第16話 朝焼けと母の溜息。
「……朝、ね」
どうやら眠ってしまっていたらしい。瞼を開け、アウグスタは書を綴じてゆっくりと立ち上がった。
黴臭さの残る書庫。座ったままでいたためか、少し腰が痛む。
それは暫くの間立ち入っていなかったこの場所で、調べ物をしていたせいだった。
一つ伸びをして、窓辺へと向かう。
それを開けば潮風が室内へと入り、昇りきる前の朝日が、水平線を煌めかせていた。
潮風は書物に何ら問題を起こさない。書は術式により保護されている。少し冷えた風に身を任せた。
——何も、わからなかった。お祖父様の手記の中にも、何もなかった。
目に入るのは、残酷なまでに美しい
シシリア島を囲み、トラーバニに面する海は、大自然にして大異界。
同時に大陸においては人の欲望を具現化する力、霊核の主要な産出地でもあった。
彼女が昨夜調べていたのは、霊核による人造異界の顕現についてだ。
普通ならば起こり得ない。だが、人為的に引き起こされた事実を彼女は知っている。
十四年前では王国財務省内の一派が用い、また十二年前には祖父も利用した業。
カランと響く乾いた音。霊核へ収束していく光。
爆縮に伴う破壊を拡げ、顕現する異界という闇。
夫と共に巻き込まれたその光景が、未だ瞳の裏へ焼き付いている。
法の光の届かぬ地、閉ざしてしまえば誰も戻れぬ別世界。——異界における、ある種の「合法的暗殺手段」。
赤い獅子たちが、そして祖父たちが、裁かれぬ罪を重ねながら、多くの悲しみを遺した非道。
冒険者組合の倫理から行政も議会も目を逸らし、これに関しての法規制は未だ為されていなかった。
詳細な手段は不明。利用していた者達の多くも既に鬼籍に入っている。
だが、技術であるならば伝えられているはずだ。
筆豆であった祖父ならば、あるいは——そう考えての調べ物であった。
読んでいたのは祖父の手記。
あの頃の、「怒り」に駆られていたキエッリーニによる「復讐戦」の時期に残されたものだった。
そこには何も遺されていない。技術も、謀略も。
あるのはただ、己の所業を悔やみながらも立ち止まれなかった老人の、慟哭だけだった。
——そして、その慟哭を血として継いだのは、他でもない自分たちなのだ。
奪われた家を嘆いていたはずが、いつの間にか奪う側に立っていた。
憎しみの果てに、何を得て、何を失ったのか。
誰ももう、正しく語れはしない。
温みを帯び始めた潮風が頬を撫でた。
昇ってゆくお日様は、何も変わらないでいる。
「私たちは、前を向く」
宣言だ。
赦す? 赦さない? それはもう、どちらの側であろうとも、問題ではなかった。
繰り返さないこと。それが選んだ道である。
胸の奥に沈殿していた記憶の痛みが、ゆっくりと溶けていく。
耳を澄ませば、屋敷内では暖かな朝の喧騒が響き始めていた。
リナが婆やに叩き起こされて、言い訳をしながらも慌ただしく身支度を整える声。
元気に立ち働く侍女たちの奏でる音や、高く響いた訪い。
——生きている。
その実感が、胸の奥に温かく広がっていく。
ならば、歩くしかない。
今日も忙しくなるわ。そう思えば、ふと空腹を覚えていた。
急ぎ、身支度を整えなければならない。
リナや娘時分の頃の様に、婆やに叱られては堪ったものではないのだから。
アウグスタはこっそりと、寝室へ戻っていった。
「母ちゃん。そっちのマスタードを取ってくれよ」
骨付き肉に齧り付いたオルトの声はデカい。アウグスタはそっと小瓶を渡した。
こちらは大人用の辛口だ。二人の手元に置いていたものでは、どうやら物足りないようだった。
「やっぱ、仔牛には辛口が合うな。お子様のルカにゃわからない次元の話だろうけどよ」
「馬鹿舌」
息子は並んで座るルカに絡んでいる。そちら側へ甘口を置いていたのはルカのためだ。以前、間違えて辛口を使い、涙目になっていた。
「おい、ルカ。もっと食わねーと、俺みたいに大きくなれないぞ」
「うるさい」
やけにルカへと絡むオルトであった。ルカはにべもない。それはいつもの事で別に構わないのだが、随分と不機嫌そうだった。
普段から無口で、オルトに対しては辛辣なルカであるも、今朝はやけに刺々しい。
「なぁ、おい。機嫌なおせって。そんな顔してたら、美味い朝飯も不味くなるぞ」
「そんな顔なんて、してない」
お手上げの仕草を取ったオルトは苦笑を浮かべている。ルカの薄い皮膚、透けるような白い肌には、はっきりとした隈が出来ている。寝不足のようだった。
「どうしたのルカ? 夢見が悪かったのかしら?」
大分持ち直したとはいえ、この間までは随分と沈んでいた。年頃の心は繊細で、不安や不満が体調へ影響しないとも限らない。
元気付けてあげられるのなら。そんな気持ちが声に出た。
しかし、ルカは俯いて手を止めてしまう。そして小さく呟いた。
「……奥方様、昨日はお部屋にいなかった」
「「えっ?」」
オルトと、同じ言葉が重なった。
ルカは偶に夜、一緒に寝ようとしてくる。幼くして母を亡くしているルカだ。まだ人恋しいのだろう。
そう思えば、哀れも募った。
物心つく前に母——アウグスタにとっての義姉は、この世から去ってしまっている。
今際の言葉を、今も覚えている。
——ごめんなさい、アウグスタ。
——貴女ばかりに背負わせてしまって。
祖父による復讐も、佳境に入った頃だった。
王国行政府財務省所属の人員も半数を割り込んだその時期に、ルカは産まれた。義姉が生命を賭して。
元々出産には耐えられぬとして、貴族でありながら嫁入りをしなかった義姉だった。
しかし、家中の結束を深める為として、祖父は有力家臣へ嫁がせた。
その相手こそが、家中最強の騎士。アントニオ・マリオ=ペントラだった。
後悔を遺しながら逝ってしまった義姉は、そして残されたあの子は、何を想ったのだろう。それを未だ、確かめられずにいる。
「おいおいおい。何? 母ちゃん外泊かよ? まさか男か? ……やめてくれよ、気持ち悪ぃ」
そんな余韻をぶち壊すようなオルトの声に、過去へと沈みかけていた思考は戻った。
「何を、おかしな妄想をしているのですか。ちょっとした調べ物よ。書庫でね」
息子を叱り、席を立つ。
食事中で行儀は悪いが仕方がない。食事を止めて俯いてしまったルカを背中から抱いた。椅子越しではあるが、小さな温もりが胸へと伝わる。
「来てたの? ルカ。甘えん坊さんね」
「知らない」
「今晩は、いらっしゃいな。待っているわよ」
「知らない」
不機嫌の理由がわかれば、可愛らしいものだった。
聡い子だ。異界への出撃で忙しいアントニオに甘える事を良しとせず、我慢を続けてきた子。
この子の感情表現の拙さは、不慣れからのもの。
寂しいや悔しいと思えるのなら、口に出せる日もそう遠くはない。そんな日が訪れるのが楽しみとなる。
「夜は一緒に沢山お話しして、よく寝ましょうね」
「知らない」
諭すように耳元で囁けば、ルカの肩からは力が抜ける。耳が赤い。喜んでくれているようだった。
そこへ、無遠慮な溜息が一つ。
「んーとルカは、母ちゃんっ子だよな……」
「知らない」
オルトのものだ。ルカに睨みつけられている。
もう、心配はない。席への戻り際、名残惜しげな視線が可愛らしかった。
今日も良い日でありますように。思わずそう祈ってしまう。そこでまた、思い出す。
「そういえば貴方達、今日も巡回に出るのでしたか」
「ん? ああ。ルカは学園を退けてからになるけど」
「オルトだけじゃ、心配」
今日のリナは治療院に研修に出ていて、フィオナも帰りは遅くなる。
四人は議会での霊核流通統制の決定以来、自主的な巡回をしてくれている。
社会に対して姿勢を見せることが大事だと。随分とオルトも立派な事を言うようになった。
「……危ねーから、止めろとか言うなよな。俺ももう大人の男だぜ。ルカくれぇ、きっちり守ってやんよ」
「オルトは足手纏い。お目付け役が必要」
「お前なぁ……」
つい、クスクスと声が漏れてしまう。仲良くやっているようで、何よりだ。ならば、送り出す言葉なぞ、一つしかない。
「いってらっしゃいな。気を付けてね」
朝食は終わる。ルカは学園へ、オルトは鍛錬に。
それぞれが、己のやるべき事を為す。
「ごちそうさま。……ああ、オルト。歯磨きは、ちゃんとしなさいね」
心配なのは、それくらいの事だった。
朝食の後の一時、アウグスタは窓から庭を見下ろしている。
オルトが大斧を振るい、薪割りをしている背中が見えた。
上半身を裸でだ。盛り上がる広背筋、隆起する上腕二頭筋。勢いよく薪を割ってゆく。
「……何をしているのかしら、あの子は」
夏場の薪割りは理に叶った事だが、生活に薪は必要がなかった。
火起こしも、暖を取るのにも術具で事足りる。
そもそも、息子には冬場に備えて夏場に用意をするような周到性はない。
つまりは鍛錬のつもりであろうが、何故薪割りを? と思わずにはいられなかった。
門の前からは、婆やに手を引かれたルカがオルトを見詰めている。気になるのだろうか。
送りにつく予定の騎士は、心配そうにしている。主に時間的な意味で。
「オラぁっ!」
気合い一閃。豪快に薪を割っていく
飽きもせず、その姿を見つめ続けるルカ。婆やは呆れていた。
とはいえ、もう残る薪も少ない。終わったら、ルカが出るにも丁度よい時間か。オルトは片付けをして、次の鍛錬に移るのだろう。
別に心配はないと、背中を向けようとしたアウグスタの耳には、聴こえてしまった。
「薪割り終わり! 走り込み行ってくる!」
元気良く、叫んだ息子の声を。
たちまちの内に外へ出る。瞬く間に、歩き出したルカも婆やも追い抜いて。疾風のような勢いだった。
「こらっ! オルトっ! 待ちなさいっ!」
アウグスタの言葉は届かない。
——あのバカ息子め。片付けを忘れて出ていって。
彼女の胸中の罵りも、勿論届かない。
——後で、お説教が必要ね。
そんな事を考えてしまう。
仕方なく、本当に仕方なく、アウグスタは息子の不始末の責任を取るために、庭へと向かうのであった。
「あんな大量の薪、運べるのかしら?」
そんな呟きを残しつつ。
潮風も陽光も、早朝よりも激しくなってきている。
今日も暑くなるだろう。
無駄に大きなオルトの雄叫びが、遠くから響く。
後で、ご近所へは謝罪に回らなくては。
アウグスタは「領主代行」よりも「母親」として、朝から疲労感を覚える事となった。
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