かれる——そう判断する。左腕も取られていた。
腹筋の力を用い、起きあがろうとする。
「力はあるがなぁ。まだまだ甘ぇよ」
「ぐっ! くそっ!」
だが、叶わない。
単純な動きさえも封じられている。
「強化」の術式を用いていてもだ。
「これで、お相子だぜ」
軽い声。だがその瞬間、男の足が僅かにずれた。
男の踵が僅かに滑る。
そのまま体重を残し、腕を極めたまま軸を捻った。
——踏み抜く、というより、肩を支点に捻じるように。
置かれた足が沈み、掴まれた腕が逆方向へと引かれる。
肩の内側で、骨が擦れ合うような音がした。
「——ッ!」
湿った衝撃が内側から弾け、視界が白く跳ねた。
声も息も出せない。ただ、肩が抜けた感覚だけが焼きつくように残った。
「……な、に……」
掠れた声が洩れる。だが、痛みくらい、何するものぞと立ち上がる。
男は既に離れていた。パチンと指を鳴らす。
「悪いな、小僧。こいつは礼だ。とっときな」
ふらつく視界。右拳を握るも、間合いが読めなかった。
……勝てねぇ。そう悟った。
思ったときには既に、また懐に入られている。
「小僧、名は?」
「……オルトだ」
「俺ぁ、ジーノ。
掌が、顔へと迫る。
風が、止んだ。
——音も、光も、そこで途切れた。
ただ、陽光と波音だけは、何も変わらずにいる。
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